そっと髪を撫でつけられた感覚に、日本は薄く目を開いた。
「あ、悪い。起こしたか?」
申し訳なさそうに眉を下げるイギリスにイイエと返して、日本はゆっくりと身体を起こした。
「すみません。お客様を放ってうたた寝など……」
「いや。おまえも疲れていたんだろう? 俺の方こそ突然押し掛けて悪かった」
日本は再び首を横に振り、立ち上がるために畳に手を着いた。
しかし、その手に力が込められるよりも先にイギリスが言葉を発した。
「なんの夢見てたんだ?」
「え?」
「目ぇ覚ます前、哥哥って」
「言ったんですかっ?
驚きに大声を上げて目を見開いた日本に、その大声に驚いたイギリスは僅かに身体を引いて、あぁ、と答えた。
次いで聞こえた深い溜息に、イギリスは地雷を踏んだかと恐る恐る日本を見た。
「イギリスさん。月が、綺麗ですね」
「は?」
突然の言葉に、間抜けな声が漏れたのは仕方がない。
今日の日本はおかしい、と諦めたイギリスは日本の視線を追いかけて障子の方を見た。
開いた障子の向こうには綺麗な満月がポッカリと浮かんでいた。
「日本では、月にはウサギが住んでいるといいます」
「あぁ。イギリスでは本を読むお婆さんだ」
「私、昔は月が大嫌いだったんです」
日本の言う昔とは二千年以上前のことだ。
「なんでだ? だってほら、日本の意訳でも月が綺麗ですねってあるだろう?」
「えぇ。ですがそれは、近世になってからですから」
昔、と日本が口火を切った。
「ずっとずっと昔。まだ私が日本として確立するよりも昔です。あの頃は勿論電気なんてありませんから、奇襲をかけるのに一番適するのが満月の夜だったんです。だから、満月の夜は必ず誰かが誰かを殺して、誰かが誰かに殺されて。そんな領土の奪い合いでした」
イギリスはなんの言葉も発さない。
日本と比べるとまだまだ若輩者で、その時代を知らないイギリスには今この瞬間に言葉を発する権利などないのだ。
「だから、私思ったんです。人が悪いんじゃないって。月が……月が人を狂わせるんだ、って。そう、思ったんです」
だから、と日本は続けた。
「うんと昔。目を覚まして中国さんが月を見ていた時、今までにないほどに取り乱してしまいました。月の魔物に中国さんが呑みこまれたらどうしよう、って」
『駄目です! 駄目です、哥哥! そんなところに居たら、呑みこまれてしまいます! お月様に、魔物に、呑みこまれてしまいます……!』
「そしたらあの人、一体なんて言ったと思います?」
「我に命令するならそれ相応の金でも出すよろし?」
「……確かに、イギリスさんにはそう言うかもしれませんね。でも、あの人私には甘いんですよ」
日本は一瞬だけ、目を細めて笑った。
日本にそんな笑顔を浮かべさせられるのは彼の男だけだと知らしめられ、イギリスは気付かれないように悔しさに歯噛みした。
「おいで、日本」
日本はその言葉を、宝物のように、噛みしめるように紡ぎ出した。
「……おいで、日本。あの人はそう言って、笑って私に手を伸ばしました」
『日本、お月様のお話してやるある。ほら、哥哥の膝に来るよろし。……いい子ある。さぁ、ちゃんと見るある。お月様には、魔物じゃなくてウサギさんが住んでるあるよ。お薬作ってるある』
『おく、すり?』
『そうある。日本や我が怪我した時、風邪を引いた時のために、ウサギさんは月で頑張ってくれてるある。怖がったりしたら失礼あるよ』
『私たちの、ため?』
『そうある。月は、確かに魔物みたいなところもあるある。我も月の魔物に囚われた人間を知ってるある。でも、月はそれだけじゃないある。月がないと、地球は滅んでしまうって知ってるあるか? それに……』
「此処でも、日本でも、月は見えるある。同じ月を同じ時に見てるある。一緒にウサギさん見られるのに、日本が怖がってお月様を見なかったら、我は誰と同じ月を眺めてるあるか」
日本は目を閉じてそう言うと、閉じた目から涙を零しながら笑った。
「同じ月を見てるんです。先程イギリスさんが仰ったように、女性やお婆さん、木や男性など、色々な見え方があります。でも、私も中国さんも同じウサギが見えている。それが堪らなく嬉しいんです」
イギリスは静かにそうか、と返した。
「だから、先程イギリスさんに頭を撫でられた時に目が覚めたんです。私の夢は月を見た後、中国さんに頭を撫でてもらっているところでしたから」
イギリスは頬を緩めて「そうか」とだけ言った。
こんなにも好かれているのに気付かない中国に心中で恨み事を吐きながら。
「月のウサギ、か」
イギリスが見上げた先、月は綺麗な円の形をしていた。
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