「ふぁあ……あぁ」
就寝するために
「ん? どこからか声が……あそこって横谷がいる部屋……」
突然人の声が聞こえ、藍は耳をそばだてると横谷が寝ている部屋から声が少し漏れていたことがわかった。藍は音をたてないようにゆっくりとつま先立ちしながら歩き、部屋の一番奥の障子を少し開けた。
「……だから……そんな優しい人が、あの時にひどい事を言うのが、私にはわからないの……」
(この声は、
藍は橙が横谷の部屋にいることに多少驚きながらも、二人の話を聞こうと障子を少し開けて二人の会話が藍の耳にはっきり届くようにした。
「……なんで冷たい事を言うのか、だったな……」
第8話 過去の枷
朝、今日は特にないので横谷に自分の衣服の洗濯と周りの草を刈るだけの仕事でいいと藍に言われた。
藍が洗濯を終えるまで周りの草を刈る。もちろん草刈り機といった便利なものはなく、手で抜くか鎌で刈ることになる。
範囲は庭の隅にある雑草を抜くか刈るかの単純で時間のかからない仕事だが、腰を曲げての作業はなかなか辛いもの。おじいさんのように腰をトントンと叩きながら作業を行う。
「あ゛ぁ、辛ぇ……」
「おい、もう洗い終わったから使っていいぞ」
藍が洗濯を終えて、大量の洗濯物が入った洗濯かごを持って現れる。
「おーぅ……んあぁ。やっと解放される」
横谷は重々しく腰を上げ、鎌を物置に入れた後に自分の洗濯物を拾う。
「どこで洗うんだ?」
「近くの川で洗うんだ。道具も洗剤も置いてあるぞ」
「ん」
横谷はその川に向かって歩く。十分後、その近くの川に到着する。
「あれだけ時間かけてさせて何が近いだよ、ホント面倒くせぇなぁ田舎は……そして……」
悪態をついたあと川の近くに置いてある道具を見る。その道具は洗濯板とたらいと石鹸の三種。どこかの郷土資料館か重要文化級の人が置いてあるかもしれない道具がそこには存在し、ちゃんと使われていた。
「やっぱこれだよな……ハァ」
横谷は思わず溜め息を付いてしまう。さすがに横谷の実家には洗濯機が存在し洗濯板といったものは置いてはいなかったため、これに関しての経験は皆無である。
「やり方知らねぇんだけど……テキトーに石鹸付けて、板でごしごし洗えりゃいいのか?」
横谷のは桶の中に川水をすくい入れ、洗濯物を濡らし石鹸を泡立て洗濯板でゴシゴシと洗う。
「冷てぇ……」
秋深しとなった幻想郷の川水は、外の世界の水道水よりも冷たく手に
「……こんなもんだろうか……」
開始して二十分くらいして、シャツとパンツだけ洗って洗濯を終えた。他にも洗うものは存在するが、
「他のは……止めよう。すぐに乾かねぇだろうし、そんなに汚れも臭いも付いてないし」
と正論っぽく言い分けをして、洗濯板等を一緒に持って屋敷に戻る。
「随分早いな」
「二つだけ洗った。他のは特に汚れとか付いてない」
「……そうか」
その言葉を聞いた藍は途端に嫌そうな顔をした。不潔な奴と思ったのだろう。
「ここに干していい」
竿に指を指して言う。スペースは作られていた、というより八雲家の洗濯物との間が広い。まるで隣の席に嫌な生徒が来てテーブルを離す感じに嫌に空間が取られていた。横谷のは気に
「こらー! 私の帽子を返せー!」
屋敷の屋根上に橙と昨日横谷を道案内してくれた猫が走っていた。猫は橙がいつも被っている帽子を
「橙、危ないぞ!」
「このー逃げるなー!」
藍は橙を注意したが、余程その帽子が気に入っている物なのか橙の耳に入らず必死に帽子を咥えた猫を追いかけている。
「ん~このー!」
橙は一瞬動きを止めた猫に狙いをつけて、獣特有の突発的な瞬発力で勢い良く走る。
ガッ
「あっ!」
「あぁ!」
しかし走り出した時に足が縺れてしまい、橙の身体が屋根上の外に放り出されてしまう。
「きゃあああああああ!!!」
「ちぇええええええええええええん!!!」
そのまま頭から落下していく橙を受け止めようと、手にしていた洗濯物を投げ捨て走り出す。しかし一瞬気づくのが遅かったためか、橙の落下剃る前に落下地点のところに間に合うことが難しいものとなっていた。
(くっ、間に合えっ!!)
ガゴン ビュオッ
一心不乱に走っているところに、何かが落ちた音と共に素早い人影が藍の目に映る。
(なっ……横谷!?)
なんと横谷が藍よりも前に出ていた。その様子に藍は
刹那、横谷は不意にスライディングする。低い位置から橙をキャッチする魂胆なのだろう。
「きゃああああああ!」
(いけるかっ!?)
橙が地面に落ちるギリギリまでに落下地点になんとか滑り込め、いつ落ちてきても身体で受け止める体勢を整えた。
「あああああっ!!」
ズドン!
「どふぁあぁっ!!!」
そして落ちてくる橙を見事にキャッチ……ではなく、横谷の腹に思い切り着地した。横谷の身体に落ちる手前に体をくるりと縦回転し足を下に着地したのだ。これは橙の、猫としての本能がなせる技だろう。
「お゛お゛おおぉぉぉ……」
「橙、大丈夫か!?」
「藍しゃま~!」
橙は泣きながら藍のもとへ駆け寄る。一方、横谷は腹を抱えながら激しく
「怖かったよ~」
「よかった。怪我はないみたいだな……おい横谷、お前も大丈夫か!?」
藍は橙の無事を確認した後、横谷の方へ駆け寄る。
「うぐぅ……うはぁ……はぁ……はぁ……」
うつ伏せにしたまま悶絶しきりだった。みぞおちに入ったのか顔が青ざめ、息苦しそうな様子だった。
「お、おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」
「だ、だいじょうぶ?」
すりすり
横谷の様子を見て二人は慌てる。橙は急いで横谷の背中をさすって痛みを和らげようとする。
「あ……はぁ……大、丈夫……だぁ……」
「大丈夫だって、息絶え絶えじゃないか!」
「ううぅ、ごめんなさい。しっかりしてぇ~」
横谷は強がりとしか思えない感じに気丈に
それでも横谷は迷惑を掛けたくないと言わんばかりに弱々しい返事で気丈に振る舞う。
「ダイジョブだって……少し、静かに……してくれ……橙も……さすらなくていい……」
「で、でも」
「いいから……」
「う、うん」
橙は頷くと背中をさするのをやめ、二人は言われるままに黙る。
「はぁ、はぁ……はっ、はっ…………」
横谷は数十秒間、苦しみながらも息を整えた後、息をする音がしなくなった。体もピクリと動かない。
「お、おい。横谷……」
「横谷さん……」
二人は動かなくなった横谷を心配して見守る。もしや
「ふんっ!」
ガバッ
「わっ!?」
「ひゃっ!」
突然横谷が起き上がり、二人は思い切りびっくりする。その後横谷は何事もなかったかのように、放り捨てた洗濯板とたらいを拾いに歩く。
「お、おい! 本当に大丈夫なのか?」
「あ、あぁ大丈夫だ、痛みには慣れてる」
横谷は藍の方に振り向いて答える。だが額には汗が吹き出ていた。顔の表情も余裕が無いという感じに苦痛に満ちていた。
「慣れてるって、汗出ているじゃないか! あれだけの衝撃に普通の人間が耐えられるわけがない!」
「心配するなら、声をかけないことも配慮の内だ。声をかけることが良いこととは限らん」
横谷はそう言って洗濯板とたらいを拾い、物置の方へしまいに行く。
「あっ……」
「藍さま、本当に大丈夫なのかな。横谷さん」
「……わからん」
藍は橙の問いかけを曖昧に答えたあと、頭を下げて考え込む。
(橙の体重が軽いからとはいえ、高いところから落ちて体重に高さが加わり、衝突時間と重力加速度を使って割っても百キログラム以上は確実だ。それを普通よりもやや細めの体にまともに受けて、数十秒動かないだけで痛みが和らいで動くことはおろか、立つ事なんて……)
藍は得意の計算を使って、先ほどの事態で横谷が身体に負ったダメージを考察する。確かに人間の身体で、勢いを全く逃さない体勢から両足を腹にまともに喰らい、しかも横谷の身体は
そんな身体の持ち主が、少し体を動かさないことで立ち上がることに藍は理解し難かった。もしかしたら今の状態は気力のみで動いてるのではとも考える。
しかし、藍はそのことよりも更に理解しがたい事の方に考えを向けていた。
(それよりも、私よりも遠くにいたはずなのになぜ間に合ったんだ? 人の限界速度でも間に合うことはまずないし、あれは絶対に人の速さじゃない……)
ガシャーン!!
「!?」
頭の中に渦巻いた疑問は、物が崩れる大きな音で一気に吹っ飛んだ。藍は我に返り物置の方に顔を振り向ける。
「物置の方から音が!」
「まさか……」
二人は急ぎ物置の方へ走った。見ると横谷が物置の中でいくつかの物に下敷きになりながら倒れていた。
「横谷!!」
「横谷さん! しっかりして!!」
「う……あぁ……」
藍は上に乗っている物を退けて、横谷をゆっくり体を起こす。
横谷の顔が更に青ざめ、汗が全身に多量に出ていた。
「無茶するからだ! 橙、客間に布団を敷いてくれ。コイツを客間に休ませる」
「えっ、は、はい!」
橙は布団を敷きに客間へ急ぐ。その間藍は横谷の腕を肩に掛けて立たせる。
「おい……なにすんだ……しなくて……いい……」
「いいから黙って歩け。声をかけないことも配慮の内だと言ったな。なら、黙って行動を起こすのも配慮の内と
「……ちぃ……」
横谷は渋々と言った感じに、苦悶の表情のまま重い足取りで藍に介抱されながら客間に向かう。
客間に着いた二人は、敷かれた布団の上に横谷を寝かせる。
「ぐぅ……はぁ、はぁ……」
「藍さま、どうしよう。どうしたら……」
橙は横谷の苦しい顔を見て再び慌てふためく。
「取りあえずは安静だが、もしもの時のために薬も用意しておこう。永遠亭が作った薬ならどんな痛みも治してくれるだろう」
「……いらん」
横谷が不意に声を漏らす。藍はまだ強がりを言っているのかと呆れながら諭す。
「いらんとはどういうことだ、自然
「うざい……厚かましいんだよ」
「……なんだと?」
横谷はが再度声を漏らす。明らかに好意を無にする言葉に藍は憤る。
「介抱してやっているのに、厚かましいとはなんだ!」
「うるせぇ……誰が、してくれっつったよ」
「貴様っ!」
「お前らは、俺の友人でも……ましてや親でもねぇんだ……わざわざ介抱される義理なんてねぇ。人外が人を……助けるなんて、滑稽な話だ……へっ」
優は痛みをこらえながら思ったことをズバズバと言い、最後に
「もういい、勝手にしろ! 橙行くぞ!」
「でっでも……」
「早く!」
「は……はい……」
橙はおどおどとしながら藍と一緒に客間を出る。障子を閉める前に橙は横谷を心配そうに見ていた。横谷はフン、と鼻を鳴らし、痛みに耐えながら眠りに就く。
「・・・・・・」
横谷はゆっくりと目を開けた。天井はすっかり暗がりになっていた。障子の和紙も月の光で青白く光っている。横谷はは上体を起こし腹のあたりを触ったり軽く押し込んでみた。
(……痛みがかなり無くなった?)
寝る前までは胴体全体に痛みが走りまともに息をすることも難しかった状態が、まだ腹を押えると痛みは出るが、息をしても苦痛ではなくなるほど痛みが引いていた。
横谷は寝ている間に藍か橙が薬を飲ませたのかと考えたが、あれだけの憎まれ口を叩いて薬を飲ますことは考えにくい。周りには薬らしきものも無い。
(まさか自然治癒で回復したってのか? でも普段ならまだはっきりとした痛みはまだあるはず。今までこんなことなかったが……)
外の世界での苦い経験上から見て、回復のペースが異常に早い事に横谷は首をかしげる。
トッ トッ トッ
そこに奥から廊下を誰かが歩いている音が聞えてくる。横谷は音のする方を凝視する。そこから動く影が客間の畳に映り、その影は障子を開けて客間に入ってくる。
入ってくる人物は月の光の逆光で顔はまともに見えなかった。が、障子が開いたのと同時に猫が入ってきた。幻想郷で初めて見た、道案内してくれた、そして橙のお気に入りの帽子を咥えていたずらしたあの猫である。
横谷は入ってくる人物に問いただす。
「橙か?」
「うん」
短い返事をした声の主は橙だった。橙は顔を見えやすいようにと、廊下側とは反対の方に横谷の隣に座る。
「なんで……ここに」
「あの……ちゃんと謝っていなかったから。ごめんなさい」
突然の訪問に困惑している間に橙は目を下にそらしながら言うと、いきなり頭を下げ謝罪した。
「……いい。俺が勝手にやったことだ謝らなくていい」
「でも……」
「わざわざそれだけのために来たのか」
「・・・・・・」
橙は黙り込んでしまう。横谷はそれを気にも留めず話し続ける。
「それだけなら、もう帰っていいぞ。俺は怒っちゃいねぇし。わざわざ謝らそうとも思っちゃいない」
「なんであんな冷たい事言ったの?」
黙った所で特に他のことを話す気分ではなかったので、やんわりとここから立ち去るように言ったところに橙が突然問いただす。横谷は面食らう。
「え?」
「藍さまにあんな冷たい事言って怒らせて、なんであんなことしたの?」
「あれか……あれはただの
横谷は声の抑揚なく橙の質問を答えた。しかしその答えに橙は納得していない様子だった。さらに問いただす。
「でもあんなことして、もし体のことになにかあっても誰も助けてくれなかったんだよ? わざわざそんな状況を作ることしない方が良かったんじゃないの?」
「だから癖だ。つい口が出ちまったんだよ。それに今は痛みはほとんど引いた。結果オーライだ」
「癖、癖って……やっぱりわからないよ。もしかしたら死んじゃうかもしれなかったんだよ? そんな状況で癖が出るなんて……わからないよ……」
橙は徐々に涙声になりながら話をする。横谷にとっては橙が俺のことを心配して涙することに理解が出来なかった。助けてもらった身とはいえ、あれだけ藍に忠告されながらそれを破ってわざわざ夜中に来て再度謝罪して、そして藍に強くあたったのはなぜかと問う。しかも横谷を心配する意味で、涙も流しながら。
横谷は泣いている様子にやや焦りながら諭す。
「おい泣くなよ。はぁ……別に死ななかったんだからいいだろ。もうこの話はやめて、もとの場所に帰っていいぞ」
しかし橙は帰ろうとしなかった。橙は忠告を無視して話し続ける。
「それに、あの時の横谷さんは……無理をしている感じだった」
「あ? 無理?」
「なんだか、無理して嫌われるように冷たい事言ってる感じだった」
「そんなの、そっちの感覚だろ。俺はそんなつもりはない」
「嘘。あなたはあのとき無理して言っていた」
「……様子を見ただけでわかるわけないだろ」
「わかるよ。だってあなたは本当は優しいんでしょ……」
「……結局精神論じゃねぇか、馬鹿馬鹿しい。お前だって見てただろ、俺の素行の悪さを。最初会った時に藍と紫にナメた口
「じゃあその素行が悪い人が、なんで藍さまや紫さまの言う事を聞いてるの?」
「決まってる。殺されたくないから、元の世界に帰りたいからだよ。それで仕方なく嫌々言う事を聞いているんだ」
「妖怪が嫌いなのに言う事聞くの?」
「確かに嫌いだが背に腹は代えられねぇだろうが」
「そんな妖怪嫌いの人が……人間じゃない私を助けたのはなぜ?」
「だから俺の勝手だろって……はぁ、堂々巡りじゃねーか。もういいだろお前は助かった、俺も何とか助かった、それでいいだろ。俺は寝るぞ」
横谷は無理やり話を遮り、橙とは逆の方に顔を向ける様にして布団に入る。その方向にはあの猫がいた。その猫は無言で横谷の顔に近づく。
「……言ってなかったけど、その子は普段、人間に近づかないの」
橙は寝る態勢に入った横谷を見てもなお話し続ける。横谷は目をつむり、無視するように寝る態勢に入った。
「この子、以前は人里でうろついていた、ただの野良猫だったの。人里にいた頃は人になついていたの。もちろん、そこの人たちもこの子を可愛がっていた……」
そこから橙は、ためらうように言葉を止めた。横谷の前にいるこの猫の話をしているのに、まるで自分や横谷にまで傷つくのではないかと錯覚しているような暗い顔だった。ややあって橙は再び話す。
「でもある日突然、数人の子供に石を投げられたの。この子が恨みを買うようなことはしていないから、多分遊び感覚でやってたんだと思う。その石がこの子に当たって、その時に人に恐怖を覚えてそれでこの子は体も心も傷ついて、それから人に近づかなくなったの」
橙の声が徐々に涙声になってくるのが、横谷の耳から伝わった。この猫の辛い過去を一手に引き受け、代弁しているかのように、必死に涙をこらえながら話を続ける。
「人に会うたびにこの子は怯えながらマヨヒガに帰ってくるの。あの時の記憶が甦って……それで体調を崩しちゃうこともあったの、でも……なぜかあなたには近寄っても怯えない、むしろ自ら近づくの。昨日の道案内も、自分からやってたみたい」
飼い主が悲しい気分に打ちひしがれている時に動物が、飼い主の下に寄り添うことや顔を舐めるといった行動によく似てもいるが、もちろん横谷はこの猫の飼い主ではない。
だがこの猫の気まぐれで道案内をすることも、横谷の寝顔の前で眺めるということも考えられない。となると、横谷の持っている過去を敏感に感じ取り、
「その子が近づいていっても怯えない人間が、全く優しくない人とは思えない。それに、あなたの勝手で動いて助けてくれたってことは、自分の中の助けたいって言う気持ちが動いたんだと思うの。だから……そんな優しい人が、あの時にひどい事を言うのが、私にはわからないの……」
それ以降橙は黙り込んで、しばしの沈黙が空気を包む。その間猫は横谷の顔をずっと見たまま、尻尾を左右にゆっくり振る。
「……作り話にしちゃ、かなりリアルに出来た話だ」
横谷はそう呟き布団をめくり、上体だけ起こす。
「え、いや、これは本当の話……」
「あいや、わかってる。一種の冗談だ」
横谷は橙を一瞥して言う。その時、猫が横谷の布団の上に乗る。
「そうか、お前……辛い事味わってたんだな……」
横谷は猫に向かって語りかけながら、猫の首の下をなでる。猫は気持ちよさそうにまぶたを閉じ、ごろごろと喉を鳴らす。
「……なんで冷たい事を言うのか、だったな。まぁ……あれだ、プライド、つまりつまらない自尊心だ」
横谷は突然、橙の疑問を答える。その語り口はどことなく自嘲染みたものだった。
「自尊…心?」
「自尊心は言い過ぎか。うぬぼれとか、思い上がりといったほうがいいか」
「それが一体どういう風に繋がるの?」
「……他人に看られるというのが、自分にとっては『俺は弱い存在になっている』って思っちまう。看られるのが女性なら尚更にな」
「う、うん」
わかりやすく説明しているつもりだったが、橙にはうまく伝わっていないようで、返事に詰まりながら頷いている。
「あー……簡単にいえば、弱いところを見られるのが……恥ずかしい、てことだ」
横谷は恥ずかしがりながら言う。それを聞いた橙はなるほどといった感じで頷く。しかしまだこれで納得したわけではないようで、橙はまた新たな疑問を口にする。
「でも、苦しい時でもそれが出てくるものなの?」
「それは……人並みだ。俺とは全く真逆の奴だっているだろうよ」
「でもやっぱりわからない。あんなに苦しんでそれでもその……ジソンシンが出るなんて」
「人間と妖怪の心の違いってものはわからんけど、男と強い存在の奴と守りたいものがある奴ほど、それがすごく出てくるかもな、多分」
「そうなんだ……じゃあ、横谷さんは全部当てはまったから、それが出ちゃったの?」
「それは、ない。強い存在でもないし、守りたいものがあったわけじゃない。でも……他の気持ちはあったかもだな」
「他の気持ち? どういうこと?」
橙はどういう気持ちなのかを問いただしてくるが、横谷はなかなか答えない。その言葉を口にするのをためらっていることが見て取れた。
「……どうしたの?」
「あ、いや……誰にも言うなよ、橙」
横谷は息を整えた後、ためらいながらも次の言葉を出す。
「あの時は……藍に、面倒を……掛けたくない、掛けさせたくないって思った」
「藍さまを?」
「……おかしいだろ、あれだけ藍を嫌っていたはずの俺が気を遣うなんて」
横谷は苦笑しながら言う。確かに、藍の自分に対する扱いに腹立てていたのに気を遣う事をすることなどまずない。少しの沈黙の後、横谷は語り続ける。
「……かぶったんだ、死んだ俺の母親に」
「横谷さんのお母さんが?」
「ああ……」
そこから横谷は、俯きながらまた沈黙する。その時の顔は、鬱気味の感じな暗い顔だった。横谷は突然昔の話を始めるが、最早独り言に近い声の小ささだった。
「俺の母親は、体の弱い俺を一人でも生きていけるよう、あえて自分でやることは自分でやる事、と干渉することはなかった。口調はさすがに藍程じゃなかったがな。それでも、俺が病気で寝込んだ時とかは誰よりも厚く看病してくれた。それこそ、自分の仕事を
そこから一旦語りをやめた。自分は一体なぜ語っているのだろうか、自分の過去の話を語るなど気持ち悪いにもほどがある。そう心の中での
「風邪をひいても、体に傷を負っても、周りからイジメ受けていても……心配かけさせないようにそのことは一切言わなかった。……今思えば、あの時から我慢したり無理したりすることが多かった気がするな」
横谷は自分の幼少時の事を話していく内に、自分は昔から他人の様子を伺うことをしていたことに気づく。
身体を殴られてあざができ、母に問い詰められた時にこれは転んだ時に出来たと言い、ビリビリに破かれている教科書を問い詰められた時も、ふざけて扱ったら破れたと言う。
多少の風邪でも無理して学校に通い、欲しい物があっても滅多に言うことはなかった。友達なんかほとんどいないのに、友だちと遊びに行ってくるとも言ったことがある。
全ては母親に面倒掛けさせないため、心配掛けさせないため。
腹を痛めて産んでくれ長年育ててきてくれた親とは違い、知人でもない藍にこんな短期間一緒にいただけでそのような感情が芽生えるのも、今更になって横谷は変だよなと思った。
それでも、潜在的に出た『良心』――といえばいいのかわからない。実際、悪態を漏らして面倒を掛けさせないようにする時点で『良』とは呼べないかも知れない――は、知人でなくても、人間でなくても、世話になった者に表したことは、腐って溶けずに心の中に残っていたということだろうか。
「……藍には、口は悪かったし短期間しかいないが、何かと世話になったからな。これ以上面倒を掛けられないと思ったんだ」
「・・・・・・」
橙は言葉に出来なかった。横谷に悲しい過去があること、その過去がきっかけで今の横谷がいること。そのことを他人である橙に話している。
あまり屋敷内で喋らないこの外来人が、突然過去の話をしたことに驚いたことと同時に、横谷の行動の理由を尋ねた事によって悲しい過去を話させてしまったことに罪悪感にさいなまれた。
「あの……ごめんなさい……」
無言で沈痛な面持ちの横谷の横顔を見て、橙は謝る。
「そう思うなら、今の事を誰にも言わずこのまま黙って帰るんだ」
横谷は橙をここから立ち去るようにと言葉少なに帰ることを促す。
「……うん」
橙は言われるがままに障子の方へ歩く。それと同時に猫も動き、橙の隣に並んで歩く。橙が障子を開けようとしたときに動きが止まる。
「……この子が横谷さんに『ありがとう』て言われた時、とっても喜んでたよ」
「……そうか」
そう言って橙は障子を開ける。そして閉める時も動きを止めてまた一言を言う。
「時間が出来たとき、一緒に遊ぼうね。毬とか使って」
この一言は、横谷と橙との距離が近づいたから言えた言葉だろう。そして障子を閉め、元来た方向へ帰っていく。その間、横谷は影が無くなるまで橙を見送っていた。
(話し過ぎたか……まぁ、長居するわけじゃないしな。あいつにだけ言っても構わんだろ。あいつも、ちゃんと守ってくれるだろうさ)
横谷は上体を寝かし、自分の昔話を話し過ぎたことに若干後悔しながらも、あの時言った約束を守ってくれるだろうと橙を信用した。
「毬を使った遊びか……どうやればいいんだろうな」
横谷は軽く愚痴ったあと、掛け布団を肩にまで掛けて眠りに就く。
フワフワ……ストッ
横谷の部屋の上にあたる屋根から藍が降りてくる。
「あいつにあんなことが……だからあんなことを言って……」
藍はやりきれない思いを抱えながら横谷の部屋を見つめていた。
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