食堂で部員たちと昼食を摂り終えると、忍足は一人で中庭に出た。午後の練習までにはまだ少し時間があるから、腹ごなし程度にふらつくつもりだった。部員たちとつるむのが嫌いなわけではない。ただ、一人で過ごす時間を大切にしたいだけだ。こういうことを言うと、宍戸や慈郎には寒いだ何だのと冷やかな視線を送られるのだが、忍足は気にしないことにしている。
コートに程近い木陰に、女生徒が一人立っているのが見えた。氷帝のものでない制服を着ている彼女の顔には見覚えがある。確か、初戦で対戦した椿川学園のマネージャーだ。跡部に弁当を渡しにきたときは単なるファンだと思っていたが、相手側のベンチにいるのを見かけて、なるほどスパイだったのかと納得したものである。大方、今日も白々しくファンを装って偵察に来たのだろう。
しかし、偵察などどころの学校でもやっていることだ。今さら目撃したからといってどうということもないし、冷たくあしらう理由もない。ただ、こちらが気づいていることだけは知らせておこうと思い、忍足は木陰へと足を向けた。
「自分、また偵察にでも来たんか」
「お、忍足さん!」
声をかけると、彼女は弾かれたように振り返った。あまりにも反応が大きくて一瞬驚いたが、名前が知られているというのは悪い気分ではない。忍足は穏やかな表情を崩さないまま、続けた。
「よう知っとるなあ、嬉しいわ。今日は何見に来たん? 跡部なら、今は部室にいてる思うで」
「ううん、今日は跡部様じゃねんだ」
彼女はゆっくり頭を振った。それから、少しうつむいて、ほんのり赤く染まった頬に手を当てる。
「オイラ、忍足さんに……会いたくて」
「はあ?」
「あの時、跡部様に冷たくあしらわれて傷心のオイラに忍足さんは優しく接してくれた……。オイラ気づいたんだ。忍足さんこそが本物のオイラの王子様だって」
瞳を輝かせながら迫ってくるその様は、あつかましさに満ちていて、奥ゆかしさのかけらもない。忍足は圧倒され、思わず後じさった。
「ちょ、ちょお待ってや、なんでそうなるん。だいたい俺、自分のことよう知らんし」
「初めは誰でも知らない同士だべ。知らないならこれから知ってけばいんだ」
言葉だけ聞けばまごうことなき正論である。しかし、この状況で言われてもただのナンパの常套句である。こんな言葉を女子からかけられたことなど一度もなかった。
「そないなこと言うてるんちゃうわ。だいたい、自分――」
「寿葉です。北園寿葉」
寿葉って呼んで、と彼女は笑った。つい先日、それもたった一言交わしただけなのに、あまりにも近しい。顔だけ見れば好みであると言えなくもないが、この距離感のなさは忍足の最も苦手とする部類である。
「そうだ、オイラお弁当作ってきたんだ」
寿葉が取り出した包みを見て、忍足は目を疑った。先日、跡部に作ってきたものとは比べ物にならない大きさだった。弁当箱というより重箱だ。それが、真っ赤なハートの散りばめられた恥ずかしい柄のナフキンで包まれている。たった今昼食を摂ったばかりの忍足には嫌がらせ以外の何物でもない。中身を見ずとも胸焼けがしそうだ。
「あ、ああ……ほなら、ありがたくもろとくわ、食べるんはまた後で……」
かろうじてそう言うと、忍足は包みを受け取ろうとした。しかし、次の瞬間、悲しげに眉を下げる寿葉が目に入り、動きが止まる。
頼みもしないのに寿葉が勝手に作ってきたのだ。自分は悪くない。それなのに、この背中から覆いかぶさってくるような罪悪感はいったい何だ。忍足の額に脂汗が滲む。
「あっ、なんや、急に腹へってきよったなあー。うん、何やろ、お腹と背中がくっつきそうやでえー」
気がつくと、そう口にしていた。
「本当? じゃあたくさん食べて」
途端に寿葉の表情が明るくなる。何ということを言ってしまったのだ。悔やんだがもう遅い。忍足は寿葉と重箱を見比べて、がっくりとうなだれるのだった。
目の前で、寿葉は次々と重箱を広げていく。かやくご飯のおにぎり、唐揚げ、ポテトフライ、きんぴらごぼう、いり鶏、卵焼き。デザートにうさぎ型のりんごまで入っている。鼻歌混じりの寿葉とは対照的に、忍足の表情はだんだんと重苦しくなっていった。
「忍足さんってサゴシキズシが好きなんだべ? 本当は作って持ってきたかったんだけど、あめっちゃったらいけねえからよ、普通の弁当で勘弁な」
「普通てなあ……」
確かに中身は普通だが、量が普通ではない。そもそも、忍足の食の好みなどどこで調べてきたというのだろう。このリサーチ能力をテニスに活かせなかったのだろうか。さまざまな疑問が忍足の頭を駆け巡る。
「どんだけ作ってくんねん。運動会に来たおかんか」
「やだー、忍足さんたら気が早いべ。オイラ、子供は女の子がいいな」
「そないな意味ちゃうわ! 頭ん中どないなっとんねん、自分」
勝手に恥ずかしがってばしばしと肩を叩いてくる寿葉を、忍足は適当にいなした。まるで漫才だ。しかし、寿葉と夫婦漫才をやる気などさらさらない。早く解放されたくて仕方ないのだ。
「忍足さん、何食べたい?」
寿葉が首を傾け、若干見上げるようにして尋ねてくる。忍足は答える気力もなかった。腹が膨れているのだから、何を食べたって同じだ。味などわかるはずもない。
「じゃあ、卵焼きどうぞ」
忍足が黙っているので、寿葉は勝手に箸で卵焼きを掴むと、忍足の口元へ差し出した。
「……自分何してんねん」
「何って、あーん」
「そないなことせんでも一人で食べれるわ」
「意外とシャイなんだなあ。そんなところも素敵だべ」
「あんなあ……」
前向きすぎる寿葉の明るさが重い。もはや何を言おうとわかってくれない気がしてきた。忍足はしばらく目の前の卵焼きを見つめた後、半ばやけくそになってぱくついた。もぐもぐと咀嚼して、味わってみる。どこか懐かしい味が口の中に広がっていく。苦々しかった表情が、ふと和らいだ。
「あ、うまい」
「本当?」
「俺、卵焼きは出汁巻きが好きやねん」
「うん、だと思って頑張って作ったんだ。煮物も関西風の味付けだし」
「へえ」
素直に感心しかけて、慌てて頭を振った。ほだされてはいけない。あやうく寿葉の術中にはまるところだった。ここで甘い顔を見せれば、味をしめてまた押しかけてくるに違いないのだ。
忍足は一人固い誓いを立てた。腹に力を入れ、態勢を立て直そうとしたそのとき、背後から聞き慣れた声が降ってきた。。
「あれ、ユーシ何してんだ?」
「が、岳人!」
忍足の暗く淀んだ心に一筋光が差した気がした。この状況において、岳人は、悪魔の襲来によって全滅寸前の村に現れた救世主そのものだった。その小柄な体躯が、今は屈強な大男のそれにも思えてくるので不思議だ。今こそ親友として友誼を発揮するときではないのか。互いの危機を助け合い乗り越えてこそ真の親友と言えるのではないか。
「ええとこにきたわ、ちょおこれなんとかしてや」
忍足は、泣いてすがりつかんばかりの勢いで岳人に迫った。しかし、岳人は忍足と寿葉を交互に見比べると、次の瞬間、信じられない言葉を口にした。
「いいんじゃねーの。お前がモテてるとこなんてめったに見れねーし」
「あ、あほ……何言うてんねん。よう見てみい、これのどこがモテとるて? つきまとわれとんのや、迷惑しとんの」
最後は寿葉に聞こえないよう、小声で囁いた。こんなときにばかり発揮される忍足の優しさである。一方の岳人は、目を細めて、どうだかなあ、とからかい混じりに言うばかりで一向に取り合わない。
「あの」
押し問答する二人の間に、寿葉が割って入った。
「向日さん、だべ? 初めまして、北園寿葉っていいます。よかったら唐揚げどうぞ」
「え、いいのかよ」
「だって、向日さんって忍足さんの親友なんだべ? こんくらい当たり前しょ」
「お前、なかなか話わかんじゃん」
すっかり寿葉に丸め込まれた岳人に、忍足は背筋が寒くなった。これは策略だ。外堀から埋めていこうという魂胆なのだ。おそらくは、この唐揚げも、忍足にではなく岳人のために作られたものなのだろう。よくよく見れば、重箱の中には他の部員たちの好物があふれている。通りかかったのが誰であっても、味方に取り込む気だったのだ。人間関係はおろか、食の好みまでも把握している辺り、さすがスパイというべきだろうか。返す返すも、なぜこの能力がテニスに生かされないのかだけが大いなる謎である。
しかし、岳人がほぼ初対面でこんな風に打ち解けるのだ。多少行きすぎるきらいがあるからといって、悪い人間ではない。そんなことは忍足にもわかっている。ただ、今は流されるときではないのだ。いや、本当にそうなのだろうか。怒濤の展開で判断力が鈍ってきた。
忍足さん、と寿葉が呼んだ。何、と答える忍足の声が裏返る。
「また、来てもいいかい」
「や、その……」
計算高そうな上目遣いが忍足の瞳を捕らえる。逸らすこともできず、忍足はただたじろいだ。じっくりと、改めて寿葉の顔立ちを眺めてみる。かわいい。そうなのだ。顔だけ見れば、間違いなく十人中九人はかわいいと認めるような顔をしているのだ。忍足だって、決して好みでないわけではないのだ。
何と答えればいいのか、言葉を探して思考が彷徨った。寿葉はいまだ忍足を熱っぽく見つめている。こうして迷っていることが、すでに寿葉の掌の上にいる状態なのだと、忍足は気づきもしないのだった。
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氷帝に現れた寿葉に翻弄される忍足。