――あなたを水極界へご招待いたします。
先日知り合った富豪から、滞在先の宿に招待状が届いたのは、旅立つ前夜のことだった。
その男性とは魚を売る店で出会った。
魚……といっても食用ではなく、観賞用の金魚や鯉などを扱う店だ。
絢爛たる錦の鱗を身に纏い、水槽のなかを悠々と泳ぐ魚たちは、眺めていて飽きがこない。なかには背のガラが派手な斑になっていたりひょうきんな顔をしていたりと、ひときわ目を引く魚もいて、なるほど観賞魚を商いのタネとするのもなかなか面白そうだった。
店の一角には売り物として大小さまざまな水槽が置かれていた。そばにはエサや種々の水草、底に敷き詰める砂利などの飼育用品が並べられた棚もあった。それを見て廻るだけでもどこか心浮き立つのだから不思議なものだ。あの水草とこっちの流木を組み合わせれば森のような見た目になるな、とか、砂利とガラス玉を混ぜてこの魚を泳がせれば水の透明感をより表現できるかも、などとついいろんな完成図を想像してしまうのである。
せっかくなので店主に断って何枚か写真を撮る。旅をする身でなければこういう趣味をもってもいいなと本気で思ってしまった。
彼とはじめて顔を合わせたのは建造物の模型が並ぶ棚の前だった。
木製や陶製の細かな造りの模型は、水槽の中に沈めて魚の住処とするらしい。単純な円筒形や壺形もすっきりしていてよいが、こちらはこちらで見た目にも楽しめる。好奇心に駆られるがまま手に取ろうとしたところで、横から伸びてきた手と触れそうになった。慌てて引っ込めると向こうもすっと手を引いた。
見ると精悍な顔つきの男性が紙片を手に立っていた。
夢中になっていたので全然気づかなかった。
身なりからもただ者ではないことがわかる。金糸や銀糸をふんだんに使ったゆったりした衣服には、この地の伝説によく出てくる細身の竜が鱗一枚一枚まで緻密に刺繍されていた。色目さやかな絹地にその長い身をくねらせ、厳かな表情をこちらに向けている。
この町のいたるところにこういった竜の絵画や彫刻はあるが、ここまで存在感のあるものは初めて見た。
「すみません、メモに気を取られていたものですから」
「いえ、こちらこそ。しかし、ぶつからなくてよかった。万が一はずみでこの模型を落としでもしたら、弁償しなければならないところでした。旅の身で不要な出費はそれこそ手が当たるよりずっと痛いですからね」
「ははっ。もしそうなったらこちらで全額持ちますから大丈夫ですよ」
見た目とは裏腹に意外と気さくに笑顔を見せる男性に、私の表情もほころぶ。
「旅の方といいましたか。観賞魚に関心が?」
「ええ。写真家をしているのでいろんなものに興味を持つのが癖みたいになってまして。この家の模型なんてよくできているし、魚が泳ぐ中にこんなのがあったら面白そうですね」
「あなたもそう思いますか!?」
男性はぱっと表情を輝かせると、水を得た魚のように自分の趣味の話を始めた。といっても一方的に好き勝手しゃべるのではなく、むしろ素人にもわかりやすいように解説してくれたのだが。
彼は魚の飼育と水槽内のレイアウトを道楽としていて、どうやらこの店の常連客でもあるらしい。さらに、こちらからもいろいろと質問しているうちに、だいぶ奥深い分野であることもわかった。
意気投合というのはこういうことを言うのだろう。しまいには「また今度、家に遊びに来てください」とのお誘いまで受けた。
まだ出会ったばかりなので多少困惑していると、そばにいた店の主人が「一度行ってご覧なさい。すごいですから」と、そっと耳打ちしてきた。
どうやら店主は行ったことがあるらしい。
また、かの人物はかなりの人格者のようで、帰りの道すがら、町の人から声を掛けられてはひとりひとりに丁寧に応じていた。挨拶には軽く笑顔で応え、子どもらには遅くならないうちに帰るようにとやさしく諭して手を振り見送る。鳥屋の網が破れたから修理してほしいと頼むおばあさんにはすぐにも職人を遣ることを伝え、怪我をして職を失ったと嘆く男性には仕事の斡旋を約束した。
このあたり一帯ではそれなりの権力者であり、かつ人望も厚い。そんな人物と知り合えたのは何かの縁かもしれない。
別れ際、あらためてこちらから「近いうちにお宅へ伺わせていただきます」と告げて宿に戻った。
宿で訊ねたところ、招待状にあった「水極界」とは、町の人がつけた男性の邸宅の別称だそうだ。年二回ほど一般にも公開しているらしい。
同封されていた地図のとおりに向かうと、清流のほとりに名に恥じぬ豪邸が建っていた。
呼び鈴を鳴らす。すぐに下男が出てきて促されるまま中へと踏み込んだ。
広々とした廊下を進み階段を下りて、ある部屋の扉の前に立つ。
大きな両開きの扉を押し開けると、そこは別世界だった。
三方をカーテンに覆われた薄暗い部屋。無数の水槽に戯れる魚たち。
それぞれにテーマがあるようで、春夏秋冬の自然を模したり海底の有様を表現したり、あるいはシンプルに水草と砂利、一種類の魚だけで構成されているものもあった。
この家の主が両手を広げて歓迎してくれた。
「よくお越しくださいました。どうぞ心行くまでごろうじろ」
白い歯を見せておどける彼に、私もつられて笑みをこぼす。
ランプに煌々と照らし出されたそれぞれの水槽を順にめぐっていくと、彼は随時、簡潔にその水槽についての説明をしてくれた。
詳しい知識はない。しかし、見ているだけでも十分に楽しめる。これだけの規模だと維持は大変そうだが、好きなら苦にはなるまい。
そんななか、部屋のちょうど中央あたりに風変わりな水槽があった。
他よりも大きくしっかりとした造りの水槽には「町」が再現されていた。
店にあったような家屋や店舗の模型が整然と並べられ、田畑や道、川、林などの形も細かく再現されている。当然、魚の健康に影響する塗料や接着剤の類は一切使われていないはずだ。建造物の模型にはちゃんと窓が嵌っていて、中から小さな人形が外を眺めていた。
そのうちのひとつに見覚えのある人形があった。
豪華な服には竜が刺繍されている。精緻な出来に感心しつつその勇ましい表情がわりと似ていたため思わず噴き出しそうになった。
「水極界の主がここにもいますね」
「主というより管理人みたいなものですが」
まじまじと人形のいる家を覗き込む。
水槽のなかにいるもうひとりの彼は、窓の外を泳ぐ魚たちをみつめて何を思うのだろう。
「こうなるとどちらが『見られる側』なのかわかりませんね」
私が言うと、彼は珍しくシニカルな笑みを口元に浮かべた。それも、こちらに向けてというより水槽に映る自分に対して。
彼はゆっくりと壁際に歩み寄ると一気にカーテンを開けた。
「おおっ、これは……」
意外な光景に驚嘆の声を上げてしまった。
分厚い布の覆っていた先、窓の外に魚が泳いでいた。我らの姿に一度は驚いて身を翻した魚たちも、しばらくするとまた何事もなかったかのごとく泳ぎだす。
地下に潜るように造られた部屋はすぐそばを流れる川にせり出していて、水中の様子を眺めることができるようになっていたのだ。ゆるやかな流れの透明度は抜群で、観賞魚とはまた違う川魚たちの活き活きとした姿をうかがい知ることができる。いや、この場合むしろ部屋の中にいる我々の方が魚たちに見られているのだろうか。
まさに今指摘した水槽の中の人形と同じだ。
「人の立場などというものはいつひっくり返ってもおかしくありません。だからご覧のとおり、趣味の中に驕らぬよう戒めを含めているのです。これが我が道楽であり続ける限り、常に向き合うことができますから」
身分相応の悩みや不安は誰にでもある。彼も例外ではないのだ。他の者よりも権力や財を多く持つからこそ、傲慢にならないよう自分を律しなければならない。
これまでの彼の態度を省みる。付き合いは浅いが町での彼の慕われようからもその人間性はわかる。
水極界の主、否、管理人は水槽の魚に比べてもはるかに自由だ。己を律することは大事だが桎梏となっては道楽も道楽ではなくなってしまうのではないか。
もっと気楽にかまえては……と助言しようとして心配が杞憂であることに気づいた。
すでに彼はいつもの表情にもどっていた。
「客人にする話ではありませんでした。どうぞ気になさらずお楽しみを」
それだけ言うと、一礼して後は黙した。
こんな心遣いができるなら何も心配ないだろう。
私はお言葉に甘えて観賞を再開することにした。
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2011年9月8日作。水極界(すいきょくかい)=造語。偽らざる物語。