(1)皇帝ゲーム
冬の日暮れは早い。暗い色の上着をまとった人たちが行き交う駅の構内を、白色の蛍光灯が照らしている。見慣れたはずの風景を、僕はうまく飲み込めない。何も探していないふりをして目を伏せ、鞄から定期券を取り出す。
改札を出たところでコートのポケットが震えた。歩きながら手を突っ込み、携帯電話を取り出す。下りのエスカレータで左側に立ち、メールを読んだ。
予想通り母さんからで、夕飯のメニューと今どこにいるのかと書いてある。指が勝手に動いて、昨日と同じ返信を書く。新しい携帯電話のボタン操作にも慣れてきた。
【駅ついた。まっすぐ帰ります】
ロータリーにはたくさんの車が溜まってライトを点滅させている。タクシー乗り場のそばを通ると、停車中のドライバーが視線を送ってきてすぐ反らした。制服を着た高校生はお客さんにならないから当たり前の反応だ。
交差点で信号が変わるのを待ちながら、あれぐらいの無関心を、周りの人たちもくれればいいのにと思った。僕のことは放っておいてくれればいいのに。
でもきっと、そう考えるのはわがままなことなんだろう。そこまで考えて、息が止まった。
サイレンが鳴る。
交差点に進入しようとしていた車がスピードを落とす。
赤いランプを回転させながら走ってくる救急車を僕は見た。
どん、と肩を押されてよろめいた。舌打ちと共にサラリーマン風の男の人が前を歩いていく。
歩行者信号は青に変わっていて、大勢の人が交差点を渡っていた。僕は邪魔な位置にいたらしい。
大丈夫ですかと誰かに声をかけられる前に歩き出した。右手右足、左手左足。交互に前に出せば、とりあえず進む。レゴの兵隊みたいに不自然でも、立ちすくんでいるよりはずっといい。
遠くに行ってしまったのだろう。サイレンの音はもう聞こえなかった。
(君の時は)
(救急車はすぐ来たけれど、意識は戻らなくて)
(病院で、頭に包帯を巻いてる以外は普通に寝てるみたいだったのに)
マンションにたどり着き、エレベータに乗るまでが限界だった。
宅配便の人が出てきて、乗る人は僕の他にいなかった。1,2,3,4・・。大きく息を吸いながら、1階から最上階まですべてのフロアのボタンを押す。もう僕は大きくなったから、つま先立ちにならなくても高いところにあるボタンに手が届く。
2階。自動で扉が開く。誰もいない。扉が閉まる。
3階。また扉が開く。誰もいない。閉まる。
エレベータは上昇する。
7階の扉の前には女の人が立っていた。1階に行こうとしていたんだろう、乗ろうとしてから上りだと気づいてむっとした表情で足を引っ込めた。
扉が閉まる前に僕は笑い出した。女の人が気持ち悪そうに顔をゆがめたのがわかった。
※
僕のうちがこのマンションに引っ越してきた頃、僕は小学生だった。エレベータの中で飛び跳ねないと屋上ゆきのボタンが押せなかった。
部屋は地上に近いフロアにあったので、家に帰るだけなら高い位置のボタンを押す必要はない。けれども僕にとっては切実な大問題だった。大ちゃんのうちはてっぺんから三つ下にあるからだ。
同い年で、同じクラスで、同じマンションに住んでいる大ちゃん。学校から帰ってくるとランドセルを置いてどちらかの家に行くのが日課だった。
大ちゃんは頭がよくてすばしっこい人気者で、僕はどちらかといえばとろくさく、早くしゃべるのが苦手だった。大ちゃんが三つ喋ったら、僕が一つ返す、という風に。男子のグループ内でもばかにされがちで、大ちゃんがかばってくれなかったら、いじめのターゲットになったはずだ。
ちょっとびっくりするくらい黒い目をしていて、新しい遊びを考える天才だった。ある年、僕たちの通う小学校の通学路に不審者が出たことがあったらしい。母親たちはぴりぴりと神経をとがらせて、学校の帰りには当番のおばさんやおじいさんが付き添うようになった。
危ないから道路で遊ぶのは禁止です。
子どもだけでスーパーやコンビニに寄ってはいけません。
学区内の公園は行っていいけど、学区外はだめ。4時のチャイムが鳴ったら家に帰りなさい。
あの頃、親たちは子どもに害をなす正体の見えない存在におびえていたのだと思う。でも守られている僕たちはきゅうくつでたまらなかった。公園には元おまわりさんだという怖い顔のおじさんが竹刀を持って立っていて、のびのび遊べない。家にいてもゲームは一時間でストップがかかるし、漫画に手を伸ばすとそれより宿題は、と言われる。いま、やろうと、思ってたのに!
その日の学校帰りも、大人に見張られながら道路の左側を一列で歩かされてマンションに着いた。みんなに手を振ってから今日何して遊ぶ、と聞こうとしたら大ちゃんがにやりと笑って駈けだした。僕も走ったけどエレベータの上りボタンを押したのは大ちゃんのほうが早かった。
「勝った! カズキのまーけー」
「もっかい! もーいっかいやろ!」
僕はランドセルを背負ったまま地団駄を踏んだ。大ちゃんはやってきたエレベータに乗ると、片っ端からボタンを押しまくった。そして最初に扉が開いた階で降りた。そこは僕のうちでも大ちゃんの家でもなかった。
「大ちゃん?」
「見つけたら皇帝な!」
それが大ちゃんが考え出した新しいゲームだと気がついた時には、もう扉が閉まっていた。大ちゃんはでたらめにボタンを押して僕から逃げ出したのだ。ゲームは始まっていた。
エレベータが次に止まった階で降りたけれど、廊下を一周しても大ちゃんはいなかった。階段を上って下りて、エレベータまで戻ってみて、大ちゃんちの前まで行っても見つからない。
「大ちゃんどこー?」
「大じゃありません、皇帝ですー」
名前を呼ぶとどこからかじれたような声が返ってくる。ちなみに皇帝というのは日曜日にやっていたアニメに出てくる敵キャラだった。主人公は長い耳を持つ犬の少年で、うじうじ悩んだり女の子に振り回されたりしている。そんな弱いのより、シンネンをツラヌいてアクのミチをススむ皇帝のほうがダンゼンかっこいい。男子はみんなそう言っていたし、ごっご遊びをするときも一番人気があるポジションは皇帝だった。
犬が皇帝を探す。皇帝を見つけたら、犬は皇帝に、皇帝が犬になり、皇帝を探す。制限時間はなし。マンションの建物から出てはいけない。
単純なかくれんぼだ。おまけに参加者が二人しかいないので、役割は一回ごとに交代だ。高校に入ってから文化祭の準備で居残りした時に、小さい頃どんな遊びをしていたか話題になった。近くで段ボールを切っていた女子に、同じことをえんえんと繰り返して楽しかったの、と聞かれた。
僕は楽しかった。大ちゃんはやっぱり天才だと思った。ゲームは毎日やっていた。マンションに住む他の人が管理会社に連絡し、管理会社から僕と大ちゃんの親に連絡が来て怒られるまで。
苦情が来た原因は、マンション中を走り回る僕らがうるさかったことと、片っ端からボタンを押しまくったので他の人たちがエレベータで移動するとき待たされるようになったことだった。
「しょうがないじゃん、全押しモード発動だから」
そう主張した大ちゃんは、おばさんにげんこつを食らっていた。
全押しモードとはどちらが叫んでもいい言葉で、発動したら皇帝役はどこかの階のエレベータの前で待つのだ。犬役はエレベータに乗り、ボタンをすべて押してどこかの扉の前にいるはずの皇帝を探す。これなら確実に再会できるので、ゲームを終わらせる時は全押しモードと決めていた。
「エレベータはあんたたちのおもちゃじゃない! 病気の人やお仕事に行く人も使うの。とりかえしのつかないことになったらどうすんの!!」
大ちゃんのおばさんは怒り、僕の母さんはその後ろで困ったようにほほえんでいた。僕はといえば、大ちゃんが叩かれたのを見て、泣いてしまった。
「えっ、カズキくんどうしたの?」
おばさんがびっくりしていたけれど、わけは説明できなかった。僕は大人に叩かれたことが一度もなく、その迫力にびびったのだ。
ぶたれたのは大ちゃんなのに、僕が泣くなんて恥ずかしい。でも正直に理由を話したら、母さんが困るような気がする。母さんはいつも優しくて僕を心配してくれるのに。おばあちゃんから電話があるたびに受話器に向かって頭を下げているのに。母さんを困らせたくない。
その時は混乱して頭の中がめちゃくちゃだったけど、たぶん、そんなことを考えていたんだろう。
ぐいっと服を引っ張られ、耳元でカズキ逃げっぞという声がした。
「ちょっとどこ行くの!?」
おばさんが言ったけど、大ちゃんは無視した。大ちゃんの後をついて、僕は靴下のまま家から逃げ出した。
マンションの階段の踊り場で、大ちゃんは僕を座らせてから隣に座った。そして壁の方向を向きながら、あのババアあんなに怒ることないのにとか、エレベータがなかったら階段使えばいいじゃんねとか呟いた。
クラスの男子はお母さんや女の先生のことを話すときにババアと呼んだりするけど、大ちゃんは言わない。むしろそういうのをケーベツしていて、おまえガキだなーと言ってその子を黙らせたりする。だから大ちゃんがそんなことを言ったのは僕のためなんだ。僕が泣いたせいだ。
そう思うと申し訳なくて、また涙が出そうになるのを無理して飲み込んだ。
「いたくない?」
大ちゃんの頭に手を伸ばすと、こんなのヨユー、慣れてるもんと振り払われた。あれに慣れる日が来るなんて、大ちゃんはやっぱりすごい。
「も・・やめようよ」
僕は膝に手を置いて言った。落ち着いてきているのが自分でもわかった。
「何を」
大ちゃんはまたそっぽを向いた。
「皇帝きめるの。大ちゃんがずっと皇帝でいいよ・・頭いいし、かけっこも一番だし」
「やだよ」
大ちゃんはきっぱり言った。
「でもドッヂやるときだってみんな大ちゃんのいるほうに入りたがるじゃん。班長さんだし、こないだ女子からラブレターももらってたし。皇帝は大ちゃんだよ」
もう大ちゃんが叩かれるのを見たくなくて、気がつくと僕は大ちゃんよりたくさん喋っているのだった。いつもと逆だ。
「ゲームはやめる。怒られるから」
大ちゃんは間違ってわさび入りのお寿司を食べちゃった時みたいな顔で言った。
「だけどずっと俺が皇帝はやだ。それって変じゃん。俺とカズキで俺がえらくて、それが変わらないなんて、おかしいよ」
「でも、みんなに聞いても大ちゃんが皇帝って言うと思うよ」
クラスメイトの顔を思い浮かべながら僕は言った。大ちゃんは人気者で、僕はそのおまけだ。もし同じマンションに住んでなかったら、僕が大ちゃんに相手にされてるはずがないと、悪口を言われているのを知っている。
「関係ない!」
大ちゃんが大声を出したので、僕はびっくりしておしりをコンクリートにつけたまま後ずさった。鼻の奥がじわっと熱くなって、引っ込んだはずの涙がふたたび出口を探し始めるのが分かった。
「あ、わりい」
大ちゃんはしかめっつらをしてポケットに手を突っ込み、ハンドタオルを渡してくれた。いいのかなと迷ったけど、使わないと怒られそうだったのでタオルで鼻をかんだ。
「カズキくーん、ダイゴー」
廊下の方から呼ぶ声がした。おばさんだ。心配してる。
立とうとしたら背中を押されてうわってなった。
「大ちゃん!?」
何するのさ、とにらんだのに大ちゃんは笑って言った。
「皇帝つけた!」
大ちゃんはやってきたおばさんの腰にしがみついた。
「お母さん、おなかすいた!」
「先にごめんなさいでしょ!」
おばさんは大ちゃんをしかったけれど、それを見ても僕はもう怖くなかった。大ちゃんはおばさんの後ろに隠れてから顔を出して、
「明日までカズキが皇帝な!」
と手を振った。
僕はうなずいて小さく手を振った。そして、大ちゃんのおばさんを見た。僕を見る困り顔は大ちゃんとそっくりだと思った。特に口のあたりが。
「あのね、カズキくん」
おばさんは何か、とても言いづらいと思っていることを僕に言おうとしている。そう気づいたので、僕はおばさんバイバイと言って二人の横をすり抜けた。それで大ちゃんがどんな顔をしているか確かめることもできなかったけれど、平気だと思った。
「ただいま」
うちの玄関に入ると母さんがいて、僕を見ると細い声で名前を呼んだ。右手に電話の子機、左手に僕のスニーカーを持っている。電話をかけようとしていたみたいだった。
「カズキ、よかった」
目を真っ赤にした母さんは、その場にぺたりと膝をついた。おばさんと母さんがどんな話をしたのか分からないけれど、それは母さんにとって受け入れられるものではなかったのだろうと僕は思った。
僕は思いきって、大ちゃんがしていたみたいに母さんにしがみついて、ごめんなさいと言ってみた。電話を握りしめたままの母さんからは何も反応がなかった。
僕には分からない。
お母さんはどうして、大ちゃんのお母さんみたいに僕をぶたないんだろう。
お母さんはどうして、おばあちゃんにぶたれようとするんだろう。
ごめんなさいは、自分が悪いときに言う言葉のはずなのに。悪くないのにごめんなさいと言って、悪い人になりたがるのはなぜなんだろう。
分からないけれど僕は母さんが好きだし、この家以外に帰る場所を知らない。
それに明日になればまた大ちゃんに会える。大ちゃんはゲームのルールを変えたんだ。明日タッチするまでは僕が皇帝。誇り高く、信念を持って進む者。皇帝はきっと逃げたりしない。分からなくて泣きたくなっても。
大ちゃんは僕が皇帝でいいって言ってくれた。他の誰も、そんなことは言ってくれないだろう。僕はうれしかった。
※
そのうち不審者がつかまったとかで登下校の警戒はゆるみ、学年が上がってクラスが分かれた。大ちゃんべったりだった僕が大ちゃんのいない教室に行くのは怖かったけれど、さいわい新しいクラスでは女子のグループが仲間に入れてくれたので居場所はあった。
でも高学年では女子と男子の対立がすごくて、グループにいれば安心というわけにはいかなかった。僕のことをどっちつかずだと言ってけんかの材料にしようとする子もいた。勇気をふりしぼり、大ちゃんに相談し、僕はちょっとずつ覚えた。立ち回りみたいなものを。
帰りはいつも大ちゃんと一緒だったけど、私立中学を受験することになった僕が塾に通い出して別行動になることが増えた。そのくせ六年生の時は合格発表を見に行ってから、やっぱり大ちゃんと同じ公立に行きたいと言って両親を困らせた。
エレベータで公立中学の制服を着た大ちゃんに会うと言った。
「皇帝みっけ!」
1階に着くまで皇帝皇帝とつつき合って、乗り合わせた人に怒られたりもした。
僕の皇帝はもういない。
事故のあと大ちゃんちはマンションから引っ越していった。おばさんの実家がある奈良で暮らすそうだ。
特別ルールのボタン全押しをやっても、扉が開いたら大ちゃんが笑いかけてくることはない。エレベータが止まるごとにフロアランプが一つずつ消えるだけだ。
ポケットで携帯が鳴った。母さんだろう。
メールに返信しないで十分が経つと、母さんはもう一度メールを送ってくる。それにも返事をしないと、電話をかけてきて留守電を残す。その次は父さんの会社に電話をかけ、僕がいなくなった、警察に探してもらおうと言い出す。
息子が部屋から出てこなくなって、お葬式にも行かなくて、学校を一ヶ月も休んだ後なんだ。しばらくは仕方がないことなんだろう。
そう知っているのに、僕はポケットに手を入れるのすら面倒くさかった。
いいかげん食事をして学校に来なさい。いつまでご家族を心配させるんだ。ドアの向こうから担任の先生に言われた。まだ若いし、これからたくさんの出会いがあるはずだ、せめて受験が終わってからゆっくり振り返ればいいじゃないって。
カズキくんがいつか結婚して子どもが生まれたら、写真を送ってちょうだいねっておばさんに言われた。ダイゴの仏前に飾って報告するからって。あと、髭はそった方が男前よ? 言われて鏡を見たら、そこに映っている自分は超ぼさぼさでびっくりした。
仏壇とかおかしすぎるよね。鈴チーンとか線香とか、超受けるんですけど。おまけに写真に話しかけると大ちゃんに話したことになるって? 本人が知ったらきっと爆笑する。
大ちゃん。
僕は大ちゃんを思い出にしないといけないんだってさ。
エレベータは上昇する。大ちゃんはいないのに。
人生は進む。みんなが僕にそう言う。信じない。
扉が開いて、初めまして、こんにちは。
おはようございます。ひさしぶり。
元気ですか。最近どう。今日会おうよ。
……会いたいよ。
最上階の扉が開いた。もちろん誰もいなかった。
僕は壁にもたれてずるずるとしゃがみこんだ。息が苦しくて、膝に顔を埋める。
扉が閉まる。てっぺんまで上ったら、後は下りるだけだ。目をつぶって、吊された箱を動かすモーターの音に耳を傾けた。自分の心臓の音を聞くよりはそっちの方がましだった。
エレベータが止まった。さっき待ってる女の人がいた階だろうと思い、僕は目を開けた。開いた扉からごうっと風が吹き込んでくる。
風?
マンションの廊下は回廊になっていて、窓から中庭を見下ろせるように設計されている。ただ、窓を全部開けてもエレベータを待つスペースには雨風が吹き込んでこないようになっているはずだ。この風はどこから来たんだろう。
揺れる前髪の向こうを黒いブーツに包まれたデニムが横切る。エレベータに入ってくるのではなく出て行くのだ。僕一人きりのはずだったのに、いつの間に他の人が乗っていたんだろう。
しびれかけた足で立ち上がり、僕は凍りついた。
忘れるはずのない横顔がそこにあった。
……会いたいよ。
(2章に続く)
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高校生が主人公です。