三号室――俺とクロームが泊まる部屋の窓辺から、なんとなく空を見上げていた。窓を開け放ち、身を乗り出して朝焼けの空を見つめる。
空が金色に輝き、つい見入ってしまう。頬を撫ぜる朝の風は冷たく、髪を弄ばれるのが心地よい。
昨日から着たままであるシャツの襟がぱたぱたとはためく。
口にパイポを咥え、柑橘系の僅かな酸味を味わいながら、ただ呆と空を眺めていた。
朝焼けに輝く空。空の端は夜を混ぜ合わせた群青。森の向こうに見える山の稜線は燃えており、その先には青い空が広がっているのだろう。
綺麗だな、と素直に思った。
大自然の日の出はいつ見ても魅せられてしまう。
鰯雲が広がり、泳ぐように、流れるようにゆったりと空を渡っていく。
穏やかに始まる朝のひととき。
喧噪はなく、多くは寝静まったまま。
朝独特の透き通った、水気の多い匂いを吸い込む。
なんて、静かな朝なんだろう。
宿屋の入り口の方からぱたぱたと忙しない足音が聞こえてきた。
足音の軽さから看板娘か。いつもこんな時間に起きてるんだな、あいつ。
俺には到底無理である。
今、こうして起きていられるのは飲み明かしたのが原因だし。
久々に徹夜で呑んでしまった。
キュリーが次々とグラスに注いできやがるので、ついついぐいぐい行ってしまった。あいつ、瓶が開いても次々新しいの出してくんだもん。マジすげぇ。
その上、キュリーとは案外、共通の話題が多かった。そのほとんどは小説に関する話題だったけど。
俺も結構読むタイプであるが、キュリーはこの世にあるほとんどの本を読んでいるのではなかろうか、というほどに多くの本を知っていた。
俺が知ってる小説の題名を挙げれば、すらすらと感想を述べてきやがる。
そりゃ話してるこっちも悪い気はしないわけで。
余計に酒が進んでしまった。
「あー、頭痛ぇ……」
かれこれ一時間くらい、こうやって佇んでいるが、未だに酩酊状態を脱しきれていない。
パイポの味も薄まった。すでに三本目だ。
背後からうるさいくらいの秒針の音。クロームの寝息は静かすぎて、まともに聞こえやしねぇ。
キュリーはおそらく宿屋をすでに出ているだろう。今頃は、またどこかに身を隠しているはずだ。
森に放った自分の式神の世話もあるらしい。甲斐甲斐しいことだ。
それにしても――
「どうすっかなぁ……」
ぼりぼりと頭をかき、机の抽斗へと目をやった。その中には八枚の丸められた犢皮紙(ヴェラム)が入っている。
この村に仕掛けられている魔導陣の全貌が、そこには描かれている。キュリー曰く、かなり詳細な譜面らしい。俺も一度、広げて見たが、さっぱり意味が分からなかった。
そもそも魔術に使われる古代言語の解読から、俺には無理だ。それもあの膨大な情報量。俺の頭じゃ処理しきれん。
情報の規模は違えど、あんなものを戦闘中に構築できるプラナの頭の構造が俺には分からないくらいだ。
魔術師ってのはホント、常人の理解を超えているな。
一応、キュリーから受け取ったものの、これをどうやってクローム達に渡せばいいんだ?
この譜面の入手先を聞かれた時、どう答えればいい?
《魔族(アクチノイド)》からもらったなんて言えるわけがない。そんなことを言ったら、あいつらが罠と疑うことは確実だ。
俺だって、本当にこれが正しい譜面なのかどうか分からない。キュリーが言ったことの全てが真実だという保証もないのだ。
何せ相手は《魔族(アクチノイド)》――全てが演技だったという可能性も拭いきれない。
それでも、今現在、俺達が縋れる糸口がそれしかないのも事実だ。
……一体どうしろってんだよ……。
二人で話し合いはしたものの、キュリーは《魔族(アクチノイド)》という立場を考慮してアドバイザーのような立ち位置だった。最終的に考えるのは俺しかいないんだ。
答えを出さなければならない。
この村の存亡に関わる答えを、俺一人で?
俺にはそんな権利も、力も、資格もないことは十分理解している。それでも結論を出さなければならない。
全く……こういうものを背負うのはクロームの役目だろうが。なんで俺が、こんな重大な問題を独りで考えなければならない?
冗談であってほしかったもんだぜ、マジで。
俺に、そんなものを決める権利はないし、覚悟もないんだよ……クッソ。
どれだけ思考を巡らせても、そんな簡単に答えが出るはずもなく、俺は凝り固まった思考をリセットしようと自室を後にすることにした。
寝ているクロームの脇をこっそりと抜け、部屋のドアに手をかけて開け放つ。
「あら? ガンマさん、今日は早いんですね」
脇から聞こえた声に目を向けると、看板娘が廊下を渡ってくるところだった。
「よう、お前こそ、早いんだな」
「いろいろ仕事がありますからね。クローム様方にはしっかり休んで頂きたいですから」
朝っぱらから看板娘の笑顔に屈託はない。おそらくもう早起きなんて慣れてしまっているんだろう。
その爽やかな笑顔に、俺は思わず癒されてしまう。
こんな眩しい微笑みができる少女が真っ直ぐに育っている。この村は、そういう点でも良い場所なんだろう。
やっぱり、この村をなくしちまうわけにはいかねぇよな。
そんなことを考え込んでいると、俺の顔を見上げていた看板娘が俺との距離を縮めてくる。
「というよりガンマさん? なんだか……とても、酷い顔をなさっておりますよ? 大丈夫ですか?」
背伸びをしながらまじまじと俺の顔を見つめる看板娘。飾り気のない愛らしい顔立ちが目前に迫り、俺はトギマギしてしまう……。
純粋な瞳は、苦手だ。
答えに窮する俺に、看板娘ははっと口を覆った。
「も、もしかして枕が合いませんでしたか!? 羽毛の方がよかったのでしょうか!?」
「いや、違ぇよ」
反射的にツッコミを入れてしまう。
「い、いえ! 枕は大事ですよ! 私も枕が変わると全然寝れないタイプなんですよ! この前なんてお父さんが勝手に枕を買い換えちゃって、私全然眠れなかったんですから!」
「お、おう……そ、そりゃ大変だったな」
この娘を溺愛している親父さんのことだ。きっと親父さんも娘に怒られ、枕を濡らしていたことだろう。
仲いいんだか、悪いんだか。
なんとも気の抜けた返事をする俺に、看板娘はさらにぐいっと顔を近づけてくる。そんな近付くと、キスでもしてしまおうかな、とか思ってしまうのでとても止めて頂きたい。
「ホントですよ! 枕は大切なんですよ! 自分の枕は生きる上で欠かすことのできないものです! ら……ら……らいんら、いぶ、です!」
「ライフラインな」
「そう、それです!」
どっちにせよ誤用だということは言うべきなんだろうか、言わざるべきなんだろうか。
可愛いから、このままでいいや。
そんな人として何かを確実に踏み外してる結論に落ち着く。
看板娘は、やっぱりこのままが一番だよな。そんなことを思いながら、一号室の扉を開ける看板娘の後ろ姿をじっと見つめる。
エプロンをつけた細い背中。蝶結びが動く度に羽ばたいている。
扉の隙間から部屋の中を覗き、看板娘は肩を落とす。昨日はさんざん俺とキュリーが好き勝手やっていたので、惨憺たる有様なんだろうな、部屋の中。
「うわー」
「どうした? 殺人事件でも起きてたか?」
白々しく問いかけてみる。何があったかなんて分かりきっているけど。
「また誰か勝手に部屋を使ったみたいなんですよぅ……。ガンマさん? 昨日の夜、誰かこの部屋にいませんでしたか?」
しゅんと俯き、深く肩を落とす看板娘。そんな問いかけをされても、俺がその当人だからなぁ……。何と答えていいものなのか。
こういう時、選択肢とか誰かが提示してくれれば助かるのにな……。
「俺も昨日は帰ってすぐに寝ちまったからな。酒も入ってたし……」
出たのはそんな嘘であった。こういう言葉をすらすらと本当のことのように言える自分の口には常に感謝している。
嘘に躊躇いもないってのも人間性という面では大問題なもんだけどな。
「ですよねぇ……。はぁ……また片付けしないと……シーツもぐしゃぐしゃぁ……」
がっくりと項垂れる看板娘。
正直言うと悪いことしたなと思っている。今すぐキュリーを突き出してやるべきだろうか? どうせあいつなら捕まらないだろうし。
キュリーなら例え、看板娘が追ってきても危害を加えるようなことはない気もする。
て……なんで敵にそんな信頼寄せてんだよ、俺。
どうにもあいつとの距離感は掴めないな。
「昨日もこの部屋でなんかしてたみたいだけど、そんなに頻繁に無断宿泊されてんのか?」
「んー、このところ毎日なんですよ……」
「セキュリティ甘いんじゃねぇか? 戸締まりは?」
「いっつもちゃんとやってますよ? 寝る前に私が確認しますし」
だろうな、うん。
でも悲しいことに相手は境界線なんてもんを何とも思っていない魔術師なんだよ、裸族だし。
戸締まり程度で勝てるわけがない。
「はぁ……一体誰なのかしら。お金がないなら、後から払ってくれればいいだけなのに……」
その言葉に俺は唖然とした。
なんだ、この宿は。見ず知らずの一文無しがやってきても、快く迎え入れるつもりなのかよ。
後で払うって……ぜってぇそいつ払いに来ねぇよ。
本当にお人好しなんだな、この村は。
だからこそ、放っておけないんだけどな。そんな風に穏やかで優しい村だからこそ、俺達は何としてもこの場所を守らなければならない。
クロームと衝突はしたが、俺だって心根ではこの村を救いたいと思っている。それは変わらない。
「なあ?」
「ん? なんです、ガンマさん?」
俺の呼びかけに振り返った看板娘はにっこりと微笑む。柔らかく温かい笑顔――この笑顔を傷つけるわけにはいかないだろう。
「お前さ、この村好きか?」
「ほえ?」
俺の突拍子もない質問に、看板娘は可愛らしい声を上げる。そりゃ突然、こんなこと聞かれたら呆けるわな。
こっちの反応の方が正しいか。
「突然どうしたんですか? ガンマさん」
「いや、なんとなく、な。お前はこの村をどう思ってるのかなって」
曖昧な苦笑まじりに言うと、看板娘はんーと唇に指を当てて、少し考え込む。
水仕事も多いからだろう。手は肌荒れが酷い。それを隠すような素振りも見せない看板娘の素直さが、また俺を何かに駆り立てる。
この感情はなんなんだろうか。
「そうですねぇ。不便なところも多いし、狭い村ですけど――私はこの村が大好きですよ。だって、ここにはみんながいますから」
にっこりと満面の笑みを浮かべて、はっきりと答える看板娘。
みんな――村人たちがいるこの村を、何の躊躇いもなく好きといえる。それはどれほど素晴らしいことなのか。その笑顔はあまりにも眩しくて、自分自身と比較するとなんだか俺という生き物が酷く醜いものに思えてしまう。
実際、それは真実なわけだけど。
「ガンマさんは、この村が好きではありませんか?」
俺があんな問いをしたせいだろうか。看板娘はおずおずと俺に問いかけてくる。
俺達が村をどう思っているのか、不安になってしまったのかもしれない。
俺はできるだけ人当たりのいい笑みを心がけて、自然な動作で唇を開いた。
「俺達も、この村のことは好きだよ。また、ここに来たいとも思っている」
挙動に嘘はあれ、言葉に嘘はなかった。それは俺の本心であって、またクローム達も同じ事を思っているはずだ。
俺の言葉に、看板娘はより一層明るい笑顔を俺に見せた。
「それはよかった。では、勇者様達がまたここに来た時も心置きなく休めるように、私達も頑張らなければいけませんね」
くすくすと笑う看板娘。
看板娘自身、俺達が村を気に入っていることを知って嬉しいのかもしれない。
「勇者様達ならいつでも大歓迎ですよ。また、この宿をお使いください」
「クロームは、勇者だもんな」
「いえ、そうじゃありません」
俺の冗談半分自嘲半分といった言葉を、看板娘は素早く否定する。思いの外、強い言葉だった。看板娘の、そんな強い声音は初めて聞いたかもしれない。
弾かれるように看板娘の方に顔を向けると、胸の前に手を当て、至って真面目な顔で俺を見つめていた。
「勝手なことかもしれませんけど、私は勇者様、いえガンマさん達にまた会いたいんです。ガンマさん達とまた一緒に話したいんです。今はまだ、ぎこちないですけど、今度この村に来て下さった時はもっとちゃんと話せるようになってるように頑張りますから、だから、その……また、この村に、宿に来て……できれば私とも、その、お話を……」
最初の勢いこそよかったものの、看板娘は次第に気恥ずかしくなってきたのか、だんだんと言葉がか細くなり、最後には俯いて言葉も途切れ途切れになっていく。
でも、言いたいことは伝わっていたし、その気持ちも嬉しかった。
こいつは勇者一行としての俺達じゃなく、ただの人間としての俺達を気に入ってくれていたんだ。勇者だからとか、魔物を討伐してくれたとか、そんな理由じゃなくて俺達の人柄を気に入ってくれている。
それはなんだかとても懐かしいもので、だからこそ嬉しかった。
この村は、やっぱり本当に良い場所なんだな。
俺は唇を綻ばせていた。今度こそ、偽りではなく本当に自然と零れた笑みだった。
「ありがとな」
俯き、耳まで真っ赤にしている看板娘の柔らかい髪にぽんと手を置く。びくりと細い肩が微かに跳ねたが、逃げようとはしていなかった。
「今度はクロームに想いを告げられるといいな」
今はさすがに無理そうだけどな。
「なっ……ちょ! ……な、ななな、なん……!」
顔を振り上げ、魚のように口をぱくぱくさせる看板娘に俺は意地悪く笑い身を翻す。
「じゃ、俺ぁやることもあるし部屋に戻るわ、片付け頑張れよー」
「ちょ……ガンマさん! ガンマさん! それどういうことですかぁ! わ、私別に……!」
「がーんばーれよー」
適当なメロディーをつけて再度応援し、俺は何食わぬ顔で部屋へと戻る。後ろでまだ看板娘が何か言ってるけど、上擦った声はほとんどまともに言葉を紡いでいないので、そのまま放置しておくことにした。
俺はそのまま自分の部屋へと入り、後ろ手で扉を閉める。
部屋に目をやると、先程まで俺がいた窓際にクロームが立っていた。すでに着替えを終え、髪も後ろで纏めたクローム。
いつもこいつはこうだ。
寝起きの寝ぼけた顔など、三ヶ月一緒に旅をしていながら一度も見たことがない。
こいつはいつも、俺達の前に立つ時には完全な状態で、乱れなど一度も見せていない。
朝陽に翳る横顔。銀色の髪は光を受け、眩しいほどに輝いている。まるで金属のような光沢。
刃物のような双眸は、手元の剣に落とされていた。鯉口が緩められ、刀身が外気に晒され眩く輝く。
それはまるで白と銀のみで構成された絵画。
クロームはじっと剣を見つめ、何か思案に耽っているようだった。
その静謐を乱すことは憚れ、俺は扉の前でしばし立ち尽くしていた。
「今日は随分と早いんだな」
ふと、クロームが呟く。それが俺に向けられた言葉だと気付くまでに数秒を要した。
「ん? ああ、昨日早かったからな」
「昨日は夜、どこかに行っていたのではなかったのか?」
「…………」
剣をしまいながらクロームに指摘され、俺は絶句してしまう。
ぐ……気付かれていたとは……。こいつは本当に隙がねぇな。部屋割りを検討し直す必要も出てきたな。全く、厄介だね、ホント全く。
「少し……考え事があってな。場所を変えてたんだよ。煙草もここじゃ吸えねぇしな」
「ふむ、考え事とはな。何も考えていないようにしか見えないが?」
「うっせ。魔導陣の件だよ。放っておくわけにはいかねぇ」
俺の返答にクロームは僅かに目を瞠る。
「お前が真剣に考えていたとは……少しばかり意外だな」
失礼なことを……。
「俺だってこの村は何とかしてぇんだよ。考えることしかできねぇなら考えるしかねぇ」
「なるほどな。しかし、どうするつもりだ? 今下手に魔導陣に手を出しても、ベラクレート卿の私兵という邪魔が入る。危害を加えるわけにもいかない。そしてベラクレート卿はおそらく何を言っても聞かんだろう。下手な動きはできない」
全く、仰る通りである。
その上、実際は本日午後七時までがタイムリミット。いざ大きな行動を起こせば、私兵よりも術者による始動式詠唱が完了するまでのおよそ三十分というタイムリミットの方がよっぽど問題だ。
行動が表面化し、術者に気付かれれば三十分の猶予しかない。その三十分の間に私兵をやり過ごしながら、村の全ての魔導陣を破壊しなければならない。
狭い村とはいえ、手分けして壊したとしても時間がかかりすぎる。
速やかに魔導陣を破壊するには、やはりプラナへ構築式の譜面を渡すのが一番だ。
それは分かりきったことだから、俺自身キュリーから構築式の譜面は受け取っている。これを巧いこと渡せれば言うことなしなんだが、そう容易なことではない。
「完全に手詰まり、か?」
大した言葉も返さずに考え込んでしまう俺に、クロームは問いを投げてくる。
「どうにも……抜け道がないもんか、考えてるんだけどな」
「お前でも……難しい、か」
「正直言えばな。お前達の力なら壊すことだけ言えば難しくはない。ただ、ベラクレート卿の存在がどうにも面倒なファクターだ。あの豚が何を企んでいるのかも分からない今、下手に動くと厄介だと言える」
そう、あの魔導陣を村に仕掛けた張本人は間違いなく《魔族(アクチノイド)》だ。それはキュリーの情報からして明らかだ。
敵の情報を信用するなんてのは愚の骨頂かもしれないが、今現在頼れるのはキュリーの情報だけ。その情報を除外してしまうと、俺達は本当に動きようがない。
ダメ元で信じる価値はある。
あー、くそ、違う。本音を言っちまえば、俺はあいつを疑うことがどうしてもできないだけだ。
あいつの情報を信用するなら、間違いなくベラクレート卿は《魔族(アクチノイド)》と繋がりがある。それが本当に何かを共謀しているのか、《魔族(アクチノイド)》に騙されているだけなのか、が分からない。《魔族(アクチノイド)》と共謀しているのはトリエラだけで、ベラクレート卿は何も知らない可能性だってあるし、トリエラ自身が騙されている可能性も否定できない。
……要するに何も分からないわけだが。
「ベラクレート卿を、殺してしまおうか?」
「は?」
ふと聞こえた言葉に俺は思わずクロームを凝視する。
今、こいつは、何を、言った?
「ベラクレート卿を殺してしまえば、全て解決なのだろう?」
クロームはいつもの仏頂面で淡々とそんなことを言う。
確かにベラクレート卿がいなくなれば、条件は一気にクリアされる。屋敷で手に入れたと偽って、構築式の譜面をプラナに渡すこともできるだろう。
仲間を騙そうとしている時点で、俺の人としての底を自覚せざるを得ないわけだが……。
それは実はすごく楽な方法かもしれない。
「確かにそれは……一番いい解決策だけど」
なんせ敵がいなくなれば、それは勝利以外の何者でもないんだからな。
勝つための条件は勝利条件を満たすことか、敵対者を戦場から引き摺り下ろすことである。
ちなみに負けないための条件は勝利条件を相手が満たせないようにすることか、そもそも戦わないことである。
「なら、それでいいではないか」
「……お前から、そんな台詞が聞けるとは、な」
「お前は、私がこんなことを言っても否定しないのだな、やはりと言うべきか」
両手を広げて肩を竦めてみせるクローム。こいつにしては大袈裟な挙動だった。
そこで何となく悟る。今のは冗談じみたものだったのだな、と。
……あー、クッソ。ハメられた。
こいつの提案に乗っかろうとしていた自分に腹が立つね。
「人を殺す解決策など楽に決まっているだろう。殺せばいいのだから。人を殺すということは、それが可能である者にとっては、一番楽な選択肢だ。後腐れもない上に、力の限り殺そうとすればいいだけ。他愛もない」
確かにそうだ。
一般人からすりゃ殺人なんてのは重労働であって、社会的に考えれば誰だって避けて通るべき道だ。
しかし俺達はどうだ? 仮にも勇者一行。人を一人殺すぐらい実は造作もないことである。その上、世界を救う使命という大義名分がある時点で、逆らう者を殺すだけの理由もある。
考えるまでもない。俺達は世界に殺人を許容されている。
なんて恐ろしい集団なんだろうな、俺達は。
俺達が世界を救うためだと言えば、人を殺すことさえ赦されてしまう。《魔族(アクチノイド)》がいい例だろう。あいつらだって生きている、人間と呼んでいいのかどうかは定かでないが、外見も中身も人間とそう変わらない。
そんな奴らを殺して、俺達は感謝されてしまう。俺達が勇者一行で、向こうが《魔族(アクチノイド)》だから、というだけの理由で。殺人は正義に化ける。
英雄の活躍を綴った叙事詩はいつだって殺人に埋め尽くされ、人々は悪が死ぬことばかりを願う。
勇者とは結局、殺人者だ。
ただ、選んで殺しただけの殺人者。
俺達と《魔族(アクチノイド)》は、実際そう変わらない存在なのかもしれないな。
「楽な方法だ。なんとも容易に万事が解決する。それを行えるだけの実力も、理由も、俺達には存在する。それでも、そこに逃げるわけにはいかない」
「なんでだ? テメェは勇者だ。正義のための殺人は常に許容される。何を拒む理由が――」
「――勇者だからだ」
答えは至ってシンプル。飾り気一つない。
勇者は殺人を許容された存在。大義名分の下に殺しは正当化されてしまう。その勇者だからこそ、容易に人を殺してはいけない、とクロームは言う。
矛盾さえしているように思える論理じゃないか。
「人を殺すことを容認されてしまうからこそ、人を殺す権利を与えられているからこそ、俺達はその権利を考えて行使しなければならない。俺達はその権利を持っているが、だからといって簡単に人を殺していいことになるわけじゃない。俺達はその権利をできる限り使わずに解決する方法を模索するべきだ。それが本当の勇者というものだろう」
「それは《魔族(アクチノイド)》に対しても、か?」
クロームは静かに顎を引く。
一瞬の躊躇さえ俺は見出せなかった。
「その意識は《魔族(アクチノイド)》に対してもある。もちろんできる限り殺さずに解決するべき問題だ。しかし――あいつらのこれまでの所業を鑑みると許せないのもまた事実。この事件の犯人もまた《魔族(アクチノイド)》であるというのなら、俺はきっとそいつを許すことができないだろうな」
痛みを堪えるような顔で、クロームは自分の拳を見下ろした。握りしめられた拳は、一体何を掴み取っているのだろう。
何にせよ、俺もクロームの意見には賛同する。なんたって相手は、幾星霜もの時代、人類を、世界を死滅させようとしてきた連中だ。死という罰だけではまだ生温いほどの罪を重ねてきている。
のうのうと生き延びさせるわけにはいかない。
――だが、キュリーはどうする?
そんな問いが脳裡を掠める。今は関係ない。その問題は当面保留だ。
今は《魔族(アクチノイド)》という集団全体に対しての認識のみで対話するべきだろう。キュリー個人に対しての認識はその一切を排除しよう。
「お前の言いたいことはよく分かる。むしろ俺からすりゃ《魔族(アクチノイド)》を見逃すことの方がよっぽど間違っているとさえ思うね。世の中には世論ってもんがあるわけだしな。民衆は《魔族(アクチノイド)》への報復を望んでいる。奴らには苦しみ息絶えてほしいと思っている」
当たり前だ。奴らのせいで何人の人間が死んだ?
数え切れないほどの人が死に、数え切れないほどの国が滅んだ。
人々の願いは何も間違っちゃいない。それだけのことをしてきたのだから。
「そう、だろうな」
眉間の皺を深め、絞り出すようにクロームは肯定する。
一体、こいつは今何を思ってんだろうな。俺には分からん。高尚な勇者様の思想なんてのはな。
「その民衆の望みに反する行動をするってのは勇者じゃねぇだろ、どう考えたって。人々が望みながら、できないことをやってのけるのが勇者だろ。人が望まないことをやったら、そりゃ勇者じゃねぇよ」
勇者というのはある意味世論の権化のようなものなんだろう。なんたって人々の望むことをやり遂げ、賞賛されるのが勇者なんだから。
不可能とされたことができるだけじゃ勇者とは言えないだろ、どう考えたって。
軍が国家の走狗だとするならば、勇者とは民衆の走狗なのかもしれない。
だからこそ、勇者は民衆にとっていつまでも尊敬されるのだろう。
「そうやって人の望みを叶えることは簡単だな」
「いや、簡単じゃあねぇよ」
買い出し行く感覚で魔王を打倒されちゃ堪ったもんじゃねぇよ。魔王が。
こいつはスペックが段違いだから、簡単に思えちまうのかね。才能ってのは恐ろしい。
「しかし、そうまでして人の望みを叶えて、結局何が遺せるんだろうな。俺達が人々の望みを叶えるほど、人々は勇者という概念に依存していく。誰もが自らで何かを成すことを忘れ、活力を失い、ただ他者がそれを遂行してくれることばかりを欲しがるようになってしまっているのでは、と思う瞬間さえある」
「…………」
咄嗟に何か言い返そうと思ったが、俺は否定の言葉を見つけられなかった。
それは俺も今まで感じてきていたことなのだから。
人々は勇者が自分達では太刀打ちできない困難を代わりに突破してくれることばかりを願い、自分達で何かを変えようとはしていない。
一致団結して困難に立ち向かうことをせず、ただ夢物語のように誰かが颯爽と駆けつけて助けてくれることばかりをねだり続けている。
それは、堪え忍んだ先に光が射すのを待つという一種の戦略的なものではなく、ただ待っていればいつか誰かが助けに来てくれるはずだという希望的観測によるただの現実逃避でしかなくて。
活力も、決意も、勇気もなく、待ち続けるだけ。
『耐える』のではなく、『待つ』だけ。
それが人間のあるべき姿ではないことくらい、俺だって分かっている。
「俺達が――」
クロームはゆっくりと言葉を紡ぐ。拳に注がれていた視線が、壁に立てかけられた剣へと向けられた。
「――俺達がしていることは、ただ人間を緩やかに壊死させているだけなのかもしれない」
苦しげに吐き出された言葉を、やはり俺は否定できなかった。
否定できるわけがない。
ただ受け止めることしかできない。
自分達が正しいと思っていた行為の、否事実正しかったはずの行為が導いてしまった結果を。
皮肉なもんだな、本当に。
人間を救い続けることで、人間が緩やかに死んでいくなんてのは、あまりにも滑稽だ。
「で、お前はだからどうすんだ?」
「ん?」
クロームが眉を跳ね上げ、俺へと目をやる。
「だから、俺達のしてきたことが人間のためにならない、という可能性を踏まえて、お前はどうしたいんだよ? 勇者辞める? 稼業にするか?」
個人的に稼業としてもらえると、かなり嬉しい。そうすれば我ら勇者一行の財布も大分厚みが増すだろう。
セシウの筋トレグッズ代とか、健啖家二名の食費とか、プラナの魔術に関する参考書代とか、クロームが剣の手入れに使っている椿油代とか、そういう諸々の経費に俺がいちいち頭を悩ます必要もないわけだ。
だが、クロームはただ鼻で笑うだけ。
「別に。何も変わらんな」
「は?」
クロームは尊大に腕を組み、壁に背中を預ける。
「何も変わらん。俺は勇者であって、それ以上でも以下でもないのだからな」
「……はぁ、なるほど、ね」
まあ、実際そうだけど、よ。
「俺達は俺達のできることをやるしかないのだからな。俺達は人々の望みを叶えることしかできない。なら、今はただこの村の人々を救うしかないだろう」
確かにな。
人々を変えるのは別の奴の仕事だ。俺達の役目は世界を救うことであって、人々の生き方に口出しする役目はない。そりゃ勇者としてなんかおかしい気もするわけだが、なんでもかんでも手を出していられるほど、勇者も全知全能ではないのである。
時間という制限には誰も勝てやしない。
「おかしなことを言ってすまなかったな」
ぽつりとクロームが呟く。
「あ、いや、そりゃ別に構わねぇけどよ」
珍しくクロームから嫌味のない謝罪を受け取り、俺は少しばかり戸惑う。
まあ、こいつだって人間だ。いろいろ考えることもあるし、たまには愚痴りたいこともあるんだろう。
あまり見られない、クロームの人間らしい面だ。いつも人間味はあるんだけど、どうにもそれより勇者らしさが勝るんだよな。活劇の主役を演じる役者のように、完成されすぎてるっていうのかね。
「ただ、この村の人々は自分達の力で何かを成そうとしている。勇者という存在に頼ろうとせず、自力で困難に立ち向かう術を持っている。ならばこそ、このまま死なせるわけにはいかない」
クロームは腰に剣を佩き、力強く言い放つ。その瞳にはもう思い詰めている様子はなく、いつものように真っ直ぐ前を見据えている。
どうやら本調子に戻ったようだな。
確かにここの村の人達はクロームに依存したりとかはしてないよな。むしろなるべく自力で解決しようとしてくれている。
――そうか。看板娘は俺達四人を一個人として慕ってくれていた。
それは、この村に住む多くの人達が同じだったんだ。
みんな俺達が勇者一行である前に、一人の人間であるっていう当たり前の認識をごく当然、当たり前の前提として接してくれている。
道理でこの村は居心地がいいわけだ。
誰も勇者としての偶像を崇敬しているわけではなく、クロームという個人に感謝をしてくれていた。
考えてみりゃそうだ。
魔物を討伐して戻ってきてすぐ、みんなに感謝の言葉で迎えられた時、俺達に花の輪をプレゼントしてくれたことを思い出す。
今まで立ち寄った場所ではどうだった?
あんな年端もいかない少女が俺達に立ち寄ろうとしても、誰かが止めていた。高価なものでもなく、むしろお金が全くかかっていない花の輪なんて、渡すこともおこがましいと言われて遮られていただろう。
この村ではそれがなかった。
どうしてだ?
簡単だ。クロームが神でも、その御使いでもないことを彼らは知っていたからだ。
村人達は、ずっと俺達を一人の人間として見てくれていたんだ。
おかしな話だが、こんなことは久しぶりだ。
ずっと勇者一行という偶像でしか俺達は見られていなかった。
そんなもののないこの村はそりゃ居心地もいいわけだ。ここでは俺達は俺達のまま過ごせるんだからな。
ホントすげぇよ、この村は。
だからこそ見捨てるわけにはいかない。
「なあ、クローム?」
「なんだ? 珍しく真面目な顔だな」
「茶化すんじゃねぇよ」
俺はいつだって大真面目だ。そりゃたまにふざけるけど。
「で? 一体なんだ? そんな深刻そうな顔をして」
「昨日のこと覚えているか?」
俺の言葉にクロームは眉を顰める。
「昨日のこととはどれのことだ? プラナとベラクレート卿お抱えの魔術師の舌戦のことか?」
「あれは思い出すだけで背筋がぞっとするからやめろ」
結構マジで。
できれば今すぐにでも忘れてしまいたい。いや、忘れろ。さあ、忘れろ。忘却の檻に押し込んで、その檻をサーメイトで吹き飛ばせ。パーンしろ、パーン。
はっきりとしない俺の態度にクロームは肩を竦ませ、ため息を吐き出す。
「じゃあ、なんだ? 魔導陣のことか? 酒場でのことか? 思い当たる節が多すぎる」
……確かに。昨日はいろいろイベントが盛りだくさんだったからな。そりゃはっきり言われなきゃ分かるはずもねぇか。
俺は咳払いを一つして、クロームを真っ向から見る。
「昨日、魔導陣を破壊し終わった時、お前と少しばかり言い争ったよな?」
「少しではない、全然少しではない。本気でお前を殺してやろうとさえ思った」
さいですか。勇者怖い。
まあ、昨日セシウに言われて知ってたけど、本人から直接言われるとまたダメージがあるな。
俺の悪運もなかなかのものである。
「あの時の話を蒸し返すな、結論は出たであろう」
「そういうことじゃねぇよ」
「では、どういうことだ?」
俺は少し躊躇しながらも、ぐっと拳を握り締める。恐れを振り払って、口を開く。真っ向からクロームの刃のような視線と対峙する。
あの時の話は俺だって蒸し返したくはない。今度はセシウとプラナもいない。下手に逆鱗に触れてしまったら、俺はもう本当に斬られるかもしれない。
それでも、確認しなけりゃいけねぇことがある。
「俺はあの時、お前に訊いたよな? 民衆を救っているお前はなんなんだって。あの問いの答えを聞かせてほしい」
クロームにその場の勢いで吐き出してしまった科白。今でも脳裡にしっかりと焼き付いている。
――じゃあよ、そんな小狡い人間を救ってるお前は一体何だってんだよ? 神か? 救世主か?
正直、言い過ぎたな、とは思っている。反省もしている。
あの時はお互い、頭に血が上っていたからな。もう後腐れはないんだが、自分の口の締まりの悪さにはほとほと呆れ果てるね。
クロームはふむ、と呟き腕を組む。あの時の言葉はこいつ自身覚えていたのかもしれない。
だから、さっき妙に愚痴っぽいことを言ったのかね?
「別に。何者であるつもりもない。俺はただ、いつまでも民衆にとっての勇者で在り続けようとしているだけのことだ」
別に特別というわけでもなく、クロームは普段よりも幾分軽いとさえ思える口調でそう答えた。なんだそんなこと、と言いたげな顔だな。
きっと、何かもっと根本的な答えを見つけようとして、結局それくらいしか答えられる言葉がなかった、といったような感じか。
クロームにとって俺の問いは「どうして、青は青いのか」なんていう質問と同次元のものだったのかもしれない。
こいつは常にクロームであって、それは勇者という象徴に連結されているのだろう。
自らを勇者という鋳型に流し込むわけではなく、ただ己のあるがままに生きた末に勇者として賞賛される。
根源的なる勇者。
ヒュドラが気に入る理由も頷ける。
こいつは勇者としてあるためではなく、純粋にこの村の人々を救いたいのだろう。それは俺だって同じだ。この村の人々を見殺しにするわけにはいかない。
そこまで分かりきっているんだ。悩んでいる場合じゃなかった。
俺は一体、何を躊躇っていたのだろうか。
こいつと同じように、俺もまた先のことは後回しにして、村を救うべきだった。
馬鹿馬鹿しい話だ。結局、思考に没頭する振りをして、同じところをぐるぐると犬みてぇに回ってるだけだった。
そんなことをしているなら、たった一つの可能性に賭けた方がずっと有意義じゃねぇか。
俺の立場? それは人命よりも尊いものか?
全然尊くないね。むしろクローム達は俺がいなくなったところで何一つ問題ないくらいだろう。
ただ俺が、その後の生活に少し困るくらいでさ。
そんなの大した問題じゃない。村人の命と天秤にかけるまでもない。例え、この後俺が旅から抜けたとしても、それ以上の価値があることだ。
悩んでいた自分がバカらしい。
「何をにやけている? とても不快だ。今すぐアホ面に戻せ」
いつも俺はアホ面なのかよ。
そうやって常日頃とかぶすっとした顔で腕を組んでいるお前の方が問題あると俺は思うけどね。
俺はいつの間にか弛緩しきっていた顔を努めて引き締めようとするけど、どうにも表情筋が仕事をしていない。
そんな自分の現状を悟られたくなく、俺は普段のふざけた調子を真似てしまう。
「うっせぇな、テメェが真面目な顔でクセェこと言うのがいけねぇんだ。今でも必死に笑いを堪えてるんだよ」
自分の本音を貶されて、クロームはむっと顔を顰める。そりゃそうだ。真面目に訊かれたから、真面目に答えただけだというのに、それを訊ねた本人が笑ったら不快にもなるだろう。
「茶化すな。全く、珍しく真面目になったかと思えばすぐにそれか。お前には呆れ果てるばかりだ」
ため息をついて、クロームは億劫そうに壁から背中を離す。俺と一緒にいるだけで疲れたのだろう。俺もお前と一緒にいるだけで疲れる。
本気で部屋割り変えたい。
クロームが一歩踏み出すと、板張りの床が軋んだ。もう床も大分老朽化してんだな。あの羽根のように軽いプラナが歩いても軋むくらいだし。
「出かけてくるぞ。お前には付き合いきれん」
「おいおい、どこ行くんだよ?」
「魔導陣を見てくる。何か解決の糸口があるかもしれない」
足早に脇を抜けて扉へ向かうクロームを呼び止めると、立ち止まりもせずに突き放すような言い方で答えを返される。明らかに苛立ってんな。そりゃ俺が悪いもんな、どう考えても。
とはいえ、このまま出て行かれては俺が困るわけだ。
「その必要はないぜ。対策ならある」
「は?」
俺の台詞にクロームは立ち止まり、振り向く。後ろで纏められた銀色の髪が尻尾のように揺れる。眉を顰め、明らかに俺を訝しんでいた。目が明らかに俺を見下してやがる。ゴミでも見るような目だな、おい。
俺ってばマジ信頼ない。
「これ以上貴様の戯れ言に付き合っていられるほど、俺は暇ではない。人の顔のような形をしてる木目にでも話しかけていろ。程度としてはちょうどいい」
「うっせぇな。剣に語りかけるような奴に言われたくねぇ」
「それの何が悪い?」
「…………」
本当に話しかけてんのかよ。
やだ、剣に語りかける時だけ饒舌だったらどうしよう。もしかして爽やかな笑顔とかしてたりして。怖い、クローム怖い。
想像したらもっと怖い。
「貴様の話は尺の割りに内容が一切ない。まるでピーマンだな。味わった者が渋い顔をする辺り、よく似ている」
「いい例え、どうもありがとう。まあ、いいから聞けっつぅの。むしろ全員起こしてこい。マジで耳寄りの情報があんだからよ」
「ピーマンが玉葱に変わったところで何の意味もない。今度は同情の涙を流されるだけだ。あの森にいた魔物にお前を食わせておけばよかったな。勝手に死んだかもしれん」
そうですね、ほとんどの動物は玉葱の硫黄化合物で中毒を起こして、赤血球が破壊されますものねぇ。クロームさんは本当にお上手ですねぇ。ムダに喋らないだけで、決して話術がないわけではないクロームは本当にムカつきますね。
端的に言うと死ね。
しかし、俺も引き下がるわけにはいかないのである。ため息を吐き出しながらも、クロームから視線は逸らさない。ここ最近、こいつと睨み合う機会が多いな。
こいつの目は鋭いから、あまり直視したくはないんだが……。今はそうも言っていられない。
拳を作って力を緩める動作を数度繰り返し、何とか自分を落ち着かせる。
「だから、俺の話を聞けっつぅの。嘘じゃねぇから。本気で有益な情報だから」
「お前は前振りがしっかりしたものほど、聞いてみるとくだらないことばかりだろう? 何を聞けと?」
クロームの目が引き絞られる。うわ、怖ぇ。今すぐ視線を逸らしたい。
それでも逸らすわけにはいかないんだよなぁ。ここで逸らすと、本当にクロームは俺との会話を打ち切って出て行きそうだし。
「なんでそんなに信頼ないわけよ……」
「貴様の常の態度が原因だろうに」
呆れかえった口調で、クロームは肩を竦める。何を今更、とでも言いたげだ。
ふむ、まあ、確かに。日頃の俺の行いを鑑みれば、信用もなくなるわな。魔導陣の譜面に関して信用云々でも悩んでいたけど、それ以前から俺の信用は地中深く埋没していたわけか。
悲しくなんてないんだからねっ。
「今回ばかりはマジな話なんだっつぅの。いいから、一回聞け。むしろセシウ達も呼ぶぞ。今すぐだ。俺達が今ぶち当たってる問題を全部解決できる。それどころか、村人全員を助けて、その上で村を守りきることが可能かもしれない計画があんだ」
「は? 昨日までの見解から随分遠く離れたものだ。お前の薄っぺらさには恐れ入る。それほど薄ければ翻ることも簡単だな」
先程から、クロームの俺に対する罵声がどんどん酷いものになっている。
ピーマンやら玉葱やら紙切れやら、俺ってば変幻自在。東洋の幻術を駆使する暗殺者ニンジャやらもびっくりだな。詳しく知らねぇけど。
「とはいえ、村人を救う手立て、か。それは本当か?」
「だからさっきから本当だっつってんだろ!」
俺の常の言動が原因とはいえ、さすがにここまで信用がないと込み上げてくるモノがあるね。
今後は日頃から注意を払う必要もあるかもしれない。
クロームは細い顎に指をかけ、やがて俺の方へと身体を向ける。ようやく、真面目に取り合う気になったようだ。
「村人を救えるというのなら、聞く価値はあるか。もしそれが貴様のくだらないとんちも利かない冗談だった場合は、遠慮なく叩き斬らせてもらうぞ」
「どうぞ、ご勝手に。なんなら、逆立ちしたままタップダンス踊ってやってもいいね」
「ふん、お似合いだ」
微かにクロームは苦笑する。どうやら俺の話をとりあえずは信じてくれたようだ。
今はそれだけでもいい。
あとは巧いこと嘘を織り交ぜて、魔導陣の譜面を託すことができさえすればいい。そうなれば、後はどうにでもなる。
「セシウとプラナも集めよう。貴様の話、聞かせてもらうぞ」
クロームの静かながらも力強い声で最終的な決定を下す。その声の奥底にある熱量に、俺はこいつがどれだけ村人達を救いたいのかを理解する。
純粋に、ただ純粋に、地位や名誉など関係なく、クロームは村人を救おうとしている。一人の人間として。
こいつはこういうところがあるから、どうにも嫌いになれないんだよな。
セシウとプラナは俺達にいきなり起こされたというのに、特に不平不満もなく素早く準備を終えて部屋に来てくれた。
二人ともすでに普段着へ着替えている。プラナはいつも通りローブを着込みフードを目深に被っているし、セシウもタンクトップに色褪せてボロボロになっているスキニージーンズという出で立ちだ。というかプラナは寝ている時もナイトキャップを目深に被っていて、表情がよく分からなかった。何時如何なる時でも鉄壁の防御力だな。
対してセシウは時間がなかったためか、髪だけはポニーテールにしておらず垂らしたままである。
ポニーテールにしても膝に達することから分かるとおり、セシウの髪はやたら長い。普通にしてると踵にまで届いてしまう。
普段髪を結い上げている時は男勝りな印象なのに、こうやって髪を下ろしていると女性らしさが際立ち、どうにも落ち着かないので苦手だ。
プラナとセシウはベッドに腰を下ろし、俺は机の椅子に、そしてクロームはいつも通り壁に背中を預けて腕を組んでいる。
毎度お決まりの所定位置である。
突然の招集に対する不快感こそないものの、狭い室内には緊張感が充満し、居心地の悪い静謐が降り積もっていた。
「で? 話ってなんじゃらほい?」
最初に口を開いたのはセシウだった。肩にかかった長い髪を流し、小首を傾げながら俺に話を促してくる。
さて、上手いことこいつらを欺かなければならんな。人を騙すのは得意だ。なんとか頑張ろう。
俺はおほんと咳払いを一つして、まず三人の顔を一通り見渡す。
クロームは仏頂面のままだし、プラナは真面目な顔で俺を見つめているし、セシウはいつも通り間抜けな面だ。
「魔導陣を無効化する手立てが見つかった。できれば今日中に魔導陣を片付けたいと思っている」
クロームは反応を示さない。明確な情報がないため、まだプラナも俺から視線を逸らさない。その続きが気になっているようだ。
俺は腰掛けの上に肘を載せ、プラナの方へと視線を向ける。
「昨日の夜、魔導陣の譜面を手に入れた。というより、屋敷に侵入して盗んできた」
俺の言葉に、クロームが鼻を鳴らす。
「どこに出かけたのかと思えば、盗人の真似事か。帰りが遅いわけだ」
「うるせぇな。単独で行った方がバレねぇし、あん時はお前ら三人とも酔い潰れてただろうが」
もちろん全て嘘である。昨日の夜、俺はこの隣の部屋にいたし、そんなでっかい博打なんかせずに別嬪さんと酒を飲み交わしてただけである。それをそのまま言うほど、俺も純粋ではない。
「それで大丈夫だったの? 見つかったりしてないの?」
少し心配そうにセシウが俺へと問いかけてくる。
め、珍しいこともあるもんだ。俺が心配をされるなんて。まあ、頭の具合に関しては頻繁に心配されてるけどさ。
「大丈夫だよ。何にも問題ねぇ。なんなら伝説として語り継がれてもいいほどの大立ち回りだったぜ?」
俺の虚言癖もここまで来ると才能だなぁとか我ながら思う。普段からバカなことばっか言ってるお陰で、こんなこと言っても全然問題ない。
「単に貴様が狡賢く、こそこそとすることが性に合っている小物というだけだ。逃げ足だけは一丁前だからな」
「うっせぇな。その小物のお陰で譜面が手に入ったんだぜ? 堂々としてるだけが勇姿じゃねぇのよ」
はんと笑って、俺は両手を大仰に広げてみせる。顔には勝ち誇った表情を貼り付けておこう。
俺の阿呆らしさにクロームは付き合いきれなくなったのか、また目を閉じて黙り込んだ。
「あんま無茶しないでよ? ガンマ? せめて私とかクロームがいれば、もしもの時でも大丈夫なんだから」
「複数人で動いたら見つかりやすくなるだろうが。潜入とは常に孤高なる戦いなのだよ、セシウくん」
「孤高と孤独は違うぞ」
「うっせ!」
脇から挟まれたクロームの言葉に俺も咄嗟に言い返すが、クロームは別に気にした様子もなく瞑目したままである。
「それで、魔導陣の譜面は確実なものなのでしょうか? それが偽りの譜面である可能性も……」
焦れったくなったのか、プラナが続きをせがんでくる。ふむ、まあ、あのムカつく魔術師を出し抜けるのかもしれないんだから、プラナだって必死になるわな。
「俺は魔導陣の譜面っていうのが読めないからな、その辺も含めてプラナに見て欲しいんだよ」
言って、俺は抽斗から丸められた犢皮紙(ヴェラム)を取り出し、プラナへと放物線を描くように投じた。
八枚重ねて丸められた犢皮紙(ヴェラム)は綺麗な弧を刻み、プラナの胸元へと落ちていく。ローブの端から零れた小さな手が危なっかしい手つきでそれを辛うじて受け止めた。
いかん、クロームやセシウのようにはいかないな、プラナは。
細く白い指先が犢皮紙(ヴェラム)を纏める紅い紐を丁寧に解き、丸められた紙をゆっくりと広げていく。クロームは目を開き、一挙手一投足、眉の動き一つ見落とさんとするような目つきでプラナを見送っている。セシウも興味があるのか、俺のベッドから身を乗り出し、隣のベッドに座るプラナの顔の横から紙面を覗き込んだ。
ベッドがぎしりと軋みを上げる。
プラナの血を溜め込んだような紅い瞳が素早く動き回り、譜面を見ていく。内容は俺も見たからなんとなく覚えている。とはいえ、図面を覚えているだけで、それが示す意味は全く分からない。
「これって……村の……地図?」
「そのようですね」
一枚目に描かれているのは、確かに村の地図だった。その地図の上に魔導陣の位置が全て記載されている。村にある無数の魔導陣が全て連結しており、村の中心にある巨大な魔導陣へと繋がっている。
「村にバラ撒かれた小さな魔導陣の位置は全て把握している通りですね。ただ、この村の中心の魔導陣は私でさえ気付きませんでした」
「プラナでさえ気付けなかった、だって?」
クロームが僅かに唸る。プラナが気付けない、なんてことは全然予想していなかったようだ。
俺だって少しばかり驚きだ。
「どうやら、周囲に展開された魔導陣に施された意識結界は全て、この中心の大型魔導陣に施された強力な意識結界の副産物的なもののようですね。おそらく意図的なものではあるのでしょうけれど」
言いながら、プラナは一枚目の犢皮紙(ヴェラム)を捲り、二枚目へと視線を落とす。一枚目は図面だったが、それ以降は全て譜面の内容を記したものだと思われる、文字の羅列である。正直、古代言語の読めない俺にとってはかなりの暗号であった。
それでもプラナの視線はすらすらと文字の羅列を素早く追っている。そんなにすらすら読めるものなのかね、魔術師なら。
まあ、プラナは天才魔術師とさえ呼ばれてるしな。みんながこういうわけではないだろう。
「うわ……何これ……見てるだけで頭痛くなりそう……」
脇から譜面を眺めていたセシウは脳の処理限界に達したのか、頭を抑えプラナから身を離す。図形まではよかったのだろうが、完全なる記号の羅列なんてもんはセシウが最も嫌うものの一つだからな。頭やわぇ。
そんなセシウに気を取られることもなく、譜面を読み進めるプラナの目が徐々に細められ、険しい顔つきになっていく。紅い瞳が刺し貫くような鋭さを帯び、表情も深刻なものへと変化する。
「これは……」
「どうした?」
もしかして偽物でも掴まされたのかと思って、俺は椅子から腰を浮かしてプラナに問いかける。
「少し待って下さい」
プラナは俺を手で制し、二枚目を捲り三枚目の譜面を読み進めていく。プラナの探求心にもどうやら火がついたらしい。
これほど膨大な情報――プラナにとってはさぞかし読み応えのあるものなんだろうな。俺からすりゃ全くもって意味不明なわけだが。頭痛を覚えるセシウの気持ちも少しは分かる。理解する以前の問題なのだ。表面上の意味を汲み取ることさえできない。
それをすらすらと読めるプラナは、やっぱり天才なんだろうなぁ。
プラナは三枚目の犢皮紙(ヴェラム)を捲り、次のページを読み進めていく。その顔は顰められ、薄い唇に皓歯を突き立てていた。
「これは……分かりきっていたことではありますが、とんでもないプログラミング能力ですね。こんなキチガイ染みた魔導陣を構築しようと考える、脳みその構造が理解できないくらいです」
プラナがこういう俗っぽい言葉遣いをする時は、感情の振り幅が大きい時だ。譜面の内容に動揺を隠しきれていないらしい。
すでに村に仕掛けられた魔導陣が危険極まりないことは分かっている。それでも驚かざるをえないほどの情報が譜面にはあるというのだろうか?
あまり深く考えたくない話だ。
「そんなにまずいものなのか?」
プラナの反応に穏やかではないものを感じ取り、クロームが問いを投げかける。譜面を食い入るように見つめていたプラナは顔を上げ、少し躊躇いつつも曖昧に頷いた。
「え、ええ……まだ全てを読み切ってはいないため、詳細は分かりませんが、私達の想像を遙かに超える大規模儀式級の魔導陣ですよ、これは」
あの予想よりもヤバイってどういうことだよ。あれ以上にヤバイもんとか想像したくねぇぞ。
これは本当に面倒なことになってるのかもしれない。
「プラナ、詳細を」
クロームが静かに先を促すが、心は逸っているようで背中は壁から離し、数歩プラナに近付いている。
「すみません。もう少し解析する時間をください。憶測の段階で話ができる代物ではありません……」
要するにそんくらい慎重にやらなきゃいけないレベルのものだっていうことか……。
「情報の精度は?」
「間違いなく、正真正銘あの魔導陣の譜面で間違いないでしょう。本物だと確信してまず問題ないかと。ガンマ、助かりました。ありがとうございます」
「だそうだ。お手柄だな、盗人」
「そりゃどうも」
腰を椅子に落ち着け直した俺はクロームの皮肉が籠もった賛辞に渋い声で答え、背もたれの上に顎を載せる。
「譜面の分析はどれくらいかかる?」
問題はそこである。これで本来の魔導陣起動時間である午後七時に間に合わなかったら、何も意味がない。
「二時間くらいお時間を頂けると助かります。流し読みで済ませていいものではありませんし」
「無効化は可能か?」
俺のさらなる問いに、プラナは譜面に落としていた顔を上げ、にやりと不敵に笑う。昨日も見た、腹黒い微笑だった。
「私を誰だと思っているんです? 魔導陣の譜面がある今、あの女狐を出し抜く程度簡単なことです。あの女の鼻っ柱をへし折って、折り畳み式にしてやりますよ」
随分と昨日の一件を根に持っているようだ。まあ、無理もないか。
これはかなりいいもんが期待できるかもしれないな。なんたってプラナの執念が籠もっているのだ。身の毛もよだつ恐ろしいプログラムが誕生しそうである。
普段温厚な分、怒った時のプラナは大層怖い。
今も不敵な笑みを浮かべ、うふふと上機嫌に笑声を漏らしている。
「私は部屋に籠もって、少し譜面の解析に集中します。それまでお時間はよろしいでしょうか?」
読み半端の犢皮紙(ヴェラム)を丸めて、紅い紐で纏めたプラナは静かに立ち上げり、俺達三人を見回す。
「構わねぇけど、プログラムはいつまでにできる?」
時間がかかるようなら、別の行動を考えなければならない。本日の午後七時には魔導陣が起動する。詠唱が開始される六時半よりも早くに行動をしたい。相手が危機感を抱くまでの時間が稼げれば、それによって猶予も出てくるのだから。
相手が詠唱の準備を完全に整えてしまってからでは、それも難しくなる。
俺の焦りを帯びた問いにプラナはにやりと唇を吊り上げた。
「本日の三時までには仕上げてやりますよ。多少急ではありますが、まあ、問題はありません。あの小娘に魔術師の世界の厳しさを教えてやりましょう」
本気で潰しにかかるようだ。
殺意さえ感じる目を直視してしまうと、俺まで背筋が冷たくなるな。なんつぅかチビりそう。
クロームもクロームでプラナからあからさまに顔を逸らしている。ちらちらと俺とプラナの様子を窺ったりもしているけど、どうやらあまり直視したくないらしい。
こうなったプラナは最早誰にも止められないだろう。
頼り甲斐はあるが、恐ろしくもあるね。
こいつが味方で本当によかった、と心の底から思う。
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