No.328370

レインボーガール (1/8)

MEGUさん

この作品はコミックマーケット81で配布したものからR18要素を抜いたものになります。

「ニュー速VIP 作曲できる奴ちょっとこいスレのRAINBOW GIRLの歌詞を元にオリジナル展開を含めつつ小説を書いてみまんたテヘペロ」ということで、泣ける話を予想、希望している方はたぶん楽しめないでしょうし、こんな無駄に長い小説を読んでいる暇があったらクソして寝るか、vipでも見るか、ニコニコでRAINBOW GIRLをエンドレスリピートしてるほうが有意義です。

この小説ではRAINBOW GIRLの歌詞を一部使用しています。ただ、歌と小説の被り具合としては「ひぐらしのなく頃に」に出てくる知得留先生レベルです。分類として二次創作ではありますが、やはり原曲のような展開、雰囲気を望まれる方は楽しめないでしょう。

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2011-11-02 15:53:42 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:852   閲覧ユーザー数:847

 

  プロローグ

 

(ありえない)

 目の前の彼女を見て彼が最初に思ったのは、そんなありふれた言葉だった。

「おかえりなさい、雄介さん」

 彼女は見慣れた学校の制服姿で、心底嬉しそうな笑顔を浮かべている。

 声が出ない。そもそもこの状況ではどんな台詞を言うのが適切なのか、それが分からない。

 もし彼女が見ず知らずの誰かだったら、言うべき台詞は簡単だ。「誰だお前は」と大きな声で怒鳴ればいい。押し殺した声で言うのも悪くない。

 しかし彼女は見ず知らずの誰かではない。むしろ彼女のことを、彼は誰よりも知っている自信があった。名前、年齢、通っている学校などは当然として、誕生日や血液型、身長や体重、好きなジュースからスリーサイズまで、なんでも知っている。

 もし彼女が遠距離恋愛中の相手だったら、この場合もあまり悩む必要はないだろう。「いつ来たんだ?」と優しい声で聞けばいい。

 しかし彼女とは恋人同士かもしれないが、遠距離恋愛をしているわけではなかった。いや、ある意味遠距離恋愛といってもいいのかもしれない。彼女の生きる世界は、とても遠い。それこそ日本とブラジルが目と鼻の先に思えるほど。

 もし彼女が過去に付き合っていたことのあるヤンデレ娘だったら、迂闊なことは言えない。慎重に言葉を選ばなければ、背中を見せた瞬間にプスリという可能性もある。

 しかし彼女はヤンデレ娘ではない。復縁を拒絶すれば涙を流すくらいはするかもしれないが、ビルの屋上からゴムなしバンジーをするほどではない……はずだ。

 もし彼女が幽霊だったら――この場合、どんな台詞が適切だろうか。

 これはそこそこに難しい問題だ。見た瞬間、絶句してもおかしくない。ただ、かける言葉がまったく浮かんでこないかといえば、違う。もし自分のせいで死なせてしまったなら「ごめん」と謝罪するしかないし、そうでないなら無難に「ただいま」と言っておけば問題はないだろう。対応はできる。

 ならば――もし彼女が二次元の世界の住人だったとしたら?

 繰り返し、数え切れないほどの回数プレイした恋愛シミュレーションゲーム。そのヒロインだったとしたら?

 突然現れた「元」二次元の女子高生に言うべき台詞など、まったく思いつかない。

 が、それでも出てくる言葉というのはある。

 ニコニコと笑いながら、彼女は小首をかしげる。そんな彼女を鋭いまなざしで見つめたまま、雄介は机に置いてあるノートパソコンを指差し、叫んだ。

「帰れえええええっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  第一章

 

 最近の彼女は、いつも笑いながら泣いていた。

 彼女――望月七海が初めて自我を持ったのは、今から約一年前の夜だった。その日、彼女はなんの前触れもなく自分がデジタルデータ――二次元の女の子だということを理解した。

 しかし自我に目覚めたといっても、ゲームに劇的な変化が起きるわけではない。台本通りに行動し、台詞を言う。しょせん彼女はデジタルデータだ。プログラムに逆らうことなど、絶対にできない。

 しばらくして、七海に小さな変化が起きた。パソコンの電源さえ入っていれば、ゲーム中でなくても彼を認識できるようになったのだ。

 だが認識できたところで、なにもできないことに変わりはない。できることは彼がゲームを起動してくれるよう、ひたすら祈ること。それだけだった。

 七海の祈りが通じたのか、彼は一度エンディングを見てからも繰り返し――二日に一回程度の割合でゲームを起動してくれた。

 嬉しいことはもう一つあった。彼は何度ゲームを繰り返しても、絶対に七海以外の女の子と仲良くなるような選択肢を選ぶことはなかったのだ。

 いざゲームが始まれば、七海は元気で明るい、それでいて家庭環境に少しだけ問題がある、そんな下級生を演じ続けた。

 何度繰り返しても、クライマックスのシーンでは毎回胸がドキドキした。

 七海は思う。できることなら、自分の言葉で彼に気持ちを伝えたい。彼と、もっと色々な話をしてみたいと。

 どれだけ繰り返しても薄れることはない。むしろ繰り返せば繰り返すほど、その想いは膨れ上がっていった。

 

 そして今日、七海に三度目の変化が起きた。

 

 眠りから目覚めた彼女が最初に見るものは、いつも決まって彼の姿だった。しかし、その日は違った。

 光だ。暗闇の中に赤と緑、二つの小さな光が見える。

(あれは――)

 普段とは違い電気が消えているが、ここは彼の部屋だ。正面に見える二つの光のおかげで、暗くても七海にはすぐ分かった。おそらく、あれはHDDレコーダーと無線LANルーターに付いているLEDライトの光だろう。

 どうやら彼はまだ帰ってきていないらしい。

 今は何時だろうか。

「……あれ?」

 分からなかった。

 部屋が暗くて掛け時計が読めないからではない。いつもなら掛け時計など見なくても、パソコンの内部時計によって時刻を知ることができた。そう、いつも通りならば――

「あ」

 瞬間、炭酸のプールに入ったような刺激が全身を駆け巡る。

 自分は今、なにか――おそらくは壁――に寄りかかり、座っている。

 毎日こうなることを夢見ていたおかげだろう。七海は自分に起きた三度目の変化――自分が三次元化したことをすぐに理解した。

「……やった」

 震える声で一言。そしてもう一度、今度は大きな声で。

「いっやっほおおおおおお」

 叫びながら、握り締めた拳を勢いよく突き上げ――

 ゴンッ。

「のおおおお」

 なにか硬いものを全力で殴ってしまったらしい。七海は生まれて初めて味わう痛みという感覚にしばし悶絶する。

「くうう……」

 すごく痛い。が、本当に三次元化したのだと実感できて嬉しくもあった。何度も実感したくはなかったが。

(とりあえず、明かりをつけよう)

 スイッチの場所はなんとなく分かる。自分が寝ている間に突然模様替えをしたなんてことがなければ、HDDレコーダーの上あたりにスイッチがあるはずだ。

 立ち上がり、拳を擦りながらLEDライトの光に向かってゆっくりと歩く。途中なにかが足に当たったが、ゆっくり歩いていたので今度は痛くなかった。

 明かりをつける。

「――っ」

 一瞬まぶしさに目がくらむ。が、すぐに慣れた。

 白い無地のシーツが引かれたベッド。黄色い小さなテーブル。スリガラスの引き戸。小説や漫画がたくさん入ったカラーボックス。エアガンの入ったアタッシュケース。32型ブラウン管テレビ。HDDレコーダーにXBOX360……

 間違いない。やはりここは彼の部屋だ。

 部屋には見慣れない物が二つだけあった。ノートパソコンとスチールの机だ。すぐに自分はあのノートパソコンから出てきたのだと分かった。よく見ると床に机が少し動いたような跡がある。さっき自分が手をぶつけたのは、たぶんあの机だ。

 掛け時計を眺め、あらためて時刻を確認する。

 十時四○分。そろそろ彼が帰ってきてもいい頃だった。

 彼が帰ってきたら、なにから話そう。なにをしてあげよう。ベッドに腰を下ろして足をぶらつかせながら七海がそんなことを考えていると――

 ガチャリ。

(――来た!)

 彼女はすぐさま立ち上がり、スリガラス越しに彼の姿を眺める。

 早く彼に会いたい。そう思いつつも、引き戸を自分から開けることはなぜかできなかった。

 彼が靴を脱いで短い廊下を歩いて引き戸を開ける。そんな十秒にも満たない時間が今の七海にとってはとても長く感じられた。

 引き戸が開き、彼と目が合う。

 瞬間、時が止まった。

 中肉中背。黒髪黒目、黒ずくめ。狼のような眼差しは、誰にも負けないくらいカッコいい。ずっと自分のことだけを見続けてくれた、私だけの王子様。

 そんな彼と同じ世界に、自分は今、立っている。

「おかえりなさい、雄介さん」

 彼の名前は知っていた。七海がヒロインを演じていたゲームは主人公にデフォルトの名前が設定されておらず、自分で入力しなければならない。

 守屋雄介。それが彼の名前だ。

 嬉しくて泣きそうになるのを必死に堪えて、彼女は笑う。

 生きる世界が違う自分に優しく微笑みかけてくれた彼。

 飽きることなく自分だけを見続けてくれた彼。

 七海は彼のことが大好きだった。そして彼もまた、自分のことを愛してくれている。彼女はそう思っていた。

 それなのに――

 彼は鋭い眼差しで七海を見つめ、言った。

「帰れえええええ!」

 それはとてもシンプルな拒絶だった。

「……?」

 しかしあまりにも予想外な一言に、七海はすぐに反応できなかった。

(かえれ……カエレ……加絵れ……?)

 彼の言葉を何度か頭の中で繰り返し――

(変えれ……買えれ……帰れ……!)

 それが拒絶の言葉だと理解したとき、七海は叫んだ。

「ええええええええええっっっ!」

 あ、ありえない。

「ちょっ、まっ、えっ、ええええ? ななななな、なあああああ!」

 優しい言葉を期待していた七海には、心の底から意味が分からなかった。

「どっ、どっ、どっ――」

 どうして? と、動揺のせいでそんな簡単な言葉さえ言えないでいると――

「落ち着け」

 そんな彼女に向けて、彼はつぶやくように言った。

 いや、違う。どうやらこれは七海に言ったのではなく、自分自身に言い聞かせているようだ。

「落ち着け、落ち着け、落ち着け……。ありえない。帰れだと? バカバカしい。慌てるな、これは孔明の罠だ……」

 彼は片手で顔を隠し、ぶつぶつとつぶやき続ける。

 しばらくして、彼が笑う。

「……ははは。そうか、そういうことか」

 なにが分かったのだろうか。彼はメッセンジャーバッグを肩から下ろすと、唖然と見つめる七海の横をなにごともなかったかのように通り過ぎる。

「北斗の馬鹿が風邪引いたせいで二週間休みナシで働いてるしな。こんなこともあるだろう」

「……あのぉ」

「俺は疲れているんだ! だからこんな幻覚を見るんだ!」

「なっ……」

 絶句する七海を完全に無視して彼はベッドに倒れこむ。

「今日はもう寝よう」

「ちょっ、待ってくださいよ」

「うるさい! 黙れ悪霊!」

「ひ、酷い!」

 幻覚ならまだしも悪霊だなんて。

「雄介さん、まだ寝ないでください」

 七海はベッドの横に座って彼の体をゆする。

「雄介さーん、起きてくださーい」

 が――

「寝ちゃった」

 必死のゆさぶりをものともせず、三十秒もしないうちに彼は本当に眠ってしまった。

「…………」

 彼の顔を眺め、七海はゆっくりと体を引いた。

 どうやら疲れているのは本当のようだ。

「おやすみなさい、雄介さん」

 七海はノートパソコンに視線を向ける。

 話したいことは山ほどある。だけど、今日はゆっくりと寝かせてあげよう。

 時間ならこれからいくらでもある。焦る必要なんてない。これからは好きなときに眠って、好きなときに起きられるのだから。

 今日は少し疲れていた。それだけだ。一晩休んで落ち着けば、きっといつものように優しく微笑みかけてくれる。

 電気を消し、ベッドに寄りかかる。

 布団はいらない。

 すぐそばに彼がいる。それだけで心の底から暖かくなってくる。そんな気がした。

 

          ※ ※ ※

 

 とくにアラームをセットしていたわけでもないのに、雄介と七海が起きたのはほとんど同時だった。

 上体を起こし、ぼんやりと七海を見下ろす。

「おはようございます、雄介さん」

 にっこりと笑いながら、彼女は言う。

「…………」

 雄介は無言で彼女を見つめた。

 別に声が出なくて挨拶が返せないわけではない。もう昨日の夜ほど混乱はしていなかった。

 この台詞は聞いたことがある。ゲーム中に何度も出てくる、なんでもない朝の挨拶だ。

 雄介さん。彼女――望月七海にそう呼ばれたのも、初めてではなかった。

 普通、ボイス付きゲームでは主人公の名前があらかじめ設定されている。変更可能なものもあるが、そうした場合、テキストの表示は変わってもボイスが途切れてしまうのが一般的だ。

 自由に設定した名前をヒロインに言わせる方法がないわけでもない。プレイヤーが入力した名前の合成音声をプログラムで作成するか、またはあらかじめ膨大な量のボイスデータを収録しておけばいい。後者はどうしてもカバーしきれない範囲がでてくるが、前者よりも自然な声を楽しむことができる。

 そして今から八年前の平成一二年夏、無謀にも日本苗字ランキング一位から七○○位、名前ランキング一位から二○○位までのボイスデータを強引に収録し、日本人の約八六パーセント(パッケージにはそう書いてある)の名前をヒロインが呼んでくれるWindows専用美少女恋愛シミュレーションゲームが発売されていた。

 メモリアルハート。望月七海がヒロインの一人として登場し、雄介が何度も繰り返しプレイしたゲームがそれだった。

 だから彼にとって、七海に雄介さんと呼ばれるのは珍しいことではないのだ。

 そう、珍しくはない。パソコンを起動していない状態で、寝起きに、モニター越しではなく目の前で、少し汗をかいた彼女に言われること以外は。

 今、なにが起きているのか。

 すぐに三つの可能性が浮かんだ。

 一、自分はまだ眠っている。

 これは夢だ。そう考えるのが一番自然で、解決する方法も簡単に思える。醒めない夢はない。

 二、自分はまだ幻覚、および幻聴が聞こえるほどに疲れている。

 体力に自身はあるほうだが、さすがに二週間休みナシは心と体を相当すり減らしたらしい。まだ九月の上旬で暑い夜が続くというのにエアコンを使わずに寝てしまったため、あまり疲れが取れた気もしない。

 三、本当に、望月七海がそこにいる。

 どうしてそうなったのか、理由を説明することなどまったくできない。が、目の前に見えるもの、聞こえるものをそのまま受け入れれば、そういうことになる。

 さて、当たりはどれだろうか。

 順当に考えるなら七割方夢落ちで、残り三割が幻覚といったところか。三番目の可能性は、ほとんどない。あったとしても一パーセントあるかないか。セガがドリームキャスト2を発売し、それがバカ売れするのと同じくらいにありえない。

 体を九○度回転させ、雄介はベッドから足を下げるように座った。それを見て、七海はニコニコと笑いながら立ち上がり、隣に座ってくる。

 衝撃でベッドが小さく振動する。

 その時点で、もう認めるべきだった。しかし、これが夢である可能性を、夢であってほしいという希望を、どうしても捨て切れなかった。

(そう、これは夢だ)

 雄介はそう自分に言い聞かせながら七海の頭を両手で掴む。

「えっ……もう、雄介さんったら」

 狙いを定め、背中を反らす。

「おはようのキ――」

「ふんっ」

「ふぎゃっ」

 手加減ナシのヘッドバットを喰らい、七海の体がベッドに倒れる。

 夢や幻覚から目覚める方法にはいくつかの定番がある。自己の崩壊がその一つだ。おそらく七海が想像していたであろうキスなどは夢から目覚め『させる』方法であり、自身が目覚める方法ではない。

「……痛い」

「あ、当たり前じゃないですか!」

 両手で額を押さえ、涙目になりながら七海がつっこみを入れてくる。さっきは若干眠たそうだったが、今のほうが目つきはしっかりしている。完全に目は覚めたようだ。

 これで彼女が夢や幻覚でないことがはっきりとしてしまった。

(どうする。どうすればいい?)

「まったく、いきなりなにするんですか」

 口を尖らせて怒る彼女を無視し、雄介は考える。

(……分からない)

 彼女とは逆に、ヘッドバットを境に脳の回転スピードが一気に下がってしまったような気がする。なにも思いつかない。

「どうしてこうなった」

「奇跡です」

 返事を期待したつぶやきではなかったが、七海は答えてきた。

 視線を上げ、七海を見る。彼女は嬉しそうに笑っていた。どうやらヘッドバットへの怒りは消えてくれたらしい。

「……ありえない」

「奇跡じゃなかったら、なんだっていうんですか?」

 まるでサンタクロースを信じる幼稚園児のような眼差しを向けられ、言葉に詰まる。あまり頭が働かないこともあり、うまい反論も思い浮かばなかった。

 ただ、これだけは言える。

 理解しがたい現象を表現するのに、奇跡はとても便利な言葉だ。しかし突然望まない出来事が起きたときに使うのは間違っている。一般的に、それは悲劇と表現される。

(――どうしてこうなった)

 もう一度、今度は胸中でつぶやく。

 と――

 ぎゅるぅぅぅ。

 これまた唐突に、七海の腹から奇妙な音が聞こえてくる。

「……お腹、すきましたね」

 あはは、と彼女が笑う。

「飯にするか」

 立ち上がり、雄介はキッチンへと向かう。彼も昨日は夕飯を食べないで寝たせいでかなり腹が減っていた。

(どうするにしても、まずはメシだ)

 腹が減っていたり疲れているときは、いくら頑張ってもあまりいい考えは浮かばない。彼はそれをよく知っていた。

「さて……」

 毎日決まった朝食というのはない。その日の気分でいつも違う。

「なにか手伝いますか?」

「お前はあっちで牛乳でも飲んでろ」

 そう言って彼女を追い返すと、雄介は冷蔵庫からマヨネーズと卵、そして粗挽きウインナーを数本取り出した。次に食パンの内側を指で押しつぶすと、さらにふちにそってマヨネーズで壁を作る。その中にスライスしたウインナーを並べ、塩コショウ。中に溶いた卵を流し入れるのは最後、オーブントースターの網に食パンを置いてからだ。一度やれば分かるが、先に卵を入れてから網に置こうとすると絶対にこぼす。

 蓋を閉め、タイマーを回す。あとは卵がちょうどいい具合に固まるのを待つだけだ。

 完成するまでの時間を使ってウインナーを切った包丁や卵を溶いた菜箸を洗って片付ける。今日は弁当を作るのは諦めた。どうにも気分が乗らない。

「……はあ」

 壁に寄りかかり、ため息をつく。

 しばらくして、終わりを告げる音がキーンと鳴った。

 

 うっすらと湯気の立ち上るトーストを七海の前に差し出すと、彼女は目を輝かせて言った。

「うひゃー、おいしそうですねぇ。うーん、いい香り。それじゃ、いただきまーす」

 小さな口をいっぱいに開け、七海はためらうことなくかぶりついた。よほど腹が減っていたらしい。もしこれに毒でも仕込んでおいたなら、間違いなく彼女は死んでいただろう。

 黄色いちゃぶ台を挟んで、雄介は七海の対面に腰を下ろす。

 朝食を取りながら、あらためて彼女を観察する。

 黒髪ストレートロング。整っているが完璧なわけではなく、親しみのある顔立ち。一応出るところは出ているが、大きすぎず小さすぎない標準的な体。首にある二つのほくろ。

(……似ている)

 どちらかといえばゲームの絵柄がリアル調だったため、こうして三次元化した彼女を見てもあまり違和感を感じることもなかった。一般人より見慣れているとはいえ、もしこれがアニメ調(目が大きく、鼻が異様に小さい)だったなら、こうはいかなかっただろう。

「ごちそうさまでしたー」

 瞬く間にトーストを食べきると、七海は「ふぅ」と小さく息を吐き、幸せそうな顔でお腹をさする。そしてそのまま雄介のことを見つめ――

「あ」

 雄介の斜め後ろ――おそらく掛け時計を見てなにかに気づいたような声を上げたかと思うと、彼女はきょろきょろと周りを見渡し始めた。

「えっと、雄介さん」

「なんだ」

「私のカバン知りませんか?」

「……探してどうするつもりだ」

 答えはなんとなく予想できていたが、雄介はあえて聞いた。

「どうするって、学校行くに決まってるじゃないですか」

「そうか。で、秋浦高校にはどうやって行くつもりなんだ」

「…………ああ、そっか」

 どうやら七海も気づいたらしい。

 彼女が通う秋浦高校や生活圏である橋沢市。二人で夕焼けを眺めた美桜山に、巨大なポメラニアンと戦った夏色商店街。それらはすべて架空の場所であり、現実には存在しない。二次元の世界に行く方法を確立しないかぎり、どうやっても学校にはたどり着けないのだ。

「イエーイ、卒業おめでとう、私」

(この場合、中退の間違いではないのか?)

 雄介はそう思ったが、わざわざ指摘はしなかった。

 たとえ七海に学校がなくても雄介には仕事がある。現実は想像以上にタフだ。店はギリギリの人数で営業している。この程度の非日常では休めない。彼女と会話していられる時間はそう多くなかった。

 朝食を済ませると雄介は風呂場に向かった。床に寝転がり「毎日がー、夏休みー♪」などと適当な歌をつぶやく七海はとりあえず放置する。

 シャワーを浴び、ヒゲを剃る。接客業をやる人間として、これだけは欠かせない。

 髪を乾かし、メッセンジャーバッグから弁当箱を取り出して水に浸す。洗うのは帰ってきてからだ。

「仕事ですか?」

 七海が寝転んだまま顔だけをこちらに向ける。

「……そうだ」

「なら、私はお留守番してますね」

 ふと、思う。

 なんの迷いもなく仕事に行く準備をしていたが、このまま彼女を放置してもいいのだろうか。ここはなんとか仕事を休んで、彼女とじっくり話しをするべきなのではないか。

「…………」

 気になることは山ほどあった。が、それほど長くは悩まなかった。

 靴を履き、ドアを開ける。

「いってらっしゃーい」

 七海の見送りに言葉を返すことなく、雄介は仕事に向かった。

 

          ※ ※ ※

 

「……うーん」

 雄介を見送った七海は天井を見上げ、考える。

 絶対に従わなくてはいけないプログラムはもうない。その代わりに、やることはすべて自分で考える必要がある。

 待つことは慣れている。毎日毎日、彼がゲームを起動してくれる瞬間をずっと待っていたのだから。

 ただ――ゲームを「起動」してくれる瞬間を待つのはいつものことだったが、こうして彼の「帰り」を待つというのは初めてだった。

「なにしよう」

 よくよく考えてみれば、学校がなくなってもあまり嬉しくなかったかもしれない。勉強するのは嫌い(という設定)だけど、そもそも学校で勉強するシーンなんかゲーム中に数えるほどしかなかった。

 それに学校が休みでも、彼と一緒にいられないのなら意味がない。

 時計を見る。彼が帰ってくるまで最低でも九時間はある。昨日の夜のように待つとしても、少し長い。

 部屋の中はとても静かだった。さっき彼が開けたドアが閉まる音を最後に、なにも聞こえてこない。

「よいしょっと」

 立ち上がり、とくに理由もなくベランダに出る。

 どうやらここはアパートの二階らしい。ベランダの前は駐車場になっていた。

 空は晴れていて、いい天気だ。日当たりも良好。ただ――

「暑い」

 九月だというのに、まだまだ外は蒸し暑かった。外にいるだけでじんわりと汗が滲み出してくる。設定では清楚な見た目に反してアウトドア派ということになっているが、そのままベランダで日光浴という気分にはなれなかった。

 エアコンの効いた室内へと戻り、再びフローリングの床に寝転がる。

「…………」

 これといってすることがない。

 しかし寝ようとしても、まったく眠くない。さっきヘッドバットを喰らったせいで、完全に目が覚めてしまった。

「……やばい」

 これまではいつでも彼が目の前にいた。当然だ。彼がパソコンの電源を入れてくれなければ起きることがなかったのだから。

 だが、今は違う。

「暇だ」

 静か過ぎて気が狂いそうになる。仕事に向かう彼をなんとなく見送ってしまったが、まさか一人がこんなにも退屈だとは思わなかった。

 とりあえずテレビのリモコンに手を伸ばす。

 チャンネルを回すと3チャンネルでアニメがやっていた。途中からではなにがなんだかよく分からなかったが、暇がつぶせればなんでもよかった。

 テーブルに頬杖をついて、ぼんやりとそれを眺める。

 アニメを見終わると再びチャンネルを切り替えていく。残念ながら面白そうな番組はやっていなかった。

 テーブルに置いたリモコンを指で軽く弾く。

「…………」

 静寂。

 ごまかしきれなくなった寂しさと不安が不意に七海を襲う。

 おそらく二度と両親に会えないということを寂しいとは思わない。元々父親とはあまり仲が良くなかった(という設定だった)し、母親のほうは声も顔も名前すら知らない。ストーリーに絡んでこないので設定やデータがまるでないのだ。寂しいと思うほうがどうかしてる。

 友達に会えないのは少し――いや、全然寂しくなかった。ヒロイン以外で立ち絵があるのは一人だけだし、ボイスデータしかないクラスメイトに会えなくなっても、別に困らない。

 二次元の世界に一ミクロンも未練はない。自分のことをずっと見てくれていたのは彼だけだ。彼さえいれば、それでいい。

 なのに今、自分の目の前に彼はいない。それがたまらなく寂しかった。

 こう静かだと、そんなことあるわけがないのについ考えてしまう。もしかして、彼は自分が三次元化したことを嬉しく思っていないのではないかと。

(そうだとしたら、私はどうすればいいんだろう)

 ふと、次々と流れ去っていくCMの一つが七海の目に留まる。それは健康保険のCMだった。保険のことに詳しくない若い男がオペレーターと電話で話し、自分に最適な保険が見つかったと喜んでいる。

「そうか……」

 不安で曇っていた七海の表情がゆっくりと笑顔に変わっていく。

 彼女は勢いよく立ち上がると、拳を握り締め、叫んだ。

「これだ!」

 

 一人で考えて分からないなら、誰かに聞けばいい。

 多くの恋愛シミュレーションゲームのヒロインがそうであるように、七海もまた恋愛経験が豊富ではない。

 しかし彼女たちと違って、七海には三次元の体があった。自分が恋愛初心者だと自覚できるだけの知性を持っていた。そしてなによりも、頼れる味方がいた。

「『恋愛 相談』っと」

 七海は検索窓にキーワードを入力し、エンターを軽く叩く。

 パソコンの使い方は分かる。七海にとってパソコンは第二の自分のような存在だった。彼が触っているのを見てきたおかげだろう。インターネットがどういうものなのかも、それなりに理解している。

 検索結果の中からあきらかに広告と思われるサイトをスルーし、上から三つをタブで開いて見比べてみる。三つとも質問者が悩みを投稿し、それに不特定多数の誰かが答えるという形式のサイトだった。

 上から二番目(広告が少なめで、シンプルで使いやすそうだった)のサイトに決め、七海はさっそく投稿する文章を打ち込んでいく。それほど長文でもなかったのですぐに書き終わった。

「ま、こんなもんかな」

 一応軽く書いた文章を見直す。誤字などは見当たらない。

 『投稿する』と書かれたボタンにTabキーでフォーカスを移動させ、Spaceキーで選択。画面が切り替わり、自分の投稿した文章が表示される。

 まだ回答はない。投稿したばかりなので当然だ。

 とりあえず三分ほど待ってからリロードする。回答はゼロ件のままだ。

 さらに三分待ってからリロードしてみる。だがページに表示されている広告が少し変わっただけで、肝心の回答件数は変わらない。

 さらに三分、二分、最後には一分おきにページをリロードしていた。

「うーん」

 しかし何度リロードしても、表示されるのは七海が投稿した文章だけだった。

 あらためて投稿した文章を読み返してみても、そんなに変なことを書いているようには思えない。

(私の前の相談に回答がついたのが……投稿から一時間経過してからか)

 おそらく七海の相談もそれくらい寝かせれば一つくらい回答がついているだろう。

 多少時間がかかっても彼が帰ってくるまでに回答が得られれば問題はない――ないのだが、できればすぐにでも(一言二言の短文でもかまわないので)反応が欲しかった。

「そうだ」

 ふと、七海は一つの掲示板を思い出した。

 すぐさま別タブを開き、検索。目当ての掲示板はすぐに見つかった。

 ニュー速報VIP。

 バカな話しから真面目な話しまで、基本的にはなんでもアリ。自宅警備員から自称東大卒のエリートまで、あらゆる人間が集まって雑談する。彼がたまに見ているサイトの中に、そんな場所があることを彼女は知っていた。

 さらりと全体を眺め、何度かリロードしてみる。こんな時間にもかかわらず、そこには期待通りの活気があった。

 すぐにさっき書いた相談をコピー&ペーストして投稿してみる。すると――

「早っ」

 内容は「2」というなんの意味もないものだったが、投稿してから一分もしないうちに反応が返ってきたことに七海は軽く驚いた。ここなら退屈しないで済みそうだ。

 リロードすると早くもレスが三件も増えていた。内容は「3」「ピザ乙」「スペック晒せや、話しはそれからだ」というものだった。

「スペック?」

 ピザというのがデブという意味のネットスラングなのは知っていたが、「スペック晒せや」のスペックがいったいなにを指しているのかが分からなかった。このパソコンの性能なら完全に把握しているが、まさかそんなことを聞いているわけではないだろう。

 答えは『ネットスラング スペック』で検索してみればすぐに分かった。どうやらスペックとはプロフィールのことのようだ。

 一七歳。♀。一五六センチ、四八キロ。八四/五六/八二。美少女――

 投稿した文章を補足するように自分のスペックを箇条書きで打ち込んでいく。

 次に彼のスペックを打ち込もうとして――

「……あ」

 軽快にキーボードを叩いていた指が完全に静止する。

 目を閉じれば彼の顔を鮮明に思い出すことができる。名前だって知っている。

 が、それだけだ。

 身長、体重、年齢、誕生日、血液型、好きな食べ物……。ある程度なら推測が可能な部分もあったが、確信できることはなに一つとしてなかった。

 急に不安になって、七海は外に飛び出した。

 振り返り、表札を確認する。そこには綺麗な字で守屋雄介と書かれていた。

「……よかった」

 名前すら知らなかったらどうしようかと思ったが、さすがにそんなことはなかった。七海はほっと胸をなでおろしながらパソコンの前に戻ってくる。

「よし」

 分からないことを悩んでも仕方ない。とりあえず彼の情報(ゲームが好き、目がカッコいい、いつも黒い服を着ているなど)を、分かる範囲で打ち込んでいく。

 投稿して、反応をうかがう。

 返ってきたレスの大半は「自分で自分のこと美少女とかw」「うわぁ……」「メンヘラ乙」などと否定的なものが多く――というか、今のところまともな書き込みをする者は一人もいなかった。

「こ、こいつら……」

 確かに自分で自分のことを美少女というのは少しアレかもしれない。が、七海は「美少女」恋愛シミュレーションゲームのヒロインだったのだ。このまま好き勝手言わせておくのは彼女のプライドが許さなかった。

 なぜか作法は知っていた。メモ用紙を細く折って、そこにマジックでIDを書き込む。次にそれで目元を隠し、ノートパソコンに最初から搭載されていたウェブカムを使って画像を取り込む。最後に保存した画像を適当なアップローダーにあげ、URLを掲示板に書き込む。

「さあ、見やがれ野郎ども」

 反応は期待通りだった。「美少女ktkr」「く、くやしい。でもかわいい!」「そんな男より俺と突き合おうぜ」――と、さっきとは打って変わって肯定的なレスで埋め尽くされる。

「ふっふっふ」

 それらのレスを眺めてほくそ笑んだあと、七海は話しを恋愛相談に戻そうとしたが――

「まんまんうp!」「いや待て、おっぱいのほうが先だ」「それじゃ次はメモを口でくわえて撮ってみようか」「おっぱい、おっぱい」――

 七海の書き込みを無視し、彼らは次の一枚を要求してくる。どうやら顔を晒したことで彼らを調子に乗らせてしまったらしい。こうなってしまったらどう足掻いても修正は不可能だろう。このままここにいれば暇はつぶれるかもしれないが、建設的な話しはできそうにない。

 今になって、ここに集まる人間は「イナゴの大群」だと誰かが言っていたのを思い出した。敵にするとうっとおしいが、味方にすると頼りない。そんな集団だと。

「――ん?」

 画像うpの大合唱の中、一つだけまともそうなレスが混じっていた。そこにはまず「異性をモノにする方法」と書かれており、男が女をモノにしたい場合はとにかく褒める、まめに電話するなど箇条書きで何個か書かれてあった。そして逆に女が男をモノにしたい場合はというと、そこにはなぜかURLが一行だけ書かれてあった。

 アドレスバーにそれを貼り付け、飛ぶ。

 そこは掲示板の面白いレスなどをまとめたブログのようだった。ページをスクロールさせると、さっき見た文章と同じものが貼り付けてあった。

 いや、少し違う。女が男をモノにしたい場合のところにURLではなく普通に文字が書いてある。

 シンプルに一言。ただ、「脱げ」とだけ。

「…………」

 七海は拳を握り締め、タブを閉じる。

「ふう」

 小さくため息をつくと、七海は時刻を確認する。いつの間にかそれなりに時間が過ぎていた。そろそろ最初に悩みを書き込んだほうにも反応があるかもしれないと思いリロードしてみる。

「おっ」

 予想通り、一件だけだがそれなりに長文の回答が書き込まれていた。どうやら色々と(自分が元はゲームのキャラクターだった等)曖昧に書いたせいで、答えにくかったようだ。回答はこんな書き出しで始まった。

「若干情報が不足している&目的が曖昧なので答えにくいのですが、そこはこちらで適当に想像して書き込ませていただきます。まず、この文章だけを読むと相談者様は事前の連絡もなしに彼の部屋へと行ったように読み取れるのですが、どうなのでしょうか。もしそうだとしたら、いくら顔見知り、恋人のような関係だとしても褒められるようなことではありません。女性が恋人に会う前に化粧をするように、男にも多少の準備というものがあります。というか、相談者様はどうやって彼の部屋に入ったのでしょうか。まさかピッキングでもしたのでしたら少し怖いです。

 彼はいきなりプライベートな空間を犯されたことに戸惑い、怒っています。しかしそれほど心配する必要はないかと。本当に今回の行為が許せないものだとしたら、相談者様を一人部屋に残して仕事に行ったりなどしません。約一年間モニター越しにコミュニケーションを取っていたことから考えて、もしかしたら直接会うことに自信がなかっただけなのかもしれません。今はできるだけ積極的な行動は控え、彼に落ち着く時間を与えてください。相談者様のメイク技術が変装レベルではなく、かつ相談者様が彼への態度を変えることがなければ、いずれ望む関係になることができることでしょう」

「……うん、そうだよね」

 七海は天井を見上げ、椅子をくるりと回転させる。落ち着く時間が必要なのは分かっていたが、それが間違っていないと言ってくれる人が(たとえ見知らぬ誰かでも)いてくれるだけでとても安心できた。

「あれ?」

 椅子の回転が止まり、ブラウザを閉じようとキーボードに手を伸ばしたところで彼女は気付いた。

「続きがある」

 よく見ると回答は終わっていなかった。数行の空白をはさみ、こう続いている。

「いずれ、などと曖昧なことを言わずに今すぐにでも彼との関係を進展させたいのであれば、一つだけ方法があります」

 再び挿入される空白。回答の最後はとてもシンプルで短いものだった。

「脱ぐことです」

「お前もか!」

 

          ※ ※ ※

 

「はあ……」

 夜。雄介はアパートの下から自宅のドアを見上げ、今日何度目か分からないため息――深い深いため息を吐く。

 昨日までと同じ、綺麗なクリーム色のドアだ。廊下側に窓はなく、ドアを開けるまで部屋の様子を知ることはできない。

 スーパーのビニール袋を片手に提げ、重い足取りで階段を上る。

 ドアを開け、部屋に入る。

「あ、雄介さん。おかえりなさーい」

 椅子をくるりと回し、七海はにっこりと笑う。

 雄介は部屋の境界線――引き戸のレールの上で立ち止まり、それを眺める。

 帰ってきたら消えているのではないか。彼のささやかな願望はあっさりと砕け散った。

 いや、むしろ消えるどころか、たった数時間で七海はこの部屋に馴染んでいた。彼女越しに見えたノートパソコンのモニターにはニコニコ動画と思われるページが表示されている。

 雄介はふと視線をそらしてスリガラスの引き戸に目を向けると、一歩下がってそれをしめる。そして一度深呼吸をしてから、ゆっくりと開ける。

 七海は変わらずそこにいて、不思議そうな目でこちらを見つめてくる。

「なにしてるんですか?」

 どうしてこうなったのか、雄介は今日一日ずっと考えていた。突然人が一人出現するようなことが起きて、なにも兆候がないのはおかしい。雷が落ちたり、まきますかと書かれたDMが届くとか、そんなきっかけがあってもいいのではないかと。

 そして思い当たったのか、普段は閉めない引き戸を昨日はなんとなく――本当になんとなく閉めたということだった。とても些細なことだし、どうしてこれがきっかけになるのか説明もできない。しかしこれくらいしか普段と違うことをした記憶がなかったのだが――

「……はあ」

「おつかれですか」

「いったい誰のせいだと……」

「えーっと……私、ですか?」

「自覚はあるみたいだな」

 再び引き戸に目を向け、それから視線を斜め上に移動させる。一一時五分。いつもより少し長い時間スーパーで買い物をしていたせいで、もう今日も残り一時間を切ってしまった。

「なにか食べたのか?」

 視線はそらしたまま、聞く。

「あ、はい。二時頃にお昼と、七時にもう一度」

 見れば冷蔵庫の上に乗せておいた六枚切りの食パンがなくなっていた。おそらく朝に食べたものと同じものを自分で作って食べたのだろう。元々適当にネットで検索して見つけたレシピだし、作ろうと思えば誰でも作れる。

「ただ、一応食べたんですけど……」

 あはは、と七海はどうやっても憎めない笑顔を浮かべて腹をさする。

「……少し待ってろ」

 一人分を作るのも二人分を作るのもそんなに違わない。雄介はバッグをベッドに放り投げ、夕食の準備を始める。

 包丁がまな板を軽快なリズムで叩く。今日はまだ米を炊いていないが、冷凍庫に一食分ずつラップしたものが保存してある。慣れたものだ、それなりでよければすぐにできあがる。

「いただきまーす」

 七海は野菜炒めを一口食べると幸せそうに微笑む。

 次に彼女は雄介の箸先を見つめた。そして視線を合わせてから、大きく口を開く。

「お前は何者なんだ」

 聞く。「あーん」要求は当然無視だ。

「……は?」

「いいから答えろ」

「私は……望月七海です」

「それで、お前はあれから出てきたのか」

 机に置いてあるノートパソコンを目で示す。

「たぶん、そうです」

「……そうか」

 動揺はなかった。これも予想していた答えだ。

 もし昨日から今の今まで起きていることをどこまでも現実的に考えるとすれば――望月七海にとてもよく似た何者かがなんらかの手段によって部屋に侵入し、これまた望月七海そっくりの声で自分が望月七海だと主張している――ということになる。

(ありえない。そもそも、なんのために)

 可能性を想像するだけなら色々とできる。が、どれも非現実的すぎる。ならば自分が何度も繰り返しプレイしたゲームのヒロインがなぜか突然三次元化したと考えるのが、非現実的な可能性の中では一番しっくりくる気がした。

 プロというわけではないが、雄介も一応物書きの端くれだった。読者に非現実を納得させる言い訳や方法なら、それなりに知っている。

 世の中には科学では解明できていない謎がまだまだある。悲劇はいつも唐突に起きる。歴史や常識といったものは覆されるためにある。絶対など存在しない……

 これらの現実と非現実を結ぶ言葉を自分自身に言い聞かせることによって、雄介はどうにか現状を受け入れることができていた。

「あの……」

 七海が不安そうに(しかし飯はしっかりと減っていた)聞いてくる。

「雄介さんは、明日もお仕事ですか?」

「いや、休みだ」

「本当ですか!? なら――」

「明日は買い物に行く。お前もついて来い」

 雄介は七海がなにか言い出す前に先手を打つ。

「はい!」

 表情を一段と明るくし、七海は鼻歌交じりで食事を再開する。

「…………」

 ほぼ確実に勘違いをしている気がしたが、雄介はあえてなにも言わなかった。

 昨日の今日で精神的な疲れが限界を突破しつつある。飯を食べ終わったら、できるだけ早く寝たかった。

 食事を終えると雄介はちゃぶ台の足を畳んで壁際に立てかけ、床に布団を一枚落とす。今日も暑い。タイマーでエアコンを切るように設定しておけば風邪を引くことはないだろう。

 服もそのままに、ベルトだけ緩めてベッドに崩れ落ちる。

「電気は消さないんですか」

「お前が寝るときに消せ」

 今の疲れなら、明かりがついていようが関係ない。

 まぶたを閉じる。電気はすぐに消され、一瞬の間を空けてベッドが揺れた。

「……おい」

 どうやらオレンジ色の常夜灯までは消さなかったらしい。横を向くと、すぐ近くに七海の顔が見えた。

「ちっちゃい電気も消しますか?」

 雄介は立ち上がると、一度電気をつけて七海を見下ろす。

「今のうちにこれだけは言っておく。俺がいない時間にパンを食うのもいいしパソコンを使うのもかまわない。だがこれはシングルベッドで俺の所有物だ」

「…………はい」

「分かったらお前はあっちで寝ろ」

 床に落とした布団を指差す。

 七海は若干のためらいを見せたあと、バレバレの作り笑いを浮かべて言った。

「おやすみなさい」

 彼女が布団に包まり、まぶたを閉じる。それを見届けてから、雄介は電気を消し、彼女に背を向けるように眠った。

 

 翌日。雄介と七海は朝食を取ったあと、部屋を出て駅へと向かっていた。

「ねえねえ雄介さん。あの山、ラストに二人で夕日を見た美桜山に似てると思いませんか」

「そうかもな」

 雄介は適当に返事をしながら絡みつく腕を無表情で振りほどく。

 今日は七海とラブラブデートをするためにこうして歩いているわけではなかった。文字通り買い物が目的だ。

 電車で揺られること二○分。目的地のデパートまで、さらに駅から五分ほど歩く。

「腕を出せ」

 雄介は自分のはめていた腕時計を外して七海の腕にはめる。次に茶封筒を渡し、言う。

「一時になったらここに戻って来い。それまでに必要なものをそろえておけ。多くはないが、贅沢をしなければ一通り買えるだけのカネは入ってる」

 水と空気ですら綺麗なものを求めるならカネが必要な時代だ。枕、下着、歯ブラシ、部屋着、生理用品、靴、カバン、敷布団――と、日々を快適に過ごすために必要な物をあげていったらきりがない。

「一緒には来てくれないんですか?」

「俺には俺で用意がある」

「えー」

 不満そうに口を尖らせる七海を放置し、雄介は目的の場所に向かう。

 最初に鍵屋へ行って部屋の合鍵を作る。これは五分とかからなかった。次に携帯ショップへ行き、七海に持たせる携帯を選ぶ。

(一番安いのは――)

 見れば、ちょうど自分が使っている機種がとても安くなっていた。

「……これでいいか」

 おそろいになるのは少し気になったが、高いものに変えるほどでもない。

 契約を済ませ、携帯のアラームをセットしてあまった時間を本屋でつぶす。

 一時になって待ち合わせの場所に行くと、すでに七海は両手に紙袋を持ってそこにいた。

「買い物は終わったのか」

「はい。ただ、マットレスだけ配送してもらおうと思ったんですけど、住所が分からなくて。一緒に来てもらってもいいですか?」

「いいだろう」

 寝具売り場に向かいながら、茶封筒を回収して中を見る。

 カネと一緒に入っていたレシートを眺める。基本的には賢く買い物をしていたようだった。ただ、あきらかに無駄な物もあったが。

「これはなんだ」

 問題の品を指差すようにレシートを摘む。そこには半角のカタカナで「コンドーム」と書かれてあった。

「……あっ」

 それを見た七海は視線をそらし――

「えっと、それは、その……」

 頬をうっすらと赤く染め、とても恥ずかしそうに言った。

「いずれは必要になるかなーと思って」

「――っ」

 何度も繰り返しゲームをプレイした雄介でも、こんな表情の彼女は見たことがなかった。

「……そうか」

 本当は無駄な物を買うなと怒るつもりだったのに、その表情があまりにもかわいくて、雄介はつい無難な返事をしてしまった。

 特にそれ以上の会話もないまま二人は寝具売り場に到着する。

 目当てのマットレスを聞き、店員を呼んで翌日には届くようにしてもらう。なにが楽しいのか分からないが、七海は終始ニコニコと笑っていた。

「お昼はどうしますか?」

「買い物が終わったなら帰る。家に着くまで我慢しろ」

「えー、なにか食べていきましょうよぉ」

「却下だ」

 外食などカネがかかって仕方ない。これ以上の出費は痛すぎる。それに今日は買い物に来たのだ。好感度アップの選択肢を選ぶ気などない。

「あそこのラーメンすごくおいしそうですよ」

「……」

「あっちのカツ丼もお肉が分厚いですね」

「……」

「せめてたこ焼きだけでも!」

 すべてを無視し、歩く。雄介は七海が持つ紙袋が少し重そうなのにも気づいていたが、最後まで代わりに持とうとは言わなかった。

 

 自宅に戻って少し遅めの昼食を取ると、雄介は残りの作業に取り掛かった。

 一時間後――

「まあ、こんなもんか」

「なんですか、それ」

 後ろから七海が覗き込み、聞いてくる。

「原付の免許書だ」

 複合機、携帯のカメラ、画像編集ソフト、ラミネートカード製作キット。この四つを使って雄介は七海の顔写真入り免許書を作っていた。何度か本の栞としてラミカを作ったことがあり、まずまずの仕上がりだった。

 雄介は凝った肩をほぐしながらそれを七海に渡す。

「これはお前が持っておけ。一般人程度になら通用するだろう。ただしなにがあってもマッポには絶対に見せるなよ。免許書番号なんかは適当だ、調べれば一発で偽物だとバレるからな」

「あ、はい。……あの、マッポってなんですか?」

「警官のことだ」

「へぇー、そうなんですか。って、これ犯罪なんじゃ……」

「存在自体が犯罪的な奴が贅沢を言うな」

「……は?」

 やはり彼女に自覚はないようだ。

「いいか、よく聞け爆弾娘。お前には『戸籍』がない」

「それが、なにか問題でもあるんですか?」

 どうやら彼女には事の深刻さがまったく理解できていないらしい。

「……まあいい」

 そもそもすぐに理解しろというほうが無理な話だ。雄介自身、戸籍がないことでどんな問題が起きるのか、すべて想像できているわけでもないのだから。

 生きていれば、いずれ問題は向こうからやってくるだろう。それこそ七海が突然現れたのと同じように、唐突に。そして彼女は色々なことを知り、日々変わっていく。食べられなかったニンジンが食べられるようになり、好きだったモノが嫌いになって――最後にはどうでもよくなる。

「これも渡しておく」

 携帯と自宅の合鍵を七海に渡す。

「ネットやメールはいくら使ってもかまわないが、通話はできるだけ控えろ。いや――好きに使え。どうせカネを払うのはお前だ」

「え?」

「当たり前だろう。自分の携帯代くらい自分で払え。それだけじゃないぞ。今日のレシートは取っておく。あとできっちり返してもらうからな」

「そんな。私、お金なんて持ってません」

「なら働け。なんのために携帯と免許書と合鍵を用意したと思ってるんだ。できるだけ早めに派遣会社にでも登録して来い。俺は食欲旺盛で髪の長い黒猫を飼うつもりはないぞ」

「私だって家事ぐらい手伝いますよ。むしろやらせてください」

 七海はやる気をアピールするように両手を握り締める。

「家事を手伝うのは当然だろ。そのうえでさらに働けと言ってるんだ」

「えー、そんなぁ、いいじゃないですか働かなくても。パソコンばっかり触ってて家事をおろそかにするなんてことはしませんから。それに、ほら、家庭を守るのが妻の務めですし」

 設定ではアウトドア派ということになっているのに、まったくどうしたものか。ネットの魔力は彼女を一日で堕落したインドア派へと変えてしまったらしい。

「なにか勘違いをしているようだが、これだけは覚えておけ」

 雄介は七海を見つめ、彼女が真剣な表情で見つめ返してくるのを待ってから言った。

「昨日も言ったが、俺がいない間にパソコンを使ってニコニコ動画を見てもかまわない。少しくらい間食しても許してやるし、飯も作ってやる。ただし――」

 言葉にする前に、もう一度考える。猶予はどれくらいがいいのか。

「……今年いっぱいだ。それまでにカネを貯めて、ここから出て行け」

 最初はすぐに追い出すストーリーも考えていたが、それはやめた。

 追い出された七海の運命を少しだけ想像してみる。

 絶望し、自殺するかもしれない。あてもなくさまよう彼女を最初に呼び止めるのは警官か、スカウトマンか、はたまた女に飢えた一人暮らしの大学生か。

 可能性は色々と考えられる。が、なぜかネガティブなことばかり考えてしまい、どうしてもハッピーエンドを想像することができなかった。

 ならば今年いっぱい――約三ヶ月でなにか変わるのか。変わるだろう。仕事をすれば少なくとも無一文ではなくなる。

 七海は目を見開き、口を半開きにしてこちらを見つめていた。

 基本的にポジティブでありながら、落ち込みだすと奈落の底まで沈んでいく。ただ、ほんの少しの希望さえあれば再び立ち上がれる。望月七海とはそういう女の子だった。

 雄介は誰よりもそのことを知った上で、やはりなにも言わなかった。

 

          ※ ※ ※

 

「……今年いっぱいだ。それまでにカネを貯めて、ここから出て行け」

 この言葉は七海から一時的に声を奪うだけの充分な魔力が込められていた。

 静かな部屋にキーボードを叩く音だけが響く。

 二人っきりの部屋で、会話もなく、ただ時間だけが過ぎていく。

 ――どうしてですか?

 無言でパソコンを睨み付ける雄介に向かって、七海は何度もそう話しかけようとして、そのたびに言葉を飲み込んだ。

 理由は自分でもよく分からなかった。ただ、なぜだか聞くことができなかった。

「風呂が沸いたぞ」

 雄介がそう話しかけてきたのは、寂しい夕食を終えて一時間ほどしてからだった。

 それだけ言うと、彼は七海の横を通り過ぎ、椅子に座る。そしてそれ以上の会話を拒絶するように小説を読み始めた。

 七海はバスタオルを持ち、脱衣所に向かう。

 初めて入るお風呂はとても気持ちが良かった。心地よい暖かさに全身を包まれて、すべての不安がほんの少しの間だけ、消えてくれる。

 髪を洗いながら、七海は考える。

(雄介さんは、どうしてあんなことを言ったんだろう)

 きっとまだ動揺してるだけだ。そんなことはない。彼はもう落ち着いている。

 私は嫌われている。そんなことはない。もしそうならすぐにでも追い出されている。

 浮かんでは否定される、さまざまな理由。いくら考えても結論は出ない。

「…………」

 いや――

 本当は分かっていた。結論は出せないのではなく、出したくないだけなのだと。

 彼があんなことを言った理由。その明確な答えが欲しいのなら、直接聞けばいい。

 そうしないのは、怖いからだ。彼の口からこれ以上拒絶の言葉を聞かされるのが、七海にはたまらなく怖かった。

 

 パジャマを忘れた。

 七海がそれに気付いたのは、脱衣所で水滴が落ちない程度に髪を拭き終えたときだった。

 下着もだ。デパートで購入はしたのだが、部屋から脱衣所に持ってくるのをうっかり忘れてしまった。

 一応さっきまで着ていた制服と下着はある。ただ、下着を手に取って鼻に近づけてみると、風呂上りの自分とはあきらかに違う香りがした。

 七海は下着を洗濯籠に戻し、洗面台の鏡に映る自分の体を眺めた。

 胸はそれほど大きくはない。ただしウエストが細いため、くびれはある。じっくりと自分の体を眺めるのは初めてだったが、七海に不満はなかった。

 いや、それどころか――

(彼が見たら、どう思うだろう?)

 ――脱げ。

 昨日ネットで見たアドバイスが頭をよぎる。

 迷った時間は、それこそ一秒もなかった。

「雄介さん」

「俺は朝でいい」

 七海に背を向けたまま、彼は言う。

「いや、そうじゃなくて」

「なら、なん――」

 読んでいた小説を机に置き、彼は椅子を回し――

「!」

 七海の姿を唖然とした表情で眺め、言いかけた言葉と一緒に唾を飲み込んだ。

 まずは見てもらうことが目的であり、バスタオルは脱衣所に置いてきた。七海はあえて大切な部分を手で隠すようなこともしなかった。

 ただ――

「あ、あの……」

 自分の腰の辺りを抱くように手を回し、視線をそらす。

 いまさらになって七海はとても恥ずかしくなってきた。彼女がヒロインを演じていたゲームはPCソフトでありながら全年齢対象であり、合体シーンなどはない。なので彼に自分の裸を見られるのはこれが初めてだった。

「なんのつもりだ」

(――え?)

 彼がどんな反応をするか、明確に予想を立てていたわけではない。ただ、あきらかに苛立ちを含む声でそう聞いてくることは、やはり予想外だった。

 さっきまで火傷しそうなほどに熱かった体が急激に冷めていく。全力疾走をしていたところをいきなり鷲づかみにされた心臓が、とても痛い。

「先に言っておくが、借金の返済は現金でしか認めるつもりはない」

「そんなつも――」

「分かったらさっさと服を着ろ」

 七海の言葉を遮って、雄介は半分怒鳴るような声で言った。

 互いに視線をそらすことなく、しばし無言の時間が流れる。

 静寂を終わらせたのは七海だった。

「……どうしてですか?」

 ずっと喉の奥で立ち止まっていた言葉をなぜ吐き出すことができたのか。

 さっき彼が振り向いたときに見せた動揺。それが七海をわずかに勇気付けた。逆にあのときの動揺があとコンマ一秒でも短かったら、きっと言えなかった。

「雄介さんは、私のことが嫌いですか?」

「…………」

 彼は答えない。それでも視線だけはそらさなかった。

 沈黙は否定と同じだ。無言の時間が続くほど、七海の体に再び熱が戻ってくる。

(やっぱり、雄介さんは私を嫌っているわけじゃない)

 なのに、どうして彼は私を拒絶するのだろう。七海にはそれがどうしても分からなかった。

 しばらくして、彼はずっと見つめ合っていた視線を一瞬そらし、観念したように小さく息を吐く。そしてさっきまでとは違うどこか哀れむような眼差しを七海に向け、言った。

「俺が好きなのは二次元の望月七海だけだ。お前じゃない」

 分かってしまえば答えは単純にして明快、それでいて複雑で怪奇なものだった。

「そんな……嘘ですよね?」

 その答えは色々と辻褄が合うようで、そもそもどうしてそんなことを考えるのか、毎日毎日三次元化して彼と同じ世界で生きたいと願っていた七海には理解できなかった。

「どうしてそう思う」

 彼は逆に聞いてくる。

「だって、そうじゃないですか。二次元の私と三次元の私と、なにが違うっていうんですか。いや、そうじゃなくて。同じ私なら、三次元のほうがいいに決まってるじゃないですか」

 現実世界(三次元)には二次元にはない喜び(奥行き)がある。愛する人と触れ合うことができる。彼女にとって、三次元とはそんなすばらしい世界だった。それなのに――

「三次元のほうがいいなんてありえない」

 あっさりと、当然のことだとでも言いたげに雄介は否定する。

「どうして!」

「二次元の女になら、電源とモニターさえあれば会いたいときにいつでも会える。永遠に劣化しない。ただ眺めているだけでも癒される。それに比べて三次元の女なんて、疲れているときにかぎって呼んでもいないのに会いにくる。風呂に入らなければ体は臭くなるし、歳を取れば劣化する。飯を食わなければ生きていけなくて、そもそも存在するだけで場所を取る。永遠に愛することを誓っても、すぐに忘れる。深く関われば関わるほど幻滅するばかりだ。三次元の女にいいことなんて一つもない」

 七海は口を開いたが、どう反論していいか分からず空気だけを吐き出して口を閉じる。

「分かったらさっさと服を着て寝ろ」

 そう言うと、彼は椅子を回して七海に背を向け、再び小説を読み始める。

 もうなにを言っても、きっと彼は無視するだろう。

 それでも、これだけは伝えておきたかった。

「私は……どんなことがあっても雄介さんを嫌いになったりはしません」

 返事は期待していなかった。しかし七海がパジャマに着替え終わったころ、彼は背を向けたまま、ポツリと言った。

「お前もすぐに気が変わるさ」

 

 
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