「キツいの」
それだけ言って夕方のカウンターにゆっくり座った。無言のバーテンが優雅な動きでジンの瓶を摘み上げるのを見届け、私は胸元から一枚の写真を取り出した。写真に写っているのは、顔に幼さを残し、もみ上げを赤いリボンでくくった黒髪の少女だ。私の好きな、屈託の無い笑顔をしている。
バーテンからマティーニを差し出されると、私は写真をカウンターにそっと置き、グラスをその上に掲げた。
「乾杯」
一気に飲み干し、グラスを突き返した。バーテンはグラスを受け取ると、次のカクテルを作り始めた。
「友達なんです」
シェイカーを降りながら、バーテンはちらりとこちらを見た。
「もう十年になります」
慰めが欲しいわけじゃない。ただ誰かに聞いて欲しかった。幻想郷に素敵な巫女がいたことを、少しでも誰かに覚えていて欲しかった。
「綺麗な方ですね」
若いバーテンは写真を見ていた。
他に客はいなかった。この日は皆、他の場所に行くから。
「彼女がいなくなってから、幻想郷は変わりました。当時は彼女ほど強力な結界を作れる人なんていなかったから、外から色んなものが入って来ました。このバーみたいに」
グラスを拭いている彼は、ちらりとこちらを見て、すぐにすまし顔に戻った。
私は二杯目のマティーニを一口舐めた。
「それから幻想郷は発展しました。色んな技術や文化が入って来て、昔よりずっと便利になりました。でも、私は全然嬉しくないんです。昔の景色と一緒に、彼女も幻想郷から本当にいなくなってしまいそうで」
チェリーを摘みあげて、何もせずまた沈めた。
「霊夢さん、私、あの頃よりずっと、お酒飲めるようになりましたよ」
私は物言わぬチェリーに語りかけた。
重く篭った鈴の音が聞こえ、重いドアの開く音が聞こえた。軽やかな足音がして、その客は私の隣に座った。
「やっぱりここに居たのか。墓、行かないのか?」
黒いドレスを着た魔理沙だった。
「そこに霊夢さんは、居ませんから」
彼女はマティーニを頼み、私と同じように乾杯した。
「十年経った。けど、私は未だに信じられないよ。次の瞬間にでも、騒々しくあそこのドアを蹴破って帰って来るんじゃないかって気分だ」
「私もです。霊夢さんならどんな大変なことでも、何てこと無いような顔であっさり解決しちゃいますよ」
「今回はあいつもてこずってるんだな」
彼女は自嘲的に静かに笑った。
「他の連中は墓なんか建てちまったが、あんなのがあったらあいつも帰りずらいんだろうな」
また鈴の音が聞こえた。落ち着いたハイヒールの足音が近づいてきて、魔理沙と反対側の隣に座った。
「やっぱり二人ともここにいたのね。博麗神社に行かなくていいの?」
水色のドレスを着たアリスが私達に聞いた。
「あそこに霊夢は居ないからな」
魔理沙は私と同じ事を言った。
「騒ぐ気にならないんです」
霊夢が居なくなってから、毎年決まった日に集まり、博麗神社で宴会をすることになっていた。
「いつも二人が居なくて、他のみんなも物足りなそうにしてるわよ。今年は出てもいいんじゃない?」
「あんな風にわざわざ騒ぐことなんて無いさ。いつも通りにしてた方が、あいつも帰って来やすいだろ」
魔理沙はマティーニを一気に飲み干した。
「ねえ魔理沙、そのことなんだけど」
アリスが言いずらそうに言葉を止める。
「霊夢は……」
「黙れ」
魔理沙は低い声でアリスの言葉を遮った。
「もういいでしょ? もう十年よ。いつまで縛られているつもりなの?」
アリスは違う切り口で言葉を続けた。
「黙れよ」
魔理沙は今度はか細い声だった。
「私はあなた達が心配なのよ」
「だからなんだよ」
苛立った声だった。
「お墓参りして、気持ちを前に向けるのよ。じゃないと、いつかあなた達がダメになるわ」
「死んでない奴の墓参りなんて出来るか」
魔理沙は新しいグラスも一気に飲み干した。
二人の声は、私を挟んで少しずつ荒くなっていた。
「萃香やパチュリーやにとりも心配してるわ、あなた達のこと」
「全部妖怪じゃねえか。バカみたいに長生きする奴らに人間の気持ちが分かるかよ。アリス、お前だってそうだ」
魔理沙は吐き捨てるように言った。
その言葉に、アリスの顔が引きつった。
「そんな言い方ってある!? ひどいよ魔理沙!」
「帰れよ。酒がまずくなる」
アリスは立ち上がって肩を震わせていた。
私はそれからアリスの顔を見られず、ただうつむくしかなかった。
「紫が言ってたじゃない。霊夢の強力な結界にエラーが起こったから、この世のどこに飛んだか分からない。外の世界の外国かもしれないし、海の底かもしれないし、火山の中かもしれないし、月かもしれないし、何も無い宇宙空間かもしれない。もしかしたら地球の真ん中かもしれないし、次元の違う世界かもしれない」
「それくらい、あいつならなんとかするよ」
「それくらいって何よ? 生きている可能性は何億分の一も無いって紫が言ってたじゃない!」
「あいつならなんとかすんだよ」
「魔理沙、もうやめてよ。見てて辛いのよ」
アリスはカウンターに乱暴に両手を置いた。
私のグラスの水面が揺れた。
アリスの手の間に、雫が落ちたのが見えた。
「頼むからほっといてくれ」
魔理沙はまたマティーニを一気に飲み干した。
「アリスさん」
二人が黙ったので、私が口を開いた。
「霊夢さんは生きてます。きっと帰ってくるのに時間がかかってるだけです」
アリスは私の顔を見て、口を押さえたかと思うと、背を向けてバーを出て行った。
私は霊夢の生存を信じていたが、その可能性が絶望的なのも知っていた。魔理沙もきっと同じだった。けれど、どうしても認めたくなかった。自分が認めなければ、この世のどこかに霊夢が生き続けるような気がした。
私達は一度も墓へ行っていなかった。墓だって、それを自分の目で確かめなければ、この世に存在させずにいられた。
全ては気休めで、ただの嘘なのも知っていた。自分達の愚かさも痛いほど理解しているつもりだった。
「アリスに悪いことしたぜ。あいつが言うように、私は本当にもうダメなのかもな」
魔理沙は、チェリーを持ち上げて、それを悲しげな目で見ていた。
私は慰めの言葉が思いつかなかった。私も魔理沙と同じなのだから当たり前だった。
「どこ行っちまったんだ、あのバカ」
魔理沙は赤い顔で鼻をぐずつかせ、泣いていた。
夜になって、少しずつ他の客が入って来るようになった。
「霊夢……」
魔理沙はぼんやりした表情でその名前を呼ぶ以外に喋らなかった。
さすがに飲み過ぎらしかったので、私は魔理沙を背負ってそのバーを出た。
満月の下、人間の里を出て魔法の森を歩いていく。
知人はみな博麗神社にいるので、誰にも会わなかった。
陽が落ちて真っ暗になった森を、魔理沙を背負って歩いて行く。
遠くで不吉な、妖怪の鳴き声がした。
「霊夢……うっ……うっ」
魔理沙は私の背中でまた泣いていた。
彼女は同じことを何度も思い出して、その度に涙を流しているようだった。
数年前に彼女の家に招待された時、そこにある異常な数の酒瓶に驚いたことがある。
彼女はまだあんな量の酒を飲み続けているのだろうか。
家族がいるおかげか、私はそこまで強烈な思いに苛まれる事は無かったが、魔理沙はそうは行かなかったのかも知れない。
「人間みっけ」
突然、目の前に夜雀が現われた。
「こんな時間に外をうろついちゃ駄目だよ。そんな悪い子は食べちゃうよ」
何てこと無い相手だった。
「私と戦ったらあなたは確実に死にますよ。大人しく巣に帰ることを勧めます」
「もしかして山の上の巫女かな? 食べたらとっても力がつくね」
「しょうがありませんね」
私は魔理沙を脇の木にもたれさせ、懐から札を取り出した。
夜雀の前に戻ると、私は短い詠唱をして、束になった御札を夜雀に投げ付けた。
札は夜雀を取り囲んで輪になった。
「えへへー。いいのかなそれでー」
夜雀は、へらへら笑った。
「何を企んでいるのかは知りませんが、そのまま消して差し上げます」
「ほらほら後ろ」
夜雀は札の輪の中から、その長い爪で私の後方を指差した。
そこにはもう一匹の夜雀が、魔理沙の肩を強靭な脚で掴み、空高く飛び上がるのが見えた。
魔理沙はぐったりしていた。
「魔理沙!」
呼びかけても反応が無かった。
「この人間すっごく酔ってるみたい。今落としたらどうなるのかな?」
二匹目の夜雀が歌うように言った。
「やめてください!」
「もともと食べる気なのに、やめる義理なんて無いよ。それにあなたは私の同胞を数え切れないくらい殺しているよ」
「お願い。やめて」
「それならあなたを食べさせてよ」
輪の中にいる夜雀が言った。
「知ってるよ。巫女は人質を取られると何も出来なくなるよ。十年前の巫女もそうだったよ」
一匹目の夜雀が笑うように言う。
「なんでそんなこと知ってるの?」
心臓が一つ大きく鳴った。
「妖怪の間じゃ有名だよ。あの鬼のように強かった巫女の死に方」
二匹目の夜雀がふざけるように言う。
「博麗の巫女は、もう一人の巫女を人質にされて負けた」
一匹目の夜雀が、私の目を覗き込んで言う。
「情けない」
私は夜雀の顔を素手で殴った。
硬いくちばしに当たって、手の甲が擦りむけた。
「あはは。怒ったよ。巫女なのに怒ったよ」
夜雀は嫌な声で笑っていた。
「そろそろ飽きたから食べるよ。心臓をこのクチバシで一突きにするよ。ボクは優しいね」
自分が霊夢と同じことをするのが、少しだけ誇らしかった。
でも、これは自分の未熟が招いた結果。
……霊夢には到底かなわなかった。
「魔理沙さんは助けてくださいよ」
それだけが、最後に気になった。
「もちろん。人間みたいに嘘をつく夜雀はいないよ」
「それならいいです」
私は目を閉じた。
……覚悟して待っていたが、いつまで経っても衝撃が来なかった。
「あんたもまだまだねえ」
懐かしい声がした。
夢から覚めるような気持ちで目を開くと、赤い装束と、長い黒髪をなびかせた後姿が目の前にあった。
「後輩いじめた落とし前、きっちりつけてもらうからね!」
私は彼女を知っていた。
背が高くなって、髪もずっと長くなっていたけれど、その後姿が誰か、本当にはっきりと分かった。
「ほらあんたは魔理沙の所行きな」
その人物は背を向けたまま後ろを指差した。
そこには気絶した夜雀と、相変わらずぐったりしている魔理沙がいた。
「くやしいなー。うまくいくと思ったのにー」
夜雀は一目散に深い森に逃げ出した。
霊夢は目にも留まらぬ速さで、お札を一枚、木々の間に消えゆく夜雀に投げつけた。
瞬間、白い閃光が起こったかと思うと、そのまま静かになった。
気絶したままの夜雀に同じくお札を投げつけると、夜雀は激しく発光し、音もなく消えた。
「早苗はまだ未熟なの? そんなんじゃ安心して旅行も出来ないわね」
彼女は強気にあふれた不敵な笑みだった。
言いたいことは山ほどあったはずなのに、何をどう話すべきか、全く思いつかなかった。
「霊夢さん」
なんとかひねり出した最初の言葉は、彼女のその名前だった。
「あら覚えていてくれたの。嬉しいわ」
「忘れる訳ありません。霊夢さんのこと、ずっと待ってたんですよ」
「泣きべそかくほど嬉しかったの?」
霊夢は意地悪っぽく言った。
私は知らない間に涙を流していた。
「し、失礼しました」
一筋の涙を袖で拭った。
「でも、どうして? いえ、それより今までどこにいたんですか?」
魔理沙の家で、霊夢と二人で勝手に芋焼酎を飲んでいた。
家の主はすぐ近くのベッドに寝かせた。
「話せば、本当に長くなるわ」
霊夢は遠い目をした。
十年前、霊夢は私と共に妖怪退治の以来を受けた。
そこで私の不手際によって霊夢が追い詰められた。
その時霊夢は、幻想郷を外と隔てている結界を一時的に解除した。
それによって幻想郷の概念を一時的に壊し、再びそれを構築する際に、その妖怪だけを幻想郷から消してしまうという手段で私を助けようとした。
しかし幻想郷を構築するための膨大な演算処理の途中でエラーが起きた。
それは多分、霊夢が私に気を取られていたからだと今は思う。
エラーの結果、妖怪は消え去り、私も誰もが助かった。しかし霊夢の姿は幻想郷から消えていた。
紫は霊夢の行き場所に着いて、皆目見当がつかないと言った。
それは、この世にあるどんな座標位置にでも出現する可能性があるという意味だった。
だから霊夢が生存している可能性は、奇跡が起こらない限り、ほぼゼロだった。
「とりあえず地球上に出たのは幸運だったと思うわ。それが全てと言ってもいい。この通り、時間はかかったけど帰って来られた」
霊夢は芋焼酎を私の枡に注いだ。
「本当に長かった。長くて長くて、何回も外の世界でずっと生きようかと思ったわ」
私は霊夢の枡に酌した。
「でも、やっぱりここが一番落ち着く」
霊夢は酒を静かに口に流し込んだ。
「大変だったわよ。最初は砂漠に出て、キャラバンに助けてもらえなかったら確実に干からびてたし、大体、外の世界ではこの場所を知ってる人なんて全くいないし、幻想郷が日本っていう国にあるのも知らなかったもんだから、どうやってここを探り当てるのかも全然分かんないのよ」
霊夢は滑らかに話し出した。
見た目はずっと大人びて色っぽくなったが、その話し方は、昔の霊夢と全く変わっていなかった。
「で、なぜか空を飛べないからどこへ行くにも車とか飛行機とかなんかすっごい乗り物を使わなくちゃいけなくて、そういうの全部にお金がかかるのよ。しょうがないから、やったこともない仕事してその日その日の食い扶持探してちょっとずつ路銀稼いで、なかなか移動できないのよね」
ベッドで寝ている魔理沙が声を上げた。
霊夢はマシンガンのようだった声のトーンを下げた。
「色々あったわよ。たくさん勉強になったのは、まあ、良かったけど」
霊夢は魔理沙の寝ているベッドに腰掛けて、魔理沙の顔を撫でた。
「あなた方は変わりないみたいね」
「あの、霊夢さん、いつ幻想郷に?」
「ついさっきよ」
「博麗神社には行かないんですか? 今ならみなさんあそこに居ますよ」
「今日は何かの祭りだったかしら?」
「霊夢さんが居なくなった日から、毎年の今日に供養の為に宴会してるみたいなんです」
霊夢は吹き出した。
「あはは、いかにも連中が考えそう。本人が生きてるってのに。今度お灸を据えてやらないとね」
「神社には行かずに魔法の森へ?」
私は素朴な疑問を聞いてみた。
「うん。一番最初にこの子に会いたかった。この子はきっと今でも私のことが好きだから、驚かせてやろうと思ってね」
霊夢は魔理沙の頬を人差し指でつついていた。
「そしたら本当に会えたけど、あんな場面に遭うことは考えてなかったわ」
霊夢はベッドの上で、枡の焼酎を静かに飲んだ。
魔理沙が目を覚ました。
「おはよう、魔理沙」
霊夢がその顔を覗き込む。
魔理沙は無表情で硬直していた。
「帰ってきたわよ」
魔理沙は突然、勢い良く霊夢に抱きついた。
「幻でもいい! いつもの夢でもいいから、消えないでくれ! お願いだ!」
霊夢の胸に顔を埋めて、魔理沙は叫んだ。
背中に回した腕で、強く霊夢の体を締め付けているのが見て分かる。
「今度の幻は消えないわよ。安心しなさい」
霊夢は、篭った鼻声で名を呼び続ける魔理沙の頭を撫でた。
「博麗の巫女には戻れないかな。代わりはいくらでも居るでしょうし」
翌朝、三人で朝食を取っていた。
「だからしばらく魔理沙の家に泊めてくれないかな」
「ああいいぜ」
魔理沙は屈託の無い笑顔だった。
思えば、魔理沙のこんな顔を見たのはここ数年無かった気がする。
二人の笑顔を見ていると、あの頃の楽しかった記憶が次々に思い出された。
いつもヘラヘラして一見不真面目だけど、本当は誰よりも真っ直ぐで、誰よりも霊夢のことが好きだった魔理沙。
いつも優しくて、強くて、知らないうちに人をひき付けていた霊夢。
二人は十年前に時が止まったかと錯覚しそうなくらい、楽しかったあの頃と同じだった。
「早苗、どうしたの?」
「え?」
霊夢に言われて、自分が涙を流しているのに気が付いた。
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アニメのまほろまてぃっくの最終話が好きです。設定がちょっとトンデモ。