さく。さく。さく。
踏み締める雪に規則正しい一直線の足跡が刻みつく。
さく。さく。さく。
細かな結晶を保つ雪を一人の足が踏み締める。
踏み締める脚の者、そのしなやかな首筋が天を上向く。
細かに降りしきる白い雪。あまりにも強い冷気は細やかな雪を天より降らせ、その美は冷たい死と隣り合わせである事実すら凍てつかせる。
美しい、と従者は思う。
月光に冴える雪の冷徹な美は時に振り下ろす刃の煌めきにも似ている。共に死を紡ぐという点に於て。
「御大将」
厳ついそして忠実な従者、その朴訥な呼びかけに振り返る。造作に乱れる髪を掻き上げ、この微かな造作に従者は忠誠以上の感情をいだく事は知っている。
「御大将、吉次よりの使いの者が参りました」
「用向きは判っている。通しておけ」
「それがしのお話ならばお断り申し上げます」
忠実な従者、その男の「反逆」に女は黒目がちに瞬く眼を細める。
「弁慶、九郎の心を受けてはくれぬか」
「名を変え、御大将をお見捨てして生き延びるくらいならばこの武蔵坊、今すぐ腹掻っ捌いて果ててご覧に入れましょう」
「其方の死を見とうないと申しておる。何より、仏弟子自らが自害して何とする」
「御仏の慈悲なぞ、御大将にお仕えする慶びには及びませぬわ」
あるじは背を向ける。
雪はただ降りしきる。
「弁慶、察しておくれ。其方の忠義忠節にはこの九郎、まこと感じ入っておる。其方があったればこそ、この九郎はもののふとしてやってこられたも同然。
なれどわしは其方を死出の戦さにまで出しとうとは思っておらぬ」
「御大将は拙者を要らぬと仰せになられますか!」
「弁慶が大事だからこそ死なせとうはないのだ」
風が吹く。
降り積もる結晶が舞い上がり、刺すほどの冷気が肌を苛む。
いっそ心が凍えたままならよかったのに、と。
時にそう呟いて生きてきた。
心が凍えるままならば、何事にも囚われずに生きていられたはずなのに。
「弁慶、判っておくれ。其方を生かしたいのは九郎のせめてもの意地よ。かつては鬼と罵られ、今は叛逆者と謗られようと九郎はひとである限り、ただ其方を人として生かしてやりたいのだ。名が変わるくらいは堪えておくれ。九郎が果てらば鎌倉は、兄上は其方一人は見過ごしてくれよう。兄上が欲するは九郎の死一つなのだから」
忠実なる従者は聞いた。誰より強いが為に鬼と呼ばれ、悪とも忌まれ、だが全てのもののふより畏怖され続けたあるじ、その「こころ」が悲鳴を上げるのを。乱れる髪を掻き上げる指、その細さを隠す様に強刃を奮い続けた者、その実は脆く感じ入りがちな「こころ」が泣き叫ぶのを。
弁慶は誰より身近で見守っていた。だから知っている。
「見守る」以上の事は許されなかった。従者である、ただその一点のしかし厳然たる隔たりの為に。
「ふ、なんと無様な事か。九郎は兄上の御為と思えばこそ鬼と呼ばれてきたものを、それが兄上のお気に召さなんだとは。この世の因果とはなんと意のままならざるものか」
「御大将、御自らを苛まれるものではございませんぞ」
「源氏の為、兄上の御為と思えばこそ刃を奮ったに。九郎はなんと愚かな道化であった事か。のう弁慶、阿呆であるのう」
「御大将、おやめ下さい」
「のう弁慶」
あるじは振り返る。
頬に差し込む紅は冷気の為ばかりなのだろうか、と弁慶は眼を細めて見詰める。
「のう弁慶。いっそ九郎のこの首、其方の手で狩り落としては如何か。この首一つで其方の生命が赦免されるならば」
「御大将、ご無礼仕ります」
鋭く高い音が鳴った。
弁慶の大きな掌があるじの頬を張った。
「気を惑わされまするな! この武蔵坊、御大将の御為ならばこの生命を喜んで落としこそすれ、惜しもうとは是ばかりも思うておりませぬ! もし御大将が黄泉路に赴かれますならばこの武蔵坊、喜んで六道の果てまでお供致しましょうぞ!」
瞳が潤むのは冷気に惑わされる為に過ぎない。そう頬が赤く刺し入るのは己のが無礼のゆえであり、決してそれ以上ではあり得ない。ただそれだけの事だ。
「……其方に打たれるは安宅以来だな」
「重ね重ねのご無礼、お詫びの申し様もございませぬ」
巨躯を縮める様に膝を突く男。その背をあるじはただ悲しげに見詰める。
「……弁慶、そういえば其方と主従の契りを結んだ日の約定、いまだ果たしておらなんだな」
「その様な事は。御大将にお仕えする事こそこの武蔵坊の何よりの法悦。古き約定なぞは」
「九郎には古くも何ともない」
暖具を外すあるじより現れる、思いの外に華奢な肩の線に狼狽えて従者は己のが暖具を脱ぎ与える。
男の暖具が雪に落ちた。
「御大将……!」
女の暖具が踏み躙られた。
「一度きりでよい。我が名を呼んでおくれ」
「御大将、それがしは」
「頼む……お頼みする。弁慶、我が名を呼ばわっておくれ。其方の声で、其方のまことのこころで九郎を……我が身を呼んでおくれ」
男の逡巡に女は儚げに微笑む。
「我が身が憎らしいか?」
「その様な事はございませんぞ!」
「ならば呼んでおくれ。あの日の約定こそは九郎の支えであったのだから」
鬼とも呼ばれた女は鬼ではない表情で笑む。びょうびょうと荒れる風に髪を嬲られ、冷気に苛まれながらもなお艶かな瞳で。
誰が忘れようか、あの約定を。主従を誓ったあの日の、それ以上の「想い」を。
「御大将……九郎様」
「うん」
「……牛若様……」
「弁慶」
「何でございましょう」
無骨な頬をなぞる指がある。
華奢な背を抱き締める腕がある。
二人のもののふはひとつがいの鬼と恐れられた様に、ただここに在る。
「弁慶、九郎はまことは恐ろしい……死が恐ろしい。兄上に捨て置かれるは何とも思われぬくせに、我が身が滅ぶと思えばまことは恐ろしゅうてならぬ……!」
「嘆かれますねな。この武蔵坊、牛若様の御為ならば黄泉路のお供をもさせて頂きますとも。おお、いっそ我ら二人で冥土を領地と致しましょうぞ。獄卒どもを屠り、鬼どもを配下として、我ら二人で」
黒目がちの美しい瞳が見上げる。そこに揺れる「感情」を察し、男はなお抱き締める腕に力を込める。
「牛若様、それがしは」
「弁慶、斯様な事で約を果たして済まぬ……だがお頼み申す。この九郎と、どうか共に地獄に堕ちておくれ」
「無論の事」
己が頬をなぞる細い指を取り、握り締める。
冷たく冷える指はきっと常より白さを増しているだろう。
「牛若様、ご無礼仕ります」
「弁慶、九郎を」
一度きり風の音が響く。
高く冴え渡る音の谷間にひとつがいのもののふは互いの身を抱き留め、そこにいた。
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源義経(女)と武蔵坊弁慶が雪中にて語り合うの段。
女武者とその従者という取り合わせは(`・ω・´)イイ!と思うのです(真顔)