1 出産
煌めく街の灯りのせいで空に星の居場所はなくなっていた。
夜空に星が見えなくなってからどれ程の時が流れたのだろう。星のない空はどこか不自然で、寂しさを感じさせる。
人が光を求めたが故、星の存在を許さぬ夜を作ってしまった。光の中に安らぎがあると信じ、人は闇を削って生きてきた。
科学という魔法を使い、潜在的に怖れる闇をなくすことに人々は努力を惜しまなかった。
闇をなくすことなどできぬと知りもしないで……
残った闇が、深さを増していることに気づきもしないで……
星を潰したことにより、間の抜けたのっぺりとした夜空が広がっていた。何もない空……これもまた一つの闇と言っていいだろう。しかし、夜空には街灯りに負けぬ光り輝く星も存在した。
地球に最も近い星。
大自然にまで影響を及ぼす美しい星。
月だけが、冷たい光を放ち天空に浮かんでいるのだった。
夜空に輝く満月。
人がその輝きを奪えなかった唯一の存在。だからこそ人は月を崇めるのかも知れない。
その強さに憧れ、その美しさをうらやんで……
今日は、いつもにも増して満月が美しかった。それは人に負けぬ強さを誇示しているようにも見える。
もし今日の印象を言うのであれば「月が明るすぎた」だろうか……いや「美しすぎた」かも知れない。
そんな美しく輝く満月に、悲しげな瞳を向ける一人の女がいた。
都心に近い総合病院の一室。
本城
月明かりの差し込む病室は、何処か寂しげな雰囲気を醸し出している。元々明るさよりも「寂しさ」「暗さ」と言う形容が印象に残る空間だが、夜はその色を更に濃くしているようだった。
その寂しさに呑まれたのか、茜の頬には一筋の涙が流れ落ちていった。
月にも負けない美しさを持った茜が、いったいなにを悲しんでいるのだろうか。その儚げな表情は、まるで月からの使者を待つようにも見える。愛する人を置いて、月に帰らなくてはならない悲しい運命に涙するかぐや姫のように……
二十歳にしては、何処か幼さの残る顔立ちからは、悲しみの他に不安の表情も伺えた。その不安は、布団に隠れている大きくなったお腹が原因なのだろう。
初めて身ごもった女性の殆どが不安を感じると言う。男には耐えられない重圧、生命を宿す女性にだけ与えられた特権、自らの体内で日々大きくなる命、不安を感じるなと言う方が難しい。茜もその不安に駆られ涙しているに違いない。だが不安と同時に女としての喜びも感じている。双子と診断され、無事妊娠23週目にも入った。
幸せを感じながらも徐々に大きくなる生命に、感情が抑えられなくなっている。本来なら誰もがそう考える状況だった。
しかし、茜の不安は初産のせいではなく、別のところに存在していた。
「なぜなの。なぜあなたはそんなに美しく輝いているの。この美しい光がこれ程恨めしく思うなんて……やはり私は子を宿してはいけなかったの」
目を伏せ、溢れる涙を拭おうともせず。茜は迫り来る運命を恨んでいた。
お腹にいる子は、なにか訳ありの子供なのだろうか。産まれて来るにはつらい運命を背負っているのだろうか。いや、そうではない。つらい運命は別として、お腹にいる子は祝福されるべき子供だ。二人が愛し合った証の子なのだから……
夫・本城
確かに、なんの障害もなく来られたわけではない。茜の実家に反対され、駆け落ちをして東京に出てきたのが一年前、どんな苦しい時も二人で乗り越えてきた。
子供ができたと知った時、秀明はまさに飛び上がって喜んでくれた。それは、茜も同じだった。
それなのに何故、茜はこんなに悲しい表情をしているのだろう。
ゆっくりと瞼を開き、優しくお腹をさする姿は、まるで聖母マリアのように慈愛に満ちている。茜はお腹の子を愛おしみ、そして優しく語りかけた。
「お願い。まだ産まれてきてはダメ。普通の子のように、もっとゆっくりお母さんのお腹の中にいて頂戴……いい子だから」
なんと言う悲しげな声。茜の願いが強く感じられる。しかし、茜はなにを言っているのだ「長くお腹にいて」などと……安定期にも入っているので流産の恐れは少なくなっている筈なのに、早産の兆候でも出ているのだろうか。
妊娠23週目の検診に来て、突然の貧血で倒れた茜は、そのまま安静を取って入院することになった。
本来であれば入院する程のことではないのだが、今こうして病院のベッドの上にいるのは秀明が原因であった。
茜が倒れたことに卒倒した秀明が、同僚の産婦人科医・神崎
いつもであれば、こんなわがままを言う秀明を茜がたしなめ、入院など取りやめにするはずが、意外にも茜は秀明の言うことに従い入院を承諾してしまった。
年齢に似合わずしっかりしている茜が、こんな無茶な入院に首を縦に振ったことに、二人をよく知る神崎の方が驚いた程だ。
神崎の知る茜は、決してこんなわがままを許す女性ではない。それなのに、秀明の言うことを素直に受け入れる茜を見て「精神的に不安を抱えているのかも知れない」と感じた神崎は、直ぐにベッドを用意させた。妊娠時のストレスが子供にどんな影響を与えるかわからない、ストレスが原因で最悪の結果になった例もある。同僚の奥さんをそんな目に遭わせるわけにはいかないと考えたのだ。
気丈に振る舞っているが、茜もかなり不安を抱えているのだろう。しかし、茜が全く別の不安を抱え、入院を承諾したなど神崎はおろか、秀明ですら考えも及ばないことだった。
涙を流しながらも唇には微笑みを浮かべている。優しくお腹を撫でていると赤ちゃんが動く感触が伝わってきた。まるで、茜の問いかけに答えるかのように、ゆっくりと体を回転させている。
「これも運命……
元気に動くお腹を抱きしめる茜の瞳には再び涙が溢れ出していた。避けられぬ運命と諦めながら……
その時、病室の扉が静かに開いた。看護婦の巡回だろうか。
しかし、茜には看護婦の巡回ではないことが直ぐにわかった。扉からは暖かな波紋が伝わってきている。その波紋は茜の良く知っている大好きな人の波紋だ。
気付かれないように、そっと開かれる扉からは。茜の予想通り秀明の顔が表れた。茜を起こさないようにしているのか、腰をかがめて病室に入ってくる姿は、まるで教師にばれないように忍び込んでくる学生のようだった。
茜が気付いていることなど知らず、秀明はゆっくりと体を滑り込ませる。
そんな秀明の行動に思わず笑みがこぼれると茜は涙を拭った。
「なにをコソコソしているんですか。秀明さん」
茜の声に驚き、慌てて立ち上がると少しばつの悪そうに振り返った。その照れた笑顔が可愛らしく茜は大好だった。
「な、なんだ。まだ起きていたんですか……ダメですよ。ちゃんと寝ていてくれないと担当医としては感心しませんね」
「フフフッ、なにを言っているんですか、私の担当医は神崎先生ですよ」
「いいえ、神崎は子供が生まれるまでの担当医。僕は生涯の担当医になったんですから、医者の言うことは聞いて貰わないと困ります」
照れもせず恥ずかしいことを言ってくれる。でも、その言葉が茜には嬉しかった。
「はい、そうですね。申し訳ありません先生。ちょっと眠れなかっただけですので心配なさらないで下さい。それよりも秀明さんは、なんで病院にいらっしゃるのですか? 今日は当直ではなかったはずでしょう」
「いや……そうなんだけどね」
扉を閉め、静かにベッドの横に置いてあるイスに腰かけると秀明は照れくさそうに頭を掻いた。
「茜さんが心配で、無理言って当直を替わって貰ったんだ。どうせ心配で、家にいても落ち着かないだろうからね」
「もう、秀明さんはいつからそんな心配性になったのですか。私は大丈夫です。この入院だって秀明さんを安心させるために無理言って泊まらせて頂いただけなのですから。それに、当直を替わったのでしたら、余計こんなところにいてはいけないでしょう。急患が来たらどうするのですか」
まるで優しい母親が、息子を叱っているような言い方だった。この会話を聞いているだけで二人の幸せ、二人の愛の深さを計り知ることができる。
「こんなところじゃないですよ。僕の大切な奥様の病室なんですからね。それに、急患が来れば直ぐに携帯が鳴るし、当直の看護婦には僕がここにいることを言ってあるから大丈夫です。まぁ、呆れられましたけどね」
照れ笑いを浮かべる秀明の顔を見て、茜も無邪気に微笑んだ。その美しい微笑みは、先程まで涙を流していたとは思えぬ程、穏やかな笑顔だった。
「フフフッ、看護婦さんだけじゃありません。私も少し呆れました。でも嬉しいです。ありがとうございます。私は秀明さんに愛されて幸せです。本当に幸せでした」
茜は、秀明の手を握ると胸の中にソッと顔を埋めた。秀明もそれに応えるように優しく茜の肩を抱く。
「どうしたんですか? 今日は甘えん坊さんなんですね」
そう言いながら、ゆっくりと髪の毛を撫でる。そんな秀明の優しさを感じながら、茜は安心しきった微笑みと一筋の涙を流すのだった。
「そうです。今日は甘えん坊なんです。だって、凄く幸せなのですから……」
穏やかな時間が流れていく。しかし、茜にはわかっていた。この穏やかな時間は、長く続かないことを……
「秀明さん。お願いがあるのですが、聞いて頂けますか?」
「なんです改まって? 僕にできることならなんでもしますよ」
優しく微笑む秀明とは対照的に茜の表情は沈んでいた。それでも、不安そうに覗き込む秀明を気遣うように微笑み返す。
「ありがとうございます。秀明さん、一つだけわがままを聞いて下さい。生まれてくる子供達の名前を付けさせて欲しいのです」
「えっ……はい。それはいいですけど、どうしたんです?」
「別にどうというわけではないのですが……ただ。子供達に名前を残してあげたいのです」
この時、秀明には茜の言っている意味がわからなかった。いや、こんな悲しい運命になるとは考えもしなかった。そして、真っ直ぐ見詰めてくる茜の赤みを帯びた瞳を、いつまでも忘れられなくなることを知らなかった。
「わかりました。なにかいい名前が思いつきましたか」
「ええ、とても可愛らしい名前が……『
不思議な台詞だった。「生まれ出てきた」などと……双子と診断されているのに、まるで一人しか生まれてこないような言い方だ。
茜はそれだけ言うと再び秀明の胸にもたれかかった。茜がなにを思ってこんなことを言ったのかわからない。しかし、秀明には茜を抱きしめることしかできなかった。
妻を思いやる夫。夫の強い腕に抱かれる妻。まさに、幸せな夫婦の姿がそこにあった。しかし、神はそんな二人に嫉妬したのか、この夫婦に数奇な運命を背負わせる。
「うっ……はうっ……」
胸の中にいる茜が、お腹を押さえ苦しみだした。
「茜さん……どうしました」
突然苦しみだした茜に、少し焦りを見せた秀明だったが、そこは医者だ直ぐに冷静さを取り戻す。しかし、この苦しみ方は尋常じゃない。助けたいと思っているのだが、専門外なのでなにをしていいのかわからなかった。
秀明は茜をベッドへ寝かせると急いでナースコールを押した。
「至急来てくれ、苦しみだしたんだ。早く! 茜さん、直ぐに神崎が来る。それまで頑張るんだ」
この時程、自分が外科医だったことを恨んだことはない。いや、もし産婦人科医であったとしても、これ程愛している茜の苦しむ姿を見てしまったら、冷静でいられる自信は秀明にはなかった。
そんな不安そうな顔を見た茜は、苦しむ顔に無理矢理笑顔を作った。
「秀明さん……大丈夫です……ぐっ……赤ちゃんが……私達の娘が産まれるんです……双葉が……」
「なにを言っているんだ。まだ早すぎる……しっかりするんだ茜さん」
苦しむ茜を励ますようにしっかりと手を握り、額に浮かぶ汗を拭う。
その時、病室の扉が荒々しく開かれ、神崎と看護婦が入ってきた。
「いったいどうしたんだ!」
「突然、苦しみだしたんだ」
秀明と躰を入れ替えベッドの横につくと直ぐに脈を取り、布団を捲り上げる。
「いったいどういうことだ。破水してるじゃないか。早川君、至急患者を分娩室へ!」
「まさか……早すぎる。どういうことなんだ神崎」
「23週が過ぎている。いままで例がなかった訳じゃない。かなり未熟児で産まれてくることになるだろうが、絶対に助ける!」
「俺も行く」
「わかった。ついてこい」
運ばれてきた担架に茜を乗せると秀明達は分娩室へと急いだ。それが、茜との永遠の別れになるとも知らずに……
茜が分娩室に入って丁度一時間が過ぎた時、天空に輝く満月を流れ星が切り裂いた。
その流れ星が合図だったかのように、分娩室からは元気な赤ん坊の鳴き声が聞こえてくるのだった。
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美しい満月を見つめる茜。しかし、その瞳は悲しみの色に染まっていた。そして呟かれる謎の言葉……全てはここから始まる。
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