私には今、何が起こっているか分からなかった。私は深い意識の底にいて、そこには、私ただ一人しかいなかったからだ。
真っ白な空間が広がっていて、私はその中に、ただ膝を抱えてうずくまっている事しかできないでいた。その白い空間は恐ろしいまでに広く、あまりに広すぎて、私の体を逆に包み込んできているかのように感じた。
ここには一点の汚れもない白い空間しか広がっていない。その汚れの無さは、私が今まで見てきた、どのような白さよりも白かった。まるでここには今まで誰も脚を踏み入れた事が無いかのように白い。
それはあまりにも恐ろしい出来事だった。私はただその空間で身を震わせる事しかできなかった。
とても長い時間が過ぎたように思う。1時間、2時間、そして数十時間さえも私はその世界で過ごしたようだった。だが、それは私の感覚がそう思わせただけで、実際は数分しか経っていなかったかもしれない。
この白い空間では時間と言う感覚さえも私から奪い取ってしまっているようだった。
だが、ある時まで時間が経った時、私は気配を感じた。その気配とは確かな人の気配で、私はすぐにその存在に気が付いた。
私は白い空間の中で顔を上げ、周囲を見回した。
すると、真っ白なだけであった空間に、誰かが横たわっているのを見つけた。
私は立ち上がると、すぐにその誰かの元へと駆け寄っていった。誰かはすぐに分かった。白い空間に倒れていたのはロベルトだった。
「ロベルトさん。大丈夫ですか?起きてください!」
私はロベルトの体を揺さぶりながらそう叫ぶ。私の声は幾度も反響した。あまりに広い空間で私の声が、何度も反響している。
ロベルトはどうやら意識を失っているらしかったが、私が彼の体を揺さぶると、彼はすぐに気がついた。
気がつくなり、彼は素早く身を起こし、周囲を見回す。あっという間に彼が気がついたので、私は彼のその反応の速さに驚くほどだった。
「ここは、どこだ?」
「分かりません。私にも」
私は見開いた眼で彼を見つめ、そう答えた。だが彼はすぐにその場で立ち上がった。
「いや、ここは知っている。どうやら、我々は、ガイアの術中の中に閉じ込められてしまった様だぞ」
「ガイアの、術中」
彼が訳も分からない言葉を言って来たので、私は言葉を反復して尋ねた。
「ああ、その通り。ここは、言わば、精神の最も弱い部分を鷲掴みにされ、放り込まれたような世界だ。一見すると何も無いようだが、私達は食われているも同然だ。ゆっくりとその精神を切り落とされている」
彼は白い空間の途方もないほど先を見つめながらそのように言った。彼の発した言葉の意味が私にとっては恐ろしく思える。
「それって、どういう事ですか…」
私は思わず自分の胸を押さえてそう言った。心が切り落とされていく。それが、とてつもなく恐ろしい事のように思えた。
「言葉の通りさ。この世界に閉じ込められている、という事は、ガイアが空間を開こうとしない限りは絶対に出る事が出来ない。私も君も、精神と肉体を切り離されて、この空間の中に放り込まれたのだ。
生きてはいるが、外の世界の私達の肉体は無防備だな」
ロベルトの言って来る言葉が、私には上手く理解できない。それだけ私の理解を超える事だったからだ。
「ガイアって、誰ですか?」
私は聴いた事も無いその言葉を発した。明らかに私達西域大陸の言葉ではなく、発音しづらい言葉だった。
「それは、わたし」
突然背後から聞こえてきた声に、私とロベルトは素早く振り向いた。
するとそこからは、白い空間に切れ目を入れ、こちら側に入り込んでくる一人の少女の姿があった。何故そんな事が起こるのか分からない。だが、空間に切れ目が入り、向こう側の暗い空間から、こちら側の真っ白な世界に、一人の少女が入り込んでくるではないか。
それがただの少女であったならば、私達もそこまで警戒はしなかった。だが、こちら側に入り込んでくるその少女は、私が、あの異形の姿と化した、《シレーナ・フォート》で出会い、私を追いかけてきた、あの白い少女だった。
異様なまでに長い髪と、純白の髪、恐ろしいまでに白い肌。そして輝いてさえ見える黄金の瞳が恐ろしかった。それでいながら、顔つきはと言うと純粋無垢な少女のものと変わらない。
だが、明らかに異様な存在である事は明らかだった。彼女は私達の方にゆっくりと迫ってくる。彼女が抜け切った空間の切れ目は、まるで水の中に溶け込むかのようにして消えてしまった。
「私の世界にようこそ。ジュエラの末裔の方と、サトゥルヌス様。あなた方には、今しばらく、この安全な世界にいてもらいます。どうぞ、何でもお話になられて。あなた達のお話相手に、なってさしあげます」
白い少女は、丁寧な口調で私達にそう言って来た。彼女のその言葉は、わざとらしい丁寧さではなく、本心から丁寧で上品な口調を発したいからこそ出せる言葉遣いだった。わざわざお辞儀までしてきている。
「ジュエラの末裔って?」
私がそう尋ねようとすると、ロベルトは私よりも一歩前に出て、私をかばうかのような位置に立ち、彼女へと言った。
「ガイアよ、私達をここから出せ。外では、いよいよカテリーナが、ゼウスの前へとやって来ようとしてきているな?」
ガイアというのはこの少女の事なのか。私はそう思った。そして、一体カテリーナは誰の前へとやって来ようとしてきているというのだろうか。
「ええ、あの銀色の娘こと、カテリーナ様は、いよいよお父様の元に参られるのです。いよいよですよ、サトゥルヌス様。いよいよこの時がやって来たのです!」
ガイアは眼を見開き、声を上げてそのように言った。まるで何かに興奮し出しているようにさえ見えた。だがサトゥルヌスと呼ばれているロベルトは、そんな彼女に反発するかのように言い放った。
「いいや、ガイアよ。もうお前達の好きにはさせない。同じ歴史の繰り返しはまっぴらだ。幾度も繰り返されてきた事で、私は理解した。ゼウスの望むような理想郷など、このようには実現しえない。私達の前にあるのは現実だけだ。それ以上でも、以下でも無い」
「何を、言っているの? ロベルトさん?」
私はロベルトに尋ねるが、彼の目線は、ガイアの方を向いたままである。
「お父様の望まれる理想郷は、必ずや実現します。ただ、今回もそれは成し得なかった。ですが、いつか、必ずや実現するのです。サトゥルヌス様。あなたにもその永遠の輪廻に参加するだけの資格を、お父様によって与えられていらっしゃるのですよ」
そのようにガイアは言いつつ、彼女は私達の方へと一歩を踏み出してきた。彼女のその姿は、一点の汚れも無い少女のようではあるけれども、その汚れの無さが逆に恐ろしい程で、私は後ずさりをせざるを得なかった。
だから、言葉は私ではなく、ロベルトが言い放っていた。
「分かっていないようだな、ガイアよ。永遠の輪廻など存在しない。そんなものを想像しているのはお前達の勝手な幻想だ。全てを滅ぼし、そこに永遠の理想郷を作り上げることなど、もはや幻想でしかないのだ」
そうロベルトは言うなり、銃をガイアの方へと向けた。まさかこの少女を撃とうとでも言うのだろうか。
「分かっていらっしゃらないのは、あなたの方ですの、サトゥルヌス様。全てを滅ぼし、そこに理想郷を作るという計画に対しては、あなたも、幾度も幾度も、同じ行いをしてきたではありませんか? 人間達と最も身近にいる役目を果たすあなたが、それを最も良くしっていらっしゃるはずです」
そこで、突然、ガイアの姿は、まるで雲をかき消すかのようにして消えうせた。どこへ行ってしまったのかと思う間もなく、彼女の声が背後から響き渡る。
「人間達の醜い部分も、愚かしい部分も、全てをあなたが知っているはずです。なのにどうして?どうしてお父様に歯向かわれるの?」
いつの間にか、私達の背後に回り込んでいたガイアが、私達に向けてそのように言って来る。まるで瞬間的に移動したかのようだ。
ガイアは今度は私達の背後から、ゆっくりと迫ってくる。私は彼女の得体の知れない姿に怯えていたが、ロベルトにはそんな事はなかった。
「それは簡単だ。お前も、お前の父も、この私も、そして誰にもそんな権利は無い。神ではないからだ。もしこの世界を滅ぼすと言うのならば、それは立派な大罪になるだろう。私はそれを止めに来た」
ロベルトがそこまで言った時だった。突然、ガイアはその眼を見開き、声を上げながら笑い出した。
あまりにも突然に、そして無防備な姿で笑いだしたものだから、私は彼女の姿が更に又恐ろしいもののように見えてしまった。何がそんなに可笑しいと言うのだろう。
彼女はある所まで笑い続け、突然、自分の背後の空間から、黒い世界を開いた。それはまるでぼんやりとした空気を切り裂いて開かれる、雲の向こう側の世界であるかのように開け、私達の目の前に展開した。
「これを、ご覧になって。あなた様も良くご存知でしょう? これが、お父様のお力です。これこそ、神の偉業。永遠の輪廻へと世界を導くお父様のお力。この力を神の力と言わずして、一体何をそう言うのでしょう?」
ガイアは、まるでそこで展開している光景に対して酔いしれながら、そう言うのだった。
だが、幾ら彼女がそこにて広がる光景に陶酔していようと、私にとって、そこに見えるものは、ただの絶望とも言える光景でしか無かった。
私達の立っているのは、断崖絶壁にも等しい場所だった。白い空間の前方部がそのまま、黒く淀んだ世界へと繋がっている。
その世界は私も良く知っているはずの、《シレーナ・フォート》の世界なのだろうという事は、確かに分かった。
だが、その世界はあまりにも変わってしまっていた。黒い空間が、四方5kmの城壁に囲まれた都を覆い尽くし、都を暗がりに落としこんでいる。
夜と言えばそう言ってしまう事もできるかもしれないが、この暗さは夜とはまた異なるものだった。紫色の不気味な気体がそこら中に充満しており、更に、都の至る所には、異形の怪物達が徘徊していた。
昆虫の姿をそのまま巨大化したもの、と言えばそうかもしれないが、紫色の体色に覆われたその怪物たちの姿は、嫌悪さえ抱けるほどの不気味さを有していた。
人々は逃げまどい、昆虫達に追い詰められている。怪物は街を破壊し、たった今、私も良く知っている、《シレーナ・フォート》の塔を一つ倒壊させたところだった。
塔は横倒しになりながら、瓦礫を崩れさせ、そのまま巨大な音を立てながら街へと沈んでいった。
《シレーナ・フォート》の美しくも雄大であった街は、見るも無残な姿となり変わっていた。ここは暗黒の空間なのか、そしてこの世の終わりの光景なのだろうか。私は目の前に広がる光景に絶句していた。
だが、ガイアという少女は、私達に近づいてきてこう言った。
「そして、この神の力に決定的な一打が加えられ、この世は滅びます。知っておりますよね?サトゥルヌス様?お父様は当然ながら、この都を滅ぼすだけではご満足いたしません。確かにこの都が滅びる事で、この世界が滅びの螺旋に巻き込まれていく事は確かな事でしょう。
ですが、それでは、何十年?いえ、何百年と言う暗黒時代を経なければ、この世界は滅びません。全てを浄化し、全く新しい姿に書き換えるにしては、長く時間がかかり過ぎてしまうのです。
お父様はその滅びの時代を、経った数年、いえ、今この時にでも起こす事ができるのです!」
ガイアは、まるで自分に酔いしれてしまっているかのようにそう言った。彼女のその姿は、あまりに恐ろしい物にさえ私には見える。美しい少女の姿をしているのに、その姿があまりに恐ろしい物に見えて仕方がない。私は彼女に対して、畏怖から来る恐れさえ感じていたのだ。
「だが、ゼウス一人ではこの都を滅ぼす事までしかできん。必要なのは、カテリーナだ。カテリーナ・フォルトゥーナがいなければ、ゼウスの計画は全うできない」
ロベルトは私とは対照的に、ガイアに向かって、そして目の前に広がっている光景に対し、恐れも畏怖も感じないかのようにそう言い放った。ガイアに向かって、一歩足を踏み出してさえいる。
「ええ、その通りですわ、サトゥルヌス様。ですが、ご心配はありません。あの銀色の娘は、私達のこの大いなる輪廻に、自ら参加するおつもりですもの」
と、ガイアが言うと、私達の目の前にある景色が流れていく。暗黒に包まれた《シレーナ・フォート》上空から、今度はその視点を下の方へと向け、街の中心部、ピュリアーナ女王が住まう王宮にまで降りて行く。視点はその王宮の中庭に立つ、ひときわ高く、周囲の建物とは明らかに趣の違う塔へと降りていった。
その塔は、私も知っている。この《シレーナ・フォート》にいる間、何度かその姿を見たが、王宮の影に隠れ、ただ円筒形の巨大な柱でしかないように見えていた。そこには幾重にも封印の文字や鎖が巻きつけられている塔で、私は、その塔が一体何者であり、何故そこに塔があるのか知らなかった。
だが、ガイアが誘う視点は、その塔へと集中していく。不思議だった。《シレーナ・フォート》で最も背が高く、圧倒的な存在感を放っているのは、ピュリアーナ女王の住まう、王宮であるはずだったが、今は何故かその不気味な塔が、《シレーナ・フォート》の中心にあり、そしてもっとも巨大にさえ見えていた。
塔からは奇妙な紫色のガス状の物体が放出されており、あたかもその物体が、この《シレーナ・フォート》の暗黒の空間を作り上げているかのようにさえ見える。
そして私達の視界は、その塔の内部にまで移っていった。塔の内部は、がらんどうで、大きな秘密が封じ込められているような外見とは相反し、頂上へと続く、螺旋階段しか無いのは意外だった。
塔の内部も外部と同じように、封印の文字、私には理解する事が出来ない文字が羅列されている。
その塔の中の螺旋階段を歩いている一人の女がいた。銀色の髪、そして甲冑を身にまとったその女が誰であるかはすぐに分かった。カテリーナ、彼女が塔の螺旋階段を登り、その頂上を目指している。
私は身を乗り出した。
「そんな、カテリーナ! カテリーナは、一体何をしようとしているのですか?」
カテリーナは決意に満ちたような顔をしながら、螺旋階段を一歩一歩踏みしめている。彼女の体と甲冑の重さで螺旋階段の木の板が軋む音さえ私達には聞こえてきていた。
だが、カテリーナの方は私達の事を気づいていないようである。私達がこの白く閉ざされた牢獄から彼女を見ている事を、カテリーナは知らない。ただその視線を自らが登って行く塔の上へと向け、ゆっくりと足を踏みしめていく。
私は思わずその光景に身を乗り出しそうになったが、そんな私の前に、ガイアが立ち塞がって私達に向かって言った。
「さあ、始まります!いよいよなのです。銀色の乙女が、運命の地に辿り着く今こそ、全てが始まる時なのです!」
ガイアはあたかも何かに酔いしれるかのようにそう言った。彼女の眼は私達でも、カテリーナでもなく、どこかに向けられていた。そのどこか、というものは私にはとても理解しえないように思えた。
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ガイア達に捕らえられ、意識下に閉じ込められることになったブラダマンテ。彼女は拘束された意識の中で、ただ外の光景を見ている事しかできず―。