マンジャック
第十二章 イド催眠
「なんてことなの。」
状況が次第に明らかになってくるにつれ、原尾にはそれがどれほど深刻で、しかも絶望的であるかを思い知らされてくるのであった。
ビルの警備員が跳ねられた現場に救急車が来るのがあまりに遅かったのを不審に思った原尾が救急隊員に尋ねたところによれば、なんでも渋谷の方で大量の負傷者が出たとのことであった。救急隊員らからはそれ以上のことを知り得ず、小型無線機でも渋谷に向かった仲間とは連絡が取れないとなれば、彼女としては救急車に付いて病院まで来るのが得策と考えたのだった。
二人の着いた病院、そこは正に修羅場だった。大野と原尾の前に展開する病院の光景は、片っ端から運び込まれた人間達の悲鳴と呻き声で溢れかえっていたからだ。聞けば、近辺のどこの病院でも似たようなものだと言う。そしてその原因はといえば、どうもハチ公像前での騒動がその中心を為していようなのだ。
みんなは。対特のみんなは...。原尾は不安をその胸に満たしながらも必死になって情報を集めた。だが残念なことに冒頭の言葉は、そうした彼女の情報収集の末に呟かれたものだったのである。
対特の構成員は五十八名。出張用務で県外に出かけていた者三人を除く全員が参加していた今回の作戦において、クール隊との逮捕劇に直接関わった五十余名が殆どどこかの病院に収容されているという事実を、原尾は知ったのだ。
対特を始めとする病人達は、吐き気や痙攣、昏睡状態などの症状を呈していて、未だ死者は出ていないとはいえ、増え続ける一方の患者たちに、大野と原尾は彼の地で起こったのが如何に酷い大惨事であったかをまざまざと見せつけられるのであった。
原因となったのはクール隊が用いた毒ガスらしい。患者たちの症状から見てSAAガスを吸引したことはほぼ間違いないとの、医師からの公式発表だったからである。
Son-Amonn-Alchガス。SA2ともアルカとも呼ばれるこのガスは、致死性こそ無いが前述の諸症状を吸入した人間の身体に及ぼし、しかも拡散性が異常なまでに高く、消化器官から吸収されると微量でも迅速にその効果を現すという恐るべきものだ。この様な効果を呈するため、この化学物質の使用は専ら特殊作戦時においてなされる。それは正に今回のようなケース、絶体絶命の囲みの中からの敵中突破手段として使われるのである。
禁忌の力を使えば、畢竟その犠牲者が出るのは避け得ない。そしてクール隊の敵が隊特であってみれば...。騒ぎの中心にいたためにこのガスをまともに吸ってしまった対特のメンバーは、その殆どが身体の運動中枢を深く侵され、最低でも一ヶ月は動けないという診断を下されているのだった。
「全滅じゃないけど...。」
「そうだ。少なくともクール達への対抗するだけの力は、対特にはもうなくなった。実質的な壊滅と言っていい。」大野は冷酷に事実を述べる。
「でも。」原尾は思わず大野に詰め寄る。「こんな事をして。奴等どういうつもりなのかしら。いくら何でも逃げきれるわけはないわ。」
「そう。奴等はもう後がない。だが、それはつまり。
「後のことを考える必要がないということだよ。」
「そ、それじゃあ。」
「あいつらは今日にも人工転移術を手に入れるつもりだってことさ。」大野は自分にも言い聞かせるかのように言った。「そうなったら俺達に勝ち目はない。」
聞いている原尾の方も、大野の言葉に息をのんだ。事態がそれ程逼迫していたことにあらためて衝撃を受けたのである。彼女は思った。クール隊か、それにひょっとして成木は今にもそれを手にしようとしている...。えっ、成木? 彼女は突然彼の男の名を思い出して疑問を湧かせた。
「ちょっと待って。私たちが崖っぷちだという立場だってことは判ったけど、転じて、敵については疑問があるわ。クール隊がそれを欲しがるのは分かるとして...。」混乱を鎮めながら彼女は続ける。「元々ジャッカーである成木がわざわざ転移術を手に入れたがるのはどうしてなの。」
原尾は無意識に事の核心を突いてきた。大野は真実を告げねばならない。
「あの男は転移術が欲しいんじゃない。」自分を見つめる大野の目に、原尾は戦慄を読み取ったろう。「あいつの目当ては集団転移だったんだ。」
ガン。という衝撃が、原尾の心を打った。
「しゅ、集団転移って...確か、ゼロ・ヒューマンの...。」
「流石プロ、博学だ。」大野は皮肉っぽい笑みを浮かべた。「ゼロ・ヒューマン理論と出所は同じ。異端の奇想と言われた常盤修司の特殊転移論の一つさ。実用化すれば社会をひっくり返すことさえ不可能じゃない世紀末の理論だ。」
原尾はその理論の詳細をはっきりと思いだした。と同時に、大野の戦慄の真の理由と、己の状況の判断が尚甘かったことを思い知らされた。
言いながらも彼自身、これ以上この事件に関わると、命に関わる危険性があることをもう一度再認識する必要があった。これからは、自分の本分はジャッカーを捕まえることだ、なんて分別のある考え方をしていられなくなるだろう。それならもう手を退くかという考え方もあるが、今となっては既にそれは許されまい。何故なら...。
彼は万丈に向かって成木が言った言葉を聞いてしまったからだ。クールがそれを狙っているかどうかはともかく、成木から直に集団転移法を狙っていると耳にしてしまった以上、退けるはずがない。ジャッカーが暗躍することが分かっている以上、ハンターは狩りに出なければならないのだ。
己の性を受け入れた時、大野の表情が変化した。獲物を求めるハンターの目、大野の光る眼は正にそれだった。
眼前を塞ぐ木々をかき分け、やっとの事で馳は林を抜けた。
「ひーっ。我ながらちょっとバカ正直だったかな。」
馳は額の汗を拭うと、上着を脱いだ。そしてその手にした小さな機械を覗き込んだ。それは一見すると携帯用のゲーム機に見えるがそうではない。その機械の3インチモニターには、馳が今実際に立っている東京近郊である田立市付近の地図が映し出されているのだ。
それは対特の装備の一つである簡易のナビ・レーダーシステムだった。小さな中にも最新の日本全土の地図が複数のサイズで記憶されており、使用者は任意のサイズでそれを映し出し、発信器がどこにあるかを衛星からのサーチによって最小数mの範囲まで特定することができるという優れものなのである。
馳はその地図が指し示すまま、高低差を構わず最寄りの駅から真っ直ぐにここまでやってきたのだった。そこは一番近い民家からでも車で五~六分は入り込んだ、東京郊外の林野地域だった。
では彼が探し求める発信器は一体何に付いているのだろう。一休みする彼の回想シーンが、その答えを出してくれるようだ。
「そ、そんな。」
馳は眼前に展開する光景に息を飲んだ。万丈司に逃げられ、仕方なく一旦渋谷駅に戻ってきた彼は、そこで駅周辺に倒れている無数の人間達を目の当たりにしたのだった。
一体、何人いるんだ。彼はあまりの惨状に頭の中をパニックにしながらも、自分が為すべき事をそれでも必死になって考えた。救急隊員のサポートをしようか、いや、不器用な僕じゃあ包帯巻くにもミイラ人間を作ってしまいかねないし...。そ、そうか、僕はまず、対特の状況を調べなきゃいかんじゃないか。
彼は泣きたいような衝動に堪えながらもハチ公像前に向かった。そしてそこに、同僚である対特の連中が倒れているのを見留めた。
「た、田中さん。」彼は詰め寄って田中と呼ばれた男を起こした。「鈴木さん。佐藤さん。一体、何があったんですか。」呼びかけられた男達は皆返事をしない。
その時、馳の脇で呻き声が起こった。鈴鳴だった。
「鈴鳴先輩!」馳は駆け寄って鈴鳴を抱き起こした。「生きていたんですね。」
「お、お前...。」鈴鳴は声を絞り出した。「そんなに俺を殺したいのか。」
「だ、だって。」馳は湧き出した涙を拭いながら言った。「プロットでは確か死んだ筈...」ち、ちょっと待て! お、お前ペラペラと。
「現実に妙な事件が起きちまったからな。」鈴鳴が言う。「娯楽小説には合わなくなったって考えたんじゃねぇのか?」...う、うん。
「こらこら。病人が楽屋裏なんか話しては体に毒じゃないですか。」どこからともなく救急隊員がやってきて言った。「あなたもさっさと退いて下さい。この人を担架に乗せるんですから。」
救急隊員の剣幕に馳は飛び退いた。鈴鳴はすぐさま担架に乗せられ、運ばれて行く。しかし彼は、輸送の際の苦痛に耐えながらも馳に言った。
「おい。見ての通り対特は壊滅だ。残されたお前に任せなけりゃいかんのが心残りだが...。」彼は顎を僅かにしゃくって背中のバッグを示すと。「俺はクール隊の一人に発信器を付けた。こん中のレーダーで行く先を突き止めろ。ううっ。」
「先輩! 判りました。もう喋らないで。」馳は悲痛な声を上げた。
「もう出番がないと思うと寂しいぜ。」そう言うと鈴鳴は気絶し、救急車で運ばれていった。
回想終わり。馳はハッとした。何で僕は思い出に浸ってるんだ。
馳は周囲を見渡した。そこは林の中でふと開けた小さな空き地で、張り出した枝が自然の天蓋を成して小空間を形作っていた。季節に似合わぬひんやりとした空気が漂っている。直上から差し込む光を優しく遮る薄暗いその場所で、彼はあらためてレーダーを見た。ほぼこの場所で輝点が光っている。彼は地図の縮尺を最大にして衛星からの測定精度を上げた。
「こっちだ...この方角に。」彼はゆっくりと歩き出し、小空間の端で止まった。「...ここだ。」
馳はレーダーから目を離した。彼の眼前には、僅かに膨らんだ土山が築かれていた。作られてからそんなに時間が経っていないらしく、表面を成す土はまだ湿っている。
「くそっ。気付かれてたのか。埋められちゃってるとは。」
馳は思わずレーダーを地面に叩きつけた。レーダーはバウンドして転がると、近くの木に当たって止まった。
彼は悔しさに跪いて下を向いた。くそっ、鈴鳴さんの努力も、我々の無駄なあがきでしかなかったというのか...。
ヒグラシの声がする。どこからともなく聴こえてくるその声は、馳の怒りをゆっくりと鎮めた。そうだ。落ち込む暇はない。次の手を考えなくては...。馳はゆっくりと立ち上がって再び自分が為すべき事を考えだした。
つと見ると、馳は奇妙な事に気付いた。彼が前にしている土盛りが、左の方に整然と続いていたからである。一定の間隔を置いて一列に続くそれは、数十はあろうか。
何となく見つめていた馳の目の瞳孔が小さくなり、その額ににわかに大量の脂汗が滲み出した。それはさっきから幽かに臭っていたものが、死臭だということに気づいたから...。
「!」
こみ上げてくる感情に、彼は思わず蹲って...、吐いた。地面に突っ伏して、遅くすませた昼飯をすべてもどした。
「ううっ。げほっ。」馳は突然理解したのだ。それが墓であることを。ここに死んでいったクール隊の人間達が埋まっていることを。
そうか。プリンスホテルで死体が見つからないわけだ。彼は己の中に起こったパニックをようようにして抑えながら思った。平気で人間を殺す集団の、なればこそ意外とすら思えるその一面...。
馳は頭を上げた。そして唐突に見つけた。その視線の彼方、木々を貫いた先に大きな建物があるのを...。
「見つけた。」
木陰に潜みながら、馳は小さく呟いた。林の終わりを示す林道がその眼前を横切り、その先にある古くて大きな洋館の前に、白人らしき男が行ったり来たりしているのを見つけたのだ。男は何げなくぶらついているように見せているが、よく見るとそのパターンに無駄がないことが判る。つまり、見張り役の者が巡回をしているのだ。
間違いない。彼は上着を握る手の力を思わず強めた。だがどうする。一旦戻って機動隊を出動させようか。
「あれか。確かにクール隊みたいだな。」
何っ! 馳は咄嗟に飛び退いた。そして戦う構えを取りつつ、声を出したのが何者かを見極めようとした。そしてすぐにその顔に驚きがまざまざと浮かんでゆく。
「操乱春名!!」馳は叫んだ。束横線の駅の地下駐車場での逮捕劇において、彼をジャックした男がそこにいた。
「いよう。」操乱が声を掛ける。「道案内ありがとよ。成木が伝えてくれたのは、漠然としたイメージだけだったんでな。正直迷ってたんだ。」
な、な、な...。馳は混乱していた。どうしてこいつがこんな所にいるんだ。特拘を逃げ出したとは知ってたけど、だからって...。
「この前は世話になったよな。だがついでに、またその身体を貸してくれると嬉しいんだけどな。」
操乱はゆっくりと近づいてくる。
虫のいいこと言ってるよ。馳はじりじりと後退する。僕の身体であの邸に忍び込むつもりだろ。そんなことされた日には命がいくつあっても足りやしない。
だがどうする...。まだ僕の力じゃこいつにかないっこない。クール隊に気付かれるのもまずい。となれば...。
逃げの一手だ! 馳は駆け出した。
「待て!」操乱もすぐさま追いかける。
林の中を全速で走る二人。体格も同じくらいのこの二人、その速力も基本的にはほぼ互角と考えていいのだろうが、死に物狂いの馳の方が流石に速い。徐々にその差は開いてゆく。くそっ、思わず毒づく操乱と、一筋の光明に喜ぶ馳...。
だが一瞬の気の弛みが馳の足を縺れさせた。しまった。
彼は瞬間宙を飛び、横倒しのまま地面を滑った。手にした上着も一緒に滑る。二人の差は一気に縮まった。
しめた。操乱が横っ飛びした。そして馳の左腕を掴むのに成功した。
転移してくる!! 馳は恐慌状態に達しようとする頭を必死になって抑制した。ここで僕がやられてしまったら、もう対特は終わりだ。逃げるんだ。何としても逃げ切るんだ。
馳は上着の内ポケットからスタンガンを取り出すと、自分の手に突き立てた。
低出力とはいえ、それは操乱の手をふり解くのに十分だった。
「うおっ。」操乱は思わず手を引っ込めた。な、なんだこいつ。そこまでやる必要があるのか。
馳はスタンガンの出力を最小に下げて放ったのだ。それでも左腕は痺れて動かなくなった。くそっ、暫く使えまい。
二人はほぼ同時に立ち上がった。睨み合いに応ずるようになった馳がそこにいた。隙を見せないため、互いの目から視線をずらさない。
「成長したじゃないか。新米君がよぉ。」
「お世辞でも嬉しいよ。」
悔しいが世辞じゃねぇよ。操乱は心中思った。こりゃ窮鼠にしちまったかもしれねぇ。
しかし、物語は過酷な運命を馳に与える。
ん?
操乱がつと視線を逸らした。それが自分の気を逸らそうとする操乱のフェイントだと思ったことが馳の明暗を分けた。背後から近づく者に気付いたときには、彼は羽交い締めされていたからである。
「なにーっ!」馳はもがくが、こうなってはもう手遅れだ。
馳の背後から襲ったのは労務者風のがっしりとした体格の男だった。その男は馳の背中越しに言った。「操乱春名だな。」
「そうだが、何者んだい。」
「貴様に会うのは初めてだったな。自己紹介しよう。俺は万丈司。これからクール隊を全滅させに行くところだ。」
あまりにあっさりと語るその口調と内容のギャップに、流石の成木も面食らった。だが万丈の提案は、彼を更に驚かせた。
「俺は貴様にあったら相談したいことがあったんだ。どうだ、俺の仲間にならないか。」
操乱は訝って一瞬間をおいた。
「何で俺を。」
「疑問ももっともだ。」万丈は見知らぬ男の口で語った。「でも理由は至極簡単なんだよ。成木を孤立させるためさ。」
「...。」
「お前にとって不利な取引だと思ったら辞退すればいい。だがその前に、俺の集団転移の力を見てからでも悪くはあるまい?」
そう言うと、万丈は馳にとって恐怖の提案をした。
「依存はないようだな、ではこいつに憑いて、俺について来るがいい。」
操乱は何も言わずに邪悪な笑みを浮かべた。
馳も必死だった。こうなったら、動けなくなってでも...。彼は右腕に手にしたスタンガンを自分の身体に突き立てようとした。
「おっと。」操乱が蹴りを出し、スタンガンは宙に舞った。
くっ。なんてドジなんだ。周りのことに気付かずに、わざわざジャッカーの道案内をしていたなんて。僕は...僕は...。
「ちっくしょー!」
馳の怒りが空しく林に響いた。その瞬間だけ、ヒグラシの声が止んだ。
驚く原尾を見つめている大野。彼は、事態が急務の行動を必要としていることを痛感しながらも、それでも病院を出られずにいた。
対特の現状を調べている原尾はともかく、大野には留まる理由がない。だが実のところ、それは行く宛てが無いという裏返しに過ぎなかった。というのも、操乱を乗せた成木の車を見失った時点で、大野は打つ手を失ってしまっていたのだ。二人の脇を掠めて慌ただしく急患が運ばれて行くにつけ、大野は徒に過ぎ去る時間を思い知らされる。それは、ついさっき自分が原尾に告げた事実、乃ち成木とクールが今しも強大な力を手に入れようとしていることを示しているだけに、一層の焦燥感を伴って彼の胸を打っていた。
だが実は、そうであるからこそ、彼はこの場を離れきれずにいた。いや正確に言えば、原尾の脇を離れきれずにいたのである。
何故彼女が? 大野はまた自問する。そう。彼女が犠牲になったからといって事が良い方に進むとは限らないのだ。だが、他の可能性が左脳の中でポシャる度に、それは大野に悪魔の誘惑となって囁きかける。
彼にとってとても容認することのできないそれは...。
いや、やはりやるべきじゃないな。彼は遂にその迷いを払拭した。...ふりをした。足で情報を稼ぐしかない、というわけだ。
「じゃぁなマキちゃん。俺はもう行くわ。」
大野が力無く背中を見せる...。
えっ。原尾は大野の言葉を軽い既視感と共に奇妙に受けとめた。
あの時とは違う...。彼女の直感が、大野の葛藤を肌で感じとったようだ。カタストロフ社のビルからの脱出後と同じ状況...なのに、あの時とは違う...。
何故そう思えるのかは分からないけれど、あの時とは違って、今度は私が引き止めなければならないような気がするから...。
「待って...。」確かに違った。そしてこの後の言葉はあの時なら発したであろう、己の不安のために彼に縋るといった体のものではなかった。
「私が役に立てるんじゃない?」
今度は、彼女の言葉は大野を止めた。
「当たった...ようね。」原尾が言った。
「何で分かった。」向こうを向いたまま大野が言った。
「作者が耳打ちしたの...と言うのは冗談で。直感とでもいうのかしら、あなたの私に対する、未練...の様なものを感じたの。」
ちっ、俺としたことが。見透かされちまってたか。
「あなたは抜け目のない人だもの。短い小説の中で無駄な行動をとるようなことはないわ。」大野と作者はドキリとした。原尾はここぞとばかりに鋭い。「がむしゃらに動くしかなくても、その方法しかなければすぐにでも出ていった筈よ。」
そして彼女は、大野の心中を言い当てた。
「つまりあなたは、私に次の行動のための利用価値を見いだしてる。
「イド催眠で情報を引き出せるかもしれないと。」
今の自分の表情を原尾に見られないことがせめてもの救いだ。大野はやりきれなさを隠しきれなかった。
イド催眠。ジャッカーに乗っ取られていたときの記憶を呼び覚ます唯一の方法。だが、それには甚大なる精神的苦痛と、それに伴う発狂の危険がつきまとう。カタストロフ社のパシフィック達がやろうとしたときにあれほど憤慨していた自分が、今は...。
大野はゆっくりと振り向いた。
「俺は冷酷な男だ...。それがどういう結果をもたらすかを承知しているくせに、君にそれを試みるという可能性を完全に消すことができない...。」
「それは違うわ。」原尾は強く言った。そして心底からの思いでそれを裏付けようと努めた。「あなたは優しい人だわ。河合さんのことでは、あんなに自分を責めていたし、今だって、私のことを気遣う心がなければ、迷ってたりはしない筈よ。」
彼女は大野の側まで歩み寄ると、そっと背中に手を置いた。
「その気持ちはとても嬉しいわ。でも今の状況で他に手が無いことはあなたが一番よく分かっているんじゃない。」
もし大野がその時の原尾を見ていたら、その目には澄んだ聡明さを見いだしたことだろう。その時の彼女自身にすら不思議なほど、抵抗無くその言葉は発せられたのだ。
「心配しないで、私だって対特のメンバーだもの。覚悟はできているつもりよ。」
彼女の心が語らしめた決意の言葉を、大野が肯んぜぬことなどできようか。
「...この病院に...」彼はその目を閉じ、鎧戸よりも重くなったその口を開いた。「精神科はあったか...。」
「あるわ。でも...。」不意に原尾は言葉を止め、ある想いが心を満たすのを感じて頬を染めた。そして、湧き出す表情を隠すために大野の背に額を寄せる。「できればあなたに掛けてもらいたい...。あなたの車のダッシュボードにイマジノールがあったわ...。やれるんでしょ。」
イマジノールは人体に催眠効果を呈する薬品だ。それをハンターである自分が持っていたのだ。彼女をしてこの結末に行き着かせるのは難くなかったろう。
大野は自分の残酷さに思わず天を仰いだ。
飾り気もなく白い建物の脇に、成木は立った。実用性に主眼を置いた公共建築である以上、無粋なのは仕方がないがな。彼は苦笑いしつつ、更に思った。
だがここには。私の過去の悪夢と、開かるるべき未来を潜ませている。
成木はついこの間来たのと同じように、悠然と正面入り口から入った。受け付けも咎めだてなどしない。そこが病院だからだ。
国立精神医学センター。彼は再び、そこを訪れたのだ...。旧友を見舞うため? それとも、研究者に高らかに労いを言うため?
いや違う。明らかに違う。それは成木の、湛えた微笑みを消すほど冷たい眼差しで察せられた。
やがて彼はその扉の前に立った。独り言と共に...。
「私の方が早かったな。クール。」
先に馳が潜んでいたあたりで、見知らぬ男に憑いた万丈と、自身の離魂体を置き去りにして馳の身体に転移した操乱の二人は、木陰の向こうで静かに威容を誇っている洋館を探っていた。
「ふむ。ここだったのか。」
万丈が言った。さも当然と言うような口調に、操乱は疑問を呈した。
「奴等の居場所を知っていたのか。」
「いや。あいつらは俺の統御下にある要素体の一人の死骸を運び込んだのだ。」万丈は淡々と語る。「肉塊が完全に生気を失い、俺の支配が消え失せたのは大体この辺りだったというわけだ。」
何言ってんだこいつ。操乱の表情を見た万丈は察した。
「そうか。お前は集団転移のことを知らないんだな。」
「集団転移?」
そうだ。と言うと、万丈は話し始めた。
「集団転移とはその名の通り、転移が1:1の人物同士ではなく、1:n(nは2以上の自然数)の関係となることだ。つまり、要素体と呼ばれる個の集まりで構成されるn人の集団が、一人の意識で統御される状態を指すのだ。」
読者のように読み返すことが許されない操乱はぽかんとしている。
「平たく言えば、俺は大勢の人間を一度に操れるってことさ。」
「な。なんだって。」操乱は今度は大仰に驚いた。「じゃ、じゃあ究極のラインダンスを踊ることができるじゃないか。」
「ああ。オーケストラだって指揮者がいらなくなる...。」少し考えて、万丈は片眉が上がった。「じゃなくだ。」あらためて言う。
「一人のジャッカーにすら震え上がっている現代社会にあって、その及ぼす影響はどんなだと思うね。」
操乱は馳の目を刮目させた。恐怖。無敵。支配。征服...。彼の脳は、その力を手にした者が考えつくであろう無限の野望へとその触手を伸ばす。だが自分に沸き上がるそんな絵空事の如き名詞に、リアリティを持たせているのが何であるかを知ったとき、彼は思わずそれを口に出してしまった。
「黄泉すら欲する力...。」
万丈はニヤリとした。
「そうだ。ジャッカーすら羨望する力、集団転移とはそういうものだ。これまでのジャッカーなど比較にならぬ程強大な力を、俺は持っているのだ。」彼は勝ち誇る。「さぁお前になら判るだろう。俺と奴と、どちらに付いた方が利口かを。」
「バカな。」操乱はかぶりをふった。「そんな力がお前にあるはずがない。第一、俺と話しているのはお前一人じゃねぇか。」
「ふふ。ジャッカーであることをけなされて傷ついたか。だが事実を見ればその自尊心も揺らぐさ。」
そう言うと、万丈はゆっくりと前に歩きだした。
バカ、見つかるぞ。と言おうとしたとき、操乱は気付いた。建物の向こうや両脇を取りまく林の中で、万丈と同じように動き始めた人影の無数にあることを。
「お前に見せてやろう。人工転移という偉大な研究に、一文も出す気のない不遜な連中を血祭りに上げるところを。」
見張りに立っていたクール隊の一人、ジオという名のその男は、林の中から出てきてこちらに向かってくる人影を見つけた。
何だ。彼は思った。脇の銃に手をやりながら人影に叫ぶ。
「おい。ここは私有地だぞ。さっさとどっかに行っちまえ。」
だが、その者はぼーっと歩いてくるだけで声に反応したようには見えない。
どっかおかしいのか。武器はないようだが、これ以上近づいてくるようなら始末せねば。ジオも人影に近づき、銃ではなくナイフを手にした。音を出せば林向こうの住宅街に感づかれるおそれがあるからだ。
「!」
最後の警告を発しようとしたとき、ジオは気付いた。林道の向こう、仲間を埋めた空間に通じる木々の中から、姿こそ違え全く同じように歩いてくる人影があることを。そして同様に、館の裏手の方からも一人、また一人。
ただ事じゃない。彼は腰にくくりつけた無線機を殴りつけた。館の中の仲間に警戒体制を取るように伝達したのだ。すぐにも出てくるだろうが、戦いを前にしてそれを待っていられるほどクール隊の人間は気長では無い。
ジオは殺気を押し殺しながら素早く人影に近づいた。が、男は尚も超然と進んでくる。
彼は己の武器の射程に男を入れた。そこで初めて、ジオはその殺気を解放した。
ジオはまず男の手首に切りつけ、返す刀でその頚部を狙った。切り出しナイフの鋭い切っ先は冷酷なまでに正確にその軌道を描く。
正に一瞬で勝敗は決した。利き腕である右手の自由を奪い、即死させるべく喉を裂く。クール隊でも1~2を争う程のナイフの使い手であるジオ。その彼が持つ一級の殺人技によって繰り出されたナイフは、華麗とも言える動きで男を襲い、刃が裂いた男の二カ所の傷口からは、惜しげもなく賞賛の血潮が吹き出す。
次だ。先手必勝こそ勝負の奥義。ジオは目標を別の男に向ける。
「なっ。」
しかし、彼はその背に激痛を感じて思わず呻いた。
ジオは頭を混乱させつつも、前に飛び出し、素早く体制を整えつつ振り向いた。突然の危機に対する情報を何より先に知ろうとする姿勢は流石だが、彼の視界が捕らえた映像は、その目を驚愕で見開くに十分だった。
ジオが既にその男から視線を逸らしていたのは当然だ。彼の攻撃を喰らった以上、男の次の行動は常識で考えれば前後どちらかに倒れ伏すしか無いのだから。だが彼の目に映った男は違った。頚と手首から景気のいい紅い奔流を出しながらも、男は痛そうな顔すら見せず立っていたのだから。そして何より驚いたのは、男が懐に隠し持っていたであろう刃物は、ジオが確かに筋まで切った筈の男の右手に握られていたことだ。
背中を切りつけられたジオは、恐怖をその頭に浮かばせてはいたが、流石クール隊である彼はこの敵がどういう能力を持つかを看破した。もう無線機を使うまでもない。ジオは声を限りに仲間に伝えた。
「ジャッカーだ!! ジャッカーがきたぞ!!!」
「えっ!?」
海に向かってゆっくりと砂浜を歩いて行くとき、ある深さに達すると、浮力が自身を包み込み、つと足が底を離れる。
そんな唐突に足場を失ったような気持ちを、原尾は感じた。
自分の目の前には、その手に小さな小瓶をかざしている大野が見える。
病院...の。地下...。ソファに座ってる...。
「浮いたかい?」
彼がそう言うのが聴こえる。どうやらこうなることが正しい反応のようだ。
「今マキちゃんは遊離...自分の中で意識を遊離したんだ。」何かの薬品の匂いがやけに強い。そうか。遊離触媒のイマジノールだわ。「君は君の中で意識を自由に飛ばすことができる。いわば擬似的な転移状態になっているわけだ。」
大野が説明してくれているのが判る。だがこの映像は何だ。原尾の思考は自分の今の状況が把握しきれずに混乱の極みに達していた。自分は確かに何かを見ている筈なのに、それが自分の視覚とは思われない。感覚も同様だ。まるで全身が、不安定な心が作った体感幻覚であるかのように感じられる。それは遠巻きなよそよそしさ、麻痺してしまったように他人の身体に思える。そのくせ、意識だけは妙にはっきりしている。いったい...。
「落ちつけ。そんな奇妙な気持ちが不安なのは判るが、動揺を増幅させては発狂してしまう。」
そんなこと言われても。彼女の困惑は大きくなってゆく。前後左右、上下すらおぼつかないこの状態では...。乗り物酔い?...吐き気が...。
動転が引かないようだな。大野はその身体を小刻みに震わせている原尾を見て思った。このままでは吐いちまう、そうなったら気道が詰まって窒息する。普段自分の身体を守ろうとしている本能的な意識が遊離している状態では、身体制御は最低レベルにまで落ち込むからだ。本来ならゆっくりと慣れて貰いたいところだが、悠長にはしていられない。
「しっかりしろ。君は対特の一員だろう。ジャッカーに負けたままでいいのか。」
「!」
悔しさが原尾の心を満たした。そしてその一瞬、吐き気が収まったことに気付いてハッとした。
「わかったろ。君の意識は今、君の身体の生理作用とは離れた状態にあるんだ。だからマキちゃんが支配されている思考がそのまま感情にフィードバックされる。吐き気も純粋に心の中だけのことだ。意識を別の方向に向ければすぐに収まる。」
怒り。ジャッカー。対特。全滅。集団転移。急務。危機...。原尾の意識はフラッシュバックしながらも、ゆっくりと落ちつきを取り戻していった。そして自分が為すべき事、為さねばならぬ事を再び自覚していった。
原尾は心をしめた。
「...わ...かった...わ...。これ...から、...潜って...みます。」
声は発せられなかったが、唇がそう動いた。大野は原尾が落ち着いたことに一安心したが、彼女が意識潜行を始めると判って厳しく心を引き締めもした。
「気をつけろよ。これから君はジャッカーの記憶に面と向かうんだ。ショックは今とは比べ者にならないだろうが、パニックになったら終わりだぞ。それから、手がかりを見つけたらすぐに浮上しろ。深みにはまって、人がジャッカーに対して抱く本能的な畏怖を目の当たりにしたら、おそらく助からん。」
原尾が微笑んだような気がした。そして、潜った。
大野にはもうを原尾を励ますことしかできないのだ、がんばれと。
「これは大野さんの車の中の映像...。そうか。私は今記憶を過去に向かっているんだ。」
大野から拡声器のマイクをひったくって叫んだときの記憶を見つめながら、原尾は心中で言った。彼女はようやくと自分の体内を遊離した意識で移動することに慣れて来たところだ。そしてゆっくりだが着実に、意識を進ませて行く...。
意識潜行とは、脳内に残っている記憶を見つけだすことである。単純に言えばそれは”思い出す”という思考行為に相当する。だが、意識遊離後の意識潜行でできる事はその捜索の範囲からして比較にならない。何故ならそれは、普段見極めることなどできない無意識の世界を見つめる事が可能だからだ。自分の自我を支えている土壌である、イドの深みを歩き回ることができるからだ。
原尾は二日前の記憶に浸りながら考えていた。ジャッカーの記憶を見つけなければと。
記憶は連想的に行われる。いい国造ろう鎌倉幕府。白紙に戻そう遣唐使。語呂合わせが上手く行くのもそのためだ。よって脳内で必要な情報を集めたいと思ったら、それを暗示するものをとりあえず見つけて、それを足がかりとして辿っていけばよい。
原尾はとりあえず、インターネットの画面を見い出した。このシナプスを辿って...ん? 赤ずきんちゃんではない。逆方向だ...。そこで見つけた情報、何を...何処で...誰が...あった。彼女はそれを見て思った。これがジャッカー、これが私の記憶の中でジャッカーの占める部分なんだわ。
遠く彼女の前には、明らかに他とは一線を画する領域、乃ち、自分が今までに感じたことのない部分が存在していた。言うまでもなく、彼女に入り込んだジャッカーの思考活動の痕跡である。
原尾の身体が必要以上にビクンとはねた。見つけたな。大野は思った。危険なのはこれからだ。
原尾はジャッカーの、成木と万丈の活動の痕跡に足を踏み入れていた。だがそれは、彼女の思っていた以上におぞましいものだった。
意識潜行が普通の思い出す行為と違うもう一つの点は、そのリアリティーにある。それはそうだろう、自意識を直接持っていくのだ。最早それは体験と同じ行為といえる。
そこでは、ジャッカーが自分に為した行為が、今一度自身の目の前で繰り返される。まるで、自分の部屋の中を調べ回っている者たちを手も出せずに見ている気分。それがどういうことなのか、原尾にもじわじわと分かりかけてきた。
原尾が見始めた過去の体験。そこでは、ジャックした瞬間から、彼女にとり憑いた成木の意識が自分を調べ始めているのが感じられた。手足、身体どころの話ではない。転移先の身体を操る事がジャッカーの目的である以上、宿主の細胞の一つに至るまで把握しなければならないのだ。恥部はおろか、記憶までもその前には隠す術はない。
私は...。私は...。
原尾が突然後ろに反り返った。大野は慌ててその後頭部に手をやり、壁に打ちつけるのを防いだ。”精神の陵辱”に触れたんだ。彼は思った。身体を犯されることよりも深い、心のレイプとすらいえるその行為が自分にされたと判って、自虐行為に及ぶ人間もいるのだ。
原尾は顔を手で覆った。まるで心そのものを隠そうとするように。そしてその目からは大粒の涙が溢れる。
屈辱。羞恥。侮蔑。自己嫌悪。彼女を襲っているのはそういった感情だろう。大野は最悪の状況に陥りかけていることを認めないわけにはいかなかった。まずい。このままでは彼女は、膨張した動揺で発狂する。
ジャッカーハンターの必携の術の一つであるイド催眠、大野は確かにそこいらの精神科医よりずっと上手く施術する。今回も、彼のコントロールは決して悪かった訳ではない。彼女が突如として恐慌したのはそうではなく、原尾の見たものが施術の限界を殆ど圧倒的に超える恐怖だったからだ。それはまさしく、原尾に施術するのを大野が苦悩していた原因だったのだ。万一にも彼女に及ぼすであろう恐怖が今のようなものであったら取り返しのつかないことになる。そんな想いが、彼をして最後まで原尾へのイド催眠を躊躇わせていたものの正体だったのである。
大野が想定した中での最悪の事態になりつつあった。この様な場合、イド催眠の術士は、あらゆる手を尽くして被術者の心を落ち着かせなければならない。殆どの場合それは、被術者が心を許す人物なり物体なりを被術者に見せるもしくは認識させることによって対応する。しかし普通、イド催眠をもし万一にも行わなければならない場合でも、それは細心の慎重さを期して何十日もの準備期間を置いたうえで行うものであり、事前調査で対処法を完璧にした上で施術に望むことが大前提なのである。しかし今回ほど急を要する事態では、無論そんな用意をしているはずもない。
今の俺に何ができる? 大野の頭は、可能性を渇望して空回りするばかりだ。何か、拠り所を作らなければ駄目だ。しかし、彼に判ろうはずもない。原尾の支えになるものが、彼女にとっては何なのかが。
つと、原尾の左手だけが彼女の顔から離れた、それは小刻みに震えながら、縋るように空を掴む。
「...。ええい。俺にはこんなことしかできんのか。」
大野には、その手に己の右手を重ねることしが精一杯だった。
精神の涙が原尾の心を覆っていた。何というおぞましさ、何という恥辱、彼女の紅潮した心はみるみるうちに冷静さを失っていった。そうしている間にも、二人のジャッカーの愛撫に等しい感覚がまた彼女を襲う。
いや...。小さく悲鳴をあげる原尾。他人が自身に押し入ってきた衝撃がこれほどのものとは考えていなかった彼女は、パニックの一歩手前だ。逃げだそうともがくが、ループに達した記憶は、迷路と化してそれを拒む。
思考の勢いが増してゆく、動揺が増幅するのが危険なほど明らかに感じられる。このままではいけないことは分かっていても、今ではもう自分の存在を固定することさえ危うくなりかけている。せめて足がかりさえあれば...。
「!」
原尾はその時、今の自分を覆っている自分と他人の狂気の感情の大渦の中に、一つだけ異質なものがあることに気付いた。ほのかに暖かい、何かがあるのを...。
自分? いや、私のものでないことは本能的に判る。他人? でも誰の。押し入って来たジャッカーでないことは確かだ。この暖かさは心に強引に入り込んでいるわけじゃないもの。私のことを案じてくれているその光は、心の外からでも強くここまで届いている...。これは...大野さん?
原尾の痙攣が止んだ。その表情にも落ちつきが出てきたように見える。あまりにも突然のことに、大野には訳が分からなかった。
「こ、これは一体。」
彼には呟くことしかできない。原因が分からないからだ。認めたくはないが、こいつは奇跡か、御都合主義か。
が、神でも作者でもどっちでもいい。とにかくマキちゃんが山は越えたんだ。大野は胸を撫で下ろした。だが、原尾を落ち着かせたのが自分であることには、残念ながら気付かなかったようだ。
彼は思った。これなら無事に戻ってこれるだろう。心の最深部に迷い入ることも無さそうだ。
大野からの光があることに、原尾は自分で思っている以上の勇気を得て、他人の記憶、陵辱の空間を動くことができるようになっていた。
「私が発狂してしまったらどうなるのよ。集団転移を黄泉やクールが手に入れたら...。」
原尾が自身に過量の責任を負わせることによっても精神の安定を図っている事は言うまでもない。もう彼女がパニックになることはあるまい。
彼女は落ち着くと、ジャッカー二人の己の中での活動痕跡を見比べてみた。成木は彼自身の思考は殆ど残っていない。名うてのジャッカーとしての成木の実力は、イド催眠による探索すら警戒しているという、そんなところにも現れている。一方の万丈の方は、人工転移というだけあってその活動の至る所に痕跡を残していて、中には読み取ることができる思考すらある。それは...。
大野は原尾が何か口頭にのぼせていることに気付いて、耳を寄せた。彼女は呟いていた。
「常盤修司...。万丈司。...最土修...。」
大野はその目を驚愕で見開いた。それはこれまでに彼が得た情報が、彼の中で大きな音をたてて組み変わっていく事に起因していた。
三人の名前。その意味するものは何か。
自分の記憶の中での万丈の足跡を大体調べ終えた原尾は、イド催眠で行われているこのサイコダイブから戻ろうとしていた。
今では彼女は、さっきまでのパニックすんでの恐慌状態が嘘のようにふっきれて、その行動に余裕さえ出てきていた。
「あっちが出口ね。」
原尾がその意識の身体を、海馬体の門をくぐり抜けることて外に出そうとした時のことである。彼女はその背後にふと、何か懐かしい声が届いてくるのを感じていた。
「何?」
原尾自身にもすぐには心当たりが出てこなかった。それはあまりにも遠くからの声のように微かなものだったからだ。
原尾は大脳に戻る海馬門へ向かう歩を止め、逆にその声のする方向へ再び沈んでいった。幼児体験と本能衝動が織りなす、原初の世界で形作られた脳幹の世界へ...。
彼女は知らない。彼女が今迷いつつ辿るそれが、大野の懸念していた、自身の心の中でも最も深い深層意識に通じる道であることを。そしてジャッカーの連想から辿ってゆくその道は、間違いなく彼女が本質的に持っているジャッカーへの想いにつきあたるのだ。
多くの人が発狂するほどの畏怖でつくりあげているとされる、その人のジャッカーへの本音に...。
どのくらい降りていったのだろう。それすらも忘れるほどの深さに達したとき、原尾は唐突にさっきの声を聞いた。
「...ちゃん。...マキちゃん。」
こ、この声は!! 原尾はその幼き声を聴いた途端、自分の意識だけで構成されているいわば心の体が、いつの間にか幼いものになっているのに気付いた。
だが彼女は既に、そのことに驚きはしなかった。思考すら、幼くなっていたからである。
「マキちゃん。」
幼い少女が立っていた。年齢は、今の原尾と同じ三~四歳であろうか。にこやかにその手を出している。
「遊ぼ。」
「うん、でも...。」
「お外で遊ぼうよ。」
螺旋を描くように、大人の原尾がそれを見ていた。あの子は...私...そしてその向こうにいるのは...、さっちゃん!!
それを思い出したとき、彼女はめくるめく様な感覚がした。ああ。彼女は、彼女は...。
「娘はいつも独りで遊んでいますの...
「おうちに閉じこもりっきりで...
「マキ、少しはおんもへ出なさい...
「誰と話しているのかしらあの子...
さっちゃんが塞いでいた穴から、言葉と共にいろいろな記憶が溢れ出してくる。原尾が小さい頃は病弱だったこと。人見知りが激しく、家の中ばかりで過ごしていたこと...。
でもどうして...そんな私にどうしてお友達がいたの?
疑問を湧出する原尾は、ここでこそ、思い出せたあることにハッとした。
こんな深いところにある他人の記憶...。ジャッカーの残留記憶...。
「お嬢ちゃん。怖くないからおじさんにちょっとお顔を見せてくれないかな。」
その男は、幼い彼女に顔を近づけてきた。原尾はその、何処の誰かも知らない男の顔を見ても、不思議と恐さを感じなかった。
「いい子だ。お熱がないかおでこを調べるよ。」
男はそう言って彼女の額に自分の額をあてた。
転移。
「ど、どうして? どうしておじさんここにいるの。」
幼い原尾は不安になった。だって、そこは自分の他は、おとうさんやおかあさんでさえ入って来たことのない場所だったからだ。
「ごめんよ。お嬢ちゃんがあんまり寂しそうだったんで、心配して見に来ちゃったんだ。」
「そんなうそよ。マキさみしくないもの。さっちゃんがいるから。」
原尾は逃げ出した。さっちゃんといれば寂しくない。だからこのままでいいんだ。
だが、彼女が必死で逃げた先に、その男は回り込んでいた。
「お嬢ちゃん。君は本当に寂しくないのかい。外の世界にはあんなにたくさんの人がいるのに、その人達と楽しくお話しできたらどんなにいいだろうって、そう思わないかい。」
原尾はまた逃げようと後じさる。だがその時、おじさんの背後から女の子が出てきたので、彼女は足を止めた。
「さっちゃん!」
だがさっちゃんは、いつもと違って悲しい顔をしている。
「どうしたの。あそびましょ。いつもみたいにあそびましょ。」
原尾はさっちゃんに呼びかけた。でも返事がない。
悲しくなった原尾は、さっちゃんがいつもと違うのはおじさんのせいだと思い、力一杯勇気を込めて男に言った。
「おじさん! さっちゃんに何をしたの。」
男は、穏やかな表情を崩さずに言った。
「さっちゃんはね、確かにいつもはマキちゃんと遊んでたけどね、だけどほんとはすこし悲しかったんだよ。なぜって、マキちゃんがいっつもお家の中で遊んでるからね。」驚く原尾に、男はもう一度言う。「さっちゃんは、マキちゃんがお外で遊ぶところが見れなくて、ほんとは悲しいんだよ。」
原尾はおそるおそる言う。「ほんと? さっちゃん。」
さっちゃんはこくりと頷いた。
とても長い間、原尾は考えていたが、やがて小さな声で言った。
「さっちゃんがよろこんでくれるなら、おそといってもいい。」
「ほんと?」
さっちゃんが言った。原尾は彼女に小さく頷いた。
「ありがとう。」男が言った。「さっちゃんも嬉しがっているよ。じゃあ早速、二人して遊ぶといいよ。」
「お外で遊ぼう!」
「うん!」
さっちゃんの差し出した手に原尾が触れたとき、不思議なことが起こった。さっちゃんの身体が原尾の身体に吸い込まれて行くのだ。えっ、えっ。どうして、どうなってるの? とまどう彼女を光が包む...。
眩しい光が収まったとき、さっちゃんも彼女の身体に収まっていた。
「え、どうして、さっちゃんどうして?」
彼女は動揺した。今起こったことが何なのか理解できないのだ。
男はいつの間にか原尾の前にしゃがんでいた。そして彼女の方に手を置いて言った。
「良かったね。これで君たちはいつも一緒だよ。」
男の目が優しさに満ちていたから、幼い原尾はまだ自分の身に起こったことが理解できなかったが、それでも落ち着きを取り戻し、そして笑顔を取り戻していった。彼女は呟いた。「いっしょなんだ...。」
目を閉じた原尾の瞼にはいつまでも、笑顔のさっちゃんが焼き付いていた...。
こ、これは。原尾はハッとなった。転移治療だわ。
ジャッカーの中には、その力を活用して精神病の治療をするものがいると聞いたことがある。転移療法士と言われるそうした者たちは、患者の心に直接入り込んで、患者の病理を突き止めて治療するのだ。
原尾は両親に、自分は小さい頃は引っ込み思案だったと聞いたことはあったものの、不思議なことにその記憶はまるでなかったのだ。彼女の知っている自分は、活発で、社交心があり、友達の大勢いる明るい性格というもので、そんな自分がどうして引っ込み思案だったことがあったんだろうと、いつも不思議に思っていたのだった。
だが今となってはすべてが分かる。彼女は思った。私は小さい頃、臆病な自分と、それが生み出した架空の人物像を持っていたのだ。さっちゃんと呼ばれるその疑似像には、臆病な方の自分にはない抑圧された陽の性格が映し出されていた。そして転移療法士は、そんな二つの心を一つにすることによって、今の私という一人の人間にしてくれたのだ。
イド催眠でなければ決して思い出せなかった過去の真実。彼女は思いがけぬこの出来事に、その意識の中で感動の涙を流していた。
多くの人間達がジャッカーに対する本音として、本質的な嫌悪と恐怖しか持たない中で、彼女は自分の心を打つほどの優しいものを持っていた...。
ああ、今では。彼女は思った。今では私が対特にいる訳も分かる。彼らに対する立場こそ逆転しているけれど、本質的に私は彼らへの憎悪から対特にいるわけではなかったんだわ。
私は周りに流されてこの職に就いたのではなかったのだわ。私は無意識にせよ、こんな素晴らしい能力を持ったジャッカー達と接する仕事を自分で選んでいたんだわ。
幸福な邂逅を為した彼女の決意と願いが報われるのは、現実ではまだまだ先のことのようである。
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第十三章へつづく
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精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。