No.257176

ベッドサイドの絶宴

らくさん

終夜バッド直前の楓

2011-08-03 15:49:15 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:380   閲覧ユーザー数:370

 

 無力だった、とても。無力だと思った。そして無力だと知っていたから、青年は努力をした。努力しました、えらいわね。青年にとってそんなコドモの時期はもう終わっていたのだが、だからといって怠ることはしない。弱いから、決して強くないから、志や目指すもの、誰かに誇れるようなものなどないから。だからこそ青年は、ただ静かに奔走する。それが彼の強みだ。

 青年は決して誰かに憧れてもらえるような存在ではない。間違えもするし、強いものに面と向かって歯向かえるほどの器量も無い。卑屈だという自覚もある。青年は知らないが、彼はどこまでも優しい。だからこそ間違いが多く、感情に振り回される。長所であり短所であるそれは、誰かの役に立ったのだろうか。役に立ちたいと思った人はもう深い眠りに付き、確認することすら出来ない。役に立てましたか、少しでも支えられましたか。きいたって無駄なのだろうけど、役に立ってなんて居ないんだろうけど。

 そもそも青年は感謝されたくてしたわけではないので、それでも哀しくは無い。哀しいとすれば、それを突きつけてくれる人が眠っていておきなくて、ちいさな言葉の応酬さえできないことだ。せめて名前をと思うけれど、青年よりもそれを望んでいる少女を知っているので言わない。留めておくだけだ。

 椅子が軋んだ。ランプの鈍い光が部屋を照らす。埃っぽくてお世辞にも綺麗とはいえない環境だが音の主の少女は崩れるように背もたれに背中を預け、すうすうと寝息を立てている。

 そっと近寄り、青年はその華奢な肩に毛布をかけた。長いまつげには水泡が一滴、ちょこりと張り付いている。優しく拭ってやり自分も近くにあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。ぎしり、と音がして硬質な板は青年の体重を受け入れてもう一度ひきつれた音を立てた。

 青年はぼんやりとベッドに横たわる彼を眺める。瞳は思い出を走馬灯のように滑らせてゆるりと瞬いている。無表情に眺めながら、先ほど少女にしたように彼の抜けるような白に指を滑らせて巡る血を指の腹でなぞった。青い血管にはどくどくと血が流れていてその生々しさが余計に、絶望を彼が眠っているんじゃないのかという願望へとすりかえようとする。そのたびに違うのだと、目覚めることだけで奇跡なのだと青年は何度も自分を押し留めて、現実を受け入れるために少しずつ殻を破っている。近くにもっと錯乱していた彼女が居たからかもしれない。そっとそっと、引きずられるように冷めていく感覚に抗うことも無く広がった黒い髪を眺めたのは記憶に新しい。

 頬からこめかみ、額を通って眉間、瞼。伏せられたそれは開くことも無く、肌の表面を動く指にくすぐったがることもなく。髪に触れればさらりと流れて、白金に似た色のそれはふわふわと白を彩る。浮世離れした美は、退廃的なここでそんなにも活きるのだ。

 今度は少しだけ乱暴に、青年は背もたれへと背骨を打ち付ける。肉の打たれる鈍い音と椅子が軋む音は思ったよりも響いたが、彼はもちろん少女も目覚めることなくねむりこけていた。彼よりも少女のほうが、目覚めないような気がしてならない。こけた頬、ほそい体。彼と同じかそれよりも不健康に青白い肌。ただ笑顔だけは華やかで。そんなアンバランスさが余計、少女の胸のうちを表しているような。追い詰めているような。

 窓の外で星が仄暗く光る。虫の鳴き声がして、ああ生き物が居るんだと実感する。生物が、生きて動くものたちが、此処に。

「かえで」

 此処、に。

 青年はふと息を詰めて、蹴倒した椅子が爆音を響かせるのもはばからずにベッドへと駆け寄った。布団に両手を押し付ければ埃が舞う。顔を覗き込んだまま幾許か上がった息で声を漏らし、久しく目にしていなかった淡い色彩を焼き付けようとでもするように青年は見つめる。すと細められ、笑む。薄い紫のグラデーションは、青年の顔をゆがめてうつしていた。

「あ・・・っ、そうだお嬢ちゃ・・・・」

 起こそうか、と。青年は言おうとするのだが、彼の手がすばやくそれを阻んだ。細い指が青年の手首に絡んで、引き止める。立ち尽くしたまま彼の顔を見下ろしていた青年は、ただ呆然として紫だけを見つめている。彼が少女を求めることはあれど、まさか自分を求めるとは思っていなかったから。

 それに、まさか自分の名のことなどとうに忘れていると思っていたから。

「名前は、名前だったら。オレのじゃなくてさ殿先生」

 言ってほしいとは願っていた。だが、こんなことを望んだのではない。今さら、今さら、今さらそんな願いを叶えるのならば、少女の願いを叶えてやってほしい。少女の名前を呼んで、はなしてやってほしい。一時的であれどももし、今彼に記憶が戻っているのならば。それこそ本当に自分ではなく、少女を揺り起こしてやりたかった。

 青年に出来たことも出来ることもあまりにも少なかったから。むしろ二酸化炭素を増やしているだけとでもいえたという自負はあるから、だからせめてそれくらいはと。思うのだが、眼は強く。射抜かれたまま動けずに、笑顔をただ、見下ろす。

「わかっておる、私だって呼んでやりたい。・・・だが、それは」

 彼女を縛るだろう、と。哀しく寂しく優しく語る。名を呼べば、優しいから彼女はきっと。青年は彼を見下ろすしか出来ない自分が歯がゆくて、投げ出された腕をとっさに握った。力を込めて握り締める。

「殿先生」

 声は頼りなく震えた。青年はただただ、湿った声で綴る。思いの丈などかなぐり捨てて、ただ話してやってほしいと。自分なんかの声じゃなく、あんたの声で起こしてやりたいと。だけどそれでも彼は何も言わず、微笑のままに青年を見上げていた。

「なあ、楓」

 残酷なものだ。青年を確実に縛っていく言の葉は、優しく芯に染み込んでゆく。じわりじわりと温かく、ゆっくり傷をつける言葉。痛くは無く、ただ存在ごと押し付けられているような感覚が青年を蝕む。

 それでも青年は、望んでそれを受け入れている。

「有難うな」

 感謝されたかったわけではない。ただ、出来ることを精一杯、してみるのも一興だと思っただけだ。それでも感謝は傷と共にじわりと沁みて、青年はうんとだけ返事をした。

 感謝されたかったわけではないけど、感謝の言葉はこんなにもやさしくあたたかい。ふわりと頭を撫でられた様な、そんな満ち足りた気持ち。

 胸の中で何かが爆ぜるような感覚。涙が喉のそこを濡らしてゆく。うん、うんと頷いて、青年は一筋だけ涙を流した。

「何も出来なくて。ごめんなさい、」

 子どもの時期は終わった。だが、子どものように謝って目を瞑って耐える。ごめんなさい、何も出来なくて御免なさい。

 嗚咽ごと掻っ攫う、笑みが瞳を埋める。馬鹿だなあとでも言い出しそうな彼のそれは、青年を静かに包み込んだ。俯いてこぶしを握って、震えながらつぶやく謝罪。張った肩。決して責めない眼差しは、ただ青年を包み込む。

 静かに泣き続ける青年を眺めて、彼は困ったように笑みを代えて。思案して数度瞬きをし、ゆるりと手を持ち上げて先ほど青年が少女にしたようにまつげの雫をさらった。はじけた水泡が砂っぽいフローリングに吸い込まれ、黒ずんだ色を落とす。目を細めて受け入れながら、青年はその優しさにもう一度どっと涙を溢れさせた。流れ続けるそれを見て更に困った顔になって、彼はよしよしと頬をなでてやる。もう何をしても青年は、小さな子どものように泣き続けるだけで抵抗などしない。

 じゃあ、と彼は口を開く。自愛に満ちた眼差しで青年を捉えながら呟く。それはつと移されて、椅子に崩れている少女へと向けられた。じゃあ、もう一度繰り返してゆっくりと起き上がり、猫背気味に丸まっていた背中を伸ばす。真直ぐに青年を射て、流れるような仕草でまた涙を拭った。

 ゆったりゆったり、薄い笑み。金色が星の光に淡く空ける。

「花を」

 紡ぎ上げる声は透き通って耳にしみこむ。妙に落ち着いた様子で彼は青年の手を握り返し、真摯な声音で続けた。

「花を、摘んできてくれないか」

 彼女のためなのだろうと青年は思う。彼が花をたのしむためではない、と。一度だけ深く頷いて、青年はそっと細い指から自分の無骨な手を引き抜く。頼んだぞと笑う顔は、一分一秒も惜しまなくてはいけないのにいつもの調子で。

 青年は掌に視線を落とした。ぬるくお互いの体温になった掌には肌の感触が焼きついていて。数回握り開きを繰り返してからまた深く頷いた。何度も何度も、頷いた。そして青年もまたまっすぐ彼を射る。

 右足を、引き。左足も連れ添って。

 最後にもう一度惜しんで振り返り、立て付けの悪い扉を開いて駆け出す。約束を果たすために、彼の、彼と少女のために。そして。傲慢でも何でも後悔したくないから、自分のために。走る、走る、走る。花になど詳しくはないが、何か。

 流れる涙は大地を濡らし、視界の悪さに足を取られて転倒する。すりむいた掌にはじぐりと痛みが走り、赤い液体が浮き上がった。痛い、痛い、痛い、痛い。

 痛い。

 嗚咽が喉に絡みつく。立ち上がって駆け出して、無意味に叫びながら青年は泣き続ける。嬉しいも悲しいも寂しいも辛いも感謝も全部ない交ぜで、わけのわからない感情のたかぶりが体の芯を突き抜けていく。

 ああ、オレは。謝罪ばかり口にして、感謝を言えたのか。

 遠くでうっすらと月が輝いている。無力さばかりを突きつけられながら、歯がゆさをかみ締めながら、青白い輝きを眇めた瞳で青年は捉える。

 何の役にも立てなかったけれど、何の力にもなれなかったけれど。ただあの感謝の言葉に、あの柔らかな微笑みに。声音に、存在に。救われたかった訳ではないけど、何をどうされたかったわけでもないけど。ああ、ありがとうだけ、それくらい言えたら良かったのに。どこまでも馬鹿、で。

 月光が久しく辺りを満たす。

 どうか。

 どうか今もあの部屋で、紫の瞳が輝いていますよう。

 

 
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