No.372093

うそつきはどろぼうのはじまり 38

うそつきはどろぼうのはじまり 38

2012-02-02 23:55:46 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:734   閲覧ユーザー数:731

帝都イル・ファンは雨模様だった。陽光を厚く覆う曇天から、尽きることのない雫が町に降り注いでいる。

ジュードとレイアは、雨を避けるべく家路に急ぐ人々の間を縫うように駆けた。道中何度も水溜りを踏み抜き、足元に泥水が跳ね返る。

辿り着いたオルダ宮前には、既に人垣ができていた。手に武器を携えた警備兵が小山のように群がっているが、中には野次馬と思しき民間人の姿がちらほらあった。

「医者よ! 通して!」

少女はやや乱暴に人々を押し分け、前に進む。何度もすみませんと頭を下げつつ追随していると、ふいに腕を引っ張られた。

「ジュード先生!」

「あ、エデさん」

前につんのめりつつ返事をするという、中々しまらない体勢で若き医師は警備隊長の横に立つ。

中年の下士官は心底安堵したように、額の汗を拭った。

「良かった。また診察が押して、来てくれないかと思いましたよ」

「丁度手が空いていましたから。ところで、ワイバーンが墜落したって聞きましたけど・・・?」

するとエデは声を潜め、ある方向をそっと指し示した。

「あれです」

言われた方角からは、確かに獣の声がした。だがあまり穏やかな感じではない。これは明らかに、威嚇している時の唸り声だ。

人垣の中央、石橋の隅に巨躯がうずくまっている。二つの翼に鱗の身体、長い尾の特徴はまぎれもなくワイバーンを意味していた。

ジュードの目は、痛ましさに眇められる。かつて彼を乗せ大空に羽ばたいていた頃の雄姿は見る影もないほど、無残な姿だったからだ。

豊かな体毛は雨に濡れてべったりと張り付き、全身に傷があった。遠目にも赤い色が見えている箇所があり、不自然な盛り上がりは化膿を意味していた。

雨に打たれるままの翼は中途半端に垂れ下がっていた。背中に折り畳むだけの力もないのか、それとも骨折しているのだろうか。翼皮の一部が破れ、ぶるぶると震える度に、まるでぼろ布のように石畳の上を引きずる。

傍目にも、このワイバーンが飛べないことは明らかだった。だが魔物は重たそうに首をもたげ続けている。その動きは鈍く、のろいが、敵を威嚇するだけの迫力は、まだ充分に兼ね備えていた。

魔物の周囲には、魔物を捕縛せんとする兵士が群がっていた。その手には武器があった。白銀の鋭い輝きが自分を傷つける代物と知っているのだろう。近づけさせまいと、断続的に低く唸っている。一歩でも近づこうとした兵士には、すかさず牙をむき出しにして威嚇する。魔物の出現当初からその繰り返しらしく、未だに誰一人として近づけていない。

「ジュード、あれ見て」

レイアが小声で彼の白衣を引っ張った。

「あれ、鞍だよね?」

それは即ち、このワイバーンが人間に飼われていることを意味する。

同じ結論に辿り着いた二人は、ゆっくりと包囲網に歩み寄った。途端にワイバーンがこちらを振り向く。ぎらぎらと血走った目が、二人を射抜く。だがジュードもレイアも歩みを止めない。

「おい、危ない!」

制止の声が飛ぶ。ワイバーンが身体を起こすべく前足に力を入れた。踏ん張った鋭い爪が石畳を割る。小さな人間二人を見下ろす高みに、魔物らしい自尊心で首を持ち上げた時、反らされた背から何かが落ちた。

ずる、と腐った肉が削げ落ちるような音がして、派手な水音が立った。濡れ雑巾を叩きつけたような音に、ワイバーンは急に怒気を消し、自らの腹部の方に首をめぐらした。

魔物の腹部下にできた、大きな水溜りに、色が漂い始める。茶色いのは布地だった。端切れのようにぼろぼろになった布の隙間から、腕が見えた。人間の腕だ。崩れ落ちた黒髪の男は、土気色の顔を庇いもせずに水溜りの中に漬けていた。

レイアが叫ぶ。

「アルヴィン君!?」

彼女の叫びは悲鳴に近かった。ワイバーンから攻撃を受けるかもしれないという恐れなどきれいさっぱり忘れた彼女は、一目散に男の元へ駆けつける。

「アルヴィン君、アルヴィン君しっかりして!」

だが閉ざされた瞳は開かなかった。両肩を揺さぶっても、頬を叩いても反応がない。男は完全に気を失っていた。身体が燃えるように熱い。

水溜りに膝をつき、脈を診ていたジュードは背後を振り返って短く言う。

「プランさん。点滴の用意を」

はい、と短い応答の脇で、エダが部下に担架を持ってくるよう指示を飛ばしていた。

「ジュード・・・」

レイアは泣き出しそうな顔で、平静を保ち続ける幼馴染を見た。黒髪の医師は短く頷く。

「すぐに連れて帰ろう。肺炎かもしれない。――レイア、ワイバーンを頼める?」

多分このワイバーンは、と医師はそっと鱗に張り付いたたてがみを撫でる。

「僕らがイル・ファンに来る時、借りた奴だよ。だから顔を知ってる僕やレイアなら、きっと治療を受け付けてくれる」

彼らは魔物の顔を見上げた。ワイバーンは未だ低く鳴いていたが、二人を見る瞳には知性の光が浮かんでいた。

レイアは微かに笑う。

「あたしも、実はそうじゃないかなって思ってた。――やってみるね」

請け負ったレイアは警備隊長エデの協力を得て、ワイバーンの治療に専念することになった。とはいえ屋外の、人目に触れるような場所では魔物の気が休まらない。そこで警備隊所有の野営用の天幕をオルダ宮の裏庭に張って臨時の小屋とし、その中に傷ついた魔物を運び入れた。

腰の診察でジュードの元をしょっちゅう訪れるエデによれば、兵士には相変わらず獰猛に牙を剥くものの、レイアに対してだけは大人しく、素直に治療を受けているという。

「当初はどうなるかと思いましたが、意外となんとかなるもんですなあ」

ほとほと感心したようにエデは言い、ジュードは笑った。

「あのワイバーンは、以前、命を預けた仲間みたいなものでしたから」

 


 
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