No.257485

君がくれるハピネス

草香祭さん

ミカは多分ラファエル様に可愛いって言われ慣れてるとか、(ラファエル様、素で十分かっこいいけど)天使の神秘性とかにこだわりのあるミカがあんだけ無自覚に憧れてる気配があるんだから、ミカエル的に文句のつけようのないかっこいいところのひとつも見たことがあるんだろうとか、多分そんな話。

2011-08-03 20:01:35 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:795   閲覧ユーザー数:760

■君がくれるハピネス1

 

 

「片翼じゃないか。本当にあれで教官が務まるのか?」

 食堂で聞こえてきたその言葉に、ミカエルは席を立ち、机を激しく叩いた。

「あの方に無礼なことを言ったのは誰です!」

 食堂の空気が凍り付く。衝動的に湧き上がった怒りは、抑えることすら思い浮かばないほどの勢いで、ミカエルの身の内を食い荒らしていた。

「あの方を侮辱したのは誰なんですか!?」

「ミカエル!」

 隣に座っていた同学年の生徒が、慌てた顔でミカエルの袖を引っ張る。

 ついさっきまで、穏やかな午後の陽射しと談笑に満たされていた食堂は、今やすっかり静まりかえっていた。

 名乗り出る者はない。よくよく探せば、ミカエルの剣幕に顔を引きつらせて口をつぐんだ誰かを見出すことも出来たのかも知れない。だが、それよりも早く、限界が訪れた。

「ミカエル?」

「……教室に戻ります」

 ミカエルはトレイを取り上げると返却口に戻し、怒りも露わに食堂を後にした。立ち去ることで何かに負けるような気もしたが、不快感が頂点まで達していて、とてもあの場に残り続ける気になれなかったのだ。

 

 それは食事の最中に、何の脈絡もなく耳に飛び込んできた声だった。

『ラファエル教官ねえ』

 声に嘲笑を響きを感じたからこそ、続いた言葉はより明確にミカエルの耳に入ったのだろう。

『片翼じゃないか。本当にあれで教官が務まるのか?』

 

 ――まったく!

 ミカエルは廊下を憤然と突き進みながら、唇をぎゅっと噛んだ。

 あの発言の主が、天使となるに相応しくない性格の持ち主なのは間違いない。

 ラファエルは人気があるし目立つから、やっかんでいる誰かがいることは、ミカエルも薄々察してはいた。だがそれよりも問題なのは、ラファエルが侮られているということだ。

 まったく、普段がちゃらんぽらんだから、あんな悪口を言われてしまうのだ。その辺、本人は分かっているのだろうか。

 ラファエルは誰にでも優しいし、誰にでも気さくに接するが、少々気安すぎる。そのせいできっと、あんな根拠もない侮りを受けているのだ。そう思うと、自分のことでもないのに腹立たしい。

 怒りのあまり、昼食をほんの少ししか食べていなかったことも忘れていた。少しも空腹を感じない。こうなったら、そのまま教室に戻った方がいいかもしれない。次の授業の予習でもしていれば、気が落ち着くだろう。

 だが、授業開始のチャイムが鳴っても、ラファエルは姿を見せなかった。十分が過ぎ二十分が過ぎる頃になると、すっかり途方にくれてしまう。

 職員室で大事な会議でも行われているのだろうか?

 迷った挙げ句、外に出てみたら、他のクラスを担当している天使と鉢合わせた。……となると、どうやら会議ではないらしい。

「あの、ラファエル様がどちらにいらっしゃるか、ご存知ありませんか?」

 恐る恐る尋ねたミカエルに、天使は朗らかに答える。

「ラファエルなら、昼休みに裏の丘の方に飛んでいったけど。それからは見てないですよ」

「裏の丘?」

「ほら、あっち」

 天使の優美な指が指し示す方向には、穏やかな陽射しに光る美しい丘が見える。

「昼寝しに行ったんじゃないかな。彼、あの辺がお気に入りみたいだから」

 ……あり得る。そしてそのまま寝過ごしている可能性も大だ。入学前、二人揃って神殿で暮らしていた時から、寝坊の多い人だった。

「もしかしてラファエルが、授業に来ないのかい?」

「い、いえ。そういう訳じゃなくてー……じゃなくて、来ないんですけど、でも、えっと……」

 ミカエルはじりじりと後ずさると、大急ぎで駆けだした。

「す、すみません! どうもありがとうございました!」

 廊下を走ってはいけないという校則を破ってしまったが、それよりも誤魔化してしまったことが心苦しい。でも、寝坊して遅刻しただなんて知れたら、またラファエルが悪く言われてしまうかも知れないじゃないか。

 

 

 玄関で靴を履き替えて、ミカエルはこそこそと裏庭に出て行った。そこから門を抜け、丘の上を登っていく。本当にラファエルはこっちにいるのだろうか。もし間違っていたら、単なる無断外出になってしまう。

 ミカエルはラファエルを捜して、きょろきょろと辺りを見回しながら丘を登った。

 乱れて顔にかかる髪を押さえながら、ふと眼を細める。

 きっとラファエルには、このくらいの距離は、ひとっ飛びだろう。裏門を通り抜ける必要もなく、塀も軽く越えてしまう。

 ――そうだ。片翼がなんだっていうんだ。

 ミカエルは再び、肩を怒らせ、憤然と突き進む。

 あの人が飛ぶところを見たことが無いから、さっきのヤツはあんな馬鹿なことを言うのだ。

 片翼だけど、ラファエルは実に軽々と飛ぶ。羽根を使って飛ぶこともするが、どちらかといえば空気に乗っているように見える。大天使ラファエルの属性は、そもそも風なのだ。

 空気を孕んで伸びやかに広がる純白の翼。学校でも神殿でも、舞い飛ぶ天使を目にするのは珍しくもないが、初めて会ったときのラファエルほどに、ミカエルの目に焼き付いた姿はなかった。

 月夜に翻るラファエルの白い羽を見せてやりたい。そしたらきっと、誰も悪口など言えなくなるだろうに。

 

 急な斜面を登り切り、ミカエルの息が少し荒くなった頃、ようやくラファエルの姿を見つけることが出来た。

 柔らかな草の上に寝そべって、すっかり眠り込んでいるようだ。

「まったくもう……っ、ラファエル様!」

 ミカエルは足取りも荒く近付くと、腰に手を当て、ラファエルを見下ろした。

「ラファエル様っ、起きてください! とっくに授業が始まってるんですよ!」

 だが、ラファエルは目を覚まさない。こんなに大きな声で呼んでいるのに。

「ラファエル様、寝たふりしたってダメですよ。ちゃんと起きてください」

「…………」

「……ラファエル様?」

 どうしたのだろう。まさかとは思うが、調子でも悪いのだろうか。ミカエルは眉を寄せると、ラファエルの傍に膝をつく。――と、その途端、手が伸びてきた。

「えっ!?」

「つかまえたーっ」

 突然胸の中に抱き込まれて、バランスを崩して倒れた。

「わっ、ちょ、ラファエル様、離してくださいっ!」

 もがいたらあっさりと離してもらえはしたのだが、焦ったせいか顔が熱い。

「あはは、ミカエル真っ赤ー。照れ屋さんだなあもう」

 のんきに笑っている顔を見ていたら、何だか無性に腹が立ってきた。ミカエルはしかめっ面をすると、ラファエルの隣できっちりと正座する。先日、ラファエルが授業で曰く、人間界の日本では、真面目な話をするときにはこの座り方をするもの、らしい。

「……ラファエル様はお気楽すぎます」

「ん?」

 半身を起こしたラファエルは、不思議そうに首を傾げている。ミカエルは傍らの地面を手の平で叩いた。

「生徒の僕に叱られて、そんなことでいいんですか!? 大体、教官が遅刻するなんてどういうことですかっ! もっとしっかりなさってくださいっ!」

 だがラファエルは、少しも堪えていない様子で、手をひらひらとさせている。

「生徒は師を超えるものさ~。そうじゃなきゃ、いつまで経っても、天使になんかなれやしないだろ?」

「それはそうかもしれないですけど……いえ、僕が言ってるのは、そういうことじゃなくてですね。ラファエル様がいい加減だってことを言いたいんです! もっと毅然となさってください」

「毅然とぉ? やだなー。そういうの肩凝っちゃうんだよねえ。それともミカエルは、堅苦しい僕の方がいいの?」

「いやだから、そういう訳じゃ……ないんですけど……」

 そう言われると、言葉につまってしまう。

「じゃ、どういう訳? 大体、どうして急にそんなこと言いだしたの」

 不思議そうに顔を見られるといたたまれなくなって、ミカエルは視線を逸らし、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。

「その……だからですね」

「うん?」

「ラファエル様はそりゃ、天使様の中じゃ気安くて飾らない方だし、でもそういうのって、甘く見るヤツもいるってことで、だからその……」

 何を言いたいのか、自分でも分からなくなってしまった。ラファエルは起きあがると、あぐらをかいてミカエルの顔じっと見る。それから静かに問いかけてきた。

「あのさあ、何をそんなに気にしているの? そりゃあ寝坊して授業には遅れちゃったけどぉ、君は今、それ以外のことを怒ってるよね?」

「べ、別に怒ってなんか」

「天使は嘘を吐いちゃいけないって、いつも言ってるだろ?」

 伸びてきた大きな手に、頭をくしゃりと撫でられる。

「話してごらん。一体何があったんだい?」

 何もありませんでした、と言おうと思ったが、嘘を吐くなと言われたばかりだ。ミカエルは憮然と唇を曲げる。

「……言えません」

「ん~、もしかして誰かが僕の悪口でも言ってた?」

「……!」

 咄嗟に言葉を出せなかった。否定したら嘘を吐いたことになってしまう。だが隠し通すことも出来なかった。ぎくりとしたのが顔に表われてしまったし、身体もきっと反応していた。

「あ、やっぱり。それで君、僕の代わりに怒ってくれてたんだ?」

「…………」

「僕なら気にしやしないのに。喧嘩なんかしてない?」

「………………」

「あはは、そうか、しちゃったんだ。……ありがとう、ミカエル」

 頭を引き寄せられ、おでこをこつんとぶつけられた。何故だか頬が熱くなったから、ミカエルは反射的に身を引いて、ラファエルを睨み付ける。

「ラファエル様はのんきすぎます」

「そう?」

「もっと怒られたらどうですか? そんなだから、誤解して甘く見るヤツが出てくるんです」

「別に構わないもん。言いたいヤツには言わせておけばいいのさ~」

 そんなことを言われたら、自分ひとりが怒っているようで、まるで馬鹿みたいじゃないか。そりゃ確かに、お節介だったかも知れないが。そう思った途端、今度は気持ちを読まれたみたいに、微笑まれてしまった。

「ミカエルが僕のために怒ってくれたのは嬉しいな。だけど、次からは放っておいていいんだよ」

「でも……」

 言い募ろうとすると、優しく首を振られた。

「いいから。それでミカエルが誰かと喧嘩しちゃったら僕が悲しい。分かるね?」

「…………」

「良い子だ」

 噛んで含めるように言われてしまうと、もうどうしようもなかった。仕方なく頷くと、頭をそっと撫でられる。

「まったく、ミカエルは可愛いね~。食べちゃいたいくらい可愛いな~!」

「はいはい、分かりました、ありがとうございます!」

 強く言い返して手をはねのけてやったら、ラファエルは唇を尖らせた。

「つまんないなあ。君、最近、可愛いって言われても照れなくなったね」

「ずっと言われていたら、そりゃ慣れますよ」

 ラファエルが自分をからかって、照れたところを見て喜んでいるのだと、ようやく分かってきた。分かってしまえば喜ばせるのも癪だから、最近は努めて冷静を装うようにしているのだ。

 ラファエルはぶつぶつ言いながら、身体を前後に揺らしている。

「えー。少しくらい照れてよー。そんなことありません~、可愛いのはラファエル様の方でしゅ~なんて言ってさあ~」

「そっ、そんなこと言った覚えはこれっぽっちもありませんよ!」

「あれぇ、そうだっけ?」

「言ったことがないのに覚えている訳がないでしょう! まったく、また僕をからかってらっしゃるんですね!?」

「あはは、ばれちゃった~」

「まったく……! そんなことはどうでもいいですから、ほら、教室に戻ってください。授業中なんですから!」

 腕を掴んで無理矢理立ち上がらせようとしたら、ラファエルが急に目を見開いた。

「ラファエル様?」

 こんな時はいつまでもぐずついて、地面にへばりついているのが常なのに、ラファエルは自分からすっくと立ち上がる。そしてミカエルの肩に手を置いて、天を見上げていた。

 空に何があるのだろうか?

 不思議に思って仰ぎ見たが、いつもと同じ虹色の空が広がっているだけだ。――いや、気のせいか、いつもよりも少し太陽の光が強いようにも思えて、ミカエルは目を眇める。

 ラファエルの真剣な面持ちに、声を掛けることも出来ずに見守っていると、しばらくしてラファエルが、朗らかに笑んだ。

「ミカエル、午後は課外授業に決まりだ」

「課外授業?」

「お呼びがかかったからね。天使のお仕事を見せてあげるよ」

 ラファエルはそう言いながら、空を指さした。

 

 

 

 

■君がくれるハピネス2

 

 

 

「人間界のトラブル、ですか?」

「そ。大規模な山火事だってさ。たくさんの動物たちがいるからね。それでレスキューのお手伝いに向かうって訳」

 ミカエルを抱きかかえて空を飛びながら、ラファエルはどこまでものんびりした調子だ。だが、ミカエルの頬に当たる風は強く、すぐ傍で話しているラファエルの声を聞き取ることも難しいくらいだから、かなりのスピードで飛んでいるのは間違いない。

 目指す先は神殿。招集された天使達は、神殿上空に設置された時空の門から、地上へ向かう。

「でも、人の世界のトラブルには、直接介入はしないんじゃなかったんですか?」

 少なくとも、ラファエルにはそう教わった。解決へ導くよう手助けはしても、直接手を下さないのが、天界の基本方針だったはずだ。

「ま、人間が起こしたトラブルは、出来るだけ人間達が自力で解決できるように導くけどね。今回の件は少し違うんだ」

「違うって?」

「魔族が放った炎だってこと。人には消せない」

 ミカエルはハッとして顔を上げた。ラファエルは前を見据え、不敵な笑みを浮かべている。

「おそらく、裏で手を引いているのは堕天使――つまり悪魔だろうね」

「でも、魔界や悪魔との間には、和平協定が結ばれたって、この間歴史の授業で」

「細かい話は、彼に訊いてごらん」

 話している間に、神殿のすぐ傍まで来ていた。 ラファエルが促す視線の先には、前庭が広がっていて、迎えに出てきたと思しき、神殿付きの天使の姿が見える。

 ラファエルが姿勢を変える。髪を乱していた風が穏やかになって、浮遊感の後に降下が始まった。

 迎えの天使は、ミカエルを見つけて柔和に微笑む。

「やあミカエル、久し振りだね。元気だったかい?」

「ええ、お久しぶりです」

 ミカエル達が地に降り立つのと同時に、日が翳る。天を仰ぐと、天使学校で見覚えのある他の天使達が空を舞っていた。

 中には真珠色に輝く球体を操って降り立つ者もいる。球体の中には、困惑顔の生徒達が居た。どの顔にも見覚えがある。どうやら招集されたのは、ミカエル達一年生の教官が主のようだ。

 天使は優雅に地に降り立つと、生徒を包んでいた結界を解く。ばらばらと地面に降りた生徒達を整列させると、微笑みながらラファエルの元まで来た。

「やあラファエル。君が一番乗りですか」

「たまたま神殿の近くに居たからねー。君たちもやっぱり生徒を連れてきたんだ?」

「たまには良いところを見せておかないとね」

「天使学校の教官に声がかかったのは、働いてるところを見せろってことだろうしねえ」

 天使達は続々と集まってくる。生徒を連れてきている者も多く、前庭にはあっという間に人だかりが出来た。

 生徒たちには聞こえない、誰かの声に導かれているのだろう。集まった天使達は一斉に飛翔を始める。

 手庇を作って見上げると、白い衣や翼が、太陽に溶けていくように見えた。

「じゃあ、また後でね」

 一番最後に、ミカエルに手を振ってのんびりと舞い上がったラファエルの姿だけが、黒点みたいに目に焼き付く。

「天使学校の生徒の皆さんは、こちらへ」

 空に消えていく自分の教官を振り返りながら、生徒達は心許なさげに、先導する天使の後をついていった。

 天使は水盤の間に入ると、水盤の周囲を囲むようにと指示を出す。

「では、皆さんに現在の状況を説明しましょう。来る途中にある程度話を訊いている人もいるかとは思いますがね」

 天使はそう前置きして、ラファエルに聞かされたのと同じような話をした。ミカエルと同じ疑問を抱いたらしき者が、手を挙げて質問する。

「あのう、でも、魔界とは和平協定が結ばれたんじゃなかったんですか?」

「その通り。天界暦三八七九四年の出来事です。ですが、魔界も一枚岩ではありません。協定を結んだことに反発している者達が、今だ少数ですが存在しているようで、時折こういった騒ぎを起こします」

 水面には天上から舞い降りる天使達の姿が映し出されている。彼らの足下には、寒々と広がる枯れた色の大地と、方々で煙を上げる、黒々とした夜の森があった。

「これはどこの森ですか?」

「多分ロシア……ですよね?」

 木々の様子や地形から判断して、ミカエルは問いかける。

「そうです、よく分かりましたね。ここはロシアのノヴォクズネツク近辺の山岳地帯です」

 重たげな色の森の上に、淡い色彩の天使達が舞い飛ぶ図は、コントラストが効いて美しい。

 天使達はそれぞれに動き出した。水の属性を持つ者が天に向かって手を差し伸べ、あるいは祈りの形に指を結ぶ。たちまちにして星降る夜空に沸き立った黒雲が、森に雨を降らせはじめた。

 ある者は地上にさっと舞い降りる。森の中から真珠色の球体が、水面に浮かぶ泡のようにぽこりぽこりと舞い上がって、火の気のない場所へと移動していった。球体の中には、動物たちの姿がある。

「ほら、あれ先生だ」

「ほんとだ」

 舞い飛ぶ天使達の中から、自分の担当教官を見つけ出して、喜ぶ声が聞こえた。

 ミカエルも水盤に映る風景の中から、ラファエルの姿を探そうと目を見張る。ラファエルの黒衣は森の背景にすっかり溶け込んでいたが、片翼のアンバランスさのお陰で、直に見出すことが出来た。いつものように片手をポケットに突っ込んで、森を俯瞰しているようだ。

「ぼんやりしてるだけじゃないか」

 誰かの嫌味な声が、小さく響いた。

 ――さっきのヤツが、この室内にいる。

 食堂で聞いたのと同じ声だと思った。ミカエルは唇を噛む。黙って見ていろと声を大にして言いたいのを、ぐっと堪えた。

 ラファエルと喧嘩はしないと約束したのだ。それに、今にきっと、あんな口はきけなくなる筈だ。

 ラファエルが何かを待っている、もしくは探しているのだと、ミカエルは直感していた。こうして遠くから姿を見ているだけでも、感じるのだ。ラファエルの神経が研ぎ澄まされ、火の手を上げる森中に張り巡らされていることを。

 そして変化は程なく訪れた。

 上空からのんびりと仲間の働きを見物しているように見えたラファエルが、突如として姿勢を低くした。そのまま地上めがけて滑空していく。まるで落下するような急降下だ。真っ白な翼が鋭く伸びて、瞳の中に鋭角な残像を残す。

「おや、誰かの意志に呼応しているようですね」

 水盤を操っていた天使が、訝しげに言った。

 ――きっと僕だ。

 自分の心に呼応しているのだと、ミカエルはすぐに気付いた。水面にはラファエルの姿が大きく映し出されている。自分の教官を見失って戸惑う他の生徒達には悪いが、コントロールが効かない。どうしてもあの人の姿を見ていたい。

 映像の中のラファエルは、地表すれすれでくるりと身を翻し体勢を立て直す。ふわりと音もなく降り立つと、すぐさま片手を挙げた。その手に光が溢れる。森の木々、土、草木の一本一本から蛍のような小さな光が浮き上がり、ラファエルの手の平に集まると同時に形を成して、諸刃の長剣と化した。

 刀身が赤味を帯び、炎を吹き出す。今、森を焦がしている火とは違う、明るく暖かそうな、清澄な色の炎だ。

 ラファエルが剣を軽く構えるのと、目の前の繁みががさりと音を立てたのは、ほぼ同時だった。漆黒の翼を持つ者――堕天使だ。人の姿をしてはいるが、魔界人よりも禍々しく病んだ気を漂わせているのが、水鏡越しにも分かる。背中に生える羽根は、粘りけのある黒。

 相手はそこに天使がいるなどとは、ついぞ思ってもみなかったらしい。驚きも露わに振り返るのと、ラファエルが軽く身を沈ませ疾走するのは同時だった。

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 ラファエルが鋭く剣を突き出す。相手も手にしていた剣で応戦したが、ラファエルの突きの方が早い。

 一撃、二撃。剣がぶつかり合う度に、明るい色の火花が散って、大気に溶ける。

 相手はどうやら、剣を受け止めるのが精一杯だ。ラファエルの一打がどれだけ重いのかが、剣を受ける悪魔の腕のたわみで、ぶつかり合う剣の音で、見ているこちらにも伝わってくる。

「見事ですね。元々彼は、天軍でも名うての戦士だったのですよ」

 いつの間にか声を無くして見入っていた生徒達の間に、天使の声が響いた。

 悪魔の顔に焦りが見られる。一方、ラファエルはうっすらと笑みを刷いていた。天使らしからぬ、どこか好戦的な匂いのする顔に、何故か胸が鳴った。

「どうやら生け捕りにするつもりのようだ」

 ミカエルもきっとそうだと思っていた。だが、それだけではない気がする。ラファエルはまるで、この戦いを楽しんでいるようにも見える。いつでも決着をつけられるのに、わざと長引かせているような――と、ミカエルがそう思った瞬間、優位に立っていた筈のラファエルが、姿勢を崩した。

「――!」

 水盤の間に、悲鳴が湧き起こる。機を得たりとばかりに、引きつった笑みを浮かべた悪魔が剣を振りかざす。紙一重で身をかわしたラファエルの背後に、真珠色をした光が見えた。中には小さな鹿の姿。いつの間にかその辺りにも炎が迫っていた。あの鹿を庇うために、意識を殺がれたのだ。

 球体はふわりと浮かび上がり、水鏡に映る範囲から姿を消す。ラファエルの間合いに詰め寄った悪魔が剣を振りかざすと同時に、ラファエルは何故か剣を引いた。

 ミカエルは上げかけた悲鳴を呑み込む。ラファエルの頭上を諸刃の大剣が薙ぐ。素早く膝を折ってかわしたラファエルは、そのまま悪魔の懐深くに入り込んだ。おののく悪魔の額を、ラファエルの右手が鷲掴みにする。水鏡を震わす、硬い音。ラファエルの手の平から、青白い光が漏れて見えた。

 ……悪魔の身体が、ラファエルの手から離れ、ゆっくりと斜めに傾ぐ。

 そしてどうっと、重い音を立てて地べたに転がった。

 悪魔は白目を剥いて意識をうしなっているようだ。ラファエルが術を用いて、悪魔の意識を奪ったことは確かだった。

 ラファエルは厳しい顔で倒れた悪魔を見下ろしていたが、まるでこちらの視線に気付いたかのように天を仰ぐと、手を振った。その顔にはもう、普段と同じ人懐っこい笑みが浮かんでいる。

「かっこいい……」

 誰かの呟きが聞こえた。

 水盤の縁を掴んだミカエルの指に力が籠もる。無意識のうちに、唇に強い笑みが刻み込まれていた。

 ――そうとも。

 あの人以上の天使なんかいない。きっと誰もが目を奪われる。

 

 その後、水盤はミカエルのコントロールから離れた。奇跡の力の籠もる雨を降らせ、火を消していく天使達の働きと、森の修復に携わる天使の姿を見る。その合間に、ラファエルが、捕えた悪魔を魔界警察の手に引き渡すところや、動物たちの火傷を癒やす姿も見られた。

 ラファエルの戻りが待ち遠しい。全てが終り、天使達が空を仰いで飛翔しはじめると、もう居ても立っても居られずに、前庭へ飛び出した。

 思った通り、天使が空から舞い降りてくる。その中に一際目立つ黒衣を見つけ、ミカエルは声を張り上げた。

「お帰りなさい、ラファエル様!」

「ただいま~」

 ラファエルはのんきに応えると、ミカエルの前に、ふわりと舞い降りて首を傾げる。

「ちゃんと見ててくれたみたいだね。かっこよかった?」

「はい!」

 ミカエルが拳を握りしめて力一杯に頷くと、ラファエルは少しきょとんした後、照れた顔で苦笑した。

「そう素直に頷かれちゃうと、調子狂っちゃうなあ。――でも、ありがとね~」

 頭を撫でられると面はゆい。この人が僕の先生だと、訳もなく胸を張りたくなった。

 遅れて集まってきた生徒達が、それぞれの教官を迎えて歓声を上げている。

 時折ちらほらとこちらに視線が向くのは、ラファエルと話をしたいと思っているからだろう。ラファエルに嫌味を言っていた誰かも、あんな口はきけなくなった筈だ。そう思うだけで、胸がすっとする。

「さて、そろそろ帰ろっかー」

 ラファエルは言うが早いか、膝の裏に手を回して、片手で軽くミカエルを抱き上げた。急に視点が高くなって目眩がしそうだ。何より視線が集中していて居たたまれなかった。

「ちょ、ラファエル様っ、下ろしてくださいっ、ひとりで戻りますからっ!」

「なんでー。歩いたら学校まで結構かかるだろ? 面倒だからこのまま飛ぶよ」

「わ……っ!」

 抱き上げられて飛ぶのは初めてではないが、人前でこうも堂々とやられると気恥ずかしい。そりゃあ、ラファエルの生徒であることを自慢したいとは思ったが、自分の他に、こんなふうに運ばれている生徒なんていやしないのに。

 空に舞い上がられてしまうと、もうどうしようもない。目を回しているミカエルをよそに、ラファエルは愛想良く、地表にいる人々に手を振った。

「じゃ、また学校でね~」

 

 数分後。ミカエルは天使学校の廊下を歩きながら、ラファエルを叱りつけていた。

「もうっ、僕は恥ずかしかったんですからね! ちゃんと分かってますか!?」

「うんうん」

「うんうん、じゃありませんっ! どうして他のみんなと同じように、奇跡の力で運んでくださらないんですっ! あんなの僕らだけじゃないですか!」

「だって他のみんなは、僕らみたいに触れあえないしぃ」

「そりゃそうですけど……いえ、そういう問題じゃありません! とにかく恥ずかしいんですから、もうあんな真似、やめてくださいね!」

「人前では、でしょ。二人きりのときならいいんじゃない?」

「へ?」

 なんだか会話が微妙に噛み合っていないような、そうでもないような。

 ラファエルはへらへらと笑いながら、教室の扉を開けている。

「ミカエルは照れ屋さんだなあ」

「……いえ、ですから、そういう話じゃなくてですね」

 言いあいながら中に入って、ミカエルが後ろ手に扉を閉じた途端、目の前で、ラファエルの長身がぐらりと揺れた。

「ラファエル様!?」

 咄嗟に伸ばした腕に、ラファエルの重みがかかる。支えきれずにバランスを崩し、ミカエルは教室の床に尻餅をついた。ついでにドアで頭を打って後頭部が痛かったが、すぐに我に返って、崩れ落ちたラファエルを揺さぶる。

「ラファエル様、どうなさったんですか!?」

「……ごめん、痛かっただろ」

「平気です。そんなことより、どうなさったんですか、どこかお加減が――」

「ん~、ちょっと力を使い過ぎちゃったぁ」

 ミカエルを見上げ、へらりと笑ってはいるが、声に力がない。それに顔色も心なしか悪いように見えた。ついさっきまで、いつもと変わらぬ様子だったのに。

 ミカエルの驚きを汲んだのか、ラファエルは片方の眉を上げてミカエルを見上げる。

「だってぇ。他の生徒達の前で自分の教官が倒れちゃったら、ミカエルだって恥ずかしいだろ?」

 ミカエルははっとする。地上に出動する前に、あんな言い合いをしたから。だからラファエルは……?

「そんな……そんなの、どうだっていいのに」

 ミカエルは唇を噛むと、すぐさま立ち上がろうとした。

「今すぐ養護の先生を呼んできますから」

 だが、ラファエルの手がそれをとどめる。

「いいよ」

「でも――」

「ちょっと疲れてるだけなんだ。しばらく休めばすぐに治るから、安心して~」

「…………」

「本当だよ。僕は天使なんだから、嘘なんか吐かないよ」

 ミカエルは迷った末に、床に腰を戻した。せめて寝心地がよくなるようにと、ラファエルの身体を抱え直す。腕の中の人に、そっと問いかけた。

「……苦しくないですか?」

「平気~。ミカエルの腕の中だから、むしろ気持ちがいいくらい~」

「またそんな馬鹿なことを言って」

 窘めても、ラファエルはくすくすと笑っているだけだ。

「――やっぱり戦うと、消耗するんですか?」

「ん~、今日は怪我した動物も多かったし、森も治療したし~……まあでも、ちょっとはねー」

「もう。ならどうして、他の方と協力なさらなかったんですか」

「堕天使が噛んでるって聞いた時から、そのつもりだったんだ。堕天使との実戦の経験があるのは、今日の面子じゃ僕だけだったしさぁ」

「だからって……」

 ラファエルはほんの少し、声のトーンを落とした。

「それに、元々さ、戦いは嫌いじゃないんだ」

 天使らしくない言葉。戦いの最中、ラファエルが浮かべた笑みを見たときと同じに、心臓がどきりと鳴る。

「……どうして?」

「だって触れあえるじゃないか」

 ラファエルはミカエルの腕に軽く手を添わせたまま、独り言のように続ける。

「思えば僕は、昔から触りたがりだったんだな……」

 ――不思議な人だ。

 普段はとても優しい人なのに、時々、天使とは思えないような顔をして、天使とは思えないことを言う。

 だが、ラファエルはふと顔を上げると、さっきよりも強い声で付け加えた。

「ミカエル、忘れちゃいけない。僕らは場合によっては戦うこともあるけど、人を助けるのが本業だ」

 紫水晶のような瞳が、ミカエルを真っ直ぐに見ている。

「皆を幸せに導く――それが僕らの務めだ」

「……はい」

 ミカエルがしっかりと頷いたのを見て、ラファエルはまた、いつものように気楽に笑んだ。

「というわけでさぁ、しばらく寝かせてね」

「え? このまま……ですか?」

「言っただろ、人を助けるのが天使のお仕事だよ。ミカエルは今、僕を助けてくれなくちゃ」

「いえ、でも! ちゃんと保健室のベッドでお休みになった方が――」

 だが、ミカエルが最後まで言い終わるのよりも、ラファエルが完全に瞼を落とす方が早かった。それどころか、すぐに寝息を立て始める。驚くべき寝付きの良さだ。それとも、余程疲れていたのだろうか。

「……もう」

 ミカエルは小さな声で呟くと、諦めてラファエルを抱えなおした。

 疲れているというのは、確かなようだ。気のせいかも知れないが、何だかラファエルの存在感が希薄な気がする。発散される気が、いつもより弱いのだ。

 水鏡で見た戦っている時の姿とはまるで違う、無防備に眠るラファエル。普段は見上げることの方が多いから、こんな角度でラファエルを見ることはない。そのせいかひどく落ち着かない心地になって、何だか困ってしまった。

 大体、いつ目を覚ますか分からない人の布団代わりになるのは大変だ。その間自分は、何をしていればいいのだろう。

 しばらくの間は、大人しく窓の外の景色を眺めていたのだが、さすがに小一時間も経つと飽きてきた。

 段々眠くなってきて、大あくびをひとつ。その拍子に、どこからか良い匂いがすることに気付く。

 お日様みたいな匂いだ。まるで日向に干した洗濯物のような。

 匂いの出所を探して、ラファエルの髪だと気付いた。ついさっきまで火事場にいたから、少し焦げ臭い気もしたが、その奥から、確かに日向の匂いが漂ってくる。

 多分この学校の生徒で、天使の匂いなんて嗅いだことがあるのは自分くらいのものだろう。そう思うと、少しおかしかった。生徒に寄りかかってこんなふうに眠ってしまう教官も、多分他にいないだろうけれど。

 ここは教室の片隅で、陽の光もあまり差さない場所なのに、ラファエルとくっついていると、日向ぼっこでもしているみたいだ。

 ――眠いなあ……。

 瞼が落ちかける。頬にふかふかと柔らかなものが触れて気持ちが良い。

 どのくらいそうしていただろう。視線を感じて目を開けた。いつの間にか起きていたラファエルが、きょとんして自分を見上げていたことに気付いた。ついでに、自分がラファエルの髪に頬をすり寄せていたことにも。

 ミカエルは慌てふためいてラファエルから身を離す。顔が熱い。なんてことをしてしまったんだろう。

「す、すみませんっ、眠くなっちゃってつい――!」

 ラファエルは笑って「別にいいよ」と言った後、こう付け加えた。

「でも、ちょっと照れちゃった」

 

 

 

 

■君がくれるハピネス3

 

 

 残りの時間は殆ど無かったし、あのミカエルが休んでくれとしきりに言うので、結局今日の午後は、授業をせずに終ってしまった。明日からは遅れを取り戻しますからねと、散々念押ししながら、ミカエルが教室を出て行ったのがつい先ほどのこと。

 ラファエルは教務準備室の窓辺に腰掛けて、そこから見える学校の前庭を見下ろす。しばらくすると、ミカエルの姿が校舎から吐き出された。

「ミカエルー、また明日~!」

 窓からギターをかき鳴らして歌ってやったら、ミカエルはぎょっとした顔で辺りを見回した。下校していた他の生徒がくすくす笑っているのを確かめると、真っ赤になって肩を怒らせる。

「もうっ、恥ずかしいんですから、そういうのやめてくださいよっ!」

 一声叫んで、くるりと身を翻したが、思い直したように振り返ると、律儀にぺこりと頭を下げる。それから全速力で駆けていった。

 ラファエルはギターを抱えたまま笑い転げる。

 ミカエルのやることなすことの全てが、可愛らしく思えてならない。駆け去っていく後ろ姿を見ているだけで、幸せな気分になった。

 ミカエルの腕の中で目を覚ましたときの、包み込まれるような温かさや、仔猫が懐くように頬をすり寄せてきた彼の顔を思い出すと、なおのこと胸が温かい。

 ――嬉しいな。もしかしたらあの子も、僕のことを好きなのかも知れない。

 胸の内でひとりごちて、それからラファエルは目を見開いた。

 ――あの子「も」?

 ミカエルの姿が校舎の角を曲がり、視界から消えた。虹色の空は沈みかけた太陽の光で赤味を増して、不思議な色合いのグラデーションを作り始めている。

 頬に苦笑が浮かぶ。

 初めて会ったときも、こんな夕焼け空の下。一体いつからあの子のことを、こんなに好きになっていたのだろう?

 ――そうだ。自分は、ミカエルのことを好きになっていたのだ。教官としてではなく、天使としての慈愛でもなく、ただミカエル自身が愛おしくてならない。いつの間にか、心のどこか深いところで、彼に恋をし始めていた。

 自覚した途端、その気持ちは胸にすんなりと落ち着き、膨らんだ。冬雪として生きていた頃の、周りの全てに触れられた時と同じ確かさで、ミカエルへの想いが胸の中に根付いていたことに気付いた。

 鼓動と、喜びと、何よりミカエルを愛しいと想う気持ちが、ただ溢れた。

 ギターを無意識のうちにつま弾きながら、ふと思う。

 ――好きだって言ったらどんな顔をするかな。

 驚くだろうか。それともはにかむだろうか。

 だが、もう少し待った方がいいかもしれない。あの子はまだ幼い。たったの十三歳なのだ。

「……十三歳かぁ」

 呟きが漏れる。十三歳と言えば、夏海と同い年だ。口にしてみると、年の差の重みが急に増した気がして、頭を抱えた。

「ん~、僕いくつだったっけ……」

 一度リセットして冬雪年齢で数えれば、まだ十七かそこらだが、その前まで計算に含めると……自分でも覚えていない。さすがに十七歳ですと言ってしまうのは、サバを読みすぎというものだろう。

 ――いいのかなあ。

 自分と彼とは、あまりにもかけ離れている。この想いが悪いものだとは思わないが、もしかするとミカエルを悩ませることにもなるかもしれない。咎められる可能性だって、無いとは言いきれない。

 ラファエルはさっきまでミカエルが居た場所を見つめ、目を眇めた。

 ――どうして好きになっちゃったんだろう。

 教え子で、年も離れていて、同性だというのに。

 この世で唯一、触れることが出来る存在だから?

 ……いいや、多分違う。それだけのことだったら、こんなにまでも、彼の全てを愛しいとは思わなかった筈だ。

 だが、触れられることで欲は増している。想いを自覚してしまったから、尚のこと。

 あの子がずっと傍に居てくれたら、一番好きだと言ってくれたら……もっと触れ合うことが出来たら、どんな気分がするだろう。

 随分長く生きてきたけれど、こんな想いを今更知ることになるなんて思わなかった。冬雪として一度生まれ変わる前の自分だったら、彼に恋をしただろうか?

 「冬雪」としての生は、色々な人を苦しませた罪深いものだったけれど、予想外に様々なものを、自分に与えてくれたのかも知れない。

 両親や夏海や、友人達が教えてくれた普通のぬくもり。戦うのではなく、ただ触れるだけで得られる優しい気持ちや、決まった誰かを愛しいと思う心。博愛ではなく、たったひとりへの……。

 導き手として彼らを天上から俯瞰していただけでは、きっと恋なんて知らぬままだったろう。

「早く明日にならないかなあ……」

 明日になればまたミカエルに会える。それを思うだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。

 自分の教え子が、まだ候補生であるのにも関わらず、立派に天使としての勤めを果たしていることに気付いて、笑みがこぼれた。

 少なくとも彼は、ひとりの天使をこの上なく幸せにしている。

 

 

 

 

■おまけ

 

 

「今日のラファエル教官、かっこよかったね」

「うん。僕、天使になったら天軍を目指そうかな」

 その日の夜、そんなことを言い交わしながら寮の廊下を歩く、一年生の三人組がいた。今から談話室にいく彼らの顔には、まだ昼間の興奮が残っている。――若干一名を除いて。

 ふくれっ面をしていたその一名は、唇を尖らせ、小さな声で反論した。

「あ、あんなの、大したことないじゃないか」

「まだそんなこと言ってるのかい? 君だってすごいって言ってたじゃないか」

 他の二人は、半ば呆れたように顔を見合わせている。少年はむきになったように反論した。

「ミカエルは分かってないんだよ! 僕らのクラスに来て、僕らの先生に習ったら、きっと光輪だって戻るし、あんないい加減な教官じゃ――」

「でもさあ、ミカエルとラファエル教官ってあんなに仲がいいんだし、ミカエルは成績だっていいんだし。何も問題はないじゃないか」

「そう言えばあの二人、接触が持てるんだね。すごいよね、他にいないよ、自分の担当教官に触れるなんてさ」

「で、でもっ、一人のクラスなんてきっと寂しいし、それに――あ」

 少年は赤い顔をして黙り込む。廊下の向こうから、ミカエルが出てきたところだった。ちょうど夕飯を済ませたばかりのようだ。幸い、ミカエルの耳には今のやりとりは届いていなかったらしく、整った笑みを浮かべた。

「こんばんは」

「こんばんは、ミカエル」

 軽い挨拶だけをして、ミカエルはさっさとすれ違っていく。すんなりとした後ろ姿が廊下の角を曲がって消えるまで見送って、中のひとりがぽつりとこぼした。

「……昼間の悪口の主が君だって、ばれなくて良かったね」

「君さあ。友達になりたいなら、素直にそう言えば?」

 

 少年がなんと答えたかは、定かではない。

 

 

END

 


 
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