1
暗い岩場に置きざられて蟲のたかった鼠の死体の尻尾を摘んで拾い上げ、猫車に乗せた。湿った死臭のするその肉は強張り、尻尾は鍵尾のように硬くなっていた。死んでから数時間といったところだろうか、まだ腐っていない新しい死体だ。荷物の増えた猫車を押して、私は再び礫でごつごつした不毛の道を進んでゆく。目的地へ向かう間、私の僅かな足音と、猫車が時々礫を踏んで車輪と軋んだ音を立てる以外には、私のぴんと立てた自慢の耳に、音らしい音は入らなかった。犬の息遣いも、蝙蝠の鳴き声も、蟲の足音も無い。ここらで見つかる肉は全て死んでいるに決まっていた。とても静かなこの一帯では、死体が一番多く見つかった。この場所はどんな動物も近づかない。ここの管理を任されたヤタガラスと、そのカラスに燃料を渡す私以外は、誰も。
昔、火焔地獄と呼ばれた場所へ出た。ずっと暗くて狭い通路だったのが突然開け、眩しいくらいに明るくなった。岩の高い天井は、中央で轟々とたぎる炎によって、荒々しい岩肌の陰影を揺らめかせている。
彼女は燃えたぎる火焔地獄の前で腕を組んで立っている。私はその隣に猫車を置いた。彼女は燃料と私を一瞥し、また炉を見つめた。私は肉を炉の脇の入れ物に置き、その暑くて眩しい部屋を後にした。二人とも無言だった。
あの事件の後、さとり様はお空を叱る事も無く、むしろ以前に増してお空に優しくなった。彼女はおそらく、お空が何も言われずとも反省していると分かっていたのだろう。逆にお空が変わらない様子であれば何か躾のようなことをやったのだろう。お空はそんなさとり様の態度に萎縮したのか、以前よりも大人しくなり、職務をより忠実にこなすようになった。それと関係あるのかは分からないが、ついでに私と話すことも少なくなった。
地底の中でも特に奥底にある私達の作業場は、他に殆ど誰もいない。目に触れる犬も猫も鼠も蟲も死体ばかりだった。このままでは言葉を忘れてしまいそうだった。
「ねえ、お空」
本日二回目の燃料の供給の時、話しかけてみた。
「なに?」
お空はこちらに大きな翼を向けたままだった。
「たまには遊ぼうよ。少しくらいならきっと平気さ」
「悪いけどお燐、私はこれから目を離すわけにはいかない。あの方にも悪い」
お空は時間を掛けて、そう言った。
2
「たまには羽を伸ばしてみてはどうですか。お空もお燐もこの頃よく働いてくれていますから」
後日の朝食時、私達二人は唐突にさとり様にそう言われた。私もお空も驚いたが、さとり様の計らいを無碍にするわけはなかった。
「休暇をもらったはいいけど、一体何をしようかね。地上にでも行こうかね」
地霊殿を出て、暗い地底の岩の天井を見上げながら隣でぼうっと突っ立っているお空に聞いた。
「地上? 地上に行っていいの?」
「妖怪も鬼も行ってるよ。地底と地上はちょっと前から随分行き来が気楽になったのさ」
「へえ」
お空はずっと炉の前に居て、外部の事情を知らなかったようだ。
3
緑の匂いのする風、円くて白い太陽、白い雲、そして蒼い、蒼い、とても蒼い空。
そこには明らかに地底とは違う風景が広がっていた。
私達はしばらく幻想郷の景色の前で立ち尽くしていた。
「地上ってこんなところだっけ」
空を見上げて、お空がつぶやいた。
「明るいね。目が痛いよ」
私の目はきっと線のように細くなっていた。
「天井が無いわね」
「ずっと上は空と宇宙さ。さらにその向こうがどうなっているかは誰も知らない」
「飛ぼう、お燐」
空を見たまま、彼女は私の手を握り、大きな翼を広げた。
瞬間、彼女は草の地面を蹴り、私の体も勢いよく持ち上がる。
肩が抜けそうな衝撃と、力強い彼女の手を感じた。
下を見るとそれまで二人がいた地面がぐんぐん離れていく。
上を見ると強烈な颶風が私の顔にぶつかり、耳がぺろりとめくれた。
お空は翼をはためかせ、それと一緒にまた体が加速する。
私が飛ぶのよりずっと強い力だ。
風に耐えられず薄目で見ると、彼女はしっかり目を見開いて真上を向いている。
その先には、太陽があった。
声を掛けたかったが、口を開けられなかった。
彼女はまた上を目指して翼をはためかせた。
強い風に、私はとうとう目をきつく閉じるしかなくなった。
目を閉じると、彼女の手の温もりだけが意識に残った。
しばらくして風が止み、体にかかる衝撃が無くなった。
目を開けると、私達は真っ白な円い雲のずっと上にいた。
手を繋いだまま、お空は私の隣に浮いていた。
「風を翼で上手くかけない。私にはこれ以上行けないみたい」
空気が薄くなっているらしかった。
「ねえお空、戻ろう。ここは寒すぎる」
真夏だというのに、目玉が凍りそうな冷たい風が吹いていた。
「もう少し」
お空は今度は雲の下を見下ろしていた。
眼下には緑の山々に湖、人間の里、はるか遠くに赤い屋敷と神社が見え、もっと遠くにはなだらかな峰がどこまでも続いている。
「きれい」
お空がつぶやいた。
4
大きな向日葵畑を空から見つけ、私達はそれを見ながら適当な石に座っていた。地上に降りると強い日差しのお陰で、冷え切った体が少しずつ温まってきた。
「こんな風に地上に来られるとはね。もう二度と無理なんだと思ってた。でもそんなこと無かったわね」
お空はさとり様に作ってもらったおにぎりを頬張りながら言った。
「でも、お空がああしたから、こうなったんじゃないの」
「そうか、そうだね」
「地上に来たかったの?」
「うん」
「なんで? 地霊殿は居心地良くない?」
「あそこはすごくいい所だし、さとり様も良くしてくれけど、カラスには狭いのよ」
確かに先の様にお空が飛んでいる所を、私は見たことが無かった。
「でもまあ、気が晴れたわ。いつでもあんな風に飛べるなら、もう望むものは無い」
「もしかして地上を侵略しようとしたのは、そのためだったの?」
「さあ、ただ調子に乗っていただけかも。自分でもよく分からない」
5
また二人で炉の世話をする生活に戻った。
私は猫車を押して燃料を探し、お空は炉の前でずっと炎の様子を見ていた。その日は燃料のストックが潤い、お空の隣でずっと炎を見つめていた。
「この炉は、滅多なことじゃおかしくはならないのよ」
ふと、お空がいたずらっぽい顔で言った。
それから私達はこっそり地上へ抜け出して、再び地上の緑の景色を目の当たりにした。
「今思えば、地上の者が羨ましかった」
風の吹く名前の知らない峰の頂で、二人で足を抱えて座っていた。そこからは幻想郷を一望できた。
お空の顔は、つまらなそうにも、寂しそうにも見えた。立派な白と黒の羽は、今は力なく垂れている。
「結果としては、地上と地底の行き来がし易くなって私は嬉しい。でもやり方は良くなかったわね」
しばらく眺めて、私達は仕事に戻った。
「お空、それにお燐。昨日はどちらへ?」
当然、さとり様にはばれていた。
6
おいそれと抜け出すわけには行かなくなり、私達は今日も調子の崩さない炉の前にいた。燃料は山になるほど集まっていた。燃料は放って置いてもすぐに乾燥し、腐臭はほとんどしなかったが、見栄えが悪くなるのでそれらを保管する箱を自分で作って炉から少し離れた場所に置いた。やることの無い私は猫の姿になり、炉の前で腕を組んで立つお空の隣で箱座りをしていた。
お空の顔は炎に赤く照らされ、その目は火焔地獄跡をじっと見つめている。時々瞬きをしたり、唾を飲む以外に彼女は動かなかった。
私は一つ思いつき、その場を一度出て、地霊殿から水筒を持ち出して戻った。
「ありがとう、お燐」
「もっと持ってくるよ」
ここにはいくら水があっても多すぎることはなさそうだった。
「確かに、お空はずっとあそこに居るのは大変ですね。明日からはゆったりできる椅子と甕いっぱいの水を用意しましょう」
その日の夜、さとり様は私にそう言った。
7
「お燐もお水、飲んでいいですからね」
そう言い残してさとり様は地霊殿へ戻った。
労働環境を改善されたお空は、さとり様が置いていった椅子に腰掛けながら、やはり炉を見つめていた。その脇にはお空が運んだ甕が置かれていて、甕の蓋にはひしゃくが置いてあった。
「さとり様は、優しいね」
お空に話しかけた。
「そうだね。えへへ」
お空は笑顔だった。
「そんなに嬉しいの?」
「嬉しいよ。お燐が言ってくれたんでしょう?」
「ん、まあね」
見透かすような目で言われて、私はつい彼女の屈託の無い顔から目を逸らしてしまった。
8
後日、最近は火焔地獄跡の様子も落ち着いているということで、二人で地上に出られた。
「またいい天気だ。あたいらは運がいいね」
「ねえお燐、また付き合ってよ」
地底から出てきてすぐお空は私の手を取り、また彼女は空に飛び上がった。
私は腕を引っ張られるままに付いていった。
風の強い雲の上、凍てつく風の吹く空で、私はお空に抱きしめられた。
「地底だと全てがばれるようでやりにくかった。ここなら誰もいない。さとり様もいない」
「我慢してたの?」
「うん」
私は目を閉じた。
寒い空の上で、お空の唇の感触が温かかった。
9
いつものように火焔地獄跡に二人で居た。
多分、さとり様にはばれていたけれど、隠すつもりも無かった。
私達は炉の前で抱き合っていた。
私はお空の腰に手を回し、お空は私の肩を抱いていた。
彼女は大きな白と黒の翼を広げて、私を炎の熱から守ってくれているようだった。
「私が力を手に入れた時、止めようとしてくれたんだよね」
耳の後ろで彼女の口が言う。
「あのままじゃ、お空が鬼に退治されそうだったから」
「お燐は私を守ってくれた。だからこれからは、私がお燐を守りたい」
「うん、ありがとう」
私はお空を抱く手に力を込めた。
古い付き合いだったが、いつからか関係がどこかよそよそしくなっていた。
嫌いになった訳では決して無い。それは互いに分かっていた。
そんな時、あの事件が起こって私達に変化があったようだ。
その時はあまりに当然過ぎて気付かなかったけれど、私にはやはり彼女が必要なのだ。
「さとり様にはきっとばれてるよ」
「いいよ。さとり様も、きっと分かってくださる」
轟々とうなる火焔の音を聞きながら、私達はしばらくそのままでいた。
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お空は情が深いという妄想。