No.33085

マンジャック #4

精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。

2008-09-28 12:13:27 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:423   閲覧ユーザー数:407

マンジャック

 

第四章 豹の女

 

「これがパシフィックの音声パターンだ。」

モニターには二次元の座標が表示され、その中にギザギザの波形が走っている。「そしてもう一つ。これがジャッキング後の波形だ。」

一つ目の波形が画面の上半分にまで押しつぶされ、下半分には同じ様な波形が乗ったグラフが現れた。

 大野は暫くその波形をじっと見つめていたが、やがてシートにひっくり返った。

「あーだめだめ。周波、抑揚、テンポ、間、どれを取っても全く違いが無い。こりゃぁ証拠にならんわ。」

大野は呆れたように言った。むしろその声には感心の響きさえ交じっている。「これではクールじゃなくとも信用しないわなぁ。」

 

 パシフィック達の乗った車は成田からそのまま都内に入り、ひとしきり渋滞に巻き込まれてから、一時半頃に港湾新都心内にあるロイヤルホテルに入った。昼下がりの日差しを眩しく反射させるホテルの純白の壁の下、強い日射を避けるように寄りそって車が停めてある。彼らを追ってきた大野と原尾、そしてもう一人、馳が乗っているのだ。

 こちらから警護を申し出た手前、大仰な警護を忌避するというパシフィック側の方針を尊重する意味からも、対特総動員体制で彼らにくっついて行くことは論外であった。となれば、原尾は己を危険の渦中に入れることを躊躇しない。彼女は共に空港に張り込んでいた対特の仲間達を、何かあったときには都内の仲間の応援を即依頼するからと、ほとんど力押しに説得して、今回の馳(と、他の仲間にとってみればどこの誰ともわからぬ大野)との単独行によるパシフィック達への随行に臨んだのであった。

 敢えて空港に対特の戦力を残したのは、万一大野の情報が間違っていた場合に備えたという、したたかな判断も彼女には勿論ある。

 

 大野が乗るのは国産の小型車で、紺碧の地味なボディーのその車体は、ジャッカーハンターが得るとされる巨額の報酬からは想像もつかないほどおんぼろだ。彼らはこの車の中で、これまでの経過の内で何か証拠と出来るものはないかと検証していたのだ。二、三の視覚情報の確認では埒があかないと考えたのか、大野はパシフィックの音声サンプルをあっさり取り出して原尾達を驚かせた。原尾にさえ、何時録っていたのか見当もつかなかったのだ。後部席に押し込められた馳は、やっとの思いで顔をシートの間から出してきて言った。

「そんなものから何が判るっていうんです。」

「おいおい新米君。勉強不足だぞ。」半ば呆れた物言いで大野は説明した。

 他人の靴を履いたときにしっくりこないと無意識に感じるように、ジャッカーが転移した場合にも暫くはその挙動に違和感が生ずる事が知られている。これを利用して、その違和感を物理的に証明してみせる事ができれば、ある人物がジャッキングされている事を法的に立証できるのである。通常それは身体に於ける日常的振る舞いの違い(表層違和)を見つけだすといった方法を取られるが、大野が今やっているような音声認識法や精神分析による判定法もある。大野が感嘆したのも無理はない。あの短時間にパシフィックの脳を駆けずり廻って声紋すらも一致させたのだ。その技量たるや...。成木黄泉とはそういう男なのだ。

「そんな事言ってますけど、本当はジャッキングして無いんじゃないですか。」

馳の懐疑はもっともである。だが、

「黄泉自身がいかに天才でも、憑依を解いて転移する瞬間の依童の放心現象だけは止められない。」

 原尾も空港での騒ぎの一瞬前、それまで凛としていた河合が一瞬惚けたようになったのを覚えていた。

「ジャッキングした瞬間にまた元の少年の身体に戻るって事は可能かしら。」

「おっ、マキちゃん鋭いねぇ。それなら確かに音声判定は無駄だし、奴ならその位の事は簡単だ。だが、握手したとき放心していたのは少年だけだった。」

「となると、今のままでは手も足もでないってわけね。」

「そうだ。どうしようもない。」大野はそう言うと車から降りた。

「だからこれからきっかけをつくるのさ。」

 

 ホテルのロビーに入る際、原尾はともかく、ラフな普段着のままのの大野はすぐに従業員に目を付けられた。が、機転を利かせた原尾が警察手帳を見せて体よくおっぱらった。

 そのあいだに大野はホテルでの今日のイベント表に目を走らせる。結婚式、パーティー...国際転移精神医学会...これだ。コンベンション用の五階を借り切って行われている(金になりそうな分野ってのは羽振りがいんだよな)。政治家でもあるパシフィックが閉鎖市場になりがちな日本の医学界に自分の権力の誇示に来たと一般には見えるが、さて。

 二人しか乗っていないエレベーターの中で先に切りだしたのは大野だ。

「また留守番ですかぁ。なんて言ってたが、新米君を置いてけぼりにして君とデートとは光栄だね。」

「あなたの車に居座らせてしまったのは悪いけど、外から出入りをチェックしていて欲しかったのよ。」

「それに...」大野は含み笑いをして言った。「俺に知られずに警視庁と連絡が取れるしな。」

 はっとする原尾、ハンドバッグを置いてきたのを見られていたようだ。

 大野は続ける。「隠しっこは無しにしようぜ。さっき検索してたクールの情報、教えてくれよ。」

 大野は原尾にウインクした。やれやれと言った表情で原尾が壁に凭れた時、エレベーターのドアが開いた。

 

「ここに見られますように、アスピリンの投与量と転移可能率との相関関係が見受けられるのであり、今後この原因と理論を更に突き詰めたいと思っています。こちらの曲線は...」

壇上にいる男は、OHPで映した図面にレーザーライトから発する赤い光を当てて説明を続ける。大ホールで行われている招待講演をしている男を、公聴席から大野と原尾は観察していた。この男、このアメリカ人、禿げ上がった頭に丸い銀縁眼鏡とくれば、空港でパシフィックと一緒に出てきた男だとすぐに判る。

「ケーシー・ヤム、コーネル大学の生理精神科の教授よ。カタストロフ社をパトロンとして研究を精力的に行っている科学者の一人ね。」

「どっちかって言うと生化学の方の業績が多いのに、転移学会の面々はよく招待講演なんて承知したよな。」

 原尾がさっき通信機からプリントアウトした情報に目を通しながら、二人は相談する。

 ま、畑違いの講義聴かせてでも転移心理学における薬剤使用効果を認知させたいのだろう。大野は類推する。それだけカタストロフ社の政治力が強いってことか。

 

「博士を見くびらぬ方がいいぞ。」

突然二人の背後から声を掛けてくる者がいた。慌てて二人が振り向くと、クールが座っていた。空港での威圧感のあるダークスーツではなく、普通のビジネススーツに着替えていた。

「び、びっくりするじゃないかクールの旦那。」考え事をしていたとはいえ、クールの気配に全く気付かなかったので、大野は本気で驚いたようだ。

「あんた方の言うように、博士は転移学の方は専門ではない。だが、生理精神学においては天才だ。疑似細胞の医療利用にいち早く成功したんだからな。」

「そりゃぁ分かったけどさ。旦那が自慢する事じゃ無いんじゃないの。」

「まぁ。そのうち分かる。それよりその紙っきれ、俺の事はどの程度書いてあるんだ。」

 何もかもお見通しか。大野は肩をすくめて読み始めた。

「クール・エックハルト。海兵隊所属当時に参加した湾岸戦争時代に勲章三つ。あんた英雄だったんだな。ミサイル基地破壊作戦は俺でも知ってたよ。だが現在は米軍特殊機動部隊隊長で階級は少佐という事以外は解らない。」

 クールは目線を下げて呟いた。

「フッ。では、その作戦で民間人を巻き込んだ事が発覚してから、一転して国賊扱いされた事も知ってるんだろう。」

「......。」

「じゃあな。」クールはそう言うと、立ち去ろうとした。

「おい旦那。ボスをほったらかしにしといていいのか。」大野は背中に語りかけた。

「お前のようなゲリラがいるといかんのでな。部下が始終附いている。」

 こりゃきついねぇと大野が言うのも聞かず、クールはさっさとホールを出て行った。

 

 クールにしてみれば、大野に対して拍子抜けしたと言うのが正直なところだった。いかに自分の技量が上だったからとはいえ、大野は自分をあっさりと死角、攻撃の射程内にまで入れてしまったのである。探りを入れているのでなければ奴はもう死んでいただろう。

 空港で見たあの動きを買いかぶりすぎていたのか。こちらのボスの心配をする前に自分の事を...。

 はっ、とクールは思いだした。大野がパシフィックを見つめる視線を。それはまるでハンターの様だった...。

 クールは悟った。大野が自分を敵の範中には入れていなかった事を。奴はジャッカーハンターと言っていた。肉食獣は狩の際、目を付けた獲物以外は眼中にもせず、ただ確実に狙いをしとめるものだ。奴のハンターとしての腕が上であればあるほどこれと同じ事がいえるだろう。つまり、ボスの中にいるという人物のみを、奴は狩りたてるべき獲物とみなしているのだ。だから...。

「ボスの警護にもう二人付けろ。」大野が自分には警戒をしなかったという事に戦士として小さな怒りを覚えつつ、クールは部下に新たなフォーメーションを指示した。

 あのゲリラめ、ただのやさ男ではないようだ。だがどちらにしても、奴は今回の取引にも自分の計画にも関係がない。放っておいても構うまい。

 

「始終見張ってくれてるんだと。」

「まだいると思う?」原尾が聞いた。

「あぁ。黄泉は十中八,九まだパシフィックの中だ。」大野は椅子に座り直しながら続ける。「護衛している人間にジャッキングするのは簡単だが、そこからが大変だ。独りのこのこ離れるってのは、不自然なく行うとなると、なかなかどうして出来ないものなんだよ。ジャッキングするのにあれだけ周到な手口を使った男だ。そんな危険を敢えて犯すとは思えない。だからさ...」

「ちょっと静かにしたまえ。何しに来ているのかね。」前列の椅子に座っている初老の男性が怒鳴ってきた。

「これは失礼しました。」大野はにこやかに言うと、その男に手をさしのべて続けた。「飴でもどうですか。怒ると心臓に良くないでしょう。」

「出ていきたまえ。」

完全に怒らせてしまったようだ。

「やれやれ、過激な味が美味しいのに。」

怒れる紳士を後に、大野と原尾はこそこそとホールを出た。

「だからさ、今までわざわざ黄泉が逃げる様子を見せていないって事はだよ。」扉を締めてから、大野は自分の考えをまとめるように原尾に言った。

「あいつの目的はパシフィックではなく。これから起こることにあるんじゃないだろうか。」

 

 動く度に二の腕に引っかかる脇腹の肉に気を取られながら、パシフィック...彼の中に入っている成木は、苛つく神経を抑えかねていた。壇上で話すヤムのどうでもいい講演が長引いているので、立場上公聴席の一番前で陣取ったまま動けない自分に、持ち前の冷静な思考も遮られがちになる。

 ジャッカーにとって不都合な事の一つに、乗っ取った身体の持ち主の人格に左右される事がある。転移先で自我が変質するわけではないのだが、思考を働かせるのは相手の身体上である以上、性格は宿主の持っているハードの性質に依存されてしまうのだ。分かりやすく言えば、怒りっぽい性格の人間にジャッキングすると、ジャッカーまで怒りっぽくなってしまうということだ。パシフィックはいかにも短気な性格だったらしく、仕草から思考法までどうしても出てきてしまうそうした兆候をなかなか抑えきれずに、成木は苦心していた。他人の身体を利用する時の限界がここにある。彼はジャッキングの度にこれを痛感していた。

 実際、パシフィックに転移したものの、成木は今手詰まりになっていた。情報の入手に失敗したという事ではない。そうであれば、原尾がいみじくも指摘していたように、空港で瞬時にして少年の身体に戻る事はたやすかったのだ。現にソーニャには、少年の姿の時に帽子を飛ばしてもう一度近付くという計画を指示していた。だがあの時、パシフィックの記憶を探ってみて、この男が目的のものをこれから手に入れるという他には詳細に通じていない事を知り、ならば自分で直接手に入れようと考えたのである。判断ミスと判ったのはその一瞬後だった。計算外の大野とかいう男が、ハンターが出てきたからだ。

 自分が今日動くことはノヴァから洩れていただろうから、今回の一件にハンターが絡んでくることは予想の範疇だったとはいえ、想定していたのは一般に知られている普通のハンターについてまでだった。だが実際、成木の誤算はそこにあったのだ。あの男のハンターとしての腕はただものではない。彼は苛つきつつ思った。大野という名前は記憶に無かったが、あの人ゴミの中でソーニャから少年への転移を唯一見破ったのはあの男だけだ。奴がいるおかげで、今後の転移行為が制限されてくるだろう。ジャッカーにおける最大の隙を奴が見逃すとは思えない。

 だがこうなってしまった以上、今は憑依したままでいる方が安全だ。それに、目的を達成するには都合がいい。成木はそう考えると、パシフィックの身体を落ち着かせることに成功していった。

 後のことは心配あるまい。ソーニャももう来ているだろうから。

 

 

 日がかなり西に傾いて、大野が落とす影法師も、随分とその長さを増していた。自分の倍はあろうかというその黒子は、給水塔に上るための手すりが付けられた壁に当たって立ち上がった。

 大野は今ロイヤルホテル、転移心理学会が行われているビルの屋上にいた。簡単な庭園を敷地の中心に持つこの場所は、東京中を一望できるのでデートスポットの一つとなっているのだが、素晴らしい景色を楽しむカップルは平日のこの時間ではまだいない。湾岸リゾートの売りものの一つである潮の香をたっぷりと含んだ海風も、彼以外の人間を知る事もなく過ぎ去っていく。爽やかな風にあたりながら大野は苦笑した。自分の真下では面白味の無い講演でみんな苛ついているんだろうに。それにそのもっと下では、新米君が俺のエアコンの壊れた車の中でふらふらになっていることだろう。

 大野は手すりに手を掛けて昇っていき、給水塔の真横に座り込んだ。右手の上に顎を乗せてしばし景色を見る。都心を挟んでむこうに見える新宿都庁舎を見るともなく見ながら、大野は考え込んでいた。

 

 マンジャッカーの弱点は転移している精神の方には基本的には存在しないと言っても良い。転移する際に隙があるとは先に書いたが、それはハンターなどに憑依している事を知られてしまうというレベルでの隙である。たとい憑依している事が判ったとしても、大野の様に拒絶波などという武器を持ち合わせている者はハンターの中にさえ希であるため、それによってジャッカーの身に物理的に危険が迫るという事は少ないのだ。実は彼らの弱点は別の場所にある。それは転移している精神の方ではなく、その精神が留守にしている空っぽの肉体の方にである。

 睡眠の例を取るまでもなく、人間はその精神活動が停止したとしても死ぬ事はない。転移を行った時も同様で、著しく生命活動が低下するとはいえ、身体は健気に生き続ける。宿主である精神が戻ればすぐに転移前の健康状態に戻る事も可能だ。現に束横線東川駅での操乱は、転移していた中岡の身体から公衆便所の中にいる自分の身体にもどったとき、すぐに一般人と変わりない行動ができていたではないか。だがそれはあくまで短時間、精神が離れている時間が短い場合での事だ。

 転移心理学に於いて転移者が自分の肉体から抜け出ている状態を離魂(りこん)と呼ぶ(メンツからか、幽体離脱とは敢えて呼ばないようだ。)が、この離魂状態にあるときの本体、つまり離魂体は、上記の例に挙げた睡眠状態とはその昏睡の度合いがまるで事なり、むしろ植物人間のそれに近くなっている。植物人間のように生命維持装置が無いと即死んでしまうという程ではないにせよ、離魂した身体もその生命維持活動にはタイムリミットがある。人によってもちろんそれにはばらつきがあるが、おおよそ六時間程度が限界とされている。ではそれを過ぎるとどうなるのか。タイムリミットを過ぎた肉体は急激に体内の水分を排出し、ミイラのような痩身化を遂げた後、全身の筋肉が一気に硬直してこと切れるのだ。全身の痙攣を伴ったその最後の瞬間、肩部筋肉及び顔面皮膚の収縮により両手は挙げられ、瞼をかっと見開いたまま固まるその様は、まるで自分を見捨てた主を希求しているように見えるという。そうなったが最後、どうやって物理的な連絡が取られるのかは知る由もないが、被転移者に憑依している精神も何処かに潰えてしまうのだ。これが通称ヴァンパイアと呼ばれる離魂体の最期であり、ジャッカーの最大の弱点、そしてジャッカーが最も畏れている死にざまなのだ。

 

 ジャッカーはこのタイムリミットのために、あまり本体から距離を置かない。成木がこの時間になるまでパシフィックに憑依しているという事から、その身体は空港ではなく、既にこの辺にあるとみて間違いあるまい。大野は経験的に、ジャッカーが自分の本体を何処に隠すのかというだいたいの見当を持っていた。ビルなどに於いて離魂体を隠すのに適当な場所、それは今大野が調べた屋上かもしくは。

「よっ。」 大野は考えをまとめると、給水塔の横から3m程下のコンクリートまで一気に飛び降りた。加速した体重を一手に引き受けた足の痺れが治まってから、彼は軽快に走り出した。

「残りは一ヶ所。地下だ!」

 

 

 ロイヤルホテルの地下はF2までだ。大方のビルと同様に、F1に駐車場、F2にボイラー室や配電室といったレイアウトとなっている。大野は地下一階をざっと見回ってから、地下二階に降りていった。階段を降りるとそこから通路は左に折れて、薄暗い照明の下、低く音を出しているボイラー室とその手前の配電室に通じた二つのドアまで延びていた。大野は壁越しに安全を確認すると、慎重に通路を進んでいく。そしてまず配電室のドアノブに手を掛けると、素早く中に入った。

 部屋の中の電灯はもちろん点灯していない。あるのは送電中を示す緑のランプとそうでないことを示す赤いランプが壁一面に配されて光るだけだ。大野は目が慣れるのを待って室内を探索したが、特に何も見つからなかったので、ボイラー室の方を調べてみることにした。

 通路の薄明かりから察するに、全体で五十坪位はあるのだろうが、冬場はホテル全館の空調を賄うことになる三機の巨大なボイラータンクに部屋の中心を占められ、おまけに空間的にも縦横無尽に太いパイプが行き交っているので、ボイラー室の中は非常に狭く感じた。ボイラーの音は以外に小さかった。稼働しているのは一つで、それも省力運転なのだろう。この中ならいそうだな、と大野は思った。ドアが閉まると今度は完全に暗闇になったので、仕方なくジャケットの内ポケットからペンライトを取り出すと、何処にいるか判らない敵におっかなびっくりしながらも、一番手前のボイラーから調べはじめた。

 

 結果から言うと今回の大野の行動は、彼の推理自体が外れていたにも拘らず、物語を進めてゆく上で重要な行為になったのだが、それはこの世界で彼の持つ通称からも連想される彼の資質の一つ、ジャッカーに対するずば抜けた勘の良さが幸いしたのかもしれない。

「あれーおかしいなぁ。」大野は捨て鉢に言った。「ピンぞろハンターの偉功も地に落ちちまったかな?」

 ピンぞろとは博打用語で二つのサイコロの目が両方とも一であることを言う。一つの一は彼の名前である一色から取ったと解るがもう一つは...?

 とにかく、十分ほど部屋中隈無く調べ廻った末に吐いたのがこの科白だった。大野は芝居がかった仕草で頭を垂れると、気落ちして部屋から出ようとした。彼がドアを僅かに開けたその時だ。微かな音が聴こえたのは...。

 大野は呼吸さえ止めてその音に神経を集中した。音は階段の方から聴こえてくる。ハイヒールだ。小さいがはっきりした足音がこちらに迫ってくる。彼は慌ててドアを閉めると、一番奥のボイラーの裏にそそくさと隠れた。

 ハイヒールの音はこの部屋の前で止まり、ドアをあけて入ってきた。ドアが閉まる一瞬、大野はそのハイヒールの音の主がやはり女性である事を知り、隙間から差し込む一条の光が最後に残した煌めきから、その女性が金髪である事を知った。これだけ判ればもう決まったも同然だ。彼女、ソーニャ河合はほんの少しの間入り口近くに立っていたようだったが、驚いた事に電気もつけないで歩きだした。足どりも素早く、まるで煌々とした電灯の下にでもいるかのような正確なテンポで...。勿論、大野には全く何も見えない。

 なんだ。大野は焦った。いったいどうしてこんな暗闇の中でまともに動けるのか。河合は向こうの方で何かやっているようだが、何にも判らない。とにかく全くの暗闇なのだから。大野が見えるものといえば、入り口近くの壁にある消防用の赤いランプだけで、それも豆電球よりはるかに暗い僅かな光しか放っていない。

 動揺が何かしでかしたのだろうか。河合がこちらに気付いたようなのだ。

「誰っ。」

彼女の誰何がボイラーの音を斬り裂いて部屋にこだました。そしてその時大野は見た。二つの丸い光が並んでいるのを。彼はそれが、暗闇の中でこちらを見つめた河合の目である事に気付いて背中に氷が走った。

 まずい、目茶苦茶まずい。大野は混乱していた。あいつはいったいなんなんだ。奴の位置からは俺は殆ど見えないはずだが、ほんとに俺を見つけたんだろうか。何にしてもここで戦う事になったら俺に勝ち目はない。

 河合はゆっくりと近寄ってきた。闇に光る双眸の動きがハイヒールの音とシンクロしていたのでそれが判るのだ。

 冗、冗談じゃないぞ。俺はあの女が常人離れした体力を持っているとは知ってるが、バケモンとは聞いて無いぞ。それなのにこの状況。これじゃまるで俺はホラー映画の被害者じゃないか。俺は死臭を発する醜い腐乱死体になった頃に警備員に発見されるのだ。二瓶昌也ふうのその男が腰を抜かして部屋を出ていく様が眼に見えるようだ。おいこれって一応犯罪小説だろう?

 大野の悲嘆ももっともだが、いるんだからしょうがない、と作者は思う。

 河合の光る眼と靴音がまさに大野の目の前に来た。二人を分かつ物は今やボイラーから突き出て壁に抜けている二本の太いパイプのみ。

 どうする一色、飛び出して一発必中に賭けるか。どのみちここに隠れているのは不利なんだから。

 大野は運を天に任せてみようとした。とその時、二つの眼が消えた。どうもむこうを向いたらしい。

「来た。」

彼女が言った。そして大野には永遠とも思える時間、河合はその場に立ち止まっていたが、やがて踵を返すキュッという音が聴こえた。と同時に始めはゆっくりと、次第に元の確かな足どりで入り口に向かい、ドアを開けて出ていった。

 

「はぁ。」大野は心底溜め息をついた。どうやら作者は二瓶昌也を出演させる気はなかったようだ。

 さて、と彼はすぐに気を取りなおした。河合を見失わないうちに調べなければならない。いったい河合が何でここに来たのかを。彼はペンライトを灯して、彼女が何事かやっていた辺りに素早く近づいた。そして、地を這うパイプの一つに足を掛けて覗き込んだ。ライトで付近を照らしてみる。特に変わった気配はない。

「おかしいな。確かに何か...うわっ。」

大野は突然眼の前に飛び出してきた何かに驚いて思わず叫んでしまった。咄嗟に防御の姿勢を取るが、意外な事にそれは彼の脇を掠めると、後方の機械群の中に飛び込んで行ってしまった。

「...いったい何だったんだ今のは...。」大野は心臓が鎮まるのを待って、今の一瞬の邂逅を反芻した。大きさは猫くらいだったように見えたが、軌跡を辿るとどうもあそこの機械の上のダクトに入ったような気がする。あの高さでは羽でも生えてないと無理だ。とすると、鳩か何かだったのか...。

 少しの間彼は考えていたが、いなくなっちゃったものはしょうがない、と気持ちを切り替えて、大野はもう一度河合の何かやっていた辺りを点検した。やはり、何もなかった。

「さっぱり判らんな。」結局ここで手がかりを掴む事は出来なかった。だが気落ちしている暇はない。ソーニャを追わなくては。彼は風のような速さでこの部屋を出ると、河合を見失うまいと階上に駆け上がっていった。

 

 

 ヤムの講演もようやく終わり、パシフィックをはじめ学会の参加者たちは、各々伸びなどしながらホールから出てきて、次のシンポジウムが始まるまでの間、五階のロビーで雑多な話し合いに興じていた。そんな中、身の置き所に苦労しながら、こういう場所はやりにくい、と原尾は思っていた。自分をその環境の中に溶け込ませることが困難だからだ。対特の中でも科学班はあるから、ある程度の医学知識についてなら原尾も持ち合わせてはいる。しかし、さすがの原尾もここで交わされる専門用語にはまったくついていけなかった。だから転移学最先端のホットな話題が飛び交う話の輪の中に入ってもいけず、角のソファにただ腰を降ろすしかなかった。もちろん、それでも目だけはパシフィックから離さない。

 パシフィックは隣にヤムを伴い、数人の学者らしき男達と会話していた。男の中の一人が割とはっきりした声で話すので、6m程離れている原尾にもそのとりとめのない会話は筒抜けだった。明らかに意義の無い行為だと考えているのだろう。パシフィックもヤムも通過儀礼的な顔で接している。

 ヴァンパイアのことはもちろん知っていたから、黄泉の本体を探すという大野の考えは原尾も納得した。が、大野は手間取っているらしくなかなか戻ってこない。黄泉が動くとしたら今である可能性が強いと思われるだけに、原尾は焦っている。というのも、この手の会によくあることだが、わざわざ遠方から集う科学者や医者の面々が本当の目的にしているのが、こういった発表の間に行われる雑談での情報収集なのである。このため、この短い時間にともすれば下手な商社マンよりも頻繁に、彼らは多くの者達とコミュニケートを取ろうとするのだ。

 他との交流の多いこの機会を黄泉が逃す筈がない。いやそもそも、パシフィック達の目的こそこういうところにあるのかもしれない。

 大野を待っていられない。パシフィックのガードについているのは三人、先手を打つなら今しかない。原尾は毅然と立ってパシフィックとヤムの所に向かった。独り彼女を動かしめたのは対特としての意地だったろうか。

 

 

 ロビーに上がった大野はまず一通りその中を見回した。大理石づくりの柱や、お堅そうな顔をしたタキシードの男がいるクロークなどが眼の端を過ぎてゆく。視線をクライアント用のテーブル群のある辺りに移すと、結婚式を終えてきたのであろう礼服の一団が見える。更に右に眼を向けていく...いた。大野は小さく微笑んだ。ソーニャを見つけたぞ。

 河合はエレベーターの近くの柱に凭れている。彼女はどこかで着替えたらしく、成田での身体にフィットした洋服ではなく少し大きめと思われる春用コートでその身を包んでいたので、美しい身体のラインは黒いブーツ越しの足しか判らない。いくら何でも暑いだろうに、と大野が思っていると、彼女はまさにそこから離れ、茶色のチェックの背広を着た白人の後に付いてエレベーターに乗り込もうとしていた。

「いかん。」大野はダッシュして乗り込もうとしたが、タッチの差で扉が閉まってしまった。

「しまった。」

 シャレている場合ではない。階段で駆け上がろうとしたとき、隣のエレベーターが開いた。ラッッキーと小声で叫んでから乗客の降りるのももどかしく乗り込んだ。目指すは五階だ。あの男はパシフィックと会おうとしているに違いない。

 

 エレベーターが五階に静かに上がるまでの間、二人の男女は何事もなく立っていた。女は操作盤の前に、となると当然、男は生物学的に自然な対角をなす奥の角にいる。

 チンと小さく音を立て、ドアが静かに開いた。男は出ようとした。女が前に滑り出て、それを遮った。戸惑いの空気が男を包む。

「あの、お嬢さん...。あなたがそこにいては通れないのですが。」男は言った。

「そう? 私は別に構わなくってよ。」

 謎めいたどこか野生的な視線を男に向けて、ゆっくりと女はボタンに指を触れ、ドアを閉めた。

「何するんだ。」

男は静かに河合の行動を非難した。だが、河合が自分に向けたピストルの銃口に気付き、二の句は継がずに沈黙した。

 

 五階に着いてドアが開くやいなや、大野はエレベーターの外に飛び出した。臨戦体勢を整えつつ周囲を見回す。エレベーターの前は狭い廊下になっていて、左に5m程の所に原尾達がいるロビーに通じている入り口がある。時間差から考えてこの空間にいる筈だが...大野ははっと右を向いた。河合らの乗っていたエレベーターのドアが閉まるところだった。その瞬間、隙間から後ろ向きの河合が見えた。

 大野はすぐに駆け寄って、大理石の柱に取り付けてある開ボタンに手を触れようとした。が、一瞬にせよ間があったのに、まだ動く気配がない。

 ニッと笑って、何を思ったか、大野は乗ってきたエレベーターの方の呼び出しボタンを押し、再び乗り込んだ。

 

「下がって。」河合の言葉に、男は逆らえるはずもない。

「何のつもりだ。」

 河合は答える前に、最上階のボタンを押した。がくん、という妙な音とともに、エレベーターは上昇を開始した。

 立て付けが悪いのね、古いからかしら。河合は少し変に思ったが、無視して話し始めた。

「あなた、ジャッカーでしょ。」

 男は片眉を釣り上げて驚いてみせた。

「何を言い出すかと思えば。私はマニーネ・ギルバートと言って、八王子の方で医師をする者だ。転移学会に出席しなければならないのだから馬鹿な真似はやめたまえ。」

 ギルバートと名乗るこの男が近づこうとした時、鈍い音をたてて床に穴が空いた。

「威嚇は一回だけよ。」河合の笑みはギルバートを退かせるに十分だった。「私を騙そうたってだめよ。私にはジャッカーのことが臭いで分かるのよ。ま、それはともかく...。」

 河合は一呼吸置くと、本題を切り出した。

「あなたが今日の転移学会会場で、カタストロフ社の重役と転移についての知識を取り引きするという情報を得たの。それで私たちが先におもてなしをしようと思って待っていたってわけ。」

 正確に言えば、成木と河合が得た情報では場所までは分かっていなかった。だが事前に知り得たパシフィックのスケジュールから判断して、コンタクトがあるなら空港かここだと目星は付けられたのである。

 男は黙って聞いていたが、やがて開き直ったように言った。

「そこまで分かってるんならとぼけても仕方がないな。私と取引でもしようってのか。」

「あなたが転移についてどんな情報を持っているかなんて、私たちにはどうでもいいの。問題なのは、同じジャッカーでありながら自分達を食い物にする行為の方...。見逃すわけにはいかないわ。そこであなたを殺しに来たってわけ。裏切り者には死あるのみってね。いい考えでしょ。」

河合のあっけらかんとした物言いは、かえって行為の冷酷さを助長している。

「私を殺しても問題の解決にはならんぞ。」

落ち着いた物腰でギルバートは応ずる。それにしても、銃を前にして怯えないこの男も変だ。だが河合は単なる強がりと受け取ったらしい。

「そんなことはないわ。見せしめになるもの。」

河合は引き金を引いた。

 

 天井の照明の一部が割れたのは、河合が引き金を引く一瞬前だった。河合は驚き、ために弾の軌道は一寸だけずれて、ギルバートの着ている背広の脇辺りを霞めて壁に痕を作った。

 照明が消えた。暗闇になる一瞬、河合は天井から落ちてきた塊の一部に手を弾かれ、拳銃を落としてしまった。拳銃は床に落ち、堅い音をたてて転がった。

「誰っ!」

河合の誰何が宙を裂く。間髪入れず声が応じる。

「ジャッカーハンター大野一色だ。銃は俺がもらった。観念しろ、ねーちゃん。」

そう。天井から降ってきたのは大野だった。彼は隣のエレベーターから河合達の乗ったエレベーターに飛び移っていたのだ。そしていよいよ男が危険だと判断して行動に移した!

「いいところに来てくれた。助けてくれ。」ギルバートはしたたかに大野の後ろにつく。

「あなただったのね、さっきの鈍い音は。」

「気付かれてたか。飛び移る瞬間にこいつが上昇するんだもんな。死ぬかと思ったよ。」

 少し照れくさそうに答える大野に、河合はあくまで冷静に言った。

「盗み聞きしてたのならば話は早いわね。私はそこの彼を殺さなきゃなんないの。邪魔しないでくれる。」

「させるとおもうか。」

大野の手に拳銃はあるのだ。状況を考えれば...。

「出来ないと思って?」

 

 河合の声が低い位置から聞こえるように感じられたため、咄嗟に大野はギルバートを脇にのけた。つと非常灯が赤く点った。河合は全身を隠していたコートを脱ぎ捨てて、プロポーションの明確に浮き出るレザーウエアの姿を曝していた。奇妙にしゃがんだ姿勢をとっていたが、大野にはそれが引き絞られた弓の蔓の状態だと判った。何故なら次の瞬間、その矢は自分の方に向かって放たれたからだ。

 大野が河合の先制攻撃を躱せたのは奇跡に近い。彼女の放った手刀は大野の右耳を霞め、衝撃干渉マットの葺いてある壁にめりこんだ。

 仰天するのは大野の方だった。だが攻撃以上に彼を震撼させたのは、目前に迫った河合の顔が自分の方を向いたとき、その目が怪しく光っていた事だった。

「おおお。」

彼は恐怖のあまり叫びながら銃の塚で河合の肩の辺りを殴ろうとした。だが彼女は一瞬でその間合いを抜け、今度はギルバートの方に襲いかかった。壁に貼り付いた状態のギルバートは逃げ場すらない。

「いかん!」

大野は必死の思いで脚を繰り出した。河合とギルバートの中間に闇雲に放った蹴りは、あっさりと避けられはしたものの河合の体勢を崩す事には成功した。彼女は頭を下にして床に落ちそうになった。

 と、河合は大野の腕に手を掛け、凄まじい力で引き倒した。床に倒れ賦す大野とは対象的に河合は宙に舞い、今や無防備になった大野に必殺の一撃をお見舞いするばかりとなった。

 消えていた照明が快復し、大野は自分の上にシルエットとなって近づいてくる河合が首刀を繰り出すのを見た。

 ズシッ。鈍い音がした。河合の全体重を掛けた一撃を、大野は左腕で何とかブロックする事に成功した。だが上に乗っかられてしまったこの状態で、次の攻撃をどう躱す。大野は自問した。どうするよ。絶体絶命だ。

「まずい。」

小さく呟いたのはしかし大野ではなく河合だった。一瞬の間大野は河合と目を合わせた。その目はもう光っておらず、美しさを保った栗色の瞳だった。

 河合は全身を翻してジャンプした。何という跳躍力だろうか。一跳びで彼女は大野がぶち破ってきた天井の穴を抜け、エレベーターの屋根に達した。

 河合は大野の方をのぞき込んで言った。

「あなた、私と同じ匂いがするから、今は殺さないでいてあげる。じゃあね。」

ウインクを残して、河合は消えた。

「ま、待て。」

大野は急いで自分が入ってきた穴からよじ登ったが、やっとの事で屋根に上った時にはすでに遅かった。河合は壁を蹴りながらエレベーターの通る空間を駆け降りていたところだったのである。

 隆々たる筋肉の躍動する全身に黒い衣を纏ったその様は、大野に人間というより獣を連想させた。それにいつの間に持っていったのだろう、その手にしていたのは先に彼女が脱ぎ捨てたコートであった。それが放つ白い瞬きだけが、幻影のように最後まで暗闇に閃いていた。

「豹の女だ...。」

大野は一人呟いた...。

 

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第五章へ続く

 

 


 
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