白? ああ、薔薇だ。一面、純白の薔薇の庭。そこに妻は居た。記憶を探れば、いつも最後にあの白の庭園に辿り着く。
「お義母さん、少しお休みになった方がいいですよ」
そうね、と短く返した義母に休む気配は無い。
妻が失踪してもう半年。最初は取り乱していた義母も今はもう泣く元気もない。
お義母さん、と声をもう一度掛けその憔悴しきった体を寝室まで運ぶ。とにかく、休ませないとこのままでは体も参ってしまう。
「お義母さん、お願いですから休んでください」
義母が倒れてしまっては妻が帰った時きっと悲しむだろう。彼女の、あの笑顔が悲しそうに歪むのを想像して、胸が苦しくなった。
「薔薇がきれいね」
ベットに寝かせた義母が窓の外をみて小さく呟いた。私たちの寝室からは庭がよく見える。
「ええ、綺麗ですね」
「あの子は、薔薇が大好きだったわ」
焦点の合わない義母の目には涙が浮かんでいた。
ようやく寝付いた義母を起こさないように、静かに寝室を出る。
薔薇。妻は本当に薔薇が好きだった。毎日、暇があったら庭に出て薔薇の世話をしていた。
そういえば、私が初めて妻に声を掛けた日もそうだった。
通勤路の見事な薔薇が咲く家。朝夕、そこの家の娘が庭に出て花の手入れをする姿を見るのがあの頃の私の秘かな日課だった。
ある日、思い切って声を掛けてみた。綺麗な薔薇ですね、と。
「兄さん、」
呼ばれてふと我に帰った。目の前に子犬を抱いた妹が立っていた。
「兄さん、お姑さん休んでくれた?」
「ああ、なんとかね」
妹は私の家からは少々遠い所に住んでいる。だが妻が居なくなったと聞いて真先に駆けつけてくれた。以来義母や妻の捜索などで手の離せない私に変わり家事やペットの世話等を手伝ってくれる。
「すまないな、本当に」
「いいのよ」
この子の世話も楽しいしね、そう言って愛おしそうに我が家の愛犬の頭を撫でる。ここまで来るのは大変だろうに、妹には本当に感謝している。
「お姑さんもそうだけど、兄さんも大丈夫なの?」
さっきボーっとしてたわ、と私の顔を覗き込んで来た。
実を言うと妻の失踪からよく眠る事が出来ていない。恥ずかしい話だが、寝てしまったら何だか夢見の悪そうな物を見そうで、怖くて眠ることが出来なかった。
「兄さんも少し横になったら?」
家のことは私がしておくから、そう言われ安心感と共に今までため込んできた疲労が急にドッと押し寄せてきて、何だかとても眠くなる。
そうだな、少し、少しだけ寝よう。
妹に後を任せ、私は居間のソファに横になった。
妻のために小さいながら庭のある家を買った。
庭に敷かれた赤レンガの道(アプローチ)。庭の入口を飾るアーチには蔦類の植物が花を咲かせ、こじんまりしたテラスにはテーブルとチェア。
入居した当初は雑草が伸び放題の酷いものだったが、妻の手にかかって薔薇咲く小庭園に生まれ変わった。
よくまぁ、あの荒れ果てた雑草天国をここまで立派にしたものだ。
「広かったら、テーブルじゃなくてガゼボを作りたかったな」
そう言って笑う妻に、私も苦笑した。
素敵な庭だったが唯一残念なのは、せっかく庭付きだというのに犬を走り回らせてあげられない事だったろうか。妻は私が犬を連れてきたことにいい顔はしなかった。
だが婚姻前から一緒にいる愛犬を捨てられるわけもなく、何とか頼み込んで絶対に庭を荒らさせないという条件で許してもらった。
私の愛犬の黒い大きなラブラドールは走り回ることが出来なくて不満そうだった。
湿った何かが私の手に当たった。
目を覚ますとソファからはみ出た私の手を子犬が無心に舐めている。
「・・・・・・ 」
犬を抱き上げる。ラブラドールだ、黄色の毛並みの小さな子犬。
何か思い出さなければいけない事があった気がする・・・。それなのに急に頭の中に霞がみ掛ったように白くぼやける。
「薔薇は肥料食いなのよ」
妻の明るい声が響く。実に楽しそうだ。
「最近、薔薇たちが元気ないの」
急に力を無くす妻の口調。悲しそうな声。
だから、もっと世話をしてあげないと。そう言ってガーデニングに励む彼女を私はチェアに座って見守っていた。
白い薔薇。同じように白い彼女の指先が花びらに触れる。
薔薇が群生している根本の土。そこに周囲の土との違和感を覚えた。色が、違う?
犬が悪戯したのだろうか。しかし、それならば妻が真っ先に気付くはずだ。だったら、妻があんなに冷静で居られるはずがない。普段は温和だが、庭に、いや薔薇に何かあると妻はこちらが驚くほどに取り乱すのだ。
「兄さん? 起こされちゃったの?」
また、妹が目の前に立っていた。
「ダメでしょ、休んでる人起こしちゃ」
妹が腕を伸ばし、子犬を抱きよせる。その一連の動作を馬鹿みたいに、ぼーっと私は眺めていた。寝ている時にかいたのか、嫌な汗で体がぐっしょり濡れている。
「いや、良いんだ」
「あら、優しいのね」
そうじゃない。それどころじゃなかったのだ。起きたというのにまだ私の頭はぼやっとしていて白く霞む。思考が上手く回らない。
妹はそんな私の内部の異変などに気づかないで話を続ける。
「兄さんは昔から動物に優しかったもんね」
眼は覚めているはずなのに、一向に私の頭の中は冴えなかった。それどころか時間が経つほどに白く、深く、酷くなっていく。
「でも断然犬派で、あたしが猫飼いたいって言っても全然聞き入れてくれなかったよね」
霧が、頭蓋骨いっぱいにたち込めたみたいだ、何も、見えない。
「犬は猫と違って水槽の熱帯魚にイタズラしないものね」
「・・・あれ?」
起きだして何気なく水槽を覗き、驚愕した。
朝日を浴びる水。酸素を送り込むポンプは稼働し連続的に泡が揺れる。なのに、あるべき姿が一尾も無かったのだ。
「どこに・・・」
水草の陰にでも隠れているのかと覗き込むが、何もいない。昨日は確かに居たはず。
「なぁに?どうかしたの?」
「熱帯魚がいない」
「ねったいぎょ?」
寝ぼけた声の妻が思案するように首をかしげた。
「犬じゃないの?」
「・・・・あぁ、そうかも」
そうは言ってみたが腑に落ちなかった。朝起きたら魚が残らず消えるなんて・・・・・・。
突然浮き上がった不可解な謎。それは空っぽになった水槽の中の水のみたいにいつまでも私の中で揺れていた。
遠くで誰かが私を呼んでいる。
視界を覆う霧は相変わらず深く、すべての輪郭を曖昧にさせる。
また誰かが私を呼んだ。今度は叫びながら。
深い、白くて、深すぎて何も分からない。何も。私は分からない。
「兄さん! 兄さんっ!」
妹の金切り声。覗きこむ驚いた顔。天井が遠い。それで自分が床に倒れこんだ事に初めて気がつく。
「大丈夫!? 兄さん!」
耳元で聞こえるヒステリックな叫び、徐々に意識がはっきりしてきたが、頭が悪酔いでもしたかのように痛む。
「大丈夫、もう平気だ」
平常を装うと、妹の手を振り払い無理やり立ち上がる。しかし、ぐらりと立ち眩みに襲われ、また倒れそうになる。
「兄さん、顔が真っ青よ」
私から見れば、妹の顔の方がまるで倒れたかのように蒼白だった。私は、今そんな妹よりもひどい顔色なのだろうか。
「兄さん、最近ちゃんと寝れてないでしょう」
指摘され、僅かに動揺する。心配をかけまいと自分ではうまく隠しているつもりだった。妻が失踪し、義母もあんな状態で家族が皆、手いっぱいの状況下でこれ以上厄介事を増やしたくなかったのだ。
しかし、妹はそんな私の異変に気づいていたらしい。思えば昔から仲の良い兄妹だった。私に何かあれば大抵、妹が誰より先に気づいてくれた。大げさに言えば一番の理解者といったところか。
「私、知ってるんだから」
もう隠していても無駄かもしれない。
正直に話してしまおうか、白い、霞が掛った悪夢が怖くて眠れない事を。
「義姉さんの事なんでしょ?」
「え、」
違う。
「義姉さんが居なくなってから、兄さん寝れなくなったんだもの」
違う、違う。確かに妻の失踪から寝れなくなった。しかしそれは、悪夢を見るようになったのが妻の失踪と同時期だったからだ。
違う違う、似ているようで、違う。彼女のことは確かに案じている。だが、私が眠れなくなった理由は、妻に対する心配ではなく、何か得体の知れないものに対する恐怖からだ。
そう妹に言おうとした、はずなのに。
が、私の中の本能的直感が言う事を躊躇わせた。言ってはいけない、と。
「お前は本当によく気がつくね」
相手は自分の肉親で、いつだって私の味方だった妹だと言うのに。どうしてだろう。
「当たり前でしょ、何年兄妹やってると思ってるのよ」
妹にはもう笑顔が戻っていた。ようやく私が不眠症を告白してきた事に対してホッとしたらしい。
「兄さん、まだ休んでなよ。この子の散歩に行って来るから今度は邪魔されないわよ」
いつもの明るい調子を取り戻して私を気遣う。
「・・・ああ」
しかし、心配事が一つ解消された妹とは対照的に私は、ひどい疲労感でいっぱいだった。
「なぁに? 私に犬の散歩任せるの不安なの?意外と信用無いわね」
私の疲れた表情をどう受け取ったのか、わざとらしい不満そうな顔を作って言った。
「いや・・・」
ただ単に体が怠くて妹の話を聞いているのが辛かっただけなのだったが。
「大丈夫よ。しっかり見てるから盗まれたりなんかさせないわ」
「・・・盗まれる?」
盗まれる。その言葉を聞いた途端、晴れかけていた白い霧が再び記憶の中で蠢きだした。
盗まれる・・・。そう言えば誰かが言っていた気がする。あれは、誰だったか。
「盗む・・・犬を?」
「え、ここ最近有名な話でしょ? この近所で犬とか猫の盗難続発したじゃない。犯人まだ捕まってないって・・・忘れたの?」
答えながら散歩の準備を整える妹、しかし子犬が手にじゃれついて中々リードが付けられない。
犬、・・・盗む・・・。確か、あれは・・・・。
サイキンハブッソウシンコクミタイデスヨタカハシサンノオタクハゴゾンジデスヨネ。
「なぁ、」
「何?」
ヌスマレちゃッタらしイでスヨワんちゃン。リーどが切らレてたみたいで。
「・・・この子犬、いつから飼っていたっけ?」
「こんにちは」
公園で愛犬の黒い頭を撫でていたら声をかけられた。視線を上げたら目の前に長い毛の犬がふさふさとした尻尾を振っていて、さらに視線を上げれば、同じようにこの公園に犬の散歩に来る男が立っていた. 彼とは散歩の時間帯がかぶるので、よく会う。だから自然と会話をする事が多かった。
「こんにちは」
「そちらも散歩ですか」
「ええ」
いつものように二人で他愛もない世間話をした。
「最近は物騒ですよね」
そう言いながら彼は犬用のボールを遠くに投げた。間髪入れずにそれ追って彼の犬が飛び出す。
「何がですか?」
「盗難ですよペットの」
口にボールを銜え、彼の犬が駆け戻ってくる。走る度に動きに合わせて、長い被毛も一緒に風に揺れる。
「盗難、ですか?」
「結構深刻みたいですよ。タカハシさんのお宅はご存知ですよね」
時間帯を変えたのか、最近見かけなくなった犬仲間の名だった。
「ええ、最近お会いしませんけど」
「盗まれちゃったらしいですよ、ワンちゃん」
「え」
「庭に繋いでたリードが切られたそうで」
また、彼がボールを遠く放った。再び投げられたボールを追って、ひらりと豊かな毛並みが流れていく。
「最初は野良猫がだんだん消えてって、でもその時点では誰も気に留めなかったらしいです。というか気づいた人って少なかったんじゃないかな?」
いくら可哀想、と支援する者が在っても所詮は宿無しの野良猫だ。飢えに、病気、気候の変化。命の保障の無い暮らしの前では野良猫達はあまりにも弱い。半端な同情だけカバー出来るものでは無いだろう。いつ死んでもおかしくはない。誰もがいつも見る野良猫を見かけなくなっても、飢えて死んだか、病気で死んだか、凍えて死んだか、そう思うだけだろう。そうしてしばらく経てばそんな野良が居たことすら忘れてしまう。彼らの存在など、無関心な人間からすればその程度の事だ。
だからこそ、この事件の発覚は遅かった。次に消えたのは飼い猫や飼い犬だった。縁もゆかりも無い動物に対しては無関心な人々も自分のペットが消えたとなれば話は別だろう。しかしもはや手遅れだった。何者かによる犯行は次第にエスカレートしていく・・・・・・。
「最近じゃ大型犬でも大人しかったら連れ去られるみたいですよ」
タカハシさんちの犬、人懐こかったからなぁと、また飼い犬が拾ってきたボールを投げる。長毛の大型犬は実に楽しそうに駆けていった。
「だからお互い気をつけましょうね」
そう言って彼は笑っていた。
夕方、会社の帰りに張り紙を見つけた。電柱や塀に張られたそれは“探しています”大きな字で見出しが入り、長い毛の犬が写っていた。そしてその紙の一番下にあったのは、あの顔見知りの男性の名前。
彼と公園で会って数日後の事だった。
寝室の方から声が聞こえた。多分、義母が目を覚ましたのだろう。起き上がるとひどい吐き気がする。ふらつきながらも廊下に出た。しかし割れそうな程痛む頭と朦朧とする意識。集中していないとまた倒れてしまいそうだ。
「ただいま」
また張り紙を見つけた。近所でやはり知り合いの犬だった。重たい気分で帰宅する。しかし、この時間いつも家にいるはずの妻からの返答が無かった。
庭に居なかったから家の中にいると思ったのに。
居間に入るとソファに妻のガーデニング用のエプロンが引っかかっていた。何気なく脱ぎ捨てられた状態のエプロンを手に取る。所々、泥だろうか、茶色い汚れがこびり付いている。彼女のガーデニングにかける熱意が垣間見えたような気がして、先程の陰鬱な気持ちも忘れ、思わず笑顔になる。
しかし、しばらくエプロンを眺めていて、おかしいなと思った。最初、泥だと思ったこの汚れは、庭の土にしては色味が赤い。何だろうと?凝視していると、もう一つ生地の上に細い何かが付着している事にも気付いた。その糸のような物は様々で、長いのもあれば短いものもあり、エプロン全体にくっついていた。
「あら、あなたお帰りなさい」
突然、居間に現われた。洗い髪で水が滴っている。
「ごめんなさい、今シャワー浴びてたの。・・・・・・そのエプロンもだいぶ汚れてきたし、洗おうかしら」
彼女は普段と全く変わらない様子で私からエプロンを受け取ると再び家の奥へ消えていった。
私はその姿を呆然として見送った。エプロンに付いたその“何か”。妻が顔を出す直前、私はそれを数本摘みあげ、何なのかが分かっってしまった。今も手に感じる数本の柔らかい感触。
それは複数の、様々な動物の毛だった。
冷たい感触。
緩慢な動作で起き上がる。床に倒れた衝撃で体に痛みが走る。だが、突如思い出した記憶の内容に対すると混乱の方がはるかにそれを上回った。
あの日、妻のエプロンに複数の動物の毛を見つけた。明らかに私の犬の毛だけではない。中には見覚えのある長い毛も有った。
脳裏に蘇る、ボールを追いかけて行く犬。風になびく被毛が揺れていて・・・・・・ゆれる、揺れる水・・・・・・熱帯魚の居なくなったあの水槽・・・・・・。
まさか、と思った。そんなはずは無い。熱帯魚もエプロンの毛も只の偶然で、妻は窃盗事件とは全く関係ない。そう考えた。それが普通だ。
しかし、私の中で芽生えた不審感は消えなかった。人の人に対する信頼など、強固に見えてなんと脆いものなのだろう。
頻度を増してゆくペット盗難事件。そして頻度と比例して過激になって行く手口。未だ正体の掴めない犯人。
気にすまいと抑え込めば抑える程膨らむ疑惑、おぞましい想像。
妻に対する私の信頼は崩れ去ってしまっていた。
それから私は寝室で寝るのを止めた。夜は愛犬と一緒に居間のソファで寝ていた。
不気味な事に、妻はその事について何も言わなかった。理由を問う事も、説明を求める事も、非難すらしなかった。彼女が、私のこの突然の行動について言ったのはただ一言、
「いいわ、私には・・・」と呟いただけ。
その言葉の意味は図りかねた。ただ、私の行き場のない不審感はますます膨らんでいく。
しかし、もし彼女がペット盗難の犯人なら、一体何の為に? 彼女は自慢の庭を荒らされない限り、ひどく動物を嫌っているという訳では無かった。寧ろ、動物に関しては無関心だったと言っていい。
それに、盗んできたペット達のその後は? 私はさらわれてきた動物の鳴き声すら聞いた事が無い。唯一、私が証拠と言えるのは、あのエプロンに付着していた動物の毛だけ。
実に頼りない証拠だ。根拠も何も有ったものじゃない。強迫観念にとり憑かれた戯言と、言われてしまえばそれまでだ。だが、私にはそれをどうしても妄想と笑い飛ばすことが出来なかった。
あの日に・・・・・・。
あの日私が動物の毛と一緒に見つけた、もう一つ妻のエプロンに付いていたモノ。
・・・・・・最初はただのシミだと思った。ガーデニングの最中に付いてしまった泥が残ってしまったのだろうと。だが、錆びたような赤がかったあの色は・・・・もしかすると、変色した・・・・・・!
・・・・・・妻は生き物達をどうしたのだろうか? そして、彼女は今、どこに・・・・・・?
寝室のドアを開けると義母にさっきの音は何? と聞かれた。
言われて、先程転倒した衝撃をようやく頭が正常に感知し始めた。鈍く痛む体。なんでもないです、と咄嗟にぎこちない笑顔で答えたものの、正直これでは誤魔化し切れないだろうと内心で焦せった。だが義母はただ、ぼうっとした目で遠くを見ているだけだった。
「顔色、悪いわ、・・・・・・ああ、でも私には言われたくないわね」
私に言ったつもりの言葉なのだろうが、まるで自分に言い聞かせているかような小さな声だった。
「いえ、そんな」
「気を使わなくていいのよ。今の自分の状態がお世辞にも健康とは言い難いもの。・・・・・・苦労を掛けるわね」
瘦せ細った体、やつれた顔、無理やり詰めた乱れた髪の義母の姿は、実際の年齢よりも十は老けて見える。
「あなたも、・・・・・・眠れてないの?」
部屋に入ってから初めて義母が私の方を見た。向けられる、義母の窪んだ眼。
「気を付けてね。貴方まで老けこんだら、あの子が帰って来たとき誰だか分らないわ」
同類を哀れむかのような目でしばらく私を見つめていたが、やがてふっと窓の外に視線を移し、カーテンを開けてと呟いた。
「薔薇が見たいの、あの子の大事にしていた薔薇が」
お願い、カーテンを開けて、と。
ふらふらと意思を無くしたかの様に、義母の懇願する声に押され窓辺に寄る。
「あの子は、薔薇が大好きだったわ」
数時間前に言ったものと同じ言葉を繰り返す、義母の声。それをどこか遠くで聞きながら、私はカーテンを開いた。
取り除かれた覆い、そこから差し込む光、窓の外に広がる光景は見渡す限りの・・・・・・。
白? ああ、薔薇だ。一面純白の薔薇の庭。そこに妻は居た。記憶を辿ればいつも最後にあの白の庭園に辿り着く。
そうだ、薔薇だ。頭の中にちらつく白、あの色にどこか見覚えがあると思ったら、そうだ薔薇だ。
「薔薇は・・・・・・なの」妻の声を聞いた気がした。
深夜に妻の声を聞いた気がして目が覚めた。視線を下げると足元で寝ていたはずの愛犬の姿が無い。全身を駆け巡る嫌な予感。ふと、先程聞こえた妻の言葉が頭の中でリフレインする。・・・・・・確かあれは、いつだったか妻が言っていた・・・・・・。
気がつけば考えるより先に体が動いていた。裸足なのも構わず外に飛び出す。
夜の庭は、ひどく美しかった。それは正しく幻想美。花弁自らが輝き、燐光するように対極の闇から浮かびあがった白の群れ。そして、その根元に蠢く影が一つ。
それは、私にとって日常だった。
まとめて束ねた髪、見慣れたガーデニングエプロン、薔薇みたいに白い手。昼間いつも見ているわたしの、平凡で、幸せな、日常の風景。
全身に浴びた血飛沫と力なく垂れ下った黒い犬を抱いてさえいなければ。
それだけが白薔薇みたいに、対極する日常から浮かびあがった非日常。
次に聞こえてきたのはスコップの音。ざっくざっくと赤く染まってしまった黒い毛を埋め立てるその音は永久運動のようにいつまでも続いて響く。
なにがおこっているのかわからなかった。
今まで何度も、もしかしたら・・・・・・と思っていたくせに、いざその通りの事が現実として起こると、それを現実として認識することを理性が拒んだ。
ああ、私は、なんだかんだ言って本当は妻を信じていたのか。
いや、信じたかったんだ。私は妻を信じたかった。
「ふ、あはは、追肥。薔薇は肥料食いだもの、だからふふふ・・・・」
女の哄笑が夜風に乗って届く。どこかで、私の中の何かが壊れた。
「ただいま、兄さん」
ぱたぱたと軽快な足音と玄関のドアが開く音がして、妹が帰って来た。
「おかえり」
ソファの上で思いっきり伸びをする。窓の外の薄い闇がはっきり見えた。
「ずいぶん遅かったな、ただの散歩なのに」
「この子ったら途中でドブに入っちゃったのよ。あっ、こら!」
妹の静止をすり抜け子犬が、まだ、ソファに寝ころんだままの私に飛び乗る。
「まだ足拭いてないのに」
「いいよ」
子犬が動く度に肉球の跡がついたがそんな事、どうでも良いくらいに気分がいい。何しろ久々にゆっくり寝られたのだから。
「随分機嫌がいいのね」
「思い出したんだ」
意味が分からず、何が? と尋ねる妹に思わず笑いそうになる。
「・・・・・犬だよ、こいぬ。半年くらい前だっけ」
腹の上でまだ好き勝手に動く子犬を捕まえて起き上がる。
「お姑さんは?」
「寝室。しばらく一人で眺めてたいんだって」
「義姉さんの薔薇、手入れする人いないから、だいぶ荒れちゃったね。私、代わりにしたら駄目かしら?」
「・・・・・・やめた方がいい」
妻は余計な事をされるのをとても嫌がる。多分彼女は現状で満足しているのだから、妹を歓迎しないだろう。
「そう? それにしても義姉さんの薔薇って荒れても綺麗ね」
何も知らない妹。
「前の白薔薇も良かったけど、今の色も素敵」
知らないという事は実に幸福だ。頭痛と喪失感に襲われない限りは。
「こんなに鮮やかな深紅見たこと無い。まるで血で染めたみたい」
そしてこれで、私があの白薔薇に悩まされることはもう無い。
「それを聞いてきっと喜んでいるよ。彼女は本当に薔薇が好きだったから」
ましてや自らを与えて育てた薔薇なら尚更・・・・・・。
「あ、そうそうドックフードも買って来たけど、これで良かったっけ?」
「いつも買ってる奴か? 製造元がちゃんと分かるの」
「分かってるって、もう、相変わらず厳しいわね」
それは当然だろう。
「大切な可愛い子には少しでも良い物を食べて長生きしてほしいからね」
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童話から離れてホラー風小説。書いたのはもう4年も前になる・・・。自分にとってはそれが一番のホラーです。。。
あらすじは妻が失踪した「私」の話。妻が消えてから体調不良を起こすようになり・・・。