「そろそろ来るかな?」
キャンドルの明かりで橙色に浮かび上がったテーブルの前で、待ち遠しそうに肘をついているミクが軽く視線を向けながら問いかけると、空になった食器を重ねていたルカはそうね、と短く受け答えた。
「今年はちょっと遅いよね。もう夜ご飯食べ終わっちゃった」
「子供たちが来る前にあなたがお腹いっぱいになってどうするの」
そして呆れたように息を吐く。いったいこの細い身体のどこにこれだけの量の食事が収まっているのか。ボーカロイドにそんなことを尋ねるのは野暮というものかもしれないけれど、と。
「だってルカちゃんが作ったカボチャのサラダもスープもチキンパイも美味しいから、ついつい食べすぎちゃったんだもん」
「……あの子たちが来るまで一緒にご飯でも作ってハロウィンパーティしようって言ってきたくせに、あなたが何にでも変な隠し味を入れようとするから、私が全部作る羽目になったんでしょう」
「えへへ。だってわたしが作るよりもルカちゃんが作ったほうが絶対に美味しいし」
「……確信犯なのね。そんな気はしてたけど」
はあ、と肩を落として壁にかかっている時計に視線を向けようとした瞬間に、コンコン、と扉を叩く音がして、待ちわびていた来訪者にミクとルカは同時に顔を上げた。
それから色とりどりのお菓子が詰まったバスケットをお互いに抱え、扉の向こうでいつもとは違う装いをしているであろうふたりを楽しみにしながら扉のノブに手をかける。
「いらっしゃい! リンちゃんレンくん――…って、あれっ?」
勢いよく扉を開いたミクは、そこに立っているふたりの姿が予想していたものと大きく異なっていたことに意表をつかれ、思わず間の抜けた声を出してしまう。
「……えっと、レンくんは執事さんかな?」
皺ひとつない白のシャツに漆黒のベストとネクタイ、いつもは雛鳥のようにはねている部分が目立たないようにきちんとセットされて、項のあたりで光沢のある黒のリボンによってひとつに纏められた髪を見て、仮装というよりは正装に近い格好にミクは首を傾げた。
「いや。従者だってさ」
そう言って、レンは真っ白な絹の手袋に包まれた手でいつもと違った質感の髪に触れる。そのぎこちない指先は、こんな格好は自分にはまるで似合っていないとでも言いたげだった。
しかし白と黒のみで構成されたその衣装は、最初から彼のために仕立てられたもののように、レンのきめ細やかな肌や蜜色の髪、伸びはじめたばかりの枝葉のように細くしなやかな手足を包みこみ、今さっきお伽話の中から出てきたのだと言われても信じてしまいそうなほど彼と調和していた。
「ハロウィンの仮装にしては……というよりマスターの趣味にしてはずいぶんとシンプルなのね」
ルカの呟きにミクもまた同意するように何度も頷いてみせる。可愛いものに目がない彼女たちのマスターは、何かイベントがあるたびに何日も前から自分の好みに合った衣装や曲を念入りに準備して、当日はずっとその格好をすることを義務づけていた。着せられる側もそれなりに楽しんでいるので嫌ということはないのだが。
そしてハロウィンのこの時期はとくに、子供の姿をしているリンとレンのふたりがターゲットにされることが多かった。そういえば去年は魔女と黒猫だったことを考えると、今回はまだ大人しいほうなのかもしれない。
「で、そっちの子は?」
そしてここに来たときからずっとレンの後ろにはりついている少女――…といっても外見はレンよりもずっと幼く、見たところの年齢は五つか六つといったところだろうか――に視線を向ける。いつもならレンのそばにいるはずのリンの姿はそこにはなく、そのことが何よりもルカとミクに言いようのない違和感を与えていた。
自分のことを言われているのだと気が付くと、少女は小さな肩をびくりと震わせて後ずさりをし、さらにレンの後ろへと身を隠そうとした。オレンジのカボチャを模った被りものをしているせいで顔はまったく分からないが、黒いマントの下に可愛らしいドレスを着ていることから女の子であることは分かった。
「…………やだ」
背中を押してそこから出るように促しているレンを拒むように少女は首を横に振る。そのたびにサイズの大きいカボチャがカラカラと音を立てた。その音に混じって空洞の中に響いている少女の声にどこか聞き覚えがあるような気がして、ミクは記憶の中にある色んな人の(あるいは人ではないものの)声をいくつも思い浮かべてみた。子供特有の不安定に揺れる声。金属を打ち鳴らしたときに立てる高い音にも、鳥の囀りにも似た、ずっと耳にしていると癖になりそうな音。
――…ああ、そうだ。レン君の声によく似てる。そこまで思い至ってしまえば、もう答えは出たも同然だった。
「そんなこと言ったって。ここまで来たんだから」
「うー……」
するとようやく観念したように少女はレンの腕から身体を離して、すっぽりと頭を包みこんでいるオレンジのカボチャに手をかけた。それから呆気ないほどあっさりと被り物が外されると、蜜色の髪がふわりと舞い上がる。肩に触れるくらいの長さの柔らかそうな髪。頭のてっぺんには二枚の大きな花びらを思わせるような黒い光沢のあるリボンがかすかに揺れている。そのリボンの形も、不安げに揺れる大きな瞳も、ひどく見覚えのあるものだった。
「……リン、ちゃん?」
「ミクねぇー……」
開いた唇の隙間からは尖った白い牙がかすかに覗き、涙を含んで震えている少女の――…リンの声に、ミクは動悸が高鳴っていくのを感じながら、事の真相を知っているであろうレンへと視線を向けた。
「……ど、どうしたのこれ」
「ハロウィンの衣装を準備してるときに、リンがマスターに「ドラキュラとかカッコいいのがいい」って言ったら、なんか年齢の設定までいじられたみたいで……」
ああなるほど、とそこでようやくリンの服装がドラキュラをイメージしたものだと気付く。襟を立てた黒いマントは胸の下くらいまでの長さしかなく、その下にはサテン地の黒いドレス――と言ってもこちらもドラキュラをイメージしてデザインされたものらしく、普通のドレスよりもかなり大胆な造りをしている――…が見える。膝が見えるくらいの短い丈の裾は切り裂かれたかのようにギザギザになっていて、さらにその下は黒のニーソックスに皮の編み上げブーツという、子供の仮装にしては選んだ人間の嗜好が窺える組み合わせだった。
「小さなドラキュラ令嬢とその従者ってことかぁ……。マスター、グッジョブ!」
「ミク、そんなこと言って……」
満面の笑みでぐっと親指を立てたミクに対し、必死に涙を堪えているリンが不憫になったのか、ルカは震えているリンの肩にそっと手を置いて気持ちを落ち着かせようとする。
「だってぇ、ルカちゃんだって可愛いと思うでしょ?」
「それは…………」
しかし同意を求めるようにそう問いかけられて、それまでは冷静を装っていたルカの瞳が目の前にいるリンの姿を捉えると、たちまちそこに不穏な色が宿りはじめる。
不安げに見上げてくる大きな瞳。ちょっと力を入れただけでも軋んでしまいそうなほど小さな肩。黒いドレスとマントによく映える、蜜色の髪。そして唇の隙間から覗く、白い牙。
マスターに負けず劣らず可愛いものには目がないルカが、今のリンを可愛いと思わないわけがなかった。
「ふぇっ?」
そしてついには我慢しきれなくなった様子で両腕を広げると、後ろから羽交い絞めにするようにリンを力の限りに抱きしめた。柔らかく弾力のあるものが両側から頭を固定し、少しでも身動きを取ろうとすれば抱きとめている腕にさらに力が込められてしまう。
「く、苦しいよぉ……。レーンー……」
助けてぇ、と苦しみに喘いでいるリンの声に、それまでルカとミクの勢いに押されて立ち尽くしていたレンはようやく助け船を出す。
「はいそこまで。リンが潰れちゃうから」
いつの間にか正面からも抱きついているミクの肩を押しのけ、そのままリンの腕を引いて連れて行こうとするレンに、すぐに非難の声が上がる。
「えー、ずるーい」
「レン、一人じめは良くないわ」
そう言ってルカはレンの腕からリンを奪いかえすと、今度はわずかな隙間をも埋めるように全身で小さな身体を抱きしめる。少しでも手を出せばルカの身体にまで触れてしまいそうで、レンは必死に助けを求めるリンを前に、成す術もなく立ち尽くすしかなかった。
それからルカとミクに交互に抱き着かれたのち、ようやく解放されたときには意識を失いかけていたリンを抱きかかえて、レンは自分たちが暮らしている部屋まで戻ってきた。
そして部屋の真ん中にあるソファーに上体を沈めてしまうと、ふたりともすぐには着替えることもできないほど疲れ果ててしまっていた。
「つかれたぁ……。レンってば、見てるばっかりでぜんぜん助けてくれないんだもん……」
いやちゃんと助けようとしただろ、さすがにあのふたりから強引に奪いかえすのは無理だったけど……と反論しかけて、そもそもこうなった原因がリンにあることを思い出すと、自業自得じゃないかという気がしてくる。
「だいたいリンが「レンに負けないくらい強そうなのがいい!」なんてマスターに余計なこと言うのがいけないんだろ……」
「うぅー……」
こんなことになるとは思いもしなかったとは言え、自分に原因があることは確かなので、言い返すこともできずに唇を尖らせる。
そしてせめてもの反抗にと、リンは掴んだレンの手を唇の前に持ってくると、大きく口を開き――…、ドラキュラに見えるようにと加工されたいつもよりも尖った牙で、白い手袋に包まれているレンの親指に噛みついた。
「あいた、って……牙が小さいからそんなに痛くないか」
思ったとおりの反応が返ってこないことに焦れると、リンはまた大きく口を開いて、小さな牙を剥き出しにする。
「むー。じゃあこっちは?」
手のひらに、シャツの袖をずらして剥き出しにした腕に、できるだけ柔らかい部分に突き刺すようにして何度も牙を突き立てる。
しかし肌に直接噛みつかれても、子供の乳歯のように丸みを帯びた牙ではレンの皮膚を貫くどころか傷をつけることすら難しく、せいぜい子猫に噛みつかれている程度のダメージしか与えることができなかった。
「……くすぐったい」
「もーっ!」
リンは癇癪を起こした子供のような声を上げてソファの上にレンを押し倒すと(というよりはただ上に乗っかっているような体勢だったが)、少しでも皮膚の薄い部分を探しながら何度も噛みついていく。
そのうち肌が出ている部分を手で探りながら首元に顔を埋めて、骨が浮き出ている部分に先端を埋め込むと、そのまま勢いよく牙を突き立てる。
「リン……、っ」
するとそれまでとは違う反応が返ってきたことを感じ取ったリンは、獲物を捕食する獣のような気持ちでさらに皮膚の薄い部分を探して唇を滑らせる。
「ここ?」
「っ、た……!」
ピリ、と破れた皮膚の下にまで固いものが届く感触があって、少し遅れて痺れるような痛みがやってくる。
「……あ。血が出てる」
「もう満足しただろ?」
白い首筋を伝っている鮮やかな赤い色を目にして、リンはようやく正気に戻った。
「ごめんね。痛かった?」
それから痛みに眉を顰めているレンに、リンは申し訳なさそうにそう言って舌先で血を舐め取っていく。最初は首筋に伝っている滴や傷口の表面に付着しているものを綺麗にしているだけだったはずなのに、なぜかすべてを舐め取ったあとも顔を上げることはなく、いつしか無意識のうちに傷口に唇を押し当てていた。
「……リン?」
「レンの血、甘くておいしい」
とろん、と溶けるような瞳がレンの首筋を見つめ、唇の隙間からは幼い少女のものとは思えないような甘い声がこぼれる。
「そんなわけ――…、っ!」
ちゅ、と啜るような音がして、傷口を強く吸われているのだと分かった。
「もっと」
「っ……!」
ふたたび傷口が牙に貫かれる衝撃。体内にあるものを吸い出される感覚。痛みと言うよりは、疼きだった。
「リ……ン」
「ふ……は、ぁ」
こく、と小さく喉の鳴る音。唇の端にわずかに付着している血の赤さに目を奪われて、非難する言葉が喉の奥で声にならずに詰まってしまう。
せめて何かを伝えようとレンが無言で指を伸ばし、唇の端についているものを指で拭った直後。
「…………あ」
黒いリボンの先から足のつま先まで余すところなく仄白い光に包まれたかと思うと、その光は次第に広がって、レンと同じくらいの大きさになったかと思った直後に目を開けていられないほど眩い光を放ちながら飛散して――…。
次に目を開けたときには元の大きさの、ドラキュラの衣装に身を包んだリンが目の前に現れていた。
「マスター、こんなオプションがあるなんて聞いてないって――…リン?」
レンは呆れたように溜息をつきながらも、いつものリンに戻ったことに安堵していた。が――…。
「レン、あつい……」
いつの間にかリンの唇から漏れる呼吸は荒く、異常を起こしたときのように肌を火照らせていることに気付くと、すぐに上下に揺れている肩に手を置いた。
「え……。まさか今のでバグでも」
「ちがうの。そうじゃなくて……」
するとすぐにシャツの袖をリンの指が掴み、縋るような眼差しを向けてくる。
「わかるでしょ?」
滑り落ちた細い指先が、手袋の上からレンの指に絡む。
リンの指先がそっと手のひらをなぞった瞬間にそこから熱が溶け出して、自分の中にまで流れ込んでくるのが分かった。
「…………しよ?」
レンはソファから降りて片膝をつき、従者の出で立ちが仮装とは思えないほど自然な動作で、ゆっくりとリンの手を持ち上げると――…。
「仰せのままに。お嬢様?」
なんだかやけに芝居じみてるな、とレンは思わず自嘲するような笑みを浮かべ、そのまま音も立てずに手の甲にうやうやしく口付けた。
だけど今日はハロウィン。誰も彼もが気でも違ったような衣装に身を包み、この世の終わりとばかりにおかしくなる日だ。
その中にまぎれて僕らがちょっとくらい悪さをしたって、誰も叱りやしないさ。
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今年のハロウィン小説。レンリンでボカロ設定。あいかわらずいいところ(?)で切れてますが当日までにサイトあたりで何か書いてるかもしれなかったり…。