運転席に座った男は気怠げに携帯電話を操作していた。メールを打っているようだった。白い光がうすら暗い車の中、彼の無骨な顔を浮かび上がらせていた。
助手席には女がいた。男とは正反対に、か細く、今にも溶けて消えてしまいそうな、霜のような女だった。その不健康そうな白い顔は暗い車内でも恐ろしいほどによく映えていて、浮かべた微笑みが鮮明に認識できた。それは、込み上げる愛しさを惜しみなく表情にしたような、慈愛に満ちた顔だった。
彼女の愛に満ち満ちた視線の先には、赤ん坊の姿があった。赤ん坊は女の腕に抱かれ、安らかに眠っている。時折、女が赤ん坊の頬をつつくと、煩わしげに手を動かしたりする。女にはその仕草がひどく愛くるしく感じられ、眠りを妨げてはいけないと思いながらも、何度も柔らかい頬をつついてしまうのだった。
「なかなか、進まないな」
腹立たしそうに男が呟いた。フロントガラス越しに男の眼には、十数分前から動く気配もない前方車両のテールランプが映っていた。秋の闇でも目立つ赤い光は、男の気を余計に逆なでした。
「そうね。はやく家に帰りたいわ……この子も寒いでしょうし、ね」
抱えた赤ん坊の背をそうっと撫ぜる手は、ほとんどチープなホラー映画などに出てきそうな骸骨のそれと見分けがつかなかった。
「はん」
男は余計に苛立ったように吐き捨てた。
―― 彼女の優先順位は、俺から赤ん坊に、とうに移ってしまっている。
ちらりとも男の方を見ようとしない女に、彼はそう思っていた。正確には、女は男を見ようとしないのではなく、子供以外を見る目が無くなってしまっていた。
はじめて赤ん坊を抱き上げたとき、それはもう、大声で泣きわめいていたものだった。ぎゃあぎゃあと大音声を上げる赤ん坊を、女はその細い腕で、少し震えながら抱き、胸に寄せて、優しく抱きしめた。絹ごしに伝わる体温がひどく熱く感じられて、それがより一層、彼女に赤ん坊の存在を感じさせた。
この子だ。私の子だ―― 。
女は心の中で、そう呟き、何度も反芻した。
胸の内でその温かな言葉が跳ねる度、感じたこともない満足感を覚えるのだった。
一向に解消される気配のない渋滞に、男の舌打ちが聞こえた。
男は懐から煙草を取りだした。苛立っているときの彼の癖だ。すぐに煙草を吸おうとする。慣れた手つきで使い捨てライターを取りだし、カチと乾いた音を鳴らして橙色の火を点した。―― それに、女が反応した。車に乗ってから初めて彼の方を見た彼女の顔は、鬼のようだった。
「煙草を吸わないでよ! この子の体に悪いでしょう!」
枯れ枝のような腕が瞬きも終わらぬ間に、男から煙草とライターを奪い取っていた。
男は一瞬豆鉄砲を食らった鳩のような目をしたが、我に帰るとすぐに、怒鳴り返した。
「もうたくさんだ!」
ハンドルの辺縁部を力任せに殴りつけると、車体がほんの少し揺れた。
「大きな声を出さないでよ! この子が起きちゃうじゃない」
「この子この子と、君はそいつのことばっかりだ! 大事なことがすり替わっている!」
「何を言っているの」
赤ん坊を抱く腕に力がこもる。せっかく手に入れた宝物を奪われないようにしているような、怯えの交じった―― 。
「大事なのは、そいつじゃない。そんな赤ん坊、いらないんだよ!」
「なんてことを言うの……!」
憎悪か、敵意か。男女は互いに忌諱に触れあったことは、確かだった。
「大事なのはこの子よ。それ以外に何があるって言うの」
「ああ……君は、初めからそのつもりで……!」
ハンドルを殴った拳がさらに強く、握りしめられる。長いこと切ってない爪が男の皮膚に食い込んだ。
もう一度、男が強く、ハンドルを殴った。今度はハンドルの中心に命中して、短く、叫ぶように、クラクションが夜を切り裂いた。
「君は子供が欲しかっただけなんだな! 僕と暮らす金ではなく、君が持てなかった子供が!」
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掌編です。ほんのちょっとだけ考えてもらえたら幸いです。