マンジャック
プロローグ
「あっ。」
藤山は、思わず小さく喘いだ。制服の上から胸を掴まれたからである。束横線の朝のラッシュの電車内の騒音内で、その声は誰にも気づかれることはなかった。
都内の有名私立女子校に通う藤山は、その顔立ちの良さ故か、通学に使うこの束横線で痴漢に遭うことが多かった。混雑した人混みに紛れてどこからともなく伸びてくる手が、今日も彼女に触れたのである。
「ゃ、やめて下さい...。」
無駄だと判っていても、かぼそい声で彼女は言う。手はいまだに彼女の胸の上にある。手で払いのけようにも、左手は吊革、右手は鞄だ。それにどのみちこう混んでいては女の力ではたとえ手ぶらでも動かすことすら無理だろう。
あの中年だろうか、それとも後ろのサラリーマンだろうかと考える。近頃では藤山は痴漢という行為が、このラッシュの中で集団が意志を持ち、集団の代表が起こしている行為ではないかと思えてさえいた。
そうするうちに見知らぬ男の手は、彼女の胸の上を徘徊するのをやめ、今度は腰に手を回して触り始めた。
「くっ。」
悔しさに、思わず目に涙が浮かぶ藤山...。
その時、別の手が今度は彼女の鞄を持つ右手に触れた。まただわ...。もういい加減にしてちょうだいと思った瞬間である。彼女は不意に、意識が遠のいていくのを感じた。
中岡は執拗に触り続けていた。都内の某宝石店に通う途中のこの車内で、若い娘に痴漢をするのはこの中年男の日課であったのだ。店内では自分の娘のような年齢の、頭の弱い馬鹿ギャルにぺこぺこしなくてはならないのだ、このくらい社会から還元してもらったってばちは当たるもんじゃないさ程度にしか、この男は思ってはいないのである。
尻に飽きて今度は前でもと思っていた矢先のことである。触っていた左手首を思いきり掴まれたのは。
「がぁ! ぐっ!!」
思わず悲鳴をあげる中岡、さすがに今度は周囲の目が注がれる。だがその人々は次に起きた光景に一律に目を丸くした。
中岡は左手を掴まれて持ち上げられたのだ。それも女子高生の藤山にである。
「そんなに尻が好きならてめぇのケツでもなめてな!」
藤山の科白である。さっきまでの蚊の鳴く様な声とはまるで違う別人のような声だ。藤山を見る中岡の目は、今にも飛びださんばかりだ。
「いぃかげんにしてやれよ。この子は心底嫌がってるぜ、酷いよなぁまったく。」
周囲に聞こえるように大きな声でしゃべる藤山。しかし『してやれ』『この子』とはいったいどういうことなのか、その答はあまりのことに茫然自失していた中岡が、ひきつった声で出してくれた...
「マ...マンジャック...。」
ひっ。と言うヒステリックな声と共に、二人を囲んでいた乗客たちはこれほどのラッシュにも拘らず二人との距離を1mは空けた。
まるでしとめた鳥を見せびらかすように中岡を持ち上げながら藤山は言った。
「そうだよ。」
うわあああぁ。
声にならない声を発し、渾身の力で彼女の手を振り払って中岡は逃げた。
もちろん、1mだけ...
「おまえ中岡だろう。隠したってだめだぜ。」
薄ら笑いを浮かべながら藤山は近づく。一歩、また一歩。
「銀座の宝石店にいたよな。どうなんだよ。」
中岡はただ首肯する事しかできない。顔中に脂汗をかいている。
「そうだよなぁ、俺は知ってるんだよ。おまえがこの電車でいつも通勤することも、おまえが家で鑑定した宝石を背広の中に無造作に入れて店に持っていくこともな。」
藤山は、いやもうこの名前は適切ではあるまい、藤山の中に潜んだこの男は、突然残念そうな顔になった。
「でもよぉ、痴漢までするとは知らなかったぜ。かわいそうに、この子の意識のおびえていることときたら...」
この電車の、この車両に乗り合わせた人々全ての恐怖の心が見えるほどだ。いつものようにけたたましく騒音を響かせて電車は走っているのに、人々の発する心臓の鼓動さえ聴こえる。それも普段より三倍は速い拍動で...。
「すまん。許してくれ、何も悪気があった訳じゃあないんだ。」
「俺は別にいぃんだよ。何ならまた触るかい、今のこの子で良かったら。」
藤山はまた近づいた。恐怖に耐えられなくなった中岡はそれ以上は入り込めない人混みに隠れようとしたが、抗しきれない力に放り出されてしまった。集団の意思は彼を生け贄に選んだのだ。
「よろしい。ではこれから褒美と罰を与えてやるよ。」
藤山はゆっくりと中岡に近づき、その首に手を回すと、痘痕だらけのその醜い頬に口づけをした。
女子高生とは思えぬ妖艶さを放つ、口づけを...。
するとどうだろう。一瞬の空白の後、今まで蛇に睨まれた蛙の如き緊張を呈していた中岡の目つきが変わった。そして藤山が、まるで全身の力が無くなったかのごとく呆けたようになり、視線を空に虚ろにさまよわせた後、床に倒れ賦した。
何が起こったというのか。まるで藤山と中岡が入れ替わったかのような...
中岡は扉に向かって歩き始めると、集団達はほんの一分前に藤山に対して行っていたと同じ事、1mの包囲の輪を今度は彼を中心にして行った。1mの空間は彼に従って移動する。
永遠とも思える時間が過ぎ、電車が減速を始めたときには彼は扉を背にして立っていた。
「俺は次の駅で降りる。それから騒ごうがどうしようがあんた達の勝手だが、この両の誰も次の駅で降りるな。降りたら俺が、とり憑いてやるぜ。」
最後の言葉が集団をもう一段上の恐怖に引き込んだ。おかげでもう20cm、青ざめた輪の壁が広がった。
もとより中岡の言葉に逆らおう筈もなかった。そんな馬鹿なことをする人間がいるわけはなかった。この車両にいる人間の誰もがその男から、マンジャッカーから1mmでも遠くに離れたかったのである。
電車は駅に滑り込み、軽いショックの後停車した。扉が開き、他の両からは一斉に人々が降りたが、この両で降りたのは男が一人だけだった。
「彼女を起こしてやれよ。レディーは大切にしなくっちゃな。」
食い入るようにその男を見つめていた車内の人々が聴いた。男の最後の科白であった。
第一章 ジャッカーハンター
中岡は束横線東川駅の改札を出ると、背広のポケットからハンカチを取り出して手に広げ、もう片方の手で別のポケットに手を入れ、中からきらきらしたものを取り出してハンカチの上に置いた。なんと、台こそついていないものの、紛れもなくそれは宝石であった。
宝石の鑑定士である中岡は鑑定を自宅でする奇妙な癖があるのだが、持ち運びもポケットに入れるだけという至極簡単なものだった。端からみればそれは随分と危なっかしいことではあったろうが、中岡によれば、通気性の良い小箱に入れさえしていれば、下手にアタッシュケースなどで持ち運ぶよりも安全ということなのだ。
だがその彼の持論も今度ばかりは役立たなかった。何しろ宝石を狙っているのは他でもない、自分の中にいるのだから。
自分の意識を自分の身体以外の人物に移してその人物の身体を乗っ取るという能力を持つものがいる。転移術と呼ばれるこの超能力は、現代であってこそ生まれるべくした特殊能力である。そんな、常識では捉えきれないこの能力を使って他人に乗り移り、犯罪を成すものがいる。
彼らは人の肌に触れることによってその人間の体内に潜り込む。転移と呼ばれるこの精神移動をされた側の人間は、その間の人体の制御権を転移した人間に譲る。俗な言葉に言い換えれば、乗っ取られるのである。現時点で中岡の体を動かしている男、操乱(あやら)春名という名のこの男は、今となっては誰かとすら分からないあの車両中の人間のうちの一人の中に潜み、藤山、中岡と乗り移って二人の身体をあたかも自分のもののように自在に操った...転移行為が多くジャッキングと通称されるのはこのためである。
こうした転移行為時、ジャックされるのは身体ばかりではない、とり憑かれた者は転移者が脳随に精神を合わせることによって記憶を探られる。つまり自分の考えていることや記憶までをも知られてしまうのである。
現代社会とその中心を為す都会、そこで育まれた個人主義は、現代人に母胎の中に居るかのごとき究極の孤独を産んだ。そこでは人は世界に対して膜を張り、卵型の自我を暖めつつ生きている。独り...ひとり...人はその胎盤の上で何を考えているのだろうか。そこに形を成すものは何なのであろうか...。
他人の決して窺い知ることの出来ない筈だったそのような深淵は、ある日を境に突然聖域ではなくなった。転移の出現である...。操乱らは現代人のこうした思考の羊膜を破り、羊水の中で恍惚の浴槽に浸かることができる。身体の持ち主本人しか浸かってはいけない神聖な泉にまで入り込んで、本人しか触れる事を許されない、思い出というアヒルのおもちゃを大脳の水面に遊ばせることが出来るのだ。
心の底を弄ばれることを畏れる人々。誰からとなく、いつしか人は彼らのことをマンジャッカーと呼び始めた。そしてこの混沌を成す世紀末にふさわしい”恐怖”を伴侶として、その名は広まっていったのである。
操乱は中岡のポケットから計三つの宝石を取り出してハンカチで包み、キュッと縛った。彼はこれを改札から出てきた雑踏のなかを歩きながらやっているのだ。余りに無造作なのでそれに気を留める人もいない。
操乱は駅ビルの外れに歩を進めると、人気の無い場所にあるトイレに入った。
トイレの中に人がいないことを確かめると、操乱はドアの一つを開けた。
洋式のそのトイレには若い男が座っていた。用をたしている訳でもなく、男はただ死んだ様に下を向いているのである。死んだ様に見えて当然だ。男には今意識が、いや、それがあるとしたらの話だが、魂が無いのだ。
この男は操乱春名、中岡をジャックしている男の本体だ。
中岡を乗っ取っている操乱は、俯いた男の手にハンカチを握らせ、その頬に触れた。
中岡はハッと我に還った。暫くぼうっとしていたが、さっきの電車内の記憶が良く思い出せない。自分がトイレに突っ立っているところを見ると白日夢でも見たのかしらん。ひとしきり中岡は考えていたが、やがて諦めて出て行ってしまった。
中岡が完全に立ち去ってから、使用中になっていた鍵が青になり、中から若い男が出てきた。二十歳位の痩せ型で、耳の上で刈り揃えた流行のヘアスタイルの下の顔つきにはまだ幼さが残っている。さりげなくブランドの品を着こなしている辺り、収入源に不自由はしていないようだ。当然だろう。これからも手にした宝石を金に替えに行くのだから。
操乱はトイレを出て再び駅ビルの雑踏の中を歩みだし、まだシャッターの降りているブティックのテナントの左にある狭い階段から、地下駐車場に降りた。
朝のこの時間帯は、この駐車場の中もひっそりとして人気もなく、まばらな車が薄暗い照明の中にぽつりぽつりと置いてある程度だ。操乱はまっすぐそのうちの一台、黒のスポーツカーに向かった。
彼がその車の元まで来て、キーをドアに差し込もうとしたその時、彼の正面の車のヘッドライトが点灯し、照らされた操乱は瞳孔に入る光量を減らすために思わず手で光を遮った。
「警察です! 操乱春名、第一級転移犯罪の容疑で逮捕します!!」
張りのある女の声が駐車場内に響きわたった。そしてライトの点灯した車の中から、その声の主である女性がドアを開けて出てきた。
「警視庁対特殊犯罪捜査機構の原尾です。あなたの束横線での転移行為はジャッカー犯罪と見なされることは間違いありません。おとなしく逮捕されなさい。」
原尾と名乗るこの女性は、薄い紺色の上着の内ポケットから出した警察手帳を手にかざしながら言った。均整の取れた身体の上の二十代半ばの顔は、引き締まった唇がその表情をいっそう凛とした美しさにしている。
「いったい何の証拠があってそんなことを言うんです。か弱い一般市民に言いがかりは止してくださいよ。」
思いがけないことだと言いたげな風に操乱は言った。手をかざしたまま、強いライトに彼は苛立った。
銃らしきものを構えてゆっくりと原尾は近づいてきて言う。
「あなたが銀座のアニスジュエリーや中岡さんのことを嗅ぎ回っているって通報してくれた人がいるの。前回までのあなたの手口から察して電車を使うだろうことは大体見当がついたのよ。」
もはや言い逃れはできないと判って、操乱は少し狼狽えた。
「おっと動かないで! この銃には弾はちゃんと入っているわ。あなたが母体にいるということは確認済みよ!」
原尾が言い終えると、操乱は憎悪で歯噛みした。が、何を思ったか、近づく彼女に落ちついた調子で言った。
「確かにみーんなお見通しみたいだな。だけどね刑事さん。あんたがどうやって俺を取り押さえるっていうんだい! 素顔をさらして、スカートまではいている。そんなに露出した素肌の一部からでも、俺があんたに転移する可能性を忘れていたわけでもあるまい。」
「ふふ。わざわざ心配してくれてありがとう。でもね、あなたを素手で捕まえるほど軽率ではないわ。」
彼女の視線がわずかに自分から外されたのを見逃さず、操乱は自分の背後の気配に気づいて飛び退こうとした。が、車を回り込んだ気配の主は一瞬早く操乱の腕を取り、あっという間に彼は後ろ手に取り押さえられた。全身黒づくめのその影は、操乱を原尾の方に向けて叫んだ。
「今です。先輩!」
言葉を待つまでもなく原尾は飛び出し、左の内ポケットから小型のリモコンのようなものを取り出すと、動けないでいる操乱の腹部にそのリモコン状の物質の先に突き出ている金属部分を押しつけた。
う゛んっ! という音が一瞬響き、後ろ手にされた操乱はその目を見開いて全身を大きく痙攣させた。
小さな呻き声を口にし、彼は全身の力が抜けてしまったように黒づくめの男に身を任せ、一瞬眼を原尾の方に向けたものの、すぐにがっくりと力つきた。
全ては瞬間だった。緊張の一瞬は終わった。
「スタンガンよ。痴漢撃退用のものに比べれば倍の出力を持っているんだもの。少なくとも半日は動くこともできない筈だわ。」
誇らしげに右手のそれをかざしながら原尾は言った。張っていた緊張の糸をほどくと、操乱を支えている影に微笑みかけた。
黒子のように頭からの全身を黒い衣服で固めたその影は、ひとまず頭に被っていたマスクを脱いだ。男だ。人の良さそうな若い青年の顔がその中から出てきた。
「やりましたね先輩。ついに操乱を捕まえることができましたね。」
「ごくろう様、馳君。どう? 転移防止スーツの着心地は。」
馳と呼ばれたこの男、馳太一は、よっこらしょと車に操乱をもたせかけてから、やれやれと身体に密着したそのスーツの胸の辺りを両手でつまみながら言った。
「いやぁ暑いし窮屈で参っちゃいますよ。これ何とかならないんですかねぇ。」
「今はまだ無理ね、とり憑かれないためには肌に触れられさえしなければいいんだけど、それじゃこのスタンガンの高電圧に耐えられないもの。」
そう言って、原尾は馳にスタンガンを渡した。
「さぁ。この男を連行しましょう。」
彼女はタイヤにもたれかかって気絶したままの操乱に肩を廻しながら言った。が、馳はスタンガンを持ったまま立ちすくんでいる。
「スタンガンか。これには気をつけなくっちゃな...」
「どうかしたの馳君。手伝って頂戴よ。」
立ったまま馳は静かに原尾に問う。
「この男、どうなっちゃうんですかねぇ。」
「取りあえず拘置所へ連れて行ってジャッカー用の独房に入れるのよ、転移犯は重罪だから、裁判になれば懲役刑は間違いないわね。」
これを聞くと、馳は静かに原尾を見た。
「ふうん、確かに重罪のようですね。でもね先輩。
「僕はそんなのご免なんですよ。」
「操乱!!」
そう叫ぶや、原尾は操乱の母体に廻していた手を解き、馳との間隔を一瞬で空けて身構えた。そう。今、馳はジャックされているのだ。すぐに現状に対処したのはさすがだが、彼女は思った。なぜジャックできたの?
もはや隠す必要の無くなった操乱は原尾の方を向き、明らかに馳とは違う話し方で語りかけた。
「スタンガンとは危なかったが、安心するのが早すぎたようだな! 俺がどうしてこいつの身体に入れたのか不思議だろう? 何故スーツの上からでもジャックできたのか...。この転移防止スーツとやら、確かに普通のジャッカーには有効みたいだがな。俺のようなレベルのジャッカーにはできるんだよ、このスーツの上から入り込むことがね。俺にとっては薄い有機物を通しての転移なぞ朝飯前なのさ!」
何ということだと原尾は思った。そんな能力を持つ者も出てきたのか! 平静を装いはするものの彼女は心中愕然となっていた。行動性を追究した上で採用したスーツの薄さが仇になったのだ。だが機能を突き詰めたとして、街中で宇宙服のようなスーツを着て逮捕なんぞできるのか? しかし、ではどうやってこの男を捕まえよというのか?
他に手立てをなくした原尾は、無駄と判っていても拳銃を構えた。煤けた照明に照らされて、それは黒光りした。
「動かないで! 母体に戻らなければ撃ちます。」
何を今更という感じで操乱の声は言う。
「見栄見栄の脅しはやめな刑事...原尾マキさんよ。俺はあんたの後輩の馳の身体をジャックしてんだぜ。それに俺はこいつの記憶から知っちゃたもんね、あんたは普段からその銃に弾は込めていない。ただの飾りってことをな!」
くっ...。原尾は瞼を閉じ、観念したように拳銃を降ろした。ジャッカーを逮捕するにあたって最もまずいのは、ジャッカーが他の人間の体内に転移してしまうことである。人権尊重の現代にあって、とり憑かれた人間に全く罪がないにも関わらず、逮捕の際に怪我をさせる事は出来ない。従ってその行動には人体に影響の無い方法を取らざるを得ない事になる。彼女の使ったスタンガンは、被転移者のことを考えればぎりぎりの攻撃法なのである。だがそのスタンガンも、いまは操乱の手にある。
「よろしい。せっかくの武器も伊達じゃぁ役に立たないよな。でもそんなに人の命が大切か? ご立派な心がけだ。けどな...俺はそんなものには捉われないぜ。」
操乱は馳のボディスーツの腰のポケットから拳銃を取り出し、原尾に照準を合わせた。二人の距離は5m。原尾達の所属する対特殊犯罪捜査機構はより抜きのエリートだ。その中の一人である馳の身体をジャックしている以上。狙いをはずすことは有り得ない。万事休す...。
「やめろ!!」
男の声が地下駐車場内に響きわたった、コンクリートが反響するためどこから声がしたのかは解らない。
「だ、誰だ!!」
銃を耳の横に上げ、どの方向にも対処できる体制を取って操乱は言う。全神経を新たな敵に備えて気配を飛ばす。
声はさっきよりは砕けた調子で言う。
「通りがかりのおせっかいは好きじゃないんだけどね、困ってる美人のお嬢さんを放って置けるほど変な男じゃないんだよね。」
「そこか!!」
原尾と向かい合った操乱の右手、車の通り道を隔てた向こうの大きな柱に操乱は銃の照準を合わせた。光を背にして男がそこにいた。180センチ位の長身で、ジャケットを着ていることがかろうじて見て取れる。
「いやぁおにぃさん。おっかないものもってるねぇ。降参降参。」
そう言いつつ、男は何と両手を軽く上げ、一歩一歩二人に向かって歩きだした。
たまらず原尾は男に叫ぶ。
「やめなさい!! 面白半分で近寄ってはダメ。そいつの持っているのは本物の拳銃よ。それにその男は...マンジャッカーなのよ!!」
この一言さえ言えば全力で逃げ出すだろう。そう思って原尾は最も危険な言葉を口走ったのだが、電車の一車両に乗り合わせた者全員を恐怖のどん底に陥れたその名を聴いても、その男は動じる事はない。そればかりか...
「こんなに心配してもらって俺って辛いなぁ。でも大丈夫、たかがチンピラが飛び道具を持ったくらいじゃないですか。」
この科白は操乱を怒らせた。
「て、てめぇ、いい気になりやがって、蜂の巣にしてやるぜ。」
「やれやれ、これだからチンピラは嫌だ...よ!!」
最後の言葉と共に男はダッシュした。通路に出たとき、照明に照らされたその男の顔は服装と同じくありふれた現代青年のものだったが、操乱を見つめるその表情は、獲物を捉えて突き進む狩人のそれだった!
「馬鹿め!!」
叫びざまに操乱は発砲した。凄まじい轟音が空間を裂き、弾丸は突進する男の眉間に当たる筈だった。男がかざした左腕など貫通して...。
しかし男は倒れなかった。眉間に当たった様子もない。操乱は慌てて次弾を続けざまに発砲する。だが何ということだ、間違いなく眉間を狙ったその弾は、あろうことか左腕でブロックされているのだ。
男はあっという間に操乱に近づき、狼狽える操乱の顔面に右ストレートをお見舞いした。操乱はたまらず吹き飛んで、自分のスポーツカーに叩きつけられた。
原尾はただ眼を見開くばかりだった。何が起こったの? この男はいったい何なの?
「な、何なんだ。こ、こんな馬鹿なことが...。」
操乱は混乱しつつも車に寄っかかって何とか立ち上がろうとした。だが男はすかさず駆け寄る。
「これでお寝んねしちゃいなさい!!」
男の左腕が渾身の力を込めて操乱の腹部に入った。あまりの勢いに操乱は身体ごと持ち上がる。
おおおおおぉ!! 空気を一気に吐き出して叫ぶ操乱。
決まった! 力が抜け、頭を垂れて彼は身を沈めていく。
それを見て、やっと男も左腕に懸けた力を抜いた。が、その瞬間を待っていたように、操乱は男の左腕に飛びついた。言うまでもなく男に転移するつもりなのだ。男はどう見ても鉛の衣を纏った贖罪者ではない。
「離れて! ジャックされる!!」
原尾は悲鳴に近い叫びを上げた。してやったりという表情で取り付く操乱、だがそんな状況にあっても、男は操乱にさせるがままピクリとも動かない。
もう駄目だ! 絶望の気持ちで原尾はそう思ったが、馳の身体を借りた操乱の表情を見て、彼女はなにかおかしいと感じた。当の操乱の方は、信じられないといった面もちで男を見上げた。
「こ、こんなことって...。ジャックできないなんて...」
操乱は力つき、馳の身体はコンクリートの上に臥した。
転移...。させない 男...。
あまりの出来事に、原尾は放心して突っ立ったままだ。
「大丈夫ですか? お嬢さん。」
男は原尾に近づいて言葉をかけた。
「え、えぇ。ありがとう、大丈夫よ、なんともないわ。」
言いつつ彼女は、初めてまともに男の顔を見た。歳格好は二十七、八といったところか。ラフに刈っただけの髪と輪郭のはっきりした顎の線に囲まれたその顔は、力強い目鼻とにこやかな笑みを浮かべた唇で構成されていて、人懐っこい印象は一瞬前の激しい格闘とは結びつかないように思えた。男は、手を差し出して言った。
「俺、大野一色っていうんだ。まぁよろしく。」
原尾は慌てて手を差し出し、握手した。
「あの。私は原尾マキ。助けてくれてどうもありがとう。」
屈託なく笑う大野を見ていて、原尾はようやく現時点の立場が認識できてきた気がした。が、それと同時に、分からないことも波となって彼女の意識を襲った。
「あ、あなたは誰なの。銃で撃たれても平気だったし、操乱は転移さえできないようだった。それに、それに...」
「おいおい、そんなにいっぺんに聞かれたって答えらんないよ。それにまだやり残したことがあるじゃない。」
突然早口でまくしたてだした原尾を止めて大野は言い、あの二人のことさ、と倒れている操乱の母体と馳を指さした。
「あのままにしとく訳にはいかないだろ。」
「で、でもどうするっていうの?」
「まぁ見てなって。」
大野はそう言うと倒れている二人の方に向かい、気の抜けている操乱の母体の脇に手を入れ、馳の倒れているところまで引きずっていくと、馳の隣に寝かせ、そうして最後に二人の手を重ねた。
「これでよし。」
大野は二人の脇にしゃがみ、馳の空いた方の手を両手で握った。
「さぁ操乱! 自分の母体へ戻れ!!」
ぎゃああああぁ!! 一瞬の沈黙の後、叫んだのは馳だ。驚いて止めさせようとする原尾を大野は制止する。
「大丈夫だ。叫んでいるのは操乱の精神だ、この兄ちゃんには何の危害もない。」
「そんな!! だって現に...」
「拒絶反応が起きているだけだ!」馳の手を握りながら大野は叫ぶ。「臓器移植なんかすると、身体がそれに対して拒絶反応するだろ、この場合も同じなんだよ、憑依された身体はそいつの精神に対して拒絶反応を示すんだ!!」
とても信じられないといった表情で原尾は見ていたが、あまりの苦痛の叫びに眼を背けようとしたその時、馳は突然その叫びを止め、がっくりと脱力した。そして同時に操乱の母体が一瞬痙攣した後、同じように脱力した。
ふーっ、と大きく息を吐いてから、大野は立ち上がり、静かに寝息をたてはじめた二人を見ながらつけ加えた。
「実際はジャッカー達が憑依した身体の中でこんな拒絶反応を起こすことはまず有り得ないんだ。だが人間の身体ってのは本来そういう異物に対抗する力がある筈なんだよね。」視線を原尾に移し、ニヤリと笑って彼は言う。「俺はそういう、身体が本来持っている力を誘発してやることができる。転移心理学で言う拒絶波を出すことができるのさ。」
ただただ唖然として原尾は聞くのみであったが、この時、うーんと伸びをして馳が意識を取り戻した。
「おっ。兄ちゃんが眼を覚ましたぞ。」
「あああぁ、良く寝た。あれ、先輩。お早うございます。」
のんきな馳の肩に手を廻し、心配気に原尾が問いかける。
「大丈夫なの馳君。何ともない?」
「もちろんですよ。気分爽快この上無いってとこです。あれ、どうしたっていうんですか。」
のんびりと受け答えしていた馳も、自分がどこにいるのかを知るに至ってハッとなった。
「あ、あいつは。操乱はどうなり、痛っ。」
たいへんと慌てる原尾に代わって大野が答える。
「あいつはそこにのびてるよ、スタンガンかけられたってことだから当分ピクリともしないだろうよ。」
「あなた、誰です。」頬と腹をさすりながら、訝しげに大野を見つめて馳は問う。
「兄ちゃんをのしちゃった男だよ。」
「何だって、いてて。警官を殴るとは、逮捕してやる。」
途端に原尾が吹き出した。拒絶波などという訳の分からないものを浴びた後遺症で馳が痛がっていたのではないことが判って安心したのだ。正体の判らぬこの大野という男も取りあえず信じて良さそうだ。
「どうしたんです。何がおかしいんです。」
「兄ちゃんが無事だったのが嬉しいんだよ。」
「こら、新米だと思って馬鹿にすんな。僕には馳太一っていう名前があるんだ。」
「わかったよ。新米君。」
この、と喰ってかかろうとする馳を原尾は止める。それを機会に大野は切り出した。
「じゃ、ここらで退散するとしますか。」
「そんな。せめてお礼くらいさせて下さい。」
原尾は言うが、大野はもう歩き始めている。
「商売敵を助けるなんてもう沢山ですよ。もともと俺は、金にならない仕事はやらないんでね。」
原尾は立ち上がって最後にこう問うた。
「待って、商売敵ってどういうことなの? あなたの職業ってなんなの?」
「ジャッカーハンター! 賞金稼ぎさ。」
それだけ言うと、大野は立ち去っていった。少しして、地下駐車場を出て行く車の音がこだました。
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第二章へ続く
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精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。