No.261065

【夏コミ新刊サンプル】月下麗人【本編はR-18】

西崎一矢さん

C80にて発行の新刊より冒頭部分を抜粋。本編はエロ有り。 ※この作品はC83新刊【再録集】に収録されております。

2011-08-05 23:24:19 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:843   閲覧ユーザー数:812

 彼のことを『佐吉』と呼ばなくなったのは、いったいいつの頃からだったろうか。

 同時に、彼からも『紀之介』と呼ばれなくなって久しいことにも気づく。

 関白となった秀吉の下、互いに『治部少輔』と『刑部少輔』と云う役職を得て、もう自由な子供ではなくなった。己は昨年には越前国敦賀五万石を賜り、一国一城の主ともなっている。

 それは確かに誇らしく、有り難いことではあるのだが、一方で、淋しさと窮屈さを感じているのも事実である。己は事務方よりも、甲冑を纏い、刀槍を手に戦場を駆けるほうが性に合っていると思うからだ。はっきり言ってしまえば、柄ではない。

「刑部よ、もう武功だけが物を云う世の中ではないのだぞ。まあ、戦馬鹿のおぬしに言うても詮無いことだがな」

 うっかり愚痴を零したところ、長束大蔵大輔正家には鼻で笑われた。

正家は小心で臆病な癖に口だけは達者で、どうにも好きにはなれない。己に才があると勘違いして周囲に偉そうな口ばかり利いているが、この男、確かに小才は利くのだが、全てに於いて彼には遠く及ばない。目先の利ばかりに囚われて、その先を見通す力がないせいだ。

(ふん、小者め)

 こっそりと胸の内で毒吐いて、大谷刑部少輔吉継は軽く肩を竦めた。正家の物云いは気に障るが、今はそれを咎めている場合ではない。

「それよりも大蔵、治部を見なんだか。もう直ぐ御召しの刻限だと云うのに、何処にも見当たらんのだ」

 だが、正家はその問いには答えず、眉間に皺を寄せて、蚊の鳴くような小声で囁いた。

「刑部よ、この御召しは、やはり小田原の一件に絡んでおるのかのう」

 その顔からは、いつもの他人を小馬鹿にしたような薄ら笑いが消え失せている。

「うむ。我らは事務方ゆえ、いろいろと打ち合わせもあろうからな」

 相模国小田原を中心にその勢力を誇る北条一族の氏政・氏直親子は、秀吉の下に降ることを良しとせず、再三にわたる上洛要請も無視し続けていた。

 いい加減に堪忍袋の緒が切れかかっていたところに、北条方の武将である沼田城主・猪俣邦憲が秀吉の惣無事令に反し、真田領の名胡桃城を武力で以って奪取するという暴挙に及んだのだ。

 城を奪われた真田昌幸は秀吉配下の将であったから、北条は豊臣家に対して真正面から喧嘩を売ったことになる。

 かように豊臣家を舐め切った態度を取り続ける北条一族に対し、秀吉が最後通牒とも云える五ヶ条の朱印状を発したのが昨秋のことであった。

 そしてこの春、未だ臣従の意を示さぬ北条を誅する為の小田原への遠征が、諸将を招集しての先の合議に於いて、いよいよ現実となったのである。

 彼らは秀吉から、此度の遠征に関わる諸々の雑事を取り仕切るよう、命を受けていた。

よって、本日の秀吉からの召出しが、その件に関わるものであろうことは想像に難くなかった。

「そうか、我らも忙しくなりそうだな。……しかし、北条も哀れよな。全く、大局が読めぬ将と云うのは罪だよなぁ」

 正家がしたり顔で呟いた言葉に、あやうく噴き出しそうになったが、それを寸でのところで堪えて、吉継は再度訊ねる。

「それで、治部は」

「知らんな。そう云えば、今朝から一度も見てないな。未だ来てないのではないのか?」

「そうか」

 未だ何事かを言いたげな正家をその場に残して、吉継は踵を返した。

(何処で何をやってるんだ、あいつは)

 邸内の、心当たりのある場所は散々に探した。ならば、外に居るのだろうか。

 秀吉の京屋敷、通称『聚楽第』は、邸も庭も広い。探すものが人であっても、見て回るだけでひと苦労である。

 ぶつぶつと口の中で彼に対する悪態を吐きながら、吉継はその広い庭に出た。

 ようやく芽吹き始めた木々の梢に渡る風は未だ冷たいが、降り注ぐ陽の光は穏やかで、少し眩しい。掌を翳してその光を遮りながら、吉継は声を張り上げた。

「治部、何処だ。居るなら返事を致せ」

 その時、直ぐ先の植え込みの中で、慌てたように小さく動く影があった。彼かと思い、再び声をかけようとしたが、こちらに背を向けて走り去ったその人影に、吉継は口を噤む。

 それは彼ではなく、見も知らぬ男だった。おそらく、秀吉が新しく召し抱えた家人であろう。一瞬ちらりとしか見えなかったが、がっしりとした体つきの、なかなかに整った貌立ちをした若侍だった。

(……またか)

 全てを悟って、吉継は溜め息を吐く。そして、今度は声を潜めて、未だ植え込みの陰に居るであろう彼に呼びかけた。

「治部、何をしておる。もう直ぐ御召しの刻限だぞ」

「ああ……刑部か。すまぬ、しばし待ってくれ」

 果たして、聞き覚えのある声が応えた。その声に混じって、微かな衣擦れの音がしている。

 吉継は再び溜め息を吐くと、眼を閉じて、天を仰いだ。

 しばしの沈黙の後、やがて、身づくろいを終えたらしい彼―石田治部少輔三成が姿を現した。その白い頬が、上気して仄かに赤く染まっている。

 だが、吉継の眼には、彼が今にも泣き出しそうな表情をしているように映った。まるで悪戯を見つかって叱られた子供のような風情である。その顔を見ると、もう何も言えず、みたび溜め息を吐くしかなかった。

「……後ろを向け。枯葉がついておるぞ」

 やっとそれだけを言うと、三成は大人しくその言葉に従って、吉継に背を向けた。

「手間をかけさせてすまんな、刑部」

「そう思うのなら、他家の若衆をからかうのも大概にしておけよ」

 どうにも腹が立って、自然と応える声が尖り、木の葉を払い落とす手にも余計な力が籠もってしまう。

「誘ってきたのはあっちだ。俺は何もしてない」

 吉継の胸の内を知ってか知らずか、三成は暢気にそんなことを言っている。そして、くるり、と振り返ると、眉を寄せて肩越しに吉継を見た。

「あまり乱暴にしてくれるな。痛い」

 苦笑を含んだその声と、上目遣いに見上げる瞳は、甘く危うい色を孕んでいて、不覚にも胸がざわめいた。

 そのことが悔しくて、吉継は唇を噛む。

「―黙れ」

 にやにやと意味深な笑みを浮かべている三成を怒鳴りつけてやりたい気持ちを堪えて、吉継は鋭い眼差しを向ける。そして、最後にわざと大きな音を立てて、その細い背中を強く叩いてやった。


 
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