彼は、その水面から下界を見下ろしていた。
水面はゆっくりと揺らぎ、下界に広がる様々な光景をそこに投影している。それは街であり、草原であり、山々であった。彼の目の前にあるものは、この世界の人間にとっては水面に見えるかもしれないが、それは正確には水の面ではなく、投影された像だった。
だが、彼はそれらの中でも一つのものを選び出し、じっと見つめていた。
そこには銀髪をたなびかせ、銀色の甲冑を纏い、今まさに戦場にて死闘を演じている女が映っていた。
カテリーナ・フォルトゥーナ。一時は彼ら側の手中に収めたものの、彼ら側の裏切りによってまんまと脱走したあの女だ。
彼女は彼らにとって鍵であり、これからの計画にとって必要な存在であったが、今や敵対する立場へと成り変わっている。
さて、どうしたものか。
彼はその投影された像を見つめつつ考えた。カテリーナはどこにも逃していない。自分の手中を離れてからと言うもの、ずっと監視を続けてきた。
「見なさい、ガイア…」
彼、娘や仲間達にとってはゼウスと呼ばれる存在の彼は、背後に佇んでいる少女に向かってそう言った。
「はい、お父様」
ほのかな白い光に包まれている彼の娘、ガイアはゆっくりとこちらへとやって来た。
彼女はまるで感情を持っていないかのように見えながらも、実際は全てを見通しているかのような表情を向け、こちらへと歩みを進めてくる。
天使。下界の者が彼女を見るならば、そう形容するだろう。それは間違いではないが、間違いでもある。ガイアは天使である以前に、一つの存在であり、ゼウスにとっては娘であった。
そんな彼女が、ゆっくりと流れる水面へと顔を寄せ、カテリーナの姿に見入った。
「これは…、まあ、まるで以前とは別人のようですわね…」
ガイアはそのように呟いた。
そう、あたかも別人であるかのようだ。別人のようではあるけれども、そこにいるのは確かにカテリーナ・フォルトゥーナであった。人間どもが、ガルガトンと名付けた存在と剣を向け、激しく戦い、騎士達を率いているのは、ゼウスの手中に収めていた時は、か弱い女そのものでしかなかった、あの女だった。
「この数日で何があったのかは知らぬが、カテリーナ・フォルトゥーナは、我々の洗脳を乗り越えた。そして、私が放ったこやつらと戦っている。
そう、まるで以前までの勢いを取り戻したかのようにな。だが、彼女はそのせいで、再び盲目になってしまった。我々が見せた計画の存在を忘れたかのように、再び我らには向かっている」
ゼウスはじっとそう言った。彼の言葉は、彼とガイアがいる広間に幾重にも反射をして広がり、巨大なものとなって押し広がる。
人間どもが彼の声を聞こうならば、その圧倒的な存在感に押し潰されてしまうだろう。
だがガイアはそんなゼウスの声など聞き慣れているかのように、その表情に笑みを浮かべた。まるで恐れと言うものを知らないかのような、屈託の無い子供の笑みだ。
「それは、よろしくない傾向ですわね…」
「その通りだ。これから始まるというのにな。人間どもにとっては、滅びと再生の時代が、まさにその地から始まると言うのに、彼女はまるでそれを忘れ去ってしまったかのように、再び剣を手に取った。
剣を手に取る相手を、彼女は忘れているのか、それともわざと押し殺しているのだろうか。それを思い出させてやらなければならないようだ」
「いかがなさいます? お父様?」
ガイアはすかさずゼウスに言って来た。
「ただちに始める。すでに計画は動いているのだ。後は私が手を下すまで…」
ゼウスがそのように言うと、彼は広間の床からあるものを出現させた。その物は床から音も立てずにゆっくりとせり上がって来た。
それは黒い球体だった。光を一切放たず、ただ台座の上に置かれた黒い球体。全ての光を吸いこんでいるかのようなその球体は、光沢の一つも放たず、材質さえも理解しがたいものだった。
だが、彼らはこれが何かを知っている。
ゼウスはその球体の上に、巨大な手をゆっくりと乗せた。球体は、彼の手がちょうど掴む事ができるほどの大きさだった。
「今、始めても、カテリーナがこちら側に靡くとは思いませんわ…」
ガイアがそのように言ってくる。だが、ゼウスはそのくらいの事はすでに考えていた。
「だから、お前がいるのだ。ガイア。お前が、彼女を揺り動かす役目を果たせ…」
ガイアは静かにそのように言い、黒い球体に乗せた手とは逆の手で、一つの水面を指差した。
そこには、ブロンドの髪をした、年の頃18歳ほどの少女が、街中を駆けている姿があった。
その少女の像を見て、ガイアは笑みを隠せなかった。
私達の周りで何かが起きようとしている。それは今、街の外で起こっている戦いとは異なる、また大きな何かだった。
その気配が運んでくる迫力は圧倒的なものであり、はっきりと私も感じる事が出来ていた。
エルフ達は、気配だけで空気の流れや魔力を感じる事ができるというが、それが今、私にも感じる事ができるのだ。
それだけこの《シレーナ・フォート》を覆っている気配は色濃く、はっきりとした姿をして私たちの前に現れている。
ロベルト達を探しに、《シレーナ・フォート》第7区画にまでやって来た私だけれども、街の外側から到達してきた、黒い雲に思わず空を見上げずにはいられなかった。
黒い雲は日を覆い尽くし、日中だと言うのに、まるで夜の中にいるかのような錯覚に私を追いやった。路地は闇に包まれていき、前方の視界さえもぼやけてしまいそうだ。一体、何がやって来ていると言うのだろう。
確かに今、街の外では、カテリーナ達による戦いが繰り広げられている。迫りくる存在は、それだけではないというのか。この《シレーナ・フォート》に迫って来ている危機は、ガルガトン達によるものだけではなく、更に別の何かが迫って来ていると言うのか。
私は、自分の胸を締め付けてくるような、巨大なものにわしづかみにされる感覚を味わった。ロベルト、ロベルトはどこだろう? 彼らは、第7区画で最も背の高いと言う時計塔で目撃されたと言う。
時計塔。時計塔はどこにある? 私は周囲を見回した。
だが不思議だった。空が黒い雲によって覆い尽くされてしまっているせいなのだろうか。街が先ほどとは違う姿をしているようだった。
そう、振り向いて見ても、本当に私が駆けてきた街なのかと思ってしまうほど、広がっている光景が異なる。
街の建物は、異様なほどに入り組み、建物の高さも、極端に高くなっている。まるでレンズを通して街を見ているかのような錯覚だが、街の建物がそのように見えてしまうのはなぜか。
しかも、それだけではない。街を覆い尽くした黒い雲は、そのまま地上にまで降りて来て、街を包囲してしまったかのように、全てを包みこんでいた。黒い雲が、街中にも立ち込め出していた。
その黒い雲自体は、触れる事で熱いという感覚も無かったし、触れても何も感じる事ができない実態が無いものだったが、確かに黒い雲は立ち込めて来ている。
これが意味しているものは一体何だ。黒い雲は煙のような姿をして、だんだんと街を覆っていっている。私は思わず後ずさりをした。
この煙に対しては、恐怖の感情しか無い。触れる事で害は無さそうだったけれども、この黒い煙自体に恐怖を感じてしまう。得体の知れないものだ。まるで生き物であるかのように、私の方へと近づいてきた。
「一体、これは…、ロベルトさん!」
私は思わず、ロベルトの名前を叫んでいた。彼の姿が見えたわけではない。だが、私は無意識の内に彼の名前を叫んでしまっていたのだ。
街の中には、誰もいなくなってしまったかのように私の声だけが響いた。だが、どうやら私だけになってしまったわけではないらしい。
黒い雲が立ち込めてくる方から、金属と金属とをこすり合わせるかのような、耳障りな音が聞こえてくる。
この音は、一体、何だ?
私は再び足を動かし、駆け出さざるを得なかった。何かは分からない。しかし私には恐怖があった。その耳触りの音が、私の恐怖を生み出す感情を刺激し、私の体を動かしていた。
しかし、通りはいつの間にか、無限に伸びているかのようになってしまっており、走っても走っても、同じような建物が続くだけだった。
何かが起こっている。この《シレーナ・フォート》の街を、何かは分からないが、巨大な脅威が襲いかかって来ている。それは街自体の構造をも作り変えてしまうほど、巨大な何かだ。
「…、心配…、いらない…」
突然、私の頭の中に響いてくる言葉があった。私は思わず足を止め、周囲を見回した。
「誰…! 誰か、どこかにいるの?」
私は声を上げてそのように言い放った。だが、周囲からは、私を取り囲むかのようにして、金属をこすりつけるかのような音が取り囲んできている。
もう、私は包囲されてしまって、どこにも逃げ場が無いかのようだ。
「何も…、恐れる事は無いわ…、ブラダマンテ…」
私の耳に聞こえてくるのは、少女の声だった。それも、私よりもずっと若い。おそらく、10歳か、そのくらいの年頃の少女の声だ。
「誰! 姿を見せて!」
初めて聞く少女の声だった。一体、こんな所で何をやっているのだろう。小さい子供たちだったら、とっくに避難したはずだと言うのに。
と、私の背後から、何者かが、ゆっくりと肩の上に手を乗せてくる感覚があった。
はっとして、私は背後を振り向いた。
背後に誰かいる。私は突然やって来たその存在に、恐怖さえ感じていた。一体、何者がそこにいるというのだ。
私の背後にいたのは、女の子だった。それも、私よりも5、6歳は年下の、まだ年端もいかないような年頃の女の子だ。
何故、こんな場所に、女の子がいるんだろう。
それも、不思議な女の子だった。周囲の暗がりの中で、その子の姿は白い光に包まれて、ぼうっとした姿を見せている。
私がかつて出会った事のある、精霊に姿が似ているような気がした。精霊達も、ほのかな光に包まれている姿をしていたからだ。
だが、この女の子は精霊とは違う。それを私は直感した。
「恐れる事は無いわ…、一緒に来て…」
その不思議な女の子が、私の方に向けて手を伸ばしてくる。ひそひそと囁くような声なのに、大きな存在感をもって、私の前に覆いかぶさってくる。
「あなたは…、何者…?」
私は思わずその女の子から後ずさりしてそう言った。この子は、何だか物凄く恐ろしい存在であるかのような気がしたからだ。
女の子は、後ずさる私に、ゆっくりと近づいてきた。
その子は肌も白く、身につけているドレスのような服も真っ白で、髪さえも真っ白だった。とても長い髪で、彼女の足下にまで垂れさがっている。そして、真っ白な髪はどこまでも伸びているかのようだった。
私に近づいてくる。私は、後ろを振り向いて逃げ出したい気持ちだった。だが、できない。私は目の前の女の子に圧倒されてしまっている。
何が私をそうさせるのか分からない。私は、まるで何か、巨大な手に鷲掴みにされているかのようだった。
女の子は、私の手を取った。私の手よりも小さな手だった。しかも繊細で、全く汚れも無いかのような手がそこにはある。綺麗であまりに綺麗すぎて恐ろしい。
女の子の口が動き、私に言ってくる。
「来て、お父様がお待ちよ」
その声と共に、女の子の背後から、何か、巨大なものが広がった。その巨大なものは、私を包みこもうとしていた。
私は成すすべなく、目の前の視界を失った。
「ついに来てしまった…」
ピュリアーナ女王のその言葉は、狭い地下の広間に大きく響いた。
女王は立ち上がり、天井を見つめていた。
「一体、何が来たというのです? 陛下?」
女王の従者のシレーナが彼女にそう尋ねた。突然立ち上がった女王の姿を見上げる。
「私は、偽っていた。だがいくら偽ろうと、正直、恐怖を感じていたのは確かだ。私は、知っていた。この時がやってくる事を知っていたのだ」
女王は天井を見上げたまま言葉を続ける。
「それは、どういう事ですか?」
そう言ったのはフレアーだった。彼女も女王の側におり、魔力による防壁の警護に当たっていた。
ピュリアーナ女王は、天井から目線を下ろし、言葉を発する。
「古くは、シレーナが、ハーピーという種族と同一の鳥女であった時代にまで遡る。それは、長きにわたって、代々百代以上も連なって来た、王家に伝わる伝説の一つだ。それが事実だと示す記録は何も残っていないし、私も正直のところ、信じてはいなかった。
あの、カテリーナという娘が私の前に来るまではな」
古き伝説とカテリーナ。全く異なる二つのものを結びつけるピュリアーナ女王の言葉に、その場にいた従者達と、シレーナが聞き入っていた。
ピュリアーナ女王は語り始めた。その声は、大きな響きと、畏怖さえ感じられるほどの迫力を持っていた。
「“命ある者達の力を超える者が、最も力を持つ国の王の前に現れ、時代は栄華を迎える。
王に仕える戦士の一人が、王に刃向い、人ならぬ者達の軍を形成する。
人ならぬ者達の軍は、命ある者達の力を超える者によって滅ぼされ、そこに新たな王国が築かれる。
しかし油断するな。その歴史には、全ての存在の頂点に立つ者達の力がある。
その存在に刃向い、歴史を変えてしまう事は、その者達に刃向うことになる。
その存在が姿を見せた時、黒き雲により王国は呑み込まれ、全ては無に帰す。
全ての謎は、塔に封じられる。塔を畏れ、時が来るまでこれを封じよ“」
ピュリアーナ女王は、まるで何者かに憑依されたかのように、その伝説を語った。
伝説に、周囲の者達はお互いを見合い、どう答えたらよいのか言葉を探した。
「あの…、それって…」
フレアーが言いかけた。
「そう。この国の今の歴史だ。カテリーナ、この国に今起きている事、そしてあのディオクレアヌの事を指しているのは明白だ。だが私はその歴史を、すでに伝説として聞いていた。私の世代にまで代々王家から伝わって来ているのだ」
ピュリアーナ女王は彼女に向かって答えた。
「あの…、話が具体的過ぎて、逆に伝説らしくない気もしますが…? あと、その、最後に出てくる塔とは?」
フレアーが恐れもせず、ピュリアーナ女王にそう言った。
「そうかな? ではこれが、伝説では無いとしたら? そう。これが、過去よりの警告だとしたら? 伝説のように作られた話ではなく、より具体的な内容として後世に伝えようとするはずだ。
そして、もしその出来事が繰り返すとしたら? そう。何千年という規模の年月を経て、同じような出来事が繰り返すとしたら?」
「一体、何を根拠に、おっしゃられるのでしょう?」
そう尋ねたのは、フレアーの足元にいるシルアだった。しかし、ピュリアーナは彼女の瞳を覗き込み、まるで何かを探るかのようにして言って来た。
「あなたも、魔法使いの子ならば感じているはずだ。今、この都を覆っているものが、並みの力では無いと言う事を。それは、圧倒的なまでに巨大な力となって、我らに襲いかかろうとしているのだ。
そして、塔と言うものは実在する。王宮地下にあるのを、あなたも見た事があるはずだ。あの塔を私は先代の女王に習い、同じように封印してきているが、中に何があるかはまだ見た事も無いし、知りもしていない」
その女王の言葉に、フレアーは図星だと感じていた。
フレアー自身も、避難が始まった頃から続いている、強大な力の気配は誰よりも強く感じていた。人間よりもはっきりと、シレーナよりも敏感に、その力を感じざるを得なかった。
「では…。もし、女王陛下のおっしゃる事が、実際に起こっているとして…、わたくし共に、一体、何ができるのでしょう? その強大な存在がいるのなら、一体、わたし達に何ができるのです?」
というシルアの声は、どこか震えている事をフレアーは感じていた。彼が普段見せないような同様だった。
ピュリアーナ女王は静かに目を閉じ、答えてきた。
「…、何もできないだろう…。そう。我らにできる事は、その時が来るまで身を守る程度の事しかできない。この結界のようにな。果たして民を全て守る事ができるかどうか…?」
珍しい、実に珍しいピュリアーナ女王の自信のなさげな声だった。今まで彼女はまるで全能の存在である女神であるかのように、確かな力を持っていた。だが、強大な力を前にして、それを失ってしまったかのように、自信なさげだ。
その女王の姿が、無理も無い事はフレアーにも分かっていた。
だから彼女はこう言うしか無かった。
「でもきっと! カテリーナ達が何とかしてくれますよ!」
それは何の確証も無い言葉だ。フレアーの口をついて出てきたに過ぎない。
「だと、良いがな…」
ピュリアーナ女王のその言葉に、フレアーは何も答える事が出来なかった。
「ほら、もう目の前にやって来ている。この強大な気配は何だ? わたしが今までに感じた事が無いほど、巨大なものが迫っている…」
ピュリアーナ女王は天井を仰ぎ見てそう言った。
やがて小さな地響きが起こり、大地は揺るがされた。黒い、巨大な球体が《シレーナ・フォート》の都市を呑みこんでいく。
やがて、音が都を包みこんだ。
それは、この地にいる誰もが耳にした事が無い音だった。何と形容したら良いのか分からないほど、その音は未知のものだった。
力は球体の中に凝縮され、その力と言う名の竜巻の中に閉じ込められたかのように、今の《シレーナ・フォート》は存在していた。
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カテリーナ達が激闘を行っている中、動き出す黒幕達。一方、都ではブラダマンテが何者かによって連れ去られようとしていました。