【自然科学―民俗学境界】
第一章 妖狐
「クソッ、一体なんだってんだ!?」
木々が生い茂り、木々の隙間から柔らかな月の光がさす神秘的な森の中、身の丈二メートルはあろう大男が何者かに追われてるように走っている。
足の腱を切られているのだろうか、男は片足を引きずりながら逃げている。
今日は彼にとって良い日になるはずだった、最近の人間は文明も急激に発達したので捉えるのも難しく、森に住んでいる動物の味に丁度飽きた彼にとって十年ぶりに御馳走にありつける日のはずだった、あいつが現れるまでは――
「ただの小娘だと思ってナメてたがあんな力を持ってるなんざ聞いてないぜ!」
目もやられたのか視界も霞んで見える、頭に生えている一本の角も折れ、額からは自分の皮膚の色よりも黒ずんだ色の血が流れており、体の至る所ある無数の深い噛み跡や切り傷があり、そこからは血が滝のように流れている。
そう、彼は人間ではない、「鬼」なのだ。
その鬼の後ろを物凄く速いスピードで追いかける黒い影がある、それは大きさにして全長約百二十センチメートルぐらいの黒い狐であった。毎日手入れを欠かしていないであろう艶やかな黒い体毛を持ち、大きな耳とまるで筆のようにふさふさとした尻尾が風になびいている。
「畜生、もう追いついてきやがった!」
狐と鬼の距離がじりじりと近くなる、鬼は息も絶え絶えになりながらも必死に逃げようとするも手負いの状態では狐の方が圧倒的に速いのは明確だ。
両者の距離が二メートルぐらいになると狐はさらに速いスピードで鬼に飛びかかり、鬼の右足のかかとの腱をめがけナイフのように鋭い牙で噛みつくと骨も食いちぎるであろうぐらいの深さまで噛みちぎる。
「ぐあああああああっ!」
まるで右足を切断されたかのような激しい痛みに鬼は耐えきれずその場に倒れると激しくのたうち回った。
鬼のえぐれた足首からは大量の血が流れ周りの草むらを赤い絨毯(じゅうたん)のように染め上げる。
「全く、手間をかけさせてくれるよ。最近ろくに食べていないんだからあまり体力を使わせないでほしいね、ただでさえあんた達鬼なんかは美味しくないんだから」
狐は仰向けに倒れた鬼の胸の上に乗るとやれやれといった感じで溜息混じりに言った。
「俺を食うだと!? 手前ぇも妖怪なのに同じ妖怪を食うだなんてイカれてるぞ、お前!」
この狐は正気で言っているのか、妖怪が人間を食べるならまだしも妖怪が妖怪を食べるだなんて聞いた事が無い。気でも狂っているのかと鬼は思った、そして狐に自分が食い殺されると聞くと鬼の今まで赤かった皮膚の血の気が引き、青ざめた。
「おや面白い、私も長い事生きてきたけど赤鬼は青鬼にもなれるなんて初めて知ったよ。」
でも強いものが弱い物を食べるのは自然の摂理じゃないか、あんた達だってそうやって人間を食べてきただろう、それと同じさ」
狐は先ほどの戦いで乱れた自分の毛を器用に舐めて繕いながら冷めた口調で言い放った。
手負いの獲物を追い詰めた狐の目は先ほどよりぎらぎらと輝き、じゅるり、と唾液が混じった舌で唇を舐めた。
「ま、待ってくれ! 見逃してくれたら俺が人間から奪って溜めてきた宝をやる、どうだお互い悪い話じゃないだろう?
俺はお前に食われないでお前は俺の宝を金にでも変えて飯を食う、お前ぐらいの狐のバケモンなら人間に化けるのも簡単だろうからそこんところは大丈夫だろう。
な、そうしようぜ、その方がお互い得だ、俺がお前だったらそうするぜだからそうしようぜ、な、な!?」
鬼は食われたくないと必死に狐に向かって言い聞かせようと説得する、そこにはもう、先ほどまで人里から人間を攫って酒の肴にしようと食前酒に大酒を飲み干していた豪快さは欠片ほど無い。
「確かに私は光り物とかは好きだけど今はとてもお腹が空いててるからね、それに宝なんて貰っても前に住んでいた隠れ家ももう焼かれて無くなっちゃったし邪魔になるだけだ、悪いけどそういう事だからこの交渉は決裂という事で。んじゃ、いただきます」
そう言うと狐は大きく口を開け、先ほどの鬼の脚を食いちぎった時の血が滴った牙を光らせながら鬼の喉元へと食らいつこうとする。
「ま、待っ――」
鬼の最後の言葉を言い終える間もなく狐は鬼の喉笛に牙を突き立て思いっきり食いちぎった。鬼の喉からヒューヒューと空気が抜けていく音が次第に小さくなり鬼が息絶えるのを確かめると狐は鬼の腹から内臓を引きずり出しその日の糧を得たのであった
ビニールシートで荷物を固定されたガタガタと揺れるトラックの中で一匹の黒い狐が気持ちよさそうに眠っている、道路を走る揺れが心地よかったのか、長い事眠っていたらしい。
「う、うん…」
トラックの揺れが小さくなるのを感じたのか狐は目を覚ました、高速道路を降りて一般道に出たのだろう、あの時の鬼を食ってからすぐにトラックの荷台にこっそり乗り込んだのでかれこれ五時間近くは眠っていたらしい。
「ここになら、本体の欠片があるかな…」
そう呟くと狐は荷台から辺りの景色を見渡した、見た所ここはどこにでもある住宅街のようで一軒家が多く少し先には山もいくつか見える。恐らくここは都市部のような大きな所ではないだろう。こういう場所こそ彼女にとって狙い目な場所でもある。
この狐に本来の名前無い、彼女に面識がある者からは「ヨーコ」と呼ばれている。
彼女は元々様々な物語などで有名な九本の尻尾を持つ『白面金毛九尾の狐』から生まれた妖怪なのだ。とはいえ、人間や他の哺乳類と同じように女の腹から生まれたのではなくこの九尾の狐が死ぬ間際に落ちた肉片から彼女が生まれたのだ。
本体の欠片から生まれた妖(よう)狐(こ)、だから「ヨーコ」である。
彼女の目的は自分を生み出した本体の残りの肉片探しだ、彼女は本来力の弱い妖怪であったが本体の肉片や肉片を食べた妖怪を喰らう事で力をつけて今のように強くなったのだ。
しかし力をつけるのはあくまで自分の身を守る手段であり、別に力をつけて世界を征服したり多くの妖怪を束ねるような大妖怪になる気は無い、ただ生き延びる為にしている事である。妖怪の世界は人間の世界よりも厳しいのだ。
暫くしてトラックが休憩のためコンビニエンスストアに駐車すると、狐は運転手に気付かれないようにそっと降りて街中を歩き始めた。
同じような民家が立ち並ぶ閑静な住宅街、まずは暫く探索の拠点となるような寝床を探そうと家と家の間にあるコンクリートの塀の上を歩いて行った。
今の日本では狐はもう街中で見かける事も無く森の中でひっそりと暮らしているらしいので人間に見つかると珍しがられて近寄られる事が多いので鬱陶しい、中には老人達などが食べ物を寄こしてくれたりするので悪い事だけではないのだが、良い事の方が少ないので面倒なのだ。だからこのような狭い所を歩いている。
(こんなに家が多いのならどこか子供のいる家にでも騙してペットのふりでもした方が得かもしれない――)
そう考えたヨーコはどこか適当な家は無いかと辺りを見回してみた、すると庭の縁台に腰かけた寝間着姿の女の子を見つけた。
内まきにブローされたミディアムヘアーの栗色の髪の毛に垂れ目で日本人特有の茶色い瞳、身長は百五十センチメートルぐらいで、恐らく中学生か高校生ぐらいの女性だろう。
性格も大人しそうで身体も強い方ではない、こういうタイプの人間なら親に見つからないように匿ってもらい易い、最悪そうでなかったとしても彼女一人の時にこっそり顔を見せれば食べ物は持ってきてくれるだろう。
この女なら悪くない、そう思ったヨーコは塀からひょいと飛び降りると女の子の前に着地した。
「あれ、野良犬かな。 でも犬にしてはちょっと形が違うし――ひょっとして狐かしら」
突然目の前に狐が現れた事に一瞬驚いたが、生まれて初めて狐を見た事の方に次第に喜びの笑みを浮かべた。
これは好感触だと思ったヨーコは女の子の足元に近寄ると甘えた犬のように鳴きながら頭を擦り寄せた。
「あなた随分人懐っこい狐ね、私、狐って人にあまり近寄らないって聞いたんだけど珍しいわね
そう言って彼女はヨーコの頭を撫でた。
「自己紹介がまだだったね、私、金屋あざみって言うの、あなたは?」
あざみの自己紹介を聞くとヨーコは犬のようにワンと吠えた。この女なら上手く誑かせる、ヨーコはそう確信した。
「って言っても分からないよね、そうね――『シュロ』なんてどうかしら。
昔あなたみたいな黒い毛をした犬を飼っててその子の名前なんだけど、気に入ってくれるかしら」
私にはヨーコという名前があるのだが、と思う所もあったが元々この名前も勝手につけられた名前なので別にいいかと思い尻尾を振って再度ワン、と鳴いて気に入ったようなそぶりを見せた。
「気に入ってくれたみたいでよかった。
そうだ、そろそろお昼だから一緒にここで食べない? 私の父さんと母さんは共働きで夜まで帰ってこないし、私も最近身体が良くなってきてるとはいえ病気でまだ学校も行けないから寂しかったんだ」
あざみは寂しそうな声でヨーコに聞いてきたので、彼女はまた尻尾を振りながらワン、と鳴いた後、犬のようにハァハァという息づかいをしながら上目づかいであざみを見た。
「良かったわ、それじゃあシュロの食べ物を持ってくるからそこで待っててね!」
そう言う彼女は自分が病人であることを忘れて急いで冷蔵庫まで向かい、ヨーコが食べられそうな食料を探しに行った。
思ったより簡単に騙せたとヨーコは思った。
野宿には慣れているがこいういう家の庭の方が襲ってくる外敵も少ない、それに妖怪の中には味の良い奴らもいるが、人間の食べ物も美味い物が多い。寝る場所を探すならこうしてペットのフリをして人間の元にいついた方が利点が多いのだ。
当分の間の住処も得たヨーコはあざみの用意してくれた食事を食べ終わった後、まだ昨日の疲れも残っていたので欠片探しは明日にしようと思い、あざみの家の縁台の下に潜り込み、また眠りに落ちた。
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伺かのゴースト「自然科学―民俗学協会」の主人公、金屋あざみをテーマとしたオリジナル小説の第一話です。
この物語の主な内容は、この主人公の金屋あざみがこの名前を名乗る前の頃のお話、いかにして彼女は主人公と知り合うかまでの経緯をオリジナル小説にしました。
今回はその第一話のみですが、これ以降のお話は修正が終わり次第アップロードします。
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