五話「奇術師の懺悔と盗賊」
「うがー!!二日酔いだぁ!俺ぁ今日は、一歩も宿から出ないぞっ!」
頭を押さえている様子から、相当頭が痛いのだろうに、何故かビルは大声でそう宣言して、再び意識を失った。
ちなみに彼が起きたのは、ロレッタが起き、ルイスが起きてからだ。
いつもは一番早く寝て、一番早く起きているというのに、酒の力は恐ろしい。
「さて、ルイス。今日はどうするの?」
「うん。町を見て回ろうかなって」
それに、朝食も食べないといけない。
旅の身でそれは贅沢だと思われるかもしれないが、今までの旅でも、ルイスはきちんと三食食べて来ていた。
何か明確な目的を持った旅ではないのだし、楽しんで行こうぜ、というのはビルの弁だ。
ルイスもそれに異を唱えることはなく、楽しむことをモットーに旅をしている。
「そう。勿論、あたしも一緒に行くわよ?二日酔いの看病なんかして居たくないし」
「はは、そうだね」
昨日、一度はロレッタの中のビルに対する印象が良くなった気がしたが、飲んだくれっぷりとこの二日酔いで、再び評価は落ち込んでしまったらしい。
ルイスとしても、それには同意見なので、友人であろうと特に弁護はしてやらない。
二人は宿を出て、朝の光に満ち溢れた町へと出た。
宿の部屋でも窓を開けて、陽を浴びたが、やはり直接外に出るのには叶わない。
「まずは朝ご飯を食べたいんだけど、良いかな?」
「ええ。広場の方に出て行ったら、手頃な店もあるでしょうね」
きちんとした食事処に入る必要はない。屋台の様な店で、食べ歩けるものさえ買う事が出来れば、当面の間は空腹に悩まされはしない。
宿の立ち並ぶ通りを抜け、開けたところに出ると、沢山の人が動いているのが見えた。
町はすっかり起き出している。
広場にはオープンカフェの様な店や、求めていた簡単な食べ物を売る店、他には旅の楽団と思わしき集団と、その見物客が十数人ほど居た。
「楽団かぁ。昨日の子を思い出すな。ベレン、だっけ。あんまり聞かない名前だから、よく覚えてるや」
楽団と芸人と奇術師。どれも、自分の技を商品にする商売人だ。
その技が拙ければ、とても生きてはいけないのだが、そう思うと昨夜の奇術師少女は、今まで旅を続けることが出来ていたのが不思議だ。
「この国の人間じゃないものね、彼女。恐らくは戦争が起こったっていう、東の国の生まれよ。だから、言葉遣いが少し変わっていたんでしょう」
「そうだったんだ?見た目にはわからなかったな」
えらく可愛いとは思ったが、この国で見かけてもおかしくはない顔立ちだったし、言葉に関しても、一種の役作りなのかもしれないと理解していた。
しかし、そう言われてみると、矛盾はない気がする。
「今は国が違っていても、大きく人種は変わらないからね。大陸が変わらない限りは、見た目で異国人とはわからないでしょう。でも、彼女の独特なイントネーションは、間違いなく東の国の言葉に引き摺られた故のものだわ。それに、手品も上手くないし、旅慣れていない様子だったのも、戦争から逃れる為に急いで逃げて来たからじゃないのかしら」
ロレッタはそれからも、二、三の別な仮説を並べ上げたが、どうも一番最初のものが有力そうだ。
「まあ、いずれまた会う機会もあるでしょうから、その時本人に訊くのが一番ね。今は腹ごしらえ、でしょ?」
ベレンは自分よりも幼い少女だったのに、戦争の為に一人祖国から逃げて来た。その事実に少なからず動揺を受け、ぼーっとしていたのだろう。ロレッタは殊更大きな声を出し、ルイスの腕を引っ張った。
あまり強く引っ張るものだから、足元がふらついたが、何とか体勢を立て直す。
「そ、そうだね。じゃあ……」
広場を見渡し、そこそこ繁盛している店を見つけると、そこに向かった。
何分、ルイスにはわからない事だらけだ。人の評判を頼りにするしかない。
「オープンサンド、か。その場で食べるには丁度良いわね」
よく商品も見ないで選んだのだが、ロレッタも気に入ってくれた様で、一安心だ。
数枚のコインと引き換えに手に入れたオープンサンドは、固めに焼かれた一切れのパンの上に、レタスとトマト、それから薄い肉を乗せたものだった。
ロレッタ曰く、BLTサンドと呼ばれる人気のある組み合わせらしく、確かに味のバランスも良く、あっという間に一枚を食べ切ってしまった。
若干ボリュームに欠けた印象はあるが、値段を考えると、順当だろう。食べ盛りのルイスの腹を完全に満たすには、もっと硬貨が必要だったという事だ。
「随分と早いわね。足りなかった?」
まだ食べている途中のロレッタが、手持無沙汰にしてしまっているルイスに気付き、声をかけて来た。
「い、いや。大丈夫。予想以上に美味しかったからね」
少し足りない、とも言おうとしたが、そうするとロレッタがもう一枚買ってしまうか、自分の残りを渡してくれそうだったので、遠慮することにした。
もうロレッタとは、遠慮し合う関係ではないとは思っているが、何となく彼女に世話を焼かれてしまうのは恥ずかしいと思ったのかもしれない。
「初めてだった?サンドイッチ」
「うん。そういう商品としてはね」
パンの上に食べ物を乗せるだけなら、昨日の夕食の時もそうしたし、普通にしていることだ。
だが、初めからそういう食べ物として売られているものを買うのは初めてのことで、目新しいことだった。
ただパンにマーガリンを塗り、その上に当たり前の具材を乗せただけなのに、物凄く美味しいもののように感じられたのも、その所為だろうか。
「そう。『初めて』を経験出来て良かったわね」
「う、うん」
ロレッタは何故かとても嬉しそうに、顔を綻ばせて言った。
その真意が掴めず、ルイスは適当に頷いておくことしか出来ない。
「『初めて』を喜べるのって、すごく貴重なことよ。あたしは物心付く前に色んなものを知り過ぎて、『初めて』を経験することなんて、本当に数えるほどだった。でも、人が『初めて』経験するのを見ることで、あたしもその驚きや感動を擬似体験出来るの。だから、キミにはこれからもたくさん、『初めて』を経験していって欲しいわ」
ルイスにはやっぱり、その気持ちというのがよくわからない。
生まれた家と地位の差は、やはり決定的なものだ。
しかし、それこそがロレッタの他人の『初めて』を求める理由なのだろうか。
「今、キミって……」
――だが、そんな難しいことよりもルイスの感心事は、もっと簡単なところにあった。
ロレッタはさっき、確実にルイスのことをいつもの「あなた」ではなく、「キミ」と呼んだのだった。
急に距離が縮まった気がして、どきどきしてしまう。
「あ、ごめんなさい。少し馴れ馴れし過ぎたかしら」
「う、ううん!むしろ、その方が良いなっ」
何故か声が裏返る。
相当、緊張してしまっているらしい。
「そう?なら、そうさせてもらうわ」
「お、お願いします」
そして、何故か敬語。
ルイスは顔が真っ赤になっているのを悟られない様に、出来るだけ顔を隠そうとしたが、残りのオープンサンドを食べる間、ずっとロレッタがにやにやしていたので、大した効果はなかった様だ。
朝食の後は、また二人並んで町を歩いた。
カップルの様に見えなくもない二人だが、どちらかというと、姉妹の方が自然かもしれない。
過去にナンパに遭った程、ルイスの見た目と素振りは、少女のそれに近い。
それはかねてから気にしており、改善しようとは思っているのだが、ビルのそれをお手本にしてしまうと、いまいち荒っぽ過ぎるて、それをルイスが真似をしては、イメージが合わな過ぎる。
そう考えると、ロレッタの方が素行に関しては見習うところがあるかもしれない。
外見と口調は女性らしい彼女だが、騎士故にか、普段の仕草は男性的で、しかもそれがよく似合っている。
ただ、そのままロレッタをコピーするとなると、たまに見せる媚びた、男を誘惑する仕草まで学び取ってしまわないかが、気がかりだ。
……その方が、世を渡って行く上では便利なのかもしれないが。
「町の入り口の方に戻って来たわね。昨日はゆっくり見れなかったけど、この辺りにもいくつか宿はあるのね。多少、ランクは下がるし、馬小屋はないみたいだけど……」
どうやら、普通に徒歩で来ている旅人を対象としているらしい。
安さと、交通の良さがウリなのだろう。
その客を狙った飲食店も多く、今夜の食事はこちらに求めても良いかもしれない。
そう思いながら、気ままに歩いていると、人だかりがあった。
先の広場の様に、楽団の周りに人が集まっているのではないというのは、その雰囲気でわかった。
「ここからだとよく見えないけど、あまり穏やかではなさそうね。どうする?」
「首を突っ込むって言ったら、怒る?」
「いいえ。むしろ、大賛成」
ロレッタは口元を緩ませると、背負っていた槍を持ち、人だかりに近寄った。
「失礼。旅の騎士です。何があったのですか?」
久々に彼女は、あの畏まった口調になり、人々から情報を集めて行く。
こういう時に騎士という肩書きは便利だ。
上等な服と槍を持っているだけで、誰もがそれを信じ、背筋を伸ばす。
騎士の格は、小さな町の番兵などとは違い過ぎるのだ。
「大体の事情は把握しました。この店に賊の襲来があった。間違いありませんね?」
野次馬達は、一様に頷く。
「わかりました。ここは一度、皆さんはそれぞれの宿やお家にお帰り下さい。この場は全て、私がお預かりします」
飽くまで口調は穏やかで礼儀正しく、しかし有無を言わせない言葉で人々を散らすと、ロレッタは手招きをしてルイスを呼んだ。
それから槍を器用に片手で回転させながら、その切っ先を地面に向けて持ち直すと、建物の方を向き直る。
「盗賊だって?」
人々の会話から、断片的な情報を手に入れることが出来ていた。
後はそれを推測で繋ぎ合わせてみるだけで、事件のおおよそはわかった。
「ええ。どうやら、宿の客がそうだったみたいね。でないと、夜間は戸が施錠される宿に賊は入れないわ。そもそも、町に入ることも出来ないでしょうね」
無防備な村とは違い、町には兵士が居るし、侵入者を阻む壁と門がある。
しかし、無法者がそれで完全に遮断できるかと言えば、そうではないようだ。
むしろ、そんな閉鎖された空間であるからこそ生まれる悪意というものも、あるのかもしれない。
そう考えると、ルイスは村の不便さと、それ故のそこの住人同士の結束性というものが愛おしくなった。
「ともかく、実際に被害に遭った人に話を聞いてみましょう。頭脳労働は本分ではないけど、悪事を見過ごすというのも、騎士道精神に反するわ」
被害に遭ったのは、宿に泊まっていた一人の行商人だった。
朝起きてみると、わずかばかりの金の入った財布と、商談用の一張羅が盗まれていたという話だ。
この町には商品を売りつけに来ており、その商品自体は別の倉庫に預けていたので無事だったらしいが、損害は決して少なくはない。
「一張羅って、商売に服が要るものなの?」
ルイスは最初に湧き上がってきた疑問を、率直にロレッタにぶつける。
「ええ。大きな商談の時は、それなりの服を着ていないと、相手に舐められてしまうのよ。それに、立派な服を持っていれば、それはその商人の権威付けにもなる。そして、立派な服はそれ相応に値段が高い、と」
財布に入っていた金の、数十倍も、数百倍も価値があるでしょう、とロレッタは付け足した。
ちなみにロレッタが普段着ている服は、この町と同程度の規模の町の商店で手に入る、最高のものらしい。
それでも値段はまだ現実的なもので、これ以上の服となると、ベレンの着ていたブラウスなど、貴族には消耗品だが、一般市民が買うとなると、一生のものとの事だ。
という事は、彼女は少なくとも貧民の出ではないだろう、というのがロレッタの見立てで、王侯貴族だと考えるのが普通だという。
身分の高い者が、戦争の為に亡命するというのは珍しくはない話だが、何の因果か、それが奇術師に身をやつし、一人で旅をする理由というのは全く予想が付かない。
また、彼女絡みで新情報が手に入っていた。他の宿泊客に、怪しい人間を見なかったか、と質問した時だ。
「そういえば、小さな娘が居たな。こう、黒いマントを羽織っていて、髪は金。ピンク色のちっこい帽子を被っていたっけ」
この少女がベレンであるのは、ほぼ間違いないが、不思議なことに一人で泊まっていたという。
昨夜、彼女は商人と一緒になって来たと言っていたが、それは嘘だったのか。或いは、商人が馬車を駆っていた為に、彼女と宿を分けたのか。
いずれにせよ、彼女を見つけ、詳しく話を聞くべきだろうという結論に至った。
昨日のあの様子だと、一人で手品を練習している可能性が高い、ということであまり人気のない場所を手分けして二人は探すことになったが、ルイスが少し歩いていると、簡単にピンクのシルクハットと低身長の少女は見つかった。
手品はしないで、小さな川にかけられた石橋の上で、黄昏ている。
「おはよう。ベレン」
ルイスは出来るだけ驚かさない様に、そっと言ったつもりだったが、ベレンはびくん、と驚いて飛び跳ね、危うく川に落ちてしまいそうになってしまったので、慌ててルイスがその腕を引っ張ってやった。
人の体とは思えないほどに軽く感じたのは、長剣を持って鍛練をした成果が出たのか、ベレンが痩せ過ぎていたのか。
「あ、おはようございますっ。昨夜のお兄サン、デスヨネ?」
そういえば、まだルイスは彼女に名乗ってもいなかった。
芸人相手にはそんなものなのかもしれないが、一方的に知ってしまっていた様で、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「僕はルイスって言うんだ。よく間違われるけど、正真正銘男の子だから」
顔の可愛らしさと、体の華奢さならベレンの方が上なので、後半部は完全に蛇足だったかもしれない。
しかし、ロレッタにも最初は女と間違われてしまった実績があるので、言わずには居れなかった。
「はい。ルイスサンはすごく綺麗デスガ、わかってるデスヨ」
可憐に笑って、ベレンはやっと落ち着いた様に橋の縁に腰をかけた。
ウェーブのかかったダーティブロンドの髪が風にたなびく。
ルイスやロレッタのそれほど、色鮮やかな金髪ではないが、ゴシック調の服に落ち着いた色合いがよく合っていて、幼い体に早くも大人の色香を漂わせていた。
「ベレン。ちょっと訊きたいことがあるんだけど、良いかな?」
いささか唐突過ぎたかもしれない。
「はい?……あ、はい。大丈夫デス」
驚いて、丸い目を更に丸くするベレンが、可愛かったと表現すれば、少し悪趣味だと思われるだろうか。
彼女の豊かな表情の変化が面白いので、ルイスはわざと驚かす様に調子を変えて訊いたのだった。
「ベレンの宿に昨夜、盗賊被害があったのは知ってるよね?」
本題を切り出した時、ベレンは冗談ではなく、血相を変えた。
ルイスに高度な探偵術はない。それでも、彼女が何かを知っているであろうことは、はっきりとわかった。
「はい、宿屋の主人の方から、その連絡とアリバイを訊かれたのデス……」
「そっか。ならベレン、申し訳ないけど、ベレンのこと、詳しく教えてくれないかな?」
ロレッタの推測が当たっていたなら、これはかなりデリケートな問題かもしれない。
だから、ルイスはわざと柔らかい言葉を使うことで、自分自身を騙した。
人の心の中に土足で踏み入ろうとするような、無作法な行いだということを忘れさせる為に。
「……ルイスサンは、その盗賊を追っているのデスカ?どうして?」
「悪いことをした人は、捕まえないといけないから。それじゃ、不十分?」
「いいえ……」
小さな声で言って、ベレンは頷いた。
やはり、この領域には立ち入られたくないらしい。
――それでも、ベレンもまた正義感の強い少女だったようだ。観念した様にしばらく目を瞑ると、口を開いた。
「ルイスサンが訊きたいのは、ワタクシが一人であの宿に泊まっていた理由と、ワタクシが犯人について知っていること。それから、ワタクシの素性デスネ?」
「……最後のは、無理しなくていいよ。事件には、直接関係ない」
「いいえ、話します」
ここまで来ると、ベレンは気丈だった。
「ただ、あまり人に聞かれたくない話なので……場所を変えてもらっても良いデスカ?」
「うん。どこが良い?」
「ルイスサンの宿のお部屋では、ご迷惑デスカ?」
「大丈夫だよ」
ビルがいるが、今はほとんどオブジェクトと同じだ。
二日酔いのがんがんする頭では、人の過去の回想なんて、とても理解できないだろう。
「ありがとうございます」
「じゃあ、ついて来て」
ルイスは振り返り、宿の方へと歩き出した、その時だった。
「ごめんなさい」
暗い少女の声と共に、ルイスの後頭部に鈍痛が走った。
その主がベレンであることは、即座にわかった。もしかすると、無意識の内にこうなるかもしれない、と思っていたのかもしれない。
ルイスは体を半回転させると、鉄のステッキを剣の様に構えたベレンを見据えた。
不意打ちの一撃は、痛みはあったが、少女の力と、鉄製とはいえ細い杖を武器としたものだ。痛みはもう、引いて行っている。
「ベレン!」
彼女の構えはと言うと、完全に素人同然だ。少し剣術のわかるルイスには、その隙と、彼女を死に至らせる為の斬りかかり方が一発で見て取れる。
実力が違い過ぎる。とてもではないが、剣を抜く気にはならなかった。
「後一日、待って頂ければ全てお話しします。ですから、どうかそれまで待っていて下さい」
「……無理だよ。その時には、君は高飛びしてる」
「だったら」
ベレンは杖を腰だめに持ち、剣を引き抜く様に宙を滑らせながら、殴りかかって来た。
本能がルイスの体を後ろに軽く跳躍させ、ベレンの攻撃を難なく避ける。
ステッキは空を斬り、大振りの一撃だっただけに、ベレンの体勢も崩れたが、ステッキの方には驚くべき変化が起きた。
持ち手の釣り針型になっている部分から下には、銀色に輝く細身の剣身が生えている。
「仕込み杖!?」
話に聞くことはあったが、見たのは初めてだ。
細いながらも、その切っ先は鋭く尖り、これを生身に受けてしまっては、さすがに笑ってはいられないだろう。
ベレンはその仕込み杖を握り、闇雲に振り下ろして来た。
遅い上に、太刀筋もめちゃくちゃ。武器のリーチだけに頼った、攻撃だ。
それ自体を避けるのは、やはりルイスには問題ではないが、ここが人通りの多い町の中だというのは、大きな問題だった。
今は丁度、人通りが途絶えているが、間もなく昼になる。そうすれば、橋向こうに居た人間が大勢移動して来ることだろう。
ずぶの素人が、彼女の斬撃に巻き込まれてしまう可能性がないとは言えない。
かといって、ベレンをお互い無傷で取り押さえる自信もない。
ならば、多少強引な手段を採るしかない。
「ベレン、ちょっと濡れるけどごめん!」
首元を狙う剣を思いっきり姿勢を低くして避けて、ルイスは一気に彼女に肉迫した。
次の攻撃をされる前に腰の辺りをしっかりと掴んで、大きく横っ飛びに跳躍する。
その着地点は――橋の下、川。
「そんな、馬鹿なっ」
水面に二人が落ちる直前、ベレンは叫んで、怖くなったのかルイスの体を抱き締めた。
少女の柔らかい体と密着することになり、ルイスの体のある部分が反応してしまったのは言うまでもない。
上では昼を告げる鐘がなり、人が溢れ出して来るのがわかった。
やはり、川に飛び込むという選択は、間違ってはいなかったかもしれない。
ルイスは服を絞って、髪を軽く拭くと、気を失っているベレンを見て、すぐに視線を外した。
彼女は全く泳げなかったらしく、川に入ると同時に暴れた後、意識を失ってしまった。
浅い川だったので、溺れるはずもないのだが、一種のトラウマのようなものがあるのかもしれない。
ベレンの服も同然、濡れてしまった訳だが、異性であるルイスが脱がして、乾かしてやる訳にもいかない。
とりあえずぐちょぐちょで見るに絶えなかった、マントとスカートだけを脱がして、絞っただけだ。
――ちなみに、スカートを失ったことで露出してしまった彼女の下半身を隠すパンツは、ブラウスの裾を最大限伸ばすことで隠している。
また、ブラウスは濡れて肌に張り付いて、透けて、年齢の割りに豊かな胸を覆うブラジャーが見えてしまっているので、今の姿は少年には目の毒過ぎた。
それから、トレードマークといえるシルクハットは、川の流れが緩やかだったので流されずに無事だが、ほとんど型は崩れてしまって無残な姿だ。
思った以上に被害が大きく、ルイスはベレンが目を醒ますのが内心恐ろしく、だが、全てを訊く為にも彼女が起きるのを待っていた。
「うっ……」
二十分後ぐらいに、ベレンはやっと体を起こした。
その目には、仕込み杖を振り回して時のように鬼気迫るものはない。
「ベレン、大丈夫?」
「…………かったのに」
助けてくれなくてもよかったのに。
そう聞こえたのは、ルイスの勝手な妄想の所為だろうか。
「ベレン、僕には君が悪人には思えない。そんな相手を死なせる訳にはいかないよ」
死ぬ様な深さではなかったけど。そう言うのはやめておいた。
「恥ずかしい、デス」
「あ、ごめんっ」
そういう意味ではなかったのだろうが、ルイスは思いっきり彼女から視線を逸らす。
その反応を見て、彼女自身も自分の格好に気付いた様だ。
「……ワタクシは気にしませんよ。命の恩人には、裸を見られても構わないデス」
「僕が構うよ!」
「あはは……そデスカ」
乾いた声で笑ったベレンは、マントその他の自分の持ち物を探していた様だが、その全てを認めると、安心したように堤に腰を落ち着かせた。
「ベレン、僕は君が進んで盗みをやったようには思えないんだ。事情を話して欲しい」
口調は優しく、しかしもうコミカルさは失くして、ルイスが迫った。
「まず、ワタクシ自身は盗みをしていません。これだけは、神に誓って言えるのデス」
彼女は、国は違えど熱心な教徒らしい。
十字を切り、胸元で手を合わせて見せた。
「しかし、ある意味で共犯者といえば、そうデス。昨夜、酒場を出て、宿に戻ろうとしたワタクシは途中、一人の男性と会いました。それが例の盗賊で、隠れ家らしき建物に入ろうとしていたところを見てしまった為に、二日の間の口止めを要求されたのデス。もしばらせば、殺すと脅されて」
一応、だが、ルイスは目が怪しく泳いだりはしないかと、ベレンの顔だけを見つめ続けていたが、彼女が嘘を言っている様には見えなかった。
だから、念を押すように聞きはしない。
「ワタクシが一人で泊まっていたのは、ごめんなさい。嘘を吐いてましたデス。ワタクシはこの国の遥か東の国の有力貴族の娘で、戦争の為にこの国まで亡命して来ました。この町まで送ってくれたのは、護衛の私兵でしたので、あの場で話す訳にはいきませんでした」
今度は、ベレンがルイスの目を見て言った。
突飛な嘘だと思われかねないことを語っているという、自覚があるのだろう。
言葉よりも、その面持ちと真摯な眼差しで信頼させようという健気さが伝わって来た。。
「ベレン」
そんな彼女を安心させる様に、ルイスは口を開く。
対して、ベレンは審判を告げられる罪人のように、目を瞑り、ほとんど泣きそうになってしまっていた。
「あ、えっと、信じるよ。だから、泣かないで……」
「本当デスカ!?」
今度は目をかっ、と大きく見開いて、きらきらとした瞳になった。
どうやら本当に目には涙を溜めていたらしく、それが光に反射して、目の中に星があるように輝いて見える。
「ロレッタ……昨日のあの、オレンジ色の髪の人ね。あの人と話していたんだ。どうやら君は、貴族だろうなって」
実際、ルイスだけでは彼女を貴族と見破ることはできなかっただろう。
奇術師とは皆、彼女の様に派手な服を着て、人の注目を浴びようとするものだと思ったし、異国人という考えも完全になかった。
「そうだったのデスカ……でも、信じて頂いて、ありがとうございます」
びしょ濡れの姿でベレンは、大きく頭を下げた。
貴族だけあり、礼の形は美しく整っている。
「そんな、大仰に感謝されても、って感じだけど……でもベレン、君からこれだけのことを聞いてしまった以上、このまま何もしない訳にはいかないよ」
「……盗賊から盗品を取り返すんデスカ?」
「うん。当然、ね」
ルイスは軽く笑って、剣の柄に手をかけて見せた。
ビルやロレッタに比べると、戦いの技能は相当劣ってしまうが、めちゃくちゃな剣術を披露したベレンの前ぐらいでは、格好を付けたいというものだ。
「でも、もう隠れ家を移動されているかもしれません。それに、ワタクシが見たのは一人でしたが、組織立った盗賊団という可能性も……」
「大丈夫だよ。僕達は強いから」
お互い旅人なのだし、嘘がばれることはないだろうと、ルイスはとことん見栄を張ることにした。
普段から女っぽいと言われるルイスだが、自分より華奢な子ぐらいには、頼り甲斐があると思われたい。
「確かに、そうですね……」
自分が川に落とされたことを思い出したのか、昨夜のロレッタの身なりと言動から騎士だと見て取ったのか、ベレンは神妙に頷いた。
「でしたら、夕刻、ご案内しましょう」
「え?なんで今じゃないの」
「ワタクシが口止めをされたのは、二日の間デス。ということは、三日後にはこの町を発っている筈。つまり、今夜には夜逃げの準備をしているのだと考えられませんか?」
「そうか……あれ?でもさ」
あまりにベレンがすらすらと言った所為で、思わず流されそうになったが、よく考えればおかしいところがある。
「夜逃げって、盗んだのは服と財布だけでしょ?そんなの、適当に鞄に詰め込んで直ぐに運べるんじゃない?」
「はい、あの宿の盗品だけなら、そうデスガ……それなら、何故この町を出るのに二日の時間を要するのか、まるで説明が付きません。恐らくは、仲間との合流や、故買屋との連絡の為なのデショウ。今話題になっているのは、あの宿の事件だけデスガ、他の宿やお店の商品も危ないかもしれません」
「うーん、そうだけど」
推測だけで動くのは……と、流石にルイスも躊躇う。彼女が貴族で、相当に頭が良いだろうと想像できるとはいえ、少しでも早く悪人は片付けてしまいたいのが正直なところだ。
それに、わざわざ不意を突くような真似をしなくても、盗賊ごときを取り逃すだろうか、というのも疑問だ。
「……その、言葉が」
「え?」
蚊が鳴くような、小さ過ぎる声だった。
聞き間違いかもしれないと思ったが、ベレンの声だという気がして、振り返ってみると、俯いて気まずそうにしている。
「ワタクシと、同じ訛り方をしていました、デス。ワタクシの国の言葉と、この国の言葉は根本のところでは変わりません。だから、多少の言い回しの違いさえ理解して、単語の発音の違いに注意すれば、ほとんど違和感なく話す事ができます」
それはよくわかっている。
貴族であれば、外国語を学習していてもおかしくないだろうとも思っていたが、それにしてもベレンの話し方は流暢だ。
こうなると、二つの国の言葉がほとんど同一のものだったと考えた方がずっと自然で、納得もいく。
「ただ、ワタクシの国の言葉は、この国のものより少し原始的、というのでしょうか。清音、濁音共にこの国のものより音数が多く、その発音に引き摺られてしまって、特に語尾の発音、更にその中でも濁音を含むものが変に右肩上がりになってしまうのデス。後、人称の発音も大きく異なっていて、違和感があるのは、ご存知の通りだと思います」
一般的に言えば、大陸を東に行くほど未開拓、西に行くほど先進的だとされている。
ルイスはあまり地図というものを見たことがないので、今話題になっているベレンの国がどれほど遠く離れているのかはわからないが、この国よりは「遅れている」のだろう。
人は、新しい技術を手に入れる度に忙しくなり、言葉もどんどん早くなって行く。
その結果、言語はその発音の美しさよりも、伝わりやすさを優先される様になって行き、面倒な発音の使い分けや音便が曖昧になる。
その変化は、ロレッタの使う言葉からルイスもよくわかっていた。
彼女が特別、せかせかとしている訳ではないが、その話し方はハキハキとしていて、長音がルイス達「田舎者」の発音よりも短くなっていて、聞き間違いを招く様な曖昧な音は、大袈裟なほど、わかりやすく発音されていた。
同じ国の中でもこれだけの違いがあるのだから、大陸規模で見ればよりそれは顕著なのだろう。
「その賊も、ベレンと同じ発音だったって?」
「はい。凄味を利かせていたこともあり、より自国語の発音に近くなっていたのだと思います。あれは、明らかにそうデシタ」
「でも、なんでそのことが用心することに繋がるの?」
今まで黙っていたのは、いくら戦争で生活が苦しくなったとはいえ、同じ国の人間が盗みを働くということが恥ずかしかったからなのだろう。そこまではわかる。
しかし、その先がわからない。
「ルイスサン」
「う、うん」
ベレンはすっ、と曇りの無い瞳でルイスを見つめた。
翡翠の瞳の中に、ルイスの金髪が写り込む。
金と緑の組み合わせは、美しい。ルイスは、そんなどうでもいいことを考えてしまっていた。
そうでもしないと、彼女の瞳孔に吸い込まれてしまいそうだったからだ。
間近でその顔を見ると、違う。
今まで彼女を見る時は、同じ高貴な身分で、やはり強烈な美人であるロレッタと対比させていた。
そうした時、軍配は必ず年上で、より洗練されたものがあるロレッタの方に軍配が上がったのだが、今回ばかりは違う。
他の女性のことなんて、考えられなくなる。
彼女は元々、誰かと見比べることなんて出来ない個性を持っていた。
まだ年端もいかない少女だけが持つことを許される、どこか神聖めいた純粋さ。
化粧も、香水すらも知らない幼い肌の放つ、独特の煌めき。
もしかすると、まだ彼女の体も、顔も、濡れていることがより彼女の魅力を際立させていたのかもしれない。
どれだけ美しい言葉を並べても、無意味なほどの可憐さをルイスは感じて、気が遠くなりそうだとも思った。
「……ルイスサン?」
「ご、ごめん」
流石に、息を止めて見入っていることに気付き、ベレンが顔と姿勢をへなへなと崩す。
それでも、高次の美しさは健在だ。
「ルイスサン。ワタクシの国の人間が危険な理由は、言葉で説明するよりも、実際に見せた方が早いと思います。驚くかもしれません、恐ろしくなるかもしれません、それでも、あなたはワタクシを頼り、賊を追いますか?」
夢心地から覚め、彼女の言葉をしっかりと噛み締める。
それから、ルイスはその口を開いた。
尤も、迷いなんてものは初めからなかった。
「答えは応(イエス)しかないよ。だって、笑っちゃうかもしれないけど……」
故郷の村でのことを思い出した。
ゴロツキ同然の腐った傭兵を思い出した。
今まで見て来た、横暴な山賊を思い出した。
「僕は、悪者を皆、懲らしめて回りたいんだ」
ビルが青臭い、と自嘲気味に笑う旅の目的を、ベレンはどこか憧れる様な顔で聞いた。
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