第一章 カミーユ・ビダン<前兆>
「くしゅんっ」
春らしい出立ちの少女が歩いている。黄色い長袖のシャツに赤いジャンパースカート、蒼い髪が特徴的だ。少女の名はファ・ユイリィ。月生まれのスペースノイドである。ユイリィはサイド7〈ノア〉の1バンチコロニー〈グリーンノア〉に設立されている連邦総合大学サイド7分校にある文学部史学科へ籍をおいていた。連邦総合大学に進学したのは、他のサイドと違い、人口の少ないサイド7には連邦総合大学しかなかったからである。両親の許を離れるなどということは考えもしなかった。
今は、夏休みである。新学期は九月からで、それまでは自由な時間が満喫できる。カミーユが士官学校に行ってしまってからは女友達と遊ぶことが増えていたが、それはそれで楽しいものの、一抹の寂しさは隠せなかった。
「ユイリィ、風邪?」
「ん〜ん。そんなことないんだけど……誰か噂でもしてるんじゃない?」
傍らの少女に笑顔でそう答えながらも、ベイエリアへと足を向けようとした。連休になればカミーユが帰ってくるんじゃないか?と期待をしてしまう。メイリンはそんなユイリィを恋人を待つ一途な女としてからかうのだった。だが、この三年もの間、カミーユはついぞ顔をみせなかった。
「ねぇ、メイリン……士官学校ってそんなに忙しいのかな?」
「さぁ?スクワーム先輩はちょくちょく帰ってきてるでしょう?」
その通りだ。たまにランバンからカミーユが元気でいるという話は聞いても、カミーユ自身は帰って来ない。私のこと忘れちゃったのかな?と思うと悲しさが溢れてくる。
「でもさ、カミーユって案外モテないから」
「そんなことないよっ!」
向こうで彼女でもできたのだろうか?だったら、紹介してくれてもいいじゃない——そんな風にも思う。幼いときからずっと一緒だったユイリィにしてみれば、カミーユは意識した最初の男性であり、家族同然の存在だった。
「いなくなって、わかること……か」
カミーユが士官学校へ行って、一緒にいることが当たり前でなくなった時、自分の気持ちにはっきりと気がついた。私はカミーユが好き。ユイリィは誰にも言わなかったが、メイリンは判っていたようだった。
「なんか言った?」
「ううん。なんでもない」
やはり図書館に行くことにしたからと、メイリンと別れ、バスに乗り込む。普段、循環バスには見知った顔が多い。だが、この日は見慣れない恰好の男が若い女性と乗っていた。
ユイリィが住む〈グリーンノア〉は民生用のコロニーである。しかし、ここ三年位前から、隣に建設中の二バンチコロニー〈グリーンオアシス〉がティターンズの本拠として軍事基地化されるに従い、軍人やその家族が増えていた。男は軍服を着ていた。紺地に赤い襟と袖、黄色いラインはティターンズの軍服だった。
(ティターンズだわ……)
グリーンノアは比較的地球連邦寄りの人間が多いところではあったが、一年戦争まではアースノイドだった両親はともかく、スペースコロニーで育ったユイリィは地球至上主義の象徴であるティターンズを快くは思っていなかった。だが、グリーンオアシスが軍事基地化されつつある現状、ティターンズに睨まれたくはない。関わらない様にすることが大事だと自分に言い聞かせる。
「なぁ?いいだろ……」
若い男の声がする。少し脅しを含んだ高圧的な態度。ユイリィには、女性が嫌がっている様にみえた。他にも大人は乗り合わせていたが、彼が着ている軍服を恐れて誰も助けようとはしない。
循環バスは完全コンピュータ制御である。全自動であり、車掌はいない。
(誰か助けてあげて……)
誰が押したのか、バス停で降車扉が開いた途端、逃げる様にして女性がバスを降りた。男も追いかけて降りる。他に降りる者はいなかった。
「ちょっと待てよっ!」
——バシッ。
最初は女性が叩いたのかと思った。しかし、ユイリィの目に映ったのは、男が女性の片腕を掴んで、顔を叩いた姿だった。
——えぇっ!? 声にならない悲鳴をあげる。
だが、それが現実だった。
バスが発車した。うずくまる女性を無理矢理立たせ、エレカの助手席へ強引に押し込む姿が遠ざかる。ユイリィは何も出来ない自分が悲しかった。だが、自分が何をしたところで、女性を助けることができないことも判っていた。
(でも……)
歴史を学ぶ自分にはペンという武器がある。
ティターンズの横暴を目の前で阻止することはできなくても、それをいつか世界にきちんと伝えられる日が来る筈だ——そう信じていた。
——次ハ連邦図書館前、連邦図書館。オ降リノ方ハ、ぶざーヲ押シテクダサイ
耳障りな合成音声のアナウンスが流れる。ビーッとブザーを鳴らすと、バスはほどなく停車した。バス停に人気はまばらだ。夏休みである。普段ならともかく、もともと立ち寄る人が多い場所ではない。それに調べ物ならネットの方がいいという人は多い。だが、ユイリィは図書館の雰囲気が好きだった。
図書館は案の定、人気はほとんどなかった。遊戯室には子連れの母親の姿がちらほらとあったが、読書室はほんの二〜三人といった程度だ。レポートを書くには丁度いい。今日中に構想ぐらいはまとめたいなと思って来たのは正解だった。
日当りのいい机を占めると、ワイヤードクライアントを立ち上げ、IDカードを差し込む。欲しい資料のタイトルを打ち込んで、テキストパッドを開いて書き始めた。
「宇宙移民史〜地球連邦政府の成立と宇宙移民」
それが、ユイリィの論文のテーマであった。
——カチカチカチカチ。カチカチッ。……カチカチカチカチカチ。
静かな読書室に乾いたキーパンチの音が鳴る。時折休む音は、思索にふけっているのだろうか。
「二十世紀初頭、人類は二度の世界大戦を経験することで、軍事的対立の愚かさを悟りつつ、抑止力としての軍備拡大を行い、それが東西の二大国家による冷戦構造を生み、次第に経済戦争へと移行していきました。
それまでの国家戦争は影を潜め、局地紛争に終始したこの世紀はパックス=アメリカーナと呼ばれ、アメリカ主導の国際連合による国際調和の時代でしたが、二十一世紀に入り、アメリカの独走が激しくなると、東の大国であるロシア連邦や欧州連合と対立するようになり、この対立が、アジア諸国の危機意識を煽り、連帯から連合、そして大亜連邦へと発展していきます。特筆すべきは日本の存在で、アジア諸国でありながらも、どちらかというと欧米寄りであった日本は、大亜連邦に所属せず、独立不覊を保ったことでしょう。」
そこまで書いて筆を休める。ふと窓の外を眺めると、図書館の庭に繁る木々が木漏れ日をつくり、恋人たちだろうか、若いカップルがレジャーシートを拡げて戯れている。
羨ましい。純粋にそうは思うが、ボーイフレンドを作る気にはならなかった。こんなにもカミーユが自分の心を占めているなんて、ハイスクール時代には思いもしなかった。だから、今は——
「二十一世紀は軍隊が国家間戦争よりも対テロ組織へと変貌していった時代であると言えます。このことは、軍事活動が国境を越え、世界的に協力し合わねばならない事態であり、それぞれの国での対処が難しく、より専門的組織が必要とされ、国際連合にアメリカを中心とする対テロ常備軍が設立されるきっかけともなりました。
二十一世紀半ば、人口増加が極限に達したと考えた国際連合の常任理事国は、全世界に緊急事態宣言を行い、人口増加対策委員会を設立しました。翌年、人対委員会は人口増加に対する積極的な解決策がないとしながらも、『惑星規模の統合政府による宇宙進出であれば解決に繋がるのではないか』という見解を示します。これを受けて、世界は『合併か分離か』という命題に世論が沸騰していきます。折しも中世的経済発展の停滞時期にさしかかっていたことが、人心を不安に陥れ、紛争が頻発する結果となりました。」
(これじゃ、歴史の教科書じゃない……)
自分の書いた文章を読み返して苦笑する。だが、それが事実だった。人類は何度となく似た様な世界情勢を繰り返している。そして、前へもっと前へ、より巨大により拡大していっている。二十一世紀半ばの人口は一年戦争によって半減した現在の人口よりも多い。それが、スペースコロニーもなく、全て地球上に暮らしていたなんて、ユイリィには信じられなかった。実感がないのである。スペースコロニーでさえ、一年戦争前には一島あたり一五〇〇万人いたものだったが、ここグリーンノアにいたっては五〇〇万人にも満たないほどしか居ない。一体どれほどの人がひしめき合っていたのだろうか。それは想像を遥かに超えた生活環境であったに違いないとユイリィは藐然と考えていた。
「二十一世紀後半の世界規模での紛争は、主に分離主義国家を中心に起きており、アラブ諸国に多かった分離主義とヨーロッパ諸国を中心とする合併主義は、二十一世紀初頭にあったイスラエルを中心とするユダヤ=キリスト教派とイスラム派の宗教的対立を源流とする側面を持っていました。しかし、欧米諸国は国際世論に押される形で、二十二世紀初頭に対テロ常備軍を中核とした国際連合軍にアメリカ合衆国軍を合併させ、欧州連合の各国軍がこれに倣うと、これに比肩できる軍隊は地球上に存在せず、西暦二一四五年、武力を背景にした地球を統一国家が誕生しました。
これが地球連邦政府です。」
——カチッ。
改めて思うと地球連邦政府というのはなんと高圧的な政府なんだろう——そう思わずにはいられない。日常生活している上では感じないが、歴史を振り返れば振り返るほど刻み込まれるこの違和感は一体なんなのだろうか?
いけない——そんなことを考えて生活していたら、反乱分子と目をつけられてティターンズに尋問されてしまう。そう頭で判っていても、一度浮かび上がった違和感の正体が自分の中で実体化してしまうと、人はそんなに簡単に忘れ去ることはできない。どうしよう。そんなことを考えながらキーボードを叩き始める。
「地球連邦政府は人類の宇宙進出を経済的側面から支える目的で成立した政体であると言えます。しかし、その当時ですら、果たして本当に統一した政治機構が必要であったのかという疑問は常に存在していました。ただ、懐疑的なインテリは左派と見なされ、主流から排除されていくという事態に、多くはサイレントジェントルマンと化したと言われています。いわゆる群集心理による感情論の沸騰が、理性的解決を拒絶した瞬間であると言わざるを得ません。
二十二世紀中頃には、重力緩衝点——すなわちラグランジュポイントに実験的な島一号型スペースコロニーがいくつか設置され、地球連邦政府最大の機関である人対委員会主導により、L5に島三号型スペースコロニー——のちのサイド1一バンチ〈シャングリラ〉の建設が始まり、これへの移民開始を以て宇宙世紀の開闢となるのです。」
ユイリィは、自販機の前にいた。
——ガコンッ。
ソフトドリンク缶が派手な音をたてて存在を主張する。二十世紀から変わらない販売法。パッケージはリサイクルボディになっても、いつでも買えるという無人販売機は何処にでもあった。
「……ふぅっ……」
疲れた。たったあれだけの文章を書くのにどうしてこんなに疲れるのだろう。閉塞感からか、寂寥感からか。ユイリィは自己分析を始める。そんなことよりも議題レポートを早く仕上げて、教授に提出したいと考えていた。夏休みなんだから旅行にでもいってきたらと言ってくれた両親には申し訳ないが、何処にも行く気はしなかった。チアの集会にも顔を出していないし、そこに行っても煩わしいだけ。よってくる男たちを上手くあしらえる自信もなかった。
「……こちらです。」
司書の人が、ティターンズの軍人を案内しているのが見えた。
図書館に軍人?査閲かも。とっさにユイリィは自分がデータを保存して論文を閉じていないことを呪った。図書館はリベラル派の根城になりやすい施設として公安やティターンズからはマークされているとはいえ、公共施設であるが故に軍人が査閲に立ち入ることはほとんどなく、完全に失念していた。
(急いで戻らなきゃ……)
走って注意をこちらに向けさせないよう、ゆっくりと静かに席に戻る。軍人は奥の司書室の方へ消えた。ほっと胸を撫で下ろす。これで一安心だ。椅子に腰掛け、データをセーブ、IDカードを抜き取ってクライアントに残っているデータがないか調べる。ゴミ箱を空にして、履歴を消去。これで問題はない筈と、席を立った。
図書館を出ると真っすぐに家に帰った。
「あら、おかえり。メイリンたちと出かけたんじゃなかったの?」
「ううん、図書館に行ってたから」
母親に手を振って自室に籠る。カミーユが作ってくれたスタンドアローンクライアントにIDカードを差し込むと、先ほどのテキストファイルが開いた。
「大丈夫……よね?」
少しばかり心配だったが、サイド7大学はリベラル派の大学ではなく、ユイリィが師事する教授は割と有名人だったから大丈夫であろうと嵩を括った。
「武力を背景に統一をした地球連邦政府とはいえ、宇宙移民が最初からスムーズに進んだ訳ではありませんでした。武力によって押さえつけられた不満は、記念すべき宇宙世紀元年を血で汚す結果になったのです。地球連邦政府官庁専用の島一号型スペースコロニー〈ラプラス〉の惨劇。いわゆる〈ラプラス〉爆破事件です。
これは分離主義テロ組織によるものと断定され、緊急組閣された新政府首脳および軍上層部によって〈リメンバー・ラプラス〉の名のものとに徹底的な殲滅報復が行われました。分離主義組織を支援する国家もその対象に含まれました。この〈統一戦争〉は宇宙世紀〇〇二一年まで続き、翌年〈地球上からの紛争消滅宣言〉が出されました。
この間も宇宙移民は着々と前進し、宇宙世紀〇〇一〇年にはエネルギー問題から木星開発事業団が発足し、ヘリウム3などの重水素確保のために木星船団が組織され、宇宙世紀〇〇一六年には人対委員会はフロンティア開発移民移送局を設立、宇宙世紀〇〇一八年にはサイド2〈ハッテ〉にて一〇〇万人目のスペースノイドが誕生しました。
宇宙世紀〇〇二七年には、人類初の月面恒久都市〈フォン・ブラウン〉市が完成、L5方面のコロニー建設基地として、コロニー建設は第二次ラッシュを迎えます。さらに、宇宙世紀〇〇三〇年にはフロンティア開発移民移送局を民営化、宇宙引越事業団を発足。これによりコロニー建設のスピードは更に加速します。また、この頃から、太陽発電衛星による電力送電や、コロニーからの電力送電技術が発明され、地球のエネルギー問題は大幅に改善されたことも加速を促した一助であったと考えられます。
宇宙世紀〇〇三五年になると月の裏側であるL2にサイド3の建設が始まり、四十年代には総人口の四〇%が宇宙移民となる時代へと突入します。それと同時に地球聖地主義的な宗教観がスペースノイドに生まれます。これがエレズムで、以後スペースノイドの基本的観念として定着していきました。」
そう、地球聖地主義。ティターンズの人たちだって、「母なる惑星、地球」という言い方をする。それなのにどうして同じ人類同士でいがみ合わなければいけないのか。移民史を繙けば繙くほど、移民が迫害の歴史を歩んでいることが判る。結局二十世紀から続く民族紛争の火種を抱えたまま宇宙に拡大してしまった人類が、その鬱積の捌け口を求めて戦争というカタルシスに暴走したとしか思えないほど、一年戦争が残した傷痕は大きい。ファ家はフォン・ブラウンの華僑を頼って疎開していたから、まだマシな方だ。カミーユだってそう。でも、ユイリィの友達の中には、一年戦争で父親を失った娘や、恋人を失った娘もいた。一体いつまで、スペースノイドは地球連邦政府に虐げられ続けなければならないのだろうか。何故、地球連邦政府は地球から宇宙を支配しようとするのだろうか。疑問は尽きなかった。
夕食ができたと母親に呼ばれて階下に降りると、父親が帰ってきていた。父は普通のサラリーマンであり、母は専業主婦である。
「大学はどうだ?」
「パパ、今夏休みよ?」
母がくすりと笑う。ユイリィもつられてプッと吹き出す。和やかな家庭の団欒。三年前までは、よくカミーユもユイリィの隣の席で食事を取っていた。同い年の家族。大人になっても変わらずそこに居るんだと疑うこともなかったのに……。
「たまには旅行にでもいったらどうだ?」
「あなた、またそれですか?先週もユイリィに旅行の話してましたよ」
「いいじゃないか。友人のツテで、月へのチケットが安く手に入るんだから」
あぁ、そうか。お父さんはカミーユが気に入っていたから、私とカミーユが恋人同士になって、結婚すればいいって思ってるんだ——そんなことを考えながら、そんな暇はないわよと素気なく断ると、階段を駆け上がった。
「こら、ユイリィ!階段を走らないの!はしたないでしょ……もぅ…あなたからも叱ってくださいよ……」
「イーフェイ、もうユイリィも大人なんだ。叱った所で言うことを聞くものでもあるまい。その内、子供っぽさも抜けるさ」
両親の会話を背中で聞きながら、自室のドアをちょっとだけ強めに閉める。
——バンッ
きっと母が眉をひそめていることだろう。それを想像するとおかしくて、くすりと笑ってしまう。両親の仲は子供のユイリィからみても、まるで恋人同士の様だった。母方の親戚から聞いた話では、母が父にベタ惚れで、両親の反対を押し切って駆け落ち同然に結婚したらしい。一人娘に家出をされた祖父母は、慌てて結婚を許したのだと言っていた。父も母も華僑の出身だった。しきたりには煩い。だが、父も母も、今はあまりそういう付き合いはしていない雰囲気だった。ここグリーンノアはあまり華系の比率が高くないからかも知れない。
伸びを一つして、寝間着に着替える。お風呂は朝に入るのがユイリィの習慣だった。気持ちを切り替えて、机に向かう。
「さて、レポート仕上げちゃわなきゃね」
ユイリィの机にはディスプレイが二つ。一つはワイヤードクライアント。ひとつはスタンドアローン。「スタンドアローンを絶対にワイヤードに繋ぐんじゃないぞ!」とカミーユに言われていたことを思い出す。
「カミーユ……どうしてるかな?」
二台のクライアントのスイッチを入れて起動させる。
さすがにワイヤードの方が起動が早い。実質ワイヤードは切断されることはない。スリープモードになるだけであり、常時電源がオンになっているのと同じなのだ。カミーユが改造してくれた家庭用クライアントはキーボードやマウスの操作なしにも使えるのが楽だった。
「らぷちゃあ起動」
——音声録音ヲ開始シマス
「エレズムがスペースノイドに定着すると、その思想を危険視した地球連邦政府に同調した地球居住者を中心にネガティブキャンペーンが行われるようになります。また、この地球世論に乗って地球連邦政府は宇宙植民地への経済統制を始めます。これが宇宙関税法で、地球製品の競争力を保護するための法律だった訳ですが、スペースノイドにとってこの法律は搾取であると抗議行動が頻発することになりました。
特に地球連邦議会議員ジオン・ズム・ダイクンは、このままでは地球圏に再び紛争が起きると予見し、コントリズム——すなわちサイド自治主義を唱えました。のちに、このコントリズムとエレズムが結びつき、ジオニズムと呼ばれる独自の主張へと育っていきます」
そう。ジオニズムはアースノイドが唱えた主義なのに、何故、地球の人々はそれをよしとせず、地球至上主義に偏ってしまうのかが、ユイリィには理解できなかった。若いが故の潔癖であろうか。所詮、人とは自らの怠惰を隠すためにより怠惰な人を周りに配したがるという習性を持った生物なのだが、若さとはそういった濁を併せ持たない純粋さなのかもしれない。
「スペースノイドのデモ行動は地球連邦政府の態度を硬化させ、宇宙世紀〇〇五一年、地球連邦政府は新規コロニー開発計画の凍結を発表。これにより建設中のサイド6を以てコロニー建造ラッシュは終幕を迎えました。このことは、スペースノイドの経済的発展を閉ざしたことにもなり、基本的に都市型構造であるスペースノイドは人口増加も期待できず、経済は停滞を始めます。それが地球連邦政府の政策でした。
これを打破すべく、ジオン・ダイクンはサイド3に移住。サイド3で急速に勢力地盤を築き、翌々年の市長選において見事当選、サイド3で政治革命を開始しました。そして、五年後の宇宙世紀〇〇五八年九月十四日、ジオン共和国独立宣言を行います。宇宙移民時代は終わり、地球圏はきな臭い戦乱の時代へと入っていきました。」
戦争——つい七年前にあった、ジオン独立戦争。連邦領内の教科書では必ず一年戦争と書かれるこの戦争の傷跡は深い。このグリーンノアは一年戦争後に再建されたコロニーで、中央広場には一年戦争戦没者慰霊碑が立っている。ヴィックウェリントン社の工場跡地は戦争博物館になっていた。当時、軍事基地があった建設中のグリーンノアは、ジオン公国軍の襲撃によって民間人、軍人ともにほぼ全滅。一握りの人たちが新造艦ホワイトベースに乗り込み、奇跡の逃走劇をしたというのは、何度も授業で習っている。アムロ・レイを主人公にした映画は何本も上映され、カミーユについて一緒に何度見に行ったか判らないほどだった。
——めっせ〜じヲ受信シマシタ
ワイヤードクライアントが突然声を挙げた。
え?友達はみんな携帯にムービーメールしてくるし、ワイヤードにメールする人なんていまはほとんどいない。
「開いて」
——差出人ハ不明デス
ウィルスチェックは通っている。不審なメールではない。なのに差出人がない……どういうことだろう?開けてみるしかないのか。ユイリィはちょっとだけ迷った。
——重要度ガ設定サレテイマス。重要度ハSらんくデス
重要度Sといえば、政府関係者にしか許されていない筈だ。ユイリィの知り合いに政府関係者などいない。両親も政府関係者との付き合いはない。あるのは、隣家のカミーユの両親ぐらいで、彼らはティターンズの軍人だが、二人ともほとんど自宅に帰らないし、カミーユが士官学校に行ってからは、交流もない。第一、ユイリィにメールを送る理由もなかった。
(おばさんもおじさんもアドレスしらないし……)
「開いて」
「ファ・ユイリィさんへ。ワイヤード上で、あまり自由なレポートを書かない方がいいと思います。とりあえず、ログは消去しておいたので、しばらくは図書館に近づかないように。軍に目をつけられたら困るでしょう?近いうちにまたメールします。それと、私の正体を探らないように。私は貴女の味方です」
——めっせ〜じヲ消去シマシタ
「え?だめ、消しちゃ!……うわっ」
慌ててワイヤードに向き直ろうとして、バランスを崩して椅子から落ちた。後ろ向きに背もたれを抱えていたのだ。床に肩から落ちて、ドスンッと派手な音を立てた。下にも聞こえていただろう。
——めっせ〜じハアリマセン
(え?これって、今日の昼間の図書館で書いていたレポートのこと?誰かにみられたってこと……?でも、ログを消したって……。それになんで、勝手にメールが消えちゃうの?私の味方……ってどういうこと)
ユイリィには判らないことだらけだった。
だが、一つだけ判ることは、自分が書いた内容のレポートは提出しない方がいいということだ。誰かに見られて、それが、軍部の査閲に引っかかりそうだった。そして、誰かが、それを助けてくれた。でも、一体誰が?声に聞き覚えはない。それに、私を助けてなんのメリットがあるの?頭の中が疑問でいっぱいになる。
眠気なんてなかった。
どうしよう。誰に相談すればいいのか、わからなかった。
(教授……話を聞いてくれるかしら……)
だが、他に頼る術もなく、ユイリィは、ワイヤードでスタンフォーレ教授のアドレスを探した。教授の名前をクリックして、テキストメッセージを送る。教授が前にあまりムービーメールが好きじゃないと言っていたからだ。
——め〜るガ届キマシタ
早い。まだ、教授は起きていたということだ。メールを開くと、明日の三時に大学の研究室に来る様にと書いてあった。不意に携帯が鳴る。
「はい、ファです。きょ、教授!」
——君からメールが届くとは思わなかったのでね、ちょっと心配になったんだが、電話では話せない内容なんだろう?
「えぇ、明日三時に研究室へ伺います」
——いや……今からそちらに向かうよ。自宅の前に三〇分後に着くから
「きょ、え?」
教授は言いたいことだけ言うと電話を切った。二一時〇五分。遅い時間とは言えない。とりあえず、着替えよう。カーテンからちょこっとだけ首を出す。周囲に不審な様子がないか窺ったのだ。少しだけ安心して、外出着に着替え、レポートをフィルムペーパーに転送する。フィルムペーパーはワイヤードには繋がっていないRタイプだ。
下に降りると、両親がTVを見ていた。
「ユイリィ?こんな時間からお出かけ?」
「出かけるというか、教授に渡すものがあるんだけど、もうちょっとしたら寄るっていうから」
「え?スタンフォーレ教授がいらっしゃるの?」
「あぁ、家にはあがらないから」
「そんな訳にいかないでしょう?アナタがお世話になっている教授さんに」
「いや、そうじゃなくって、研究の話だから、誰にも聞かれたくないのよ」
せめて挨拶ぐらいさせてという母を追い返し、外に出る。
ほどなく、教授のものらしいエレカが来た。
——プッ
短いクラクション。割とスポーティーなエレカだった。レンタルタイプではなく、自家用車だ。エレカは個人で持つことを許されてはいたが、あまり持つ人は多くなかった。いつでもどこでも安価に借りることができるからだ。どちらかというとリースする者が多かった。
「教授」
「とりあえず、助手席へ」
頷いて助手席に座る。バタンとドアが閉まった。ギルバート・スタンフォーレ教授は豊かな髭と、厳しそうな顔をした初老の紳士だ。今だからそういう顔をしているのではなく、いつもそうである。強い意志をもった瞳が印象的だ。
「これを見てください」
フィルムペーパーを渡す。教授は怪訝な顔を一瞬のぞかせるが、黙って読み始めた。読み進む内に愉快そうな顔をする。
「これは何処で書いたね?」
「連邦図書館です」
事情を手短に伝える。ふむふむと真剣な表情で頷き相槌を打つ。驚いたりせず、落ち着いた様子にユイリィは自分が安心していくのを感じた。教授は「私に任せなさい。君は何もしてはいけないよ。それと……あるプロジェクトに参加してもらいたい」と言って去った。そして、あのメールがその招待状であるとも。
ユイリィは自分が何か運命の岐路に立たされている様に心細かった。
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