……雪。
雪が降っている。
真っ白な雪が視界の全てを埋め尽くしている。
色のない世界へと変えてゆく。
この雪の白さは一体どこからやってくるのだろう。
ゆっくりと目を閉じれば、そこにはいつだって闇が存在している。
闇の色は黒だ。
それに比べてこの雪の白さは?
光すら通さず、ただすべてを白く塗りつぶしていくこの雪は。
きっと雪が見せるのは、真っ白な闇なのだ。
一歩足を踏み出せば、二度と元の場所へは戻れない。
目の前を覆う、とても冷たくて残酷な白。
その中で僕はただ一人、孤独だった。
この世界の始まりは、近い――
目を覚ます。寒い。寒いはずなのに、なぜか汗はべっとりとかいている。酷い悪夢を見た後のような感じだ……実際に見たかどうかは思い出せないけど。
おまけに吐き気までやってきた。どこまでこの寝覚めの悪さは僕を追い込むのだろう。サージカルリスクはどこまでもバッドだ。もしかして今日は仏滅かな?
固い地面から凝り固まった身体を起こす。
冷たい風が灰を塗した大脳の覚醒を促すが、起き抜けにはまったくもって不快な感覚だ。おかげで悪寒が走り、眩暈もしてくる。
「はぁ……」
……というか風? 窓を開けたまま寝たのか、と思ったらそうでもない。そもそもここには屋根すらなかった。
僕の真上には灰色の空が広がっていた。
どうやら外で寝ていたらしい。しかも横になっていたのは古ぼけたベンチだった。とするとここは公園か、駅前かどこかかな? そりゃあ冷たい風が吹くわけだ、はは……。
「……うぅ、寒い」
いったい寝る前の僕は何をしていたんだ?
飲んだくれた中年のおじさんがベンチで潰れているところは度々見かけるが、もしかして僕もそれと同類になってしまったのだろうか? そうするとさっきからする頭痛や吐き気の原因が、寒さではなく二日酔いである可能性も否定できない。
というか僕ってお酒好きだったっけ? うーん、意識が朦朧としていてどうも思い出せないな……。
「うーん……ん?」
妙な視線を感じ、そちらに目を向ける。
そこにはアザラシと鳥と――なぜかサングラスとパンツを着けた白熊が立っていた。
「……」
「……」
目と目が逢う。瞬間、好きだと気づいた……はずもなかった。そもそも相手は畜生だ。ケモナーのケは僕にはないぞ。
三匹はこちらを凝視したままピクリとも動かない。
一体なんなんだこれは。アザラシはともかく、ペンギンにも白鳥にも見えない赤い鳥が雪の中にいて、しかも白熊がサングラスにパンツ? どこかのテーマパークのマスコットかな?
もしかしてドッキリの企画か何かだろうか。だとすれば、今から進行するであろう番組の趣旨に乗るのは昨今のバラエティ嫌いな僕としてはイマイチ面白くない。芸人の使用は用量を守るべきだ。ここは一つ、テレビ会社に一石投じるために大声で威嚇してみよう。
「ふぉおおおおおおおおっ!! ばうわうっ!」
キーボードを破壊せんばかりの甲高い声で雄叫びを上げる。おまけにアメリカンな犬の鳴き真似もプラスして。あくまで一般常識から外れた行為だと分かってやっているが、端から見ればただの変人だ。正常であると思っているのは自分一人。世は無情である。
「……あれ?」
予想に反して、三匹の動物は右往左往しながら雪の向こう側へと消えていった。
これはどうしたことだろう。もしかして本当にただの動物だったのか? でもサングラスにパンツだったしそんなバカなことは……。
「うーむ……へ、へっぷしっ」
うう、やっぱり寒い……もうドッキリのことはどうでもいいや。今はとにかく暖をとることのほうが先決だ。このままだと風邪をひいてしまう。些か鼻水も垂れてきた。
ズズッと不器用に鼻を啜る。冷たい空気が鼻腔を通り肺を満たしたが、その瞬間ごほごほと咳き込んでしまった。
まったく、呼吸をするのも億劫になりそうだ……。
「帰ろう……」
うん、それが一番いい。こんなベンチ一つしかない所にいても寒いだけだ。ぱらぱら雪も降り始めてるし、早く帰ろう……。
……どこに?
もちろん家に決まってるじゃないか!
そう、家だよ家! ちょっと歩けば見慣れた景色が見えるさ。当たり前じゃないか! ざくざくと雪の中を進む。進んで……それで……。
何も見えてこない?
そんなバカな! 落ち着け落ち着け、まさかここが知らない場所なわけがない! どこかの駅か公園のはずだろう、なんで何もないんだ? そんなのおかしいじゃないか!
というかさっきの人達は? あれについていけば人の居る場所くらいには……いや待て、そういえば全員違う方向に逃げていってなかったか? それに彼らの足跡もおかしい。人が作るようなものじゃなく、キチンとした鳥と熊の足跡だ。アザラシは這い蹲った跡だが。そもそも周りに隠れる場所なんてないのにカメラはどこで回す? あれは人じゃなかったのか!?
手で顔をゴシゴシと擦る。寒さで少しむくんだ顔がヒリヒリと痛かった。くそっ、なんなんだこれは!
一度掌を見つめてみる。皺はほとんどない。どうやら年は若いらしい。
そうか僕は若いのか、ってなんでそんなことを初めて知ったように思ってるんだ? どう考えてもそれはおかしいだろう!?
じわじわと焦燥感が僕の中に渦巻く。考えれば考えるほど何も思い出せない。喉は乾ききってカラカラだ。おい、冷静に考えろ、考えるんだ!
まず名前だ…なまえ? 名前ぐらい幾ら何でも思い出せるだろう? 必死に頭を振る。
そうだよ……これはド忘れってやつさ。そうさ、落ち込む事なんてない。よくあることだ!
名前?
名前は、わからない?
何で?
なんでなんでナンデ。
先程とは比べ物にならないほどの猛烈な吐き気が僕を襲う。
年は?
わからない!
日付は?
わからないって!
ここは何処だ?
だめだ思い出せない!
家の場所は?
だから、わからない……わからないんだよ……。
唐突に風が強く吹き荒ぶ。揺蕩った意識をどこかへ飛ばしていきそうなくらいに。
「僕は……誰なんだ?」
目の前の真っ白な空間に呟く。答えはもちろん、ない。世界がぐらりと揺れ、思考が真っ白い靄で覆われていく。
僕はふらふらと歩き出した。何処とも知れずに。
あれからどれくらいの時間がたっただろうか。とにかく情報が欲しかったが、雪とベンチしかないこの状況では時間すらもわかるはずがなかった。
捜査の基本は足ということでとりあえず歩き回ろうかと思ったけれど、周りに指標となるものはまったくない。そんな中を闇雲に歩くのは危険だと判断した僕は、結局何もできないまま元のベンチで項垂れていた。
寒い。冷たい空気が鳥肌がたちっぱなしの身体を乱暴に撫でつけていく。服はシャツの上にジャケットを重ねて着ていたが、それだけで十分な暖かさを得られるはずもなかった。体温を根こそぎ奪われ、もはや歩き回る気力も体力も残っていない。このままでは凍死コースまっしぐらだ。
自分の死を想像して、寒気とは違う震えが走る。そういえば雪山で見つかる凍死体には時々裸になっているものがあるそうだ。人は極寒の環境下に長く置かれると身体を体内から温める働きが強まり、稀に脳が「暑い」と錯覚して衣服を脱ぎたくなってしまうらしい。
「くくっ……」
全裸で凍死だなんて滑稽だなと、不謹慎にもくぐもった笑いがこぼれる。自分がそうなってしまうかもしれないのに。この乾いた笑いは可笑しさではなく狂気を孕んでいた。
ふと何か持ってないかなと思い立ち、ポケットをまさぐる。
……ん? なんかあるぞ。
これは、手帳?
使い古された平凡な手帳だ。震える手でパラパラと捲ってみたが、ところどころ汚れているだけで名前どころか字一つ書いていなかった。
「くそ……なんか分かるかと思ったのに……」
これを燃やして暖でもとれないかな……いやその前に、この座ってるベンチを燃やしてしまえばいいんじゃないか? 木製だし盛大に燃え上がることだろう。
しかし、他のポケットも探ったが何も見つからなかった。喫煙者ならライターのひとつやふたつ持っていそうだが、残念ながら僕はそうではなかったようだ。
そう、喫煙者ではないというのも、僕にとっては新しい情報なのだ。
自分のことであるはずなのに、何も分からない。一昨日の晩御飯を思い出せるかなんていう脳トレなどお話にもならない状態だ。そもそも僕が何で構成されているのかすらもまったくの不明なのである。
死んでしまえばたんぱく質の塊になることだけは確かだろうけど……。
今の僕は頭も身体も空っぽだった。これからどうすればいいのかも分からない。僕を満たしているのは、限りなく深い絶望だけ。
空を仰ぐ。もう夜になるのだろうか、灰色だった空は限りなく漆黒へと近づいていた。雪は相変わらず降り続け、辺りは荒涼としている。手も足も、寒さのせいで感覚を失いかけていた。
「はははっ……もうだめかな……」
また空虚な笑いが漏れ、項垂れる。もはや何も感じなかった。いろいろと疲れてしまった。もうどうでもいい、このまま目を閉じてしまえば楽になれるかな……。
空を見上げる。
雪はいつの間にか止み、満月が辺りを冷たく照らしていた。
そして、人影が二つ、僕を覗き込んでいるのが滲んで見えた。
「あ、起きたのかな」
「あの、大丈夫ですか?」
どことなくあどけなさが残る二つの声。幻聴か、それとも誰かが助けに来てくれたのか……?
「うわわ、唇真っ青だよ! 早く暖めないと!」
「ま、まずは救援要請だよ! 屋敷に誰かいたっけ!?」
霜で固まりつつあった睫の抵抗を押しのけ、なんとか焦点を合わせる。
目の前には、年端もいかない顔つきをした子供が二人、慌てた様子で立っていた。身長はあまり高くなく、それぞれピンクとブルーのアノラックを着ている。声から察するに男の子と女の子だろうか。
「確かサムスがいたはず……」
「じゃあすぐ来てもらえるね! ええとっ、少し待っててください!」
ブルーの子がザックから何かを取り出す。ケータイ……にしては大ぶりだから、無線かトランシーバーだろう。それを耳元に当て、「もしもし、ロボット? サムス居るかなっ? 『頂上』で遭難者が……」と会話を始めた。
そしてピンクの子は、僕の頭に積もっていた雪をやさしく払う。さらに僕の靴と靴下を脱がすと、爪先をその小さな両手で包み込んだ。人肌のぬくもりによる快感が足先からぞくぞくと上がってきて身震いする。
「うん、まだ大丈夫かな。冷たいけど凍傷まではいってないみたい」
ピンクの子はそう言うと、掌で僕の指の関節を丁寧に解きほぐしていく。少しくすぐったかったが、今の僕にはとても温かくて心地良い。おかげでじんわりと足の感覚も戻ってきた。
「……うん、うん、直ぐ着てね! 大至急!」
「いた?」
「うん、サムスすぐ来れるって!」
会話の内容はよくわからないが、とりあえず救助の要請を取ってくれたみたいだった。やった、助かった……少しだけ安堵の笑みが零れる。
それにしてもサムスってなんだろう。人だろうか、それとも救助ヘリの俗称? 名前からはイマイチ想像できない。
「よかった~、もう大丈夫ですよ!」
「は、はい……」
「ナナ、一応凍傷の処置した方がいいんじゃない? お湯まだあったでしょ?」
「あ、そうだね。ちょっと待っててくださいねー」
ナナと呼ばれたピンクの子は、背負っていたザックから小さい鍋とテルモスを取り出した。テルモスの蓋が開けられると、口から真っ白な湯気が細く立ちのぼる。
「それだとちょっと小さくないかな? 僕が持ってるやつ使おうよ」
「うん、じゃあお願いしてもいい?」
「はいはーい。よいしょ……あ、そうだ、ついでにこれも」
ブルーの子は鍋とともに銀色のフィルムで包装された袋を引っ張り出した。レトルトカレーのようにも見える。ブルーの子は切り口を開けるとそこにお湯を注ぎ、スプーンと一緒に僕に手渡す。中を覗くと、薄まったカレーのような液体が入っていた。
「よかったらどうぞ。ビーフシチューのレーションだけど……」
「ど、どうも……」
袋から漂うデミグラスソースの香りで、生唾と共に空腹感が沸き起こる。自分を喪失しても腹は減るというのは、些か複雑な心境だ。
それにしても応急処置の手際がすごくいいなぁ。二人とも見るからに子供だと思ったけど違うのだろうか……まぁ、別にどっちでもいいか。今はとにかくおなかを満たそう。空腹で胃がきりきり痛くなってきてるし。
「じゃあ、いただきま――ぶふぇ!」
レーションを食べようとした瞬間――とてつもない衝撃と共に、僕の身体はベンチごと吹き飛んだ。
スプーンと袋の中身がぶち撒けられて宙を舞う様子や、鍋にお湯を注ぎながら僕の方を驚いた表情で見ている二人の姿がはっきりと見える。周りの景色もずいぶんゆっくりと流れるなぁ……ああ、交通事故に遭うと起こるやつってこれかな……。
コンマ数秒でそんなことをぼんやり考える。
そして、耳殻を流れる血液の音と共に、女性の声が脳内に響いた。
「要救援者は、どこ?」
あ、はい、ここにいます。宙を飛んでるのが多分それです。
地面に落ちるとともに、暗転。
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誰かが「この世界」に迷いこむお話です。
(まんまやがな)