No.380564

【編纂】日本鬼子さん十二「そんなわけねえっつうの……」

歌麻呂さん

お忘れの方もいらっしゃるかと思いますが、歌麻呂です。 『【編纂】日本鬼子さん』の続きです。

※序~十話までを製本化しようかなと思います。
校閲・校正を手伝ってくださる方、製本編集の協力をしてくださる方、イラスト・ラクガキを寄せて下さる方がいらっしゃいましたら,
TINAMIショートメール欄まで連絡くださいませ。

2012-02-19 23:23:50 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:597   閲覧ユーザー数:597

 

   φ

 

「兄貴、行ってきます!」

 昼食の食器を洗っているときだった。バタバタと音を立てて階段を降りた匠は、リビングの入口から顔を〇・五秒出して、そしてひっこめる。

「ちょっと待った!」

 行ってらっしゃいと言いかけて、匠を呼び止めなくてはいけない要件を思い出した。廊下へ出て玄関に向かうと、匠は扉に手をかけ、今にも出掛けるところだった。

「遅刻するから急いで!」

 やれやれ、と僕は溜息をついた。

 昨晩、トイレで目覚めたときも匠の部屋から明かりが洩れていた。こうなることが分かってるのならもう少し早くに寝ればいいのにと思う。

 少しは女の子らしく、お肌のことを気にして早寝早起きの習慣をつけてもらいたい。余計なお世話だろうけどさ。

「早く!」

 おっと、これ以上焦らすといけない。

「いつごろ帰れるか?」

「わかんない」

 匠は即答した。よっぽど慌ててるらしい。

「夕飯肉じゃがなんだけど」

「了解した。七時には帰宅する」

 匠は即答した。よっぽど食べたいらしい。

「じゃ、行ってきます!」

 玄関ドアが乱暴に開け放たれる。匠がドアの隙間からすり抜けるように外に出ると、昼を過ぎた晩夏の光が玄関に入り込んできた。

 俺の靴を蹴っ飛ばして行っちゃったけど、肉じゃがを楽しみにしてくれてるから許してあげよう。

 湯気立つじゃがいもを嬉しそうに頬張る匠の顔を浮かべる。これは作り甲斐があるってもんだ。

 ああでもその前に掃除と洗濯を済まさないと。それから近所のスーパーでじゃがいもとしらたきを買いに行こう。どうせだから明日の朝サラダにするキャベツも買っておこうと計画する。最近野菜は値上がりしているからあまり買いたくはないが、家族の健康を思うとどうしても手放すことができない。

 そんなことを考えていたら、玄関扉がかちりと音を立てて閉まっていた。電気を点けてないから薄暗い。昼間のうちは極力電気を使わない。環境のために(という名目上、家計のために)節電節水は怠らない。真夜中は匠がパソコンをフル起動させているから、その分昼は特に電気を使わない生活をしている。半ばやけくそで、もう半分はゲーム感覚だったりする。

 まるで主夫みたいだな、俺。

 幼少時代から家事の手伝いが好きでやってたけど、匠が中学に入学したのを機に母が仕事を始めたので、家事は僕が取り仕切るようになった。そうして四年か五年か、もうそれくらいになる。いつの間にか炊事洗濯裁縫なんでもござれの主夫マスターになっていた。

 だからといって義務感を背負ってやっているわけじゃない。好きなようにやっている。

 最近匠が活動的になってるのは気のせいじゃないみたいだ。話を聞くかぎり、新しい友達ができたらしく、ヒノモトオニコさんと言うらしい。

 どういう綴りなのかと訊くと、ニッポンのオニのコ、と書くらしい。

 日本鬼子?

 なんとも珍しい名前だ。まあ何にせよ、いつか会ったら「うちの愚妹がお世話になってます」と頭を下げないといけないな。

 無断で泊まりに行かれたときは心配したけど、鬼子さんが不良というわけでもなさそうなので好きにさせている。

 つい一ヶ月くらい前まで、匠はドージンシとかいう漫画を買うときか、イラストだか絵本だかのスケッチをするときくらいしか外出しなかった。ほとんどの休日を自室の中で過ごしていたから、頭からきのこが生えるんじゃないかって心配したものだ。でもこの夏は鬼子さんのおかげで匠の表情が活き活きするようになっていた。やはり、友達というものは人の性格に影響を与えるものなんだと思う。

 というより、兄の視線で匠の背中を見ると、昔の匠を取り戻しているような、そんな気分にさせる。

 まだ小学校か、幼稚園か。ちっこい頃の匠はわがままなおてんば娘だった。隙あらば外に飛び出して木登りするような子で、いつも服を泥だらけにするから、母さんの手伝いをしていた当時の俺はいつも溜息を洩らして泥を落とす作業を日々行っていた記憶がある。

 その一方で、女の子の友達とはおままごとや絵本を読み合いっこしたりするという女々しい一面もあった。

 匠はどんな人とも当然のようにコミュニケーションができた。学生をしている自分としては、その能力が羨ましいとさえ感じるし、きっと多くの人が欲するスキルだと思う。

 一階畳部屋の押入れに仕舞ってある掃除機を取り出す。今日は肉じゃがに力を注ぎたいので、掃除はほどほどにしておく。窓をきれいにしたかったけど、それはまた次の日曜日にやろう。

 リビングにたまった微量の埃をまんべんなく吸引する。ソファの下も忘れずに掃除機をかける。廊下、階段と決まった動作で決まったコースを辿る。階段の隅っこのごみを吸い上げるのにいつも手間取ってしまうけど、ここをなおざりにしてはあっという間に埃のアジトが構築されてしまう。要清掃地区だ。

 二階に出て正面の扉に「たくみのへや」という看板が下がっている。

 この部屋は立ち入りが禁じられているし、俺だって年頃の女の子の部屋に好んで行きたがるような性癖は持っていない。

 ましてや妹だ。漫画やゲームのようなドキドキイベントなんて、現実世界の兄妹じゃあ発生するわけもない。

 しかし……匠はちゃんと掃除してるだろうか。

 多分してないよな。うん。

 いい加減強行突破して掃除しなくちゃいけないけど、今日は見逃してやろう。肉じゃが生成のためのMPを温存するために。

 

 

 おてんばだった匠が意欲的に外へ出なくなったのは、匠が小学三年のときの事件が原因だと思っている。

 その頃友達の中でテディ・ベアが流行っていたらしい。本当に他愛ない流行だ。たった数人の女子グループの、ほんの数ヶ月間だけを賑わせたプチブームだったのだろう。

 匠は口癖のように「テディベアが欲しい」と母さんにねだっていた。我が家にはそのぬいぐるみがいなかったのだ。

 母さんは最初のうちこそダメの一点張りだったものの、何日もねだられた結果、「じゃあ誕生日にね」と折れたのだった。

 そのときの匠の喜びようといったらない。俺の部屋まで来て、テディベアが家にやってくる旨を繰り返し繰り返し語った。

 ペットならまだしも、ただのぬいぐるみでこれまで期待に胸を膨らませることができるのは、きっと匠に純粋で素晴らしい想像力が備わっているからなのだろう。

 しかし匠の誕生日に贈られたのは、テディベアではなかった。

 名もなきクマのぬいぐるみだったのだ。

 プレゼントボックスを開けた匠の笑顔が、まるでローソクの灯を吹き消すように、ふ、と凍りついた。

 母さんはクマのぬいぐるみなら何でもいいと思ってたのだろう。そういう勘違いはよくある。

 幼年時代、俺は黒猫を全てジジと呼んでいた。犬のことはガーディと呼んでいた。

 だから母さんが匠の言う「テディベア」を単なる「クマのぬいぐるみ」だと解釈したのは、何も不自然なことではない。母さんには何の悪意もない。

 しかし、そう思えるのは今現在の回想する俺が大人だからだ。当時の俺には、まして当時の匠には、そんな勘違いを理解することなんてできなかったし、許容することもできなかった。

 プレゼントを開封したまま思考停止になった匠の姿を、俺は一生忘れることはないだろう。

 その瞬間匠の頭に何がよぎっていたのか、そんなの匠自身にしかわからない。

 今日の誕生日パーティでね、テディベアが来るんだよ。明日持ってきてあげる、楽しみにしててね――友達にそう言っていたのかもしれない。

 あるいは、膨張に膨張を重ねた気持ちに手が付けられず、ただただ抑えきれない幸福と法悦に胸をときめかしていたのかもしれない。

 とにかく、匠の感情はプレゼントボックスを開けた瞬間ずたずたにぶち壊された。

 匠は泣いて喚いて、その日は本当に、本当に散々な一日だった。

「ごめんね、テディベアは見つからなかったの。だからこれで許して、ね?」と母さんがなだめたが、匠はそのいたわりの手をはたいた。

 俺と母さんと姉貴の自信作であったデコレーションケーキをパイ投げのように呆気なく窓に叩きつけ、姉貴に暴言をぶちまけ、俺を蹴り飛ばした。

 そしてプレゼントのぬいぐるみを引き裂いてゴミ箱に捨てた。

 それはヒステリーのようなものだったけど、そうしたくなる気持ちもわかる。同じ立場だったら、俺だって同じことをしたはずだろうから。

 匠は数日部屋に引きこもった。匠があのまま誰とも口を聞かず、暗い影を落としたまま生きるのではないかと思うと、心配で心配で仕方がなかった。匠は感情を昂らせることの少ない子だから、余計に不安が募っていく。

 でも次顔を見せたときは、痩せはしていたものの、不思議に思えるくらい元気で明るかった。どんな顔して接したらいいのか迷ってた俺に、「兄貴、好きな子にフラれちゃった?」なんて冗談をかましてきたときは呆気にとられて何も言い返せなかった。

 女性は元カレとの思い出をすっぱり忘れると雑誌に書いてあったが、その説は元カレに限らず通用するものなのだろうか。家族はみんな驚いたけど、一方で安心していたのは言うまでもない。

 

 

 匠はこのことを覚えているのだろうか。

 小三の記憶だ。もうないのかもしれない。

 でも俺は今まで一度も忘れたことはない。というか、忘れたくなかった。あの日、俺は家族というものが崩壊する音を聞いた。今もときどきその音が耳の奥のほうでこだまする。

 そんなこともあって、捨てられたぬいぐるみは縫い合わせて自室のクローゼットの奥に仕舞っている。臥薪嘗胆ではないが、あの惨劇を忘れないため、時折ボロボロのぬいぐるみを見ては意気込んでいたりする。

 でももうこの変な習慣もやめていいのかもしれない。俺は大学生で、田中は高校生だ。二人とも非行に走ることなく今に至っているし、もう家族から巣立つ年頃だ。

 外に出たがらなかった匠の日常生活にはやや不安を感じていたのは確かだが、でももう日本鬼子さんがいる。

 大丈夫だ。

 「たくむのへや」という看板の掛かったドアを開ける。

 漫画とCDばかり入った本棚の隣に掃除機を置き、しわひとつないベッドシーツの上で膝立ちになってクローゼットを開けた。

 タンスの隅に置かれた小箱。この中にぬいぐるみは入っている。ここ半年間は触れていないが、だからといって存在そのものを忘却することはなかった。

 息をすっと一つ呑み込み、勢いよくふたを開ける。

 かび臭い空気が入っていた。

 冷や汗が流れる。

 ぬいぐるみは、その行方をくらましていた。

「まさか」

 匠に気付かれていた?

 半年以上このふたを開けることはなかったけど、その間に?

 もしそうだったら、匠は激しいフラッシュバックを起こすに違いない。いや待て、それは妄想だ。現実を見ろ。ここ最近匠がおかしくなっていた気配はあったか? ないだろう? なら匠はぬいぐるみを見てはいない。そうだ、そうに決まっている。待て、焦るな。答えを即急に求めるな。冷静に情報を結合させろ。

 そうだ、匠は、ぬいぐるみを見つけてしまった。

 でも、狂ったりなんて、しなかった。

 つまりそういうことなんだ。

 大丈夫なんだよ、だから。

 ぬいぐるみが懐かしい思い出として匠の一部になっているのなら、心配することは何もない。

「大丈夫だ……」

 安堵の息をつきたいのに、どうしても自分の意思を確かめずにはいられなかった。

   φ

 

 目が覚める原因として最も多いのは廊下の足音だ。天魔党一ヶ城天守三階の床はよく軋むことで有名であり、そしてここに『忍』幹部の部屋が設けられている。二階と四階をつなぐ廊下に面する私の部屋は、忍にあらざる者も通るため、なおさら足音が耳障りなのだ。

 『鬼を祓う鬼』日本鬼子敗北の報を聞き、私は歓喜するよりもまず睡眠にありつける安らぎの情のほうが遥かに大きかった。城に戻り、この部屋の襖を開けるや否や、畳の上に伏せて三日は眠ってやると心に誓ったのだ。

 そしてあの日から三週間が経った。

 まとまった眠りにはいまだにありつけていない。

 職業病と診断されても私は驚かない。どんなに努力をしたってほんの些細な物音で目が覚めてしまう。鼠の足音を敵襲と勘違いしてしまったときは、本気で自分自身を怨みたくなった。

 こうなったら「眠り」の定義を変えるべきかもしれない。

 そうだ、それがいい。

 私、黒丑ミキ(くろうしミキ)は提案します。

 睡眠は、目をつむったその瞬間から開始されるのです。まばたき一回刹那の睡眠、塵も積もれば山となる、一文銭も小判の端。

 きっと寄せ集めれば日の入りから日の出まで寝続けてるくらいの睡眠時間にはなりましょう。なんて健康的な生活。なんと健全な私。

「そんなわけねえっつうの……」

「どうしたミキティ」

 ため息交じりに声が出ていたらしく、『忍』の頭である鵺様が声をかけてきた。

「申し訳ございません、独り言にございます」

 頭巾を上げて口と頬を覆い、恥じらいの情を隠す。鵺様は関心もなく床を軋ませ、蛇の緒のように長い虎柄の尾を振って前を歩いていた。思わず息が漏れる。

 ミキティってなんだよ、とため口で訊きたい衝動を抑える。そもそも私は鵺様がミキティと呼ぶ主旨をよく理解していないのだ。本名を口にしてはいけないという理由であれば烏見鬼(おみき)と呼べばいいのに、ミキティ、ミキティと懲りずに呼び、しまいにはそれで定着してしまった。

 しかも、鵺様は特に私をからかうでもなく、ましてや好意をもって呼び名を付けたわけでもないのだ。

 親しみを込めて下さっているのか、それとも単なる気まぐれなのか。忍の端くれとして読心術を得てはいるものの、鵺様は表情からも声質からも感情というものが剥離されていて、真意が謎に包まれてしまっている。

 一段一段が膝小僧ほどの高さもある急な階段をのぼる。

 一ヶ城の四階。御用部屋の襖を開けた途端、鎧をまとった獣の鬼が足元まで転がってきた。

「どういうことだ、青狸大将!」

 続けざまに天魔党四天王の一人、『侍』の黒金蟲様の怒声がやってくる。寝不足の頭に響いたので、憂さ晴らしにとすり抜けざまに青狸大将の手の甲を踏みつけた。無論、忍の端くれとして、誰にも見えないよう隠密に。

 鵺様が黒金蟲様の隣の座に着いた。黄色い縁のついた黒い胴鎧が擦れて、高く軽やかな音を鳴らす。

 私は広間の隅で畏まる四天王の部下にならって端坐した。上座と広間の両脇にふす幹部一同でコの字型になるよう青狸大将を囲む。

 上座は三席空いている。四天王『局』の座、『大老』の座、そして『領主』の座だ。

 ここ数日大老様は床に臥しておられるため、『局』の長、藤葛の局(ふじかずらのつぼね)が看病されておられる。

 領主様は私が御用部屋に参上できる身になってから一度もまみえたことはない。現在消息が不明であるということ以外私は知らないし、おそらく他の幹部もそうだろう。

「おいおい、何の騒ぎだい黒金さんよお。青い狸君にとっときのおはぎでも食べられちまったのか?」

 その冗句に四天王の一人で筆頭陰陽師の鬼駆慈童様が失笑した。その幼い頭に乗っかる烏の使い魔、穢墓司(えぼし)が蔑むような喚き声を上げた。

 黒金蟲様は一度鬼苦慈童様を流し目で睨めつけ、咳払いをした。

「安心しろ、宿敵おはぎは最後の一騎まで残らず我が胃袋が討ち取った」

 訳すと、おはぎ完食おいしかったです、となる。

「先刻の怒りは他でもない、青狸が任務を全うせず、人間の統べる世で発見した強き心の鬼との連絡を途絶えさせた故にだ」

 青狸大将の任務。それは田中という媒体を利用して人間の支配する世界へ侵入し、天魔党の人間界支部となる鬼を見つけ、天魔党員にするというものだ。なるほど連絡が途絶させたことは重大な失態であるといえる。

「ま、いいんじゃねえの?」

 堅苦しく重々しい空気を軽々しい寛容の声が引き裂いた。鵺様だ。

「向こうの世で利用できる鬼を見つけた。いや俺としちゃあ向こうの世に行けたことだけでも大きいと思うんだが」

「確かに、今までどーやって行くのか分かんなかったよね。あるってことは知ってたけど」

 筆頭陰陽師様の幼げな声が続く。その白髪の掛かる翁の能面を外した姿は一度も見たことがないが、その声から推察するに元服すらしていない若人なのであろう。とても四天王の一人であるとは思えないが、中成になると途端におぞましい邪鬼と化すのは語るまでもない。

「そこの青だぬき」

 鵺様は罪人の如く跪く青狸大将の名を呼んだ。

「何でありましょう」

「お前、どうやって人の統べる世へ渡ったんだ?」

「そうだ、青狸大将、我らに教えよ」

 黒金蟲様が身を乗り出す。我々天魔党にとって、人の統べる世、つまりかの田中匠と呼ばれる人間の暮らす異界への進出は悲願であるのだ。

 天魔党が生まれる前から、千歳の歴史の中で数多の人間がこの世へと流れ着いたことがある。逆にこちらの世の者が向こうの世へ行くこともあった。

 二つの世を渡る術は重鎮の神々によって守り通されている。千年の封印を解くために、なんとかして情報を引き出そうと我々はもがいているのである。

 さておき、あちらをよく知る者から噂が広まったのだろう。近年、こんなことをよく耳にする。

 異界の世は、心の鬼が支配しつつあるのだ、と。

 心の鬼、すなわち人間の悪しき心が生み出さす鬼によって。

 天魔党には今、即戦力が求められている。強大な神々に勝る鬼、そしてあの日本鬼子を完全に負かせるほどの力を持つ鬼が。向こうの世には、それにふさわしい心の鬼がいるのかもしれない。

 でも、正直そんな思惑なんてどうでもいい。私の使命は、与えられた任務を淡々とこなしていくだけなのだから。

 御用部屋には静寂が広がっていた。今なら眠れる。けどここで居眠りしては『忍』の名を汚すことになる。舌を奥歯で噛みしめ、充血した眼で青狸大将を睨みつけた。

 私を含め、部屋の全ての視線は頑丈な鎧を着こんだ青狸に注がれている。奴はその全ての視線を背中で受け止め、一刻一刻を満喫しているように見えた。

 この状況を楽しんでいる。私にはそう感じた。

「股猫の大神、般にゃーの治むる紅葉山、その頂にありまする紅葉石」

 姿の上では畏まっているものの、その言葉は堂々としていて、威厳に満ち満ちていた。

「田中匠は石に触れ、こう述べる。往くときは『いただきます』と、還るときは『ごちそうさま』と――」

「戯言を申すでない!」

 いまだかつて聞いたことのない巨大な落雷の音に部屋がゆらめいた。鼓膜と頭に響くから勘弁してほしい。黒金蟲様が殺気と共に立ち上がり、野太刀、黒砂刀(くろざとう)を抜いていた。

 部屋がどよめく。

「黒金蟲様、どうかお気を安らかに」

 重臣憎女が止めに入るも、黒砂刀の切先は青狸を向いたままであった。今にも一刀両断にしてしまおうという気迫をまとった武士の姿に、我々は鷹に睨まれた小鼠の如く、凍り漬けにされてしまった。

 凍結されているのに、汗が止まらない。

「黒さん、煽られてる煽られてる」

 鬼駆慈童様が小声で言った。声の調子からして黒金蟲様をいじっているようであった。鬼駆慈童様はおそらく唯一黒金蟲様でお遊びになられるお方であると思う。まったく世の中は広いものだ。

 黒金蟲様はしばしの硬直ののち、刀を収めてどっかと胡坐を掻いた。

「さて、黒金さんは戯言とか何とか言ってたわけで」

 膝の上に肘を乗せ、それで頬を支えている鵺様が口を開く。

「正直俺もこんな馬鹿げた合言葉を神々が考えてるとは思えねえ。だが、あえてふざけた言葉にすることで、俺たちを惑わすという常套手段も考えられる。そもそもここで青狸が俺たちを騙しても何の利もねえしな。そこでだ、ミキティ」

「烏見鬼とお呼び下さい」

「じゃあ烏見鬼」

 じゃあってなんだよ、という異議を申し立てそうになりかけるも、これ以上精神疲労の値が上昇したら本当に眠れなくなってしまう。

 忍装束の裾を握りしめて言葉を待つ。

「確か、読心術を心得てるんだよな?」

「はっ、わたくし烏見鬼は忍術をつかさどる者として、表情、声音、仕草、瞳孔の揺らぎ……あらゆる角度から相手の心を分析することが可能です」

 書物に記された文面を暗唱するように自身の仕様を明らかにした。でもこれは鵺様や天魔党の皆方に対して申したのではない。すでに大半が私の特技を知っている。

 これはそう、青狸大将に向けて暴露したものなのだ。

「ならミキ……烏見鬼はさっきの青狸大将の言動から、俺たちが見落としてることはあるか?」

「烏見鬼ちゃん、正直に言っちゃってよ? わかってると思うけどさ」

 鬼駆慈童様が補足するように言う。青狸の兜の隙間から冷や汗が滴り落ちるのが見えた。

 いや、それは汗などではない。焦りと動揺、そのものだ。

 視線が知らぬ間に青狸から私へと注がれていた。

 隠密行動ばかりで、常に孤独でいたからなのか、私は他人の眼差しというものが苦手だ。注目されると極度にアガってしまう。半人前で仕事に慣れてきた頃なんて特にひどかった。

 でも、今は違う。

 仕事であるならば、終始抜け目なく務めに励む。どんな無理難題であっても、淡々と命令を遂行する。私はそうしてここまでの地位に昇りつめたのだ。

 緊張など、封殺できる。

「青狸大将の口振りからは強い威厳を感じ取ることができます。誰の下にも就かない自立心と独占欲が窺えます。なるほど、荒廃衆の長を名乗っているだけはありますね」

 私はここで空咳をついて一区切りした。

「そして、そのひざまずき、かしこまる姿は一見我々に服属しているように見えますが、よくよく見るとその背はこの状況を楽しんでいるように思えます。しかし異常性癖的、刹那的な快感に酔いしれているわけではありません。今後、立場が逆転した将来に思いを馳せているが故に、大将は楽しんでいるのです」

 誰も彼もが無言であった。どよめきを想像していたが、おそらく青狸大将の謀反は多くの者が予測していたのだろう。私の言葉に異を唱える者はなく、むしろ案の定であるといった表情を一様に見せている。

 奴と共に日本鬼子を偵察に行かなければここまでのことは口にできなかった。

 おそらく奴は隠していたつもりなのだろうが、常に功績を切望し、隙あらば私の寝首を掻こうと企んでいるのが丸見えだった。おかげであの任務の最中寝首を掻かれないように一睡もできなかったのだ。今日はその復讐も兼ねている。

「大将の処置は四天王諸公にお任せ申し上げます」

 そう言って私は額を畳に付けて礼をした。

「おのれ、烏見鬼……」

 青狸大将の憎悪が襲いかかってくるが、それらを全て無関心によって追い払う。

 私は悪くない。

「承知した。件は藤葛の局を加えた我が四天王が協議し、決しよう」

 黒兜から垣間見える朱色の隈取が施された黒金蟲様の眼と合ってしまった。こうなれば、頷くことすらできずに硬直し、喉を震わせることすらできずに正座をするしかなかった。

「して烏見鬼、もう一つ問おう。もはや信用されぬ青狸であるが、奴が申したその言葉を真と捉えるか? それとも嘘偽りと捉えるか?」

 黒金蟲様の眼が今まで見たことがないほど大きく見開いている。

 目を逸らしたくて仕方がなかった。でもここで目を逸らしたら言葉に力がなくなってしまう。態度だけでも勢威を誇示せねば、目上の者にものを申しても真意を伝えることができないのだ。

「青狸大将は、今まで一度も嘘偽りを口にしたことはありません。我々を騙してもそれは手柄にならないからです」

「ふむ……」

 黒金蟲様は腕を組んでしばし思考にふけっていた。ちらりと鵺様に目配せすると、鵺様は口角を五度程上げた笑みを洩らして応じた。

「烏見鬼に命ずる」

 たった一言であったが、私の肌を総立ちにさせるには充分すぎた。

 命令が下る。

「単独で紅葉山に潜入し、紅葉石から人の治むる世へと渡れ」

 いうなれば、合戦を援軍なしで潜り抜け、敵本陣に単独潜入し、大将の首を掻き切れという命が下されるが如し。

 無理難題だ。

 また睡眠時間が削られてしまう。

「そして綿抜鬼と接触し、人を惑わして心の鬼の力を増長させるのだ。日本鬼子を倒せるのであれば、隙を見て倒せ。全ては現場の判断に任せる」

 あの般にゃーと相対せねばならぬと考えるだけで憂鬱になるのに、その関門のあとに日本鬼子の討伐とは。

 次故郷へ戻るのはいつになるのだろう。

 しかし、これほど退屈しのぎになって面白い任務はない。つまらんひよっこどもを偵察する日々とはしばしの別れとなる。

 そう思うと、私らしくもなく胸の高鳴りを覚えるのだった。

「そして最後に、これが最も重要な任務であるのだが――」

 生唾を呑み込む。まるで忍の道を志したばかりの頃に返ったように、私は下される任務にときめいていた。

「――土産に『ぷりん』とやらを買ってきてはくれぬか」

「……は?」

「噂に聞いておらぬか? その形は黄色き富士の山の峰の如し。その頂は『からめる』なる黒き雪が如し。その味は将軍おはぎを優に上回ると聞く」

 いや、そういう話じゃなくてですね。

「我とお憎の分を頼むぞ」

「いえ、黒金蟲様、私は――」

「俺には『もんぶらんけえき』を頼むぜ、ミキティ」

 憎女の困惑した声を鵺様のお気楽な声が掻き消した。つかミキティはやめろと言っただろおい。

「ミキちゃん、僕は『ぶぃよねっと・ふらんぼわあず』の大で」

 なんですかそれ。

 御用部屋の厳粛な張りつめた空気が、いつの間にか甘ったるい香りに満たされていた。

 もう付いていけない。

 いや、今日に始まったことじゃないんだけど。

 

 

 その後、私の寝室で出立の支度をしていると、襖が突然開かれる。着替え中ではなかったから良かったものの、私には私的生活空間というものがないことを改めて実感させられた。

「なんですか、鵺様に鬼駆慈童様」

 兵糧丸を腰袋に詰めつつ、あえて鬱陶しそうに対応する。真面目な黒金蟲様や藤葛の局だったら怒りをあらわにするだろうが、気まぐれな鵺様と生成ののんびりな鬼駆慈童様は別段怒ったりしないし、むしろこうして接するのが普通になってしまっている。私もかしこまった言葉は苦手なので実に話しやすい。

「何って、はなむけだよ。ほら」

 と、厳つい文字の羅列されたお札を四枚もらった。

「鵺様、こんなもの作れましたっけ?」

 呪符を書いているところなんて見たことがないし、そもそも鵺様は身軽さを追求している。

 武器は槍状に硬化できる尾や小手に収めた鉤爪であり、他の装備はその軽量に特化した鎧だけで、荷物らしい荷物は何一つ持たないのだ。

 食料は人間の感情であるため、私のように兵糧丸なんて準備しない。

 必要なものは現地調達。この点だけは忍の長として見習うべきであるが、そんなことはどうでもよくて。

「これ、鬼駆慈童様のですよね」

「あら、ばれちった?」

 能面の内側からへらへら笑い声が聞こえる。ばれるに決まっている。まあどうせこの二人は私の怒る顔を期待しているのだ。

「鵺様からは何もないんですね?」

 私は事務的に事実確認を行う。

「いや、渡そうと思ったんだ。旅に役立つもんがあったからな」

「でも、ないんですね?」

「一昨日城下の女にやっちまってたことに気付いてだな、ははは」

「ははは、じゃないですよ!」

 どうせ女と遊びすぎてお金が無くなったんだ。それで代わりに金目のものを渡したんだろう。

 四天王の癖に、鵺様はたまに私からお金をせびることがある。軟派な奴だとは重々承知だったが、そんな大切なものを下劣な女に売り渡してしまうほどだとは思わなかった。

 というか、私に渡すものがなかったらはなむけとか言うなよ。

 穢墓司がカアと鳴いた。

「まあまあミキちゃん。怒ると隈ができるよ」

「できません!」

 まあ過剰な苛立ちで不眠症に拍車がかかり、その結果隈が濃くなるという構造ならあり得るが、今はそんなことどうでもいい。

 深呼吸する。声を張り上げて目が回りそうだった。めまいを伴う幻聴が鳴っている。

「まあまあ、僕の護符に免じて、鵺っちを許してやってよ」

 先程の四枚のお札には解読できない言語が記されている。

「邪気封じの札だよ。次の新月までの分はあるよ」

 天魔党の国が神々の討伐を受けないのは、国全体が巨大な邪気封じの呪によって覆われているからだ。

 中成の鬼駆慈童様がつくりあげたこの呪によって、邪気が外に出るのを防ぎ、神々が感知できないようになっている。

 この札はその呪の携帯版のようなもので、効力は落ちるものの、一札で一体分の邪気を封じ込めることができる。

 日本鬼子偵察の任務の際もこれのおかげで敵に気付かれることなく白狐の村に潜入することができたのだ。

「ありがとうございます、鬼駆慈童様」

 これで般にゃーの領域に潜り込むことが格段と容易になった。

「お礼は『ぶぃよねっと・ふらんぼわあず』でいいよ」

 だからなんですか、その呪文は。

 

 

 そして現在、般にゃーの結界の間近で待ちぼうけをくらっているのである。

 この手の結界は鬼を排除するためのものではなく、九分九厘鬼を感知するためのものだ。排除系の結界なんて高天原との境くらいにしかないのではないだろうか。

 閑話休題、この結界に入った鬼はすぐさま般にゃーの元に届き、日本鬼子によって早急に祓われる。なんだか猫の髭みたいな結界だなと思う。

 邪気封じの札を所持しているとはいえ、おそらくは下級の鬼程度の邪気は発生していると見積もっている。何しろ札というものは効果がまちまちなのだ。

 私が何を待っているのかというと、中級以上の鬼、それなりに存在感を有している鬼を待っているのだ。あわよくば複数体が望ましい。

 その鬼と共に潜入すれば、般にゃーは私でない他の鬼をまず退治するよう日本鬼子に命じるだろう。そうすれば日本鬼子が鬼と戦う間、時間的余裕が生まれる。

 般にゃー自ら私を祓いに来たとしても、そのときは逃げつつ紅葉石を目指せばいい。わざわざ戦う必要はないのだ。

 その機会を待つため、結界の境にある林の中で自給自足の生活を行っている。

 でも兵糧丸はなるべく食べないようにしている。

 偵察は一方的な消耗戦でもある。蛇や蛙がいるのであればそちらを優先して食べる。

 蛋白源が見当たらなくなって初めて非常食が有効活用されるべきだというのが自論だったりする。

 食事もそこそこに日課となりつつある木登りを始める。

 別に運動不足だからこんなことをしているわけではない。森林においては地面より木の上の方が長時間身を隠すのに適しているのだ。それに遠くを見渡すこともでき、草原の先にある街道もよく見える。

 街道を歩いている商人と商人に化けた鬼の識別をしつつ、肌で鬼の気配を探る。根気と集中力が必要なこの単調で退屈な作業を続けてもう何日目だろうか。

 まれに鬼が紛れていることもあるが、その鬼も弱小の部類に入るもので、結界に入っても間もなく日本鬼子によって駆逐される。

 無能な鬼の末路に同情などしない。

 ましてや日本鬼子の考えを肯定することなど私には不可能だった。

「同族殺しがいかに罪深いことか、奴は知らないのか?」

 結界の間近で冷酷に薙刀を振るう日本鬼子の姿を思い起こし、唇を噛みしめた。

 鬼の繁栄のためにも、日本鬼子は私の手で倒してみせる。

 だからこそ、今は待たなくてはいけない。

 怒りに身を任せてしまいたくなるときこそ理性を働かせて自制しなければならないのだから。

 改めて見回りを続ける。

「あれは……」

 結界へ向かう街道を歩く一組の旅人を見つける。一人は白みを帯びた麻のローブを着こみ、フードをかぶっていた。

 ここから直線距離にして四町は離れているが、その胸のふくらみを確認することができた。私より明らかに大きい。

 ――否。任務遂行に余分な肉は必要ないのだと理性を働かせて自制する。

 異国の様相を纏う女の袖から伸びる手は、黒く陽に焼けているように見えた。

 天竺からの使者だろうか、そんな予感が脳裏をよぎったが、その予想は一刻のうちに掻き消された。

 見えるはずもない強い気迫が女から煌々と燃え上がっているのだ。

 しかもそれは神々しさも兼備する気配であり、私はいつの間にか見とれてしまっていた。

 確かに、あの女は天竺からやってきたのだろう。

 しかし人間ではない。

「鬼神だ」

 思わず枝から手を離してしまいそうになるも、左腕で幹を抱き、私はぽそりと呟いた。

 隣の少年は女の従者なのか、それとも単なる道連れなのかは判断しがたいが、赤い頭襟を被っているから修験者か天狗なのであろう。

 きっと天狗だ。幼い人間が修験者になるとは到底思えない。

 天狗は人々から崇められると同時に恐れられている。神であり、鬼でもある。

 旅人に扮した鬼神と天狗は私にとって誠に好都合であった。おそらくこの二人が結界を通過したとき、般にゃーはその曖昧な気配に困惑するだろう。

 そこに私も便乗するのだ。上手くいけば誰にも気づかれずに紅葉石のある山の頂まで辿り着けるかもしれない。

 さあ、仕事だ。

 音もなく木から飛び降り、草原をすり抜けるように駆け抜けた。


 
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