1.
弦楽器の金属の糸が、いまにもはじかれるのを待つような、そんな緊張感がリュウを迎えた。
深夜の訓練所に足を踏み入れたとき、リュウは、いつものように自分ひとりだと思い込んでいた。
けれども、空気が、そうではないと言っていた。
いくつかあるレンジャー用の訓練施設の中でも、金属の壁に囲まれたこの訓練所は、ちょうどワンブロック分の街を模して作られていて、コンクリートむきだしの建物や金属のジャンクの墓場のようなつくりになっている。
それでも日中、市街戦の演習など行われているときは結構にぎやかにも思えるのだが、深夜の静けさと闇の中にたたずむそれらは、ほとんど廃棄された街、文字通り廃墟のようだった。
その闇の奥に、立ち上るような、紫の光が一閃するのが、確かに見えた。
いや、通常ならば見えたはずはない。それはあまりにも一瞬のことで。
そのはじけるような光の小爆発に、照らされた相手の表情まで、リュウが見て取れたのは、ここに来たときからの鍛錬の成果だろうか。
『まず敵の動きを捉えろ。攻めるのも守るのも、それからだ。』
入隊のときに最初に叩き込まれた、その教えを守って、リュウは入隊以来、ひとり、剣の鍛錬をはじめたのだった。
――真の暗闇と静寂の中で暗視ゴーグルを使わずに、敵を見抜ければ。
だれもいない訓練所で、普段は明かりをつけて行う模擬戦闘モードをセットし、物陰から現れるホログラムでできたダミーを、丁寧に倒していく我流の稽古を、リュウは繰り返した。
――わずかな一閃やかすかな物音から、敵の正体や装備、そしてどう動くかを読み取ることができたら。
そうして、夜の街に出た同僚たちまでもが寝静まった深夜、そっと部屋を抜け出して、ここへ来るのがいつしか習慣になっていた。
だが、今夜は、違う。
リュウがそっと足を踏み入れた訓練所の奥、通りを模した通路の先で、ぼう、と淡い光を放る、うすい諸刃のついた鋭い剣が、腰の位置で横一線にぴたりと静止する。
つづいて、斜め上方に動いた白線は、上空で向きを翻し、たちまちその勢いを加速して、地面へと向かう。
剣は金属の床を深々とうがち、そこから深い亀裂が走り、見る間に広がった。
深いところから伝わるずしんとくる衝撃が、リュウの足元まで届く。
ちょうど、衝撃を収める矛先を大地に求めたかのような技だった。
思わず、リュウの足は、引き寄せられていた。
「いまのは……。」
「リュウか。2-3ヶ月前から誰かが深夜にここを使っているらしいと、耳にしていた。」
あれほどの渾身の技を使っても、ゼノの声には、息の乱れも感じられない。リュウには、驚くべきことだった。
「あの、時間外に勝手に施設を使って、申し訳ありませんでした。」
「ふ、馬鹿なことを口にするな。」
ゼノの口元が、ふと緩んだようにリュウには思えた。といっても、この暗さで、わずかな表情の違いなど見えはしないのだが。
それでも、その機を逃すリュウではなかった。
「隊長、…さっきのを、教えていただけないでしょうか!」
この暗さで見えないとわかっていても、思わずリュウは頭を下げていた。
「お前にできると思うのか、リュウ?」
「いいえ。」
「思わぬのに、言うのか、リュウ1/8192。」
ゼノの声音に少しだけ楽しげな響きが混ざる。
「できると思いません、でも…、」 なおも食い下がろうとするリュウの腕をそっと掴み、ゼノがするりとリュウの背後に回る。
急な動きにとまどうリュウの背後にゼノは立ち、その両腕に、背後から手をそえた。
背中にゼノの体を感じて、リュウの心臓が跳ね上がりそうになる。
リュウよりもはるかに背の高い隊長の静かな声が、耳元に降ってきた。
「いいか。一度だけ、やってみせよう。お前の剣と、腕でだ。」
「…はい!」
喜びに舞い上がりそうになる気持ちを抑えて、リュウは、しっかりと前を向き、使い古した己の剣をかたく握りなおした。
ゼノの細くて力の強い指がその上をつかむ。
緊張で、思わず硬くなったリュウの腰を、ゼノの左手がそっと沈める。右手の剣をそのまま、左方へと振り、横一文字にためた。
リュウの目の奥で、さっきゼノが見せたまっすぐな白い一文字の光が、自分のぼろぼろの剣の位置に重なった。
「行くぞ。」
「はッ!!」
リュウの右手を掴んだゼノの手が高く引き上げられる。精一杯ついていこうとしたけれど、リュウの手が遅れた。
それでもゼノの力を得て、引き上げられた剣は、その大きな力に引きずられ、止まらずに、そのまま地面へと一閃した。
剣の先は、面白いほどにさくりと硬い金属の床に吸い込まれたかと思うと、すぐにガキン、と嫌な音がして中ほどから折れ砕けた。
絶対に離すまいと、あわてて剣のつかに全力でしがみついたリュウは、くだけたその力の勢いのまま、肩口から、めくれあがった金属の裂け目に、無様につっこんだ。
すんでのところで身をかわしたけれど、はっと気づくと、目の前には地面につきささったままの己の剣の先が鈍く光っている。
「けがはないか。」 上から、ゼノの冷徹な声が降ってくる。
「…だいじょうぶです。」
あわてて立ち上がり、己の手を確かめて、ここがこんなに暗くてよかった、とリュウは心底思う。
この指の震えを、絶対に、隊長に見られたくはなかった。
そう、リュウは、震えていたのだ。
この一瞬のことで、いままで感じたことのなかった力の差、というものを、全身で感じさせられていた。
勿論、頭ではわかっていたけれど、こんなにも自分が非力であることを、これまで味わったことはなかった。
口の中に、苦い鉄の味が広がる。
目がくらむ、ようだった。
世界が、ぐるぐると回り、立ちながら自分がかしいでいるような気がする。
せめて自分の声が震えていなければいいのだが、とリュウは強く願った。
「リュウ、己を知るのだな。鍛錬をつづけることだ。」
「はい、隊長。」
「明日も遅れるなよ、おやすみ。」
ぽん、とリュウの右腕を叩いて、ゼノが歩み去る。
「ありがとうございました…!!」 あわてたリュウの声が、その後を追った。
自分の腕が胸が頭のしんが、燃えるように熱く、じんじんとうずいているのを、深く頭を下げながら、リュウは、ただかみしめていた。
「あぁ? なんだよ、その顔。」
「なんでもない。」
一番指摘されたくないコトを、一番指摘されたくない相手に見事につつかれ、リュウがいくぶんすねた表情で、口元へ運んだ覚醒飲料の紙コップを噛んだ。
いつもと変わらず、基地においてあるこいつは、うすくて生ぬるくて、なんだか医者が歯を削るときの薬のような味がする。
それでも、朝から顔を会わすのを避けていた相棒に、顔の片側の傷――とくに口の右端が切れたようになっていた――を見られたくなくて、普段は見向きもしない休憩室の紙コップに手を出したのだった。
「ふーーーん。」
興味ふかげに、細い指が伸びてきて、リュウのあごを捉えようとするので、リュウは思わず声を荒げる。
「あぁ! やめろよ、ボッシュ。こぼれるだろ。」
「誰につけられたんだよ?」
「誰にも。自分ひとりで転んだんだよ。」
「はぁ? ばーか。」
心底楽しげに言うボッシュに腹を立てて、リュウががたんと立ち上がったとき、にぎやかな声が振ってきた。
「ちょっと!? その顔、どうしたのリュウ!?」
ささいことでも大騒ぎする同僚のターニャの声に、ボッシュはうんざりしたようすで、休憩室のへこんだ机に足をあげて、そ知らぬ顔で書類に目を通すふりをし始めた。
「だいじょうぶだよ、ターニャ。ちょっと自分で転んで、すりむいただけだから。」
「ほんと? ほんとに? 嘘じゃないの?」
「…嘘って…。そんなわけ、ないだろ。」
「そう、そうよね。よかったぁ。…あのねー、ちょっと、小耳にはさんだものだから。」
この思わせぶりな言い方がターニャのお得意だった。ここから、えんえんと噂話を聞かされることになる。
…知ってる? セカンドの誰がしくじったって! 聞いた? ファーストの誰が左遷されそうなんだって!…
リュウは、ターニャの口元を見ながら、「あの口、レンジャーより情報屋向きだぜ」といつだったかボッシュが言っていたのを思い出した。
「…聞いてる? だから、心配したんだよ! もう始まっちゃったんじゃないかと思って!」
いつの間にか、ボッシュが裏返しの書類を見すえながら、何度かまばたきしている。リュウはあわてて、意識のチャンネルをターニャに戻した。
「え?ごめん、もう一度。なにが始まったって?」
「”ドッグ・ファイト”だよ。決まってるでしょ。知らないの?」
ターニャは顔を近づけ、大げさに声を潜めて、最初の「ドッグ」と「ファイト」をはっきりと区切って発音した。
勿論、自分以外、誰もまだ知らないとびっきりのネタだと、そういいたいのだ。
「ドッグ…何?」
「おい、リュウ。そろそろ、行くぞ。」
ボッシュが読んでいたふりの書類を投げ出し、立ち上がったのを横目で見て、話の腰を折られたターニャが唇を尖らせた。
「ごめん、ターニャ。その話は後で。」
「もう、リュウったら! 最新情報なのに! 聞かないと損するのに!」
大またで歩き出した相棒を追いながら、リュウはなおもがなりたてるターニャに軽く目で合図し、休憩室を出た。
ボッシュはさっさと休憩室の前の廊下を右へ曲がり、下層街につながる方へと歩み去ったようだ。
あわててその後を追おうとして、リュウの右手が、廊下の壁際にもたれかかり、話し込んでいたファーストレンジャーの1人の肩にぶつかった。
「あ、すみません。」
「まて、お前!」
リュウは立ち止まった。
「誰にぶつかったと思ってる。」
荒げた相手の声に、リュウは向き直り、もう一度ぺこりと頭を下げた。「すみませんでした。」
「誰だ、こいつ。新入りだな、名前は。」
「リュウ1/8192です。」
「8192だ?!」 明らかにあざけった調子でリュウの言い方をまねて、数字を繰り返す。
「…おい、リュウ、何してる?」
静かな声が、廊下の先から響き、リュウも、ファーストレンジャーたちもそちらを振り返った。
右手のグローブを手首のところまで引き下げながら、戻ってきたボッシュが声を低める。
きついまなざしで、ファーストレンジャーたちをねめつけたボッシュは、リュウに向けて、「行くぞ。」と言い放った。
「…ボッシュ!!」
「・・・・・・。」
ボッシュはきびすを返すと、もう後ろを振り返りもしないで、廊下の先のドアを出てしまう。
黙ってしまったファーストたちに、リュウは再度ぺこりと頭を下げると、そのままボッシュの出たドアのほうへと歩き出した。
リュウが抜けたドアが背後で閉まった直後に、金属の壁を何かで切りつける激しく、大きな音が、いま通り抜けてきた廊下から、リュウの足元にまで響いてきた。
レンジャー基地の暗い廊下を曲がり、基地を出た先は、下層街へとつながる、小さな広場のような空間となっている。
さっさと階段を降り、もう下層街へつながる通路へとむかうボッシュを、リュウは、基地の外階段の踊り場の上から見、ついで、基地の前にたむろする同僚たち数人の輪に気がついた。
リュウたちと同期の彼らは、勿論まだサードレンジャーになって3ヶ月の新米ばかり。
レンジャーという、場合によっては危険をともなう仕事をともにしているからこそ、それぞれの持ち場がようやく決まり、離れ離れになっても、何かと相談しあったり、助け合おう、という同期の結束は固い。
リュウには、そういった仲間たちとの馬鹿騒ぎや信頼関係が、とても大切だった。
同期など目もくれない様子のボッシュを見失いかけたので、リュウは、仲間たちに親しげな目配せをかわしただけで、その場を通り過ぎた。
けれども、今日はなぜか、その輪の中になにか秘密めいた雰囲気が感じられる。
それが気になってリュウは一度だけ振り返ったけれど、彼らは真剣なようすで話に夢中になっているようだ。
なんだろう、なにか、ざわざわする。
…まぁ、なにか相談ごとなら、誰かなにか、言ってくるだろうけど。
下層街の入り口で、ようやくボッシュに追いついたリュウは、街を見下ろす大階段の上で立ち止まったまま黙りこくっている相棒に声をかけた。
「どうしたの? パトロール、駅のほうだろ?」
「そんなのはいつでもできる…気が変わった。」
「え?」
「今日は見ものだぞ。お前、実装してるな?」
「してる…けど。」
気まぐれで、先の行動の読めない相棒の援護のために、いつでも種々の武器を実戦装備しておくこと。――それが、この3ヶ月で、さんざんこの金髪の相棒に振り回されたリュウが学んだ、第一の法則だ。
「無線は切っておけよ。」 その念の押し方が、妙に気になる。
でも、ここで反対したところで、自分ひとりで行くと言い出すに決まってる。
リュウは、ほっ、とため息をついた。
とりあえず、いっしょに行動する。で、可能なら、全力で止める。―-このトラブルメーカーの相棒について、リュウが学んだ第二の法則だった。
ボッシュとリュウは、ジャンクから拾い上げた部品が並ぶ、にぎやかな下層の屋台街を抜け、だんだんと人のいない場所へと歩き続け、やがていまは破棄された廃工場の跡地へとやってきた。
十年前の放射能漏れの事故のあと、閉鎖され、建物を解体する資金もなくカンパニーは倒産し、更地にしたところで汚染の噂で売れる見込みもないため、ワンブロック分はあろうかという巨大な工場の建物が壊れたまま、放置されている。
薄っぺらい金属でできている工場の壁に、洞のように大きく口を空けた爆発の穴が残っており、そのぎざぎざの傷口から、薄暗い内部へと、風が吸い込まれていく音がする。
とっくの昔に工場の中はがらんどうになっており、そこにもともとあった機械は綺麗に解体されて、さっきリュウたちが通ってきたジャンク屋台を、当時はさぞかしにぎわしたことだろう。
放射能の影響で、見たこともないような凶暴な変異ディクがいるから、絶対に近づかないように、そんな噂話を施設の先生から聞いた覚えがある。
そういえば、レンジャーになりたてのころに、ターニャが同じ話を聞かせてくれたことがあって、そんな噂は何年たってもなくならないものなんだ、と変なことに感心したものだった。
「ボッシュ、そろそろ教えてよ。この廃工場に何があるんだ?」
「もうすぐだ、だまって、こいよ。」
ボッシュにつづいて、天井の高い、暗い工場の建物の中へと足を踏み入れたリュウは、ようやく、ボッシュの真意を知った。
工場の奥に、事務所か監視所に使われていたのだろうか、金属の外階段をまとった二階建ての小屋があった。
その二階から、あるはずのない人工的な光が漏れている。
外階段に面したドアの真ん中にとりつけられた、厚いガラスでできた小さな丸い窓から、横切る人影が見えた。
先導するボッシュは、足音を消して、小屋に近づき、その表階段の影に身を寄せると、リュウに合図を送る。
リュウはうなづき、ボッシュから離れて、ひとりで小屋の裏側へと回り込んだ。
案の定、割れたガラスの窓がついた裏口のドアが二階にもう1つあり、そこから螺旋階段が下へと伸びている。
リュウは、念のために剣をぬき、右手にぶらさげたまま、さび付いて塗料があちこちふくらんだ階段を慎重に上った。
訓練で教官に教えられたとおり、裏口の割れたガラス窓から、部屋の中にいる人数をまず確認し、状況の判断と応援の要請を、と考えていた。
しかし、リュウが螺旋階段の上にある裏口のドアにたどり着く前に、小屋の中でがたんがたんと大きく人の動く音がした。
あわてて、裏口の窓にとりついたリュウが覗き込むと、暗い明かりに照らされた数メートル四方の部屋の中に5人の男たちが立っているのが目に飛び込んでくる。
男たちは皆、リュウの覗き込んでいる裏口に背を向け、ちょうど反対側にあるドアのほうに顔を向けており、先ほどまでそこにあったはずのドアは蹴破られ、ぽっかりと空いたその場所に、オレンジ色の内光に照らされた相棒の姿が見えた。
「レンジャー? サードが何のようだ?」
中にいた連中が、あっけにとられる間に、ボッシュはそのままずんずんと踏み込んで部屋の真ん中に立つと、全員の見守る中で、静かにこう口にした。
「おまえら全員、スマートドラッグ売買の容疑で処断する。」
それを聞き、固まっていた男たちが口々に罵声を浴びせ、急に動いた。
「ボッシュ…!」
リュウは、あわてて手にした剣を翻すと、つかの部分を思い切りドアの窓に叩きつけた。
銃を手にした男たちがこちらを振り返るのも気にせず、割れた窓から手をさし入れて、裏口のカギを外す。
ついで、銃声と怒号、そして悲鳴が重なる。
リュウが裏口のドアを開けたちょうどそのとき、退路を断たれた2人の男が、リュウに向かって突進してきた。
とっさに身を沈め、リュウは最初に駆けてきた男のむこうずねを割る。
もんどりうって倒れこんだ男の体につまづいて、2番目の大男が姿勢をくずす。
そのすきを逃さず、リュウが返す刀で、斜め上に切り上げると、男が手にしていた金属のバールが天井へとはじけとんだ。
そのまま身を起こしたリュウが、一歩を踏み込んで腕を伸ばし、剣の先を男の胸倉につきつけようとしたとき、背後から突き飛ばされたように、男の巨体が突然かしいだ。
目の前に立つ大男の肩口から、金属線のような細い切っ先がみるみるうちに生えていくのを、リュウは見た。
己の肩から生えた刃を両手で押さえたまま、男は血を流し、ゆらりと倒れる。
その後ろに、男の背中から刺したレイピアをめんどくさそうに引き抜いたボッシュが、頬に飛んだ返り血を、手の甲で乱暴にぬぐうのが見えた。
「オイ、無事か、リュウ?」
「あぁ。」
「こいつを見ろよ。さぞかし大金が動いたにちがいないぜ。」
ボッシュは、作り付けの金属の机の上に散らばったドラッグの包みを持ち上げ、その重みを測るように上下させると、リュウに投げてよこした。
「ボッシュ! 応援も呼ばずに、こんなこと、無茶だよ…!」
リュウは、いまやうめき声ばかりとなった部屋の惨状を見回した。
ぬぐったつもりの赤は、ぐいと斜めに延びて、ボッシュの頬にあざやかな線を描いていた。
2.
調査室の硬いスツールに腰掛けた管轄長から、手渡されたボッシュの報告書に、リュウはざっと目を通した。
「…付け加えることは何かあるか、リュウ1/8192。」
「……いいえ。」
「武器保管所で、あずかった武器を返却する。今日は上がってよし。」
ぴしり、とかかとを揃え、調査室を出ると、リュウは、暗い廊下を足早に歩いていく。
「あ、やっといた! ねぇ、リュウ、ちょっと!」
午前中、基地の前に集まっていた連中、同僚のターニャとマックス、それからハントがずらずらと廊下の向こうから姿を現した。
「聞いて!」
「…悪いんだけど、ターニャ。後にできない?」
いつもとは少し違うリュウの雰囲気に、マックスとハントはすぐ気がつき、ばつが悪そうに廊下の天井あたりに視線を漂わせたが、ターニャだけはめげることもなく、リュウの手を引いた。
「違うの、今日のお手柄のことだとか、そういうんじゃないのよ?」
「今日の…手柄…?」
「ううーん、そうじゃないの! ほら、あんたたちも何とか言いなさいよ!」
ターニャの剣幕におされて、マックスが口を開いた。
「リュウ、その、相談したいことがあるんだ、俺たち全員で…、」 ほら、とばかりにつつかれてハントが後をつぐ。
「リュウに話さないと、って、俺たちもう…。」
「何…?」 さすがにリュウも同僚の方へと向き直った。
「ここではちょっと。今夜マックスの部屋で、全員集まるから…。」
そのとき、廊下のむこうを通り過ぎる人影を目にして、リュウはしかたなく口にした。
「わかった。今夜マックスの部屋だね。じゃあ、後で。」
マックスとハントは息を吐き、ターニャだけは、リュウの視線の先の人物に気づき、不満げに眉をひそめた。
3人と別れ、人影を追って入った次の通路の終端で、ようやくリュウは、あれからずっとすれ違っていた相棒を捕まえることに成功した。
「…ボッシュ、話があるんだ。」
「なんだよ、いきなり。」
通路には自分たちのほかは誰もいないことを確認して、リュウは声をかけた。
午後のあの一件以来、ずっとわだかまっていたことを確かめたかったのだ。
ボッシュは、リュウの横を通り過ぎようとしたが、その前にリュウが立ちふさがる。
「ボッシュ、今日のことだけど……どうして、俺が裏口に配置につくまで、待たなかったんだ?」
「はぁ?」
「もっとほかにやり方があったはずだろ。応援を待つことだって、できたはずだし、
あんなにけが人を出さなくても、確保できた…」
だが、手を上げてリュウの言葉をさえぎり、ボッシュは声を低めた。
「…まさかお前も、あの連中を逃がす気だったのかよ?」
ボッシュの冷たい口調に、リュウの心臓がどきんと鳴る。
「なんだよそれは…!」
想像もしていなかった侮辱に、かっとしたリュウがボッシュの手首をきつく掴み、振り返らせる。
「言い直せボッシュ。…俺の援護を、信じなかったってことか?」
「手を離せ。」
「そういうことなんだな?」
間近でリュウとボッシュの視線がぶつかった。
「調子に乗るなよ、リュウ。いったい、自分がどれほどの腕だと思ってる…?」
ボッシュは、リュウの手を振りほどき、立ちすくむリュウを置いて、振り返りもせずに立ち去った。
1人残されたリュウの胸に、あのときの熱さが蘇る。
ゼノに教えを受けたとき、自分の力が及ばなかったときの、あのちりちりと焼けるような、胸の痛み。
見上げた通路の天井の無機質な白い灯りが、視界いっぱいに広がった。
やがて、リュウはニ、三度大きく頭を振った。
――同僚の部屋を訪ねる前に、帰って宿舎で熱いシャワーでも浴びた方がよさそうだ。
武器保管所で預けていた自分の剣を受け取ると、ロッカールームで着替えをすませ、リュウは早足で、レンジャー基地を出ようとした。
ロッカールームの出口で、リュウの姿を見かけたらしいターニャが、基地の扉を出るときに、後ろからにぎやかについてきた。
けれども、基地のスライドドアを出て、玄関前の階段の踊り場のところで、足を止めたリュウの背中にぶつかりそうになる。
あわてて抗議しようとして、ターニャは息を止めた。
リュウの見ているものが、彼女にも見えたのだ。
基地の玄関前の階段下にある広場を囲う金属の壁に、朝にはなかった大きな落書きが書かれていた。
赤いペンキで書かれた一文字一文字は、人の背丈よりも大きいので、最初は全体が意味のあるまとまりにはとれなかった。
文字の途中でペンキが足りなくなったのか、殴り書きされた赤い大きな字は、あちこちささくれ立ったように見える。
文字の曲がったところから下に流れた赤いペンキが、まだ乾ききらないようにぬめっている。
壁全体を見わたして、今度こそ、ターニャにもはっきりと読めた。
壁に真紅のペンキで大きく書かれているのは、”8192” という数字だった。
「…うん、それで?」
かろうじて床の見えそうなスペースを探し出し、読み捨てられたディスクケースを押しのけて、そこから現れた裏返しになったアルコール飲料のケースの上に腰を下ろすと、リュウは、ずらりと並んだ同僚たちに口を開いた。
下層街の路地にある酒場の地下、両手を広げると左右の壁に届くほどのはばの急な階段を下ったところに、マックスが本物の兄弟と同居している部屋がある。
パイプがむき出しの天井だけはやけに高いけれど、部屋自体は新入りサードレンジャー十数人が座りきるにはせますぎる。
壁のコンクリートに窮屈にもたれているものや、玄関のドアを開け放し、その外側にある地上へと続く階段の下段に腰をかけているものもいる。
テーブルの上に広げられた夜食の包みの残骸が、マックス兄弟の貧弱な食生活を表していたが、それはここにいる面々にはどれもおなじみのメニューだった。
大柄なマックスがうつむいたまま、所在なげに手を伸ばし、だらしなく四方へ開いた包みを押しのけた。
赤みの強すぎる明かりに照らされて、とび色の眼をさらに赤くしたターニャが、そんなマックスのわきばらをつつきあげた。
「わかったよ。…リュウ、遅れてわるかったけど、いまから全部話すから。
最初は、ハントと俺だけの、ちょっとしたトラブルだったんだ。
でも、もう、ここにいる全員の問題になっちまった。
なんでこんなことに、なっちまったんだか…」
リュウは、覚醒飲料の入ったマグを片手に持ち、マックスの話を、黙って待った。
任務の途中らしい制服姿の者も、台所のスツールに腰掛けて、勝手に飲料水を飲んでいる者も、耳だけはしっかりとこちらへ向けている。
「…知ってるだろ? この上でやってる、ナゲット・レースが発端なんだよ。
最初と2回目の給料は、借金返すのに消えちまって、
だから3回目の給料はまず増やそう、って、こいつと組んで、ナゲット・レースにつっこんだんだよ。」
この部屋の上にある酒場で働くマックスの兄ピートが、食用ディク同士を闘わせる試合のダフ屋をやっていることは、ここにいる全員が知っている公然の秘密だった。
「兄貴のピートに頼んで、当然、うその名前でこっそり参加したんだけど、馬鹿勝ちしちゃってさ…、」
マックスは、そのときの興奮を思い出したかのように、大きく両手を広げようとし、右側にいたハントの頬に手の甲をぶつける。
「…勝ちに勝って、ほかの奴らが全部降りて、賭けにならないから、
ピートの提案で、最後に残った相手と、直に勝負をやることになったんだ。
で、こいつが」 と、マックスは、その右手で傍らのハントの後頭部をはたいた。
気の弱いハントは、それだけですくみあがる有様だ。
「実際にはありもしない大金を賭けようと言い出したんだ。
”どうせ、相手は俺たちの素性も知らないし、元手があるかなんて、わかりゃしない、要は勝てばいいんだから”なんて言い出して、
あんまりつきまくってたから、兄貴も俺もそいつに乗っちまった。」
「だ、だって、ほんとに、勝ったんだから…。」と、消えそうな声で、ハントが付け足した。
「そう、勝っちまったんだよ。俺たちは、元金のない賭けをもちかけて、相手から大金を巻き上げたんだ。
兄貴も、そりゃもう、大喜びさ。そこまでは、よかったんだ…。」
「ばれたの?」
「そう、しかもその相手だよ。」
パトロールの途中で抜け出してきたらしく、ゴーグルを頭の上に乱暴に引き上げ、乱れた髪のままのジョンが、横から口を出した。
「誰だったんだ?」
「…ファーストだったんだと。ファーストの1人をいかさまで巻き上げたんだぜ、よりにもよって!」
普段から辛口のジョンにまくしたてられて、マックスとハントは、気の毒になるほど、小さくなっている。
「嘘がばれ、素性がばれて、2人とも囲まれたけど、勿論謝っても許してくれる相手じゃなかった。
それで、ターニャが、ここにいるみんなに相談したんだ。
サードの新入りのみんなで、謝ります、この2人、なんとかします、って、ターニャが割って入った。
そうでなきゃ、こいつら、ほんとに危なかった。」
「その話で、みんな集まってたのか。」
マックスが、深くうなずく。
「――そう、それで、本題はこれからなんだ、リュウ。
あいつら、ファーストの奴ら、じゃあもう一度って、勝負を持ちかけてきた。
今度はディクじゃなく、サードから誰かと、ファーストから誰かを選んで、闘わせよう、って。
あいつら、サードが、ファーストに勝てるはずないこと、わかってて…。」
全員の目が、リュウの上に注がれる。
ふう、とリュウは、息を吐いた。
「なるほど。それで、あの伝言か。」
全員が、無言のまま、うつむいた。
「どうして、リュウが? って、あいつらに掛け合うよ。確かにこの中じゃ、腕は一番だけど、リュウは全然このことしらなかったんだ。
元はといえば、悪いのはこいつらだしな!」
ジョンの威勢のいい口調に、マックスは硬くなり、ハントの顔色は、すっかり変わってしまっている。
「でも、向こうから、俺を指名してきたんだろ? あの、壁に書いた数字で。」
「リュウ…すまない…こんなことになって…なんて言えばいいのか…。」
体が大きくて、普段は陽気なマックスが、やせっぽちのハントと同じくらいのサイズに縮こまっている。
リュウは、きっぱりと、言った。
「うん、俺がその場にいても、ターニャに賛成したと思う。」
不安そうに見つめるハントに微笑みかけて、リュウは続けた。
「それに、この中の誰かが出なきゃならないんだろ。
そんなに構えなくても、ファーストとの練習試合くらいに思えばいいんじゃない?」
「リュウ、いいのか…?」
ずっと目をそらしていたハントが、ようやくリュウと目を合わせた。
「でも、リュウ。これは、私闘だよ。
降参しない限り、相手が倒れるまでやりあうんだ、昔からのルール、これは”ドッグ・ファイト”だ、って、言ってた。」
訓練の成果で、誰もが、この中で一番、リュウの剣の腕がよくなっていることを、知っていた。
けれども、サードの実力がファーストに太刀打ちできるレベルでないことも、また。
「…じゃあ、倒れる前に、真っ先に降参することに決める。
それとも、まさか、勝てるとは、期待してないよな、みんな?」
ふざけてリュウが両手を挙げてみせたので、全員のはりつめていた空気が、ふっとゆるんだ。
「リュウ、不戦敗でもいいから、気をつけてね、本当に…」 同僚の中でも一番の心配性の、優しいエリーが、後ろからリュウの肩に手をかける。
「やっぱり、俺が…。」 思いつめたマックスが、立ち上がろうとするのを、みなが手振りで押しとどめる。
「あいつら、卑怯だよ。ボッシュだってサードなのに、ボッシュのことは指名しないなんて。」 ひざを抱えたハントが、そうつぶやいて、口をとがらせた。
「そりゃ、ボッシュは腕が立つからだろ。」 リュウが苦笑いして、(そんなことになったら、そのほうが、大変だ)、と、こっそり思う。
「ピンチになったら、全員で助けに入るぜ、リュウ。」
血の気の多いジョンの言葉に、全員がうなづいた。
「だいじょうぶ、うまくやるから、心配しないで。ほら、話は終わった。皆、明日も早いから、解散!」
リュウの言葉に、しぶしぶ全員が立ち上がり、宿舎やら下宿やらそれぞれのねぐらへと帰っていった。
まだ何かあれこれ言おうとするマックスとハントを残して、リュウも立ち上がり、地下の部屋の階段を上ると、リュウが出てくるのを待っていたらしいターニャが、階段の上で駆け寄ってきた。
そういえば、話し合いの間、めずらしくターニャが一言も発しなかったことを、リュウは突然思い出した。
「リュウ! ねぇ、ほんとにわかってる?!」
「わかってるよ。正直言って、こんなのは、施設で慣れてる。怪我しない程度に、うまくやるから。」
「そうじゃないよ! どうしてリュウが狙われたか、ちゃんとわかってる?」
ターニャがいつになく真剣な口調なので、リュウは振り返った。
「ほかのみんなは、知らないけど…、
あんたが狙われたのは、全部、ボッシュのせいなんだよ?」
「え、ボッシュって…?」 リュウは、目をしばたかせた。
なぜ、そこにボッシュの名前が出てくるのか、皆目わからない。
でも、ターニャの言い方に少しとげがあるように感じたリュウは、言い聞かせるように反論した。
「ターニャ、ボッシュは関係ないだろ?
嘘でも、そんなふうに言ってほしくない。」
きっぱりとしたリュウの態度に、ターニャは、ぴしゃりと頬を叩かれたような表情になる。
「そうだけど、ボッシュ、リュウが…。」
「…ボッシュが、どうしたの?」 うつむいて、言葉がうまくしゃべれないターニャを初めて見て、リュウの口調が少し凪いだ。
「マックスたちの件なんて、もう、問題じゃないよ。
最初のころ、あたしが割って入ったときは、ファーストのほうも、遊びだったんだよ。
あたし、わかってた。
”ドッグ・ファイト”なんて言ったって、新入りを脅す、ていのいい口実か、余興みたいなものだって、
だから、サードの皆を巻き込む話にしても、だいじょうぶだって。」
「うん。そうだね。…だから?」
”ドッグ・ファイト”という言葉を、今朝とはまったく違うトーンで、ターニャは、口にしていた。
「でもあの…あの、ボッシュが、今日、リュウと組んで、スマートドラッグの密売現場をやっつけたじゃない!
あれ、一部のファーストが知っていて、黙認してた取引だったんだ。
動いてた金額だって、マックスたちの賭けとは桁が違う。
大金を払って、ファーストが見逃すと知ってたから、堂々とやってたのに、
それなのに、あの一件で、ボッシュにめちゃくちゃに顔を潰されたから、
ファーストの奴ら、だから、パートナーのリュウをターゲットに選んだんだよ!」
ターニャは、そこまでを一息で語り終え、さらに声を潜めて、もう泣きだしそうなか細い声で続けた。
「リュウ、気をつけて…。
あの、壁の文字…あれを見たとき、あたし、わかったんだ。
あの赤は、ボッシュへの警告だよ。
裏取引を駄目にされて、頭にきてる一部のファーストが、
ボッシュへの見せしめのために、相棒のリュウを本気で潰す気になったんだよ。」
リュウは、目を丸くしてターニャを見つめた。
金属の壁で区切られた闇の中に、リュウが押し開けた扉から一条の光が差しこみ、廃墟のようなコンクリートの建物の地肌が、今日のリュウの目にはやけに白く見えた。
また、ここへ来ていた。
本当のことを言って、ターニャの言っていたファーストのいやがらせだの、私闘だの、そんなことさえ、リュウにはどうでもよかった。
リュウの中に残っているのは、相棒に投げかけられた、自分への不信の言葉。
(自分がどれほどの腕だと思ってる…?)
飲み込めぬそのかたまりは、こんな夜更けになっても、まだリュウの胸の中で燃えていた。
その熱に耐え切れなくて、今日もまたこんな夜更けに、この訓練所へ足を向けてしまったのだ。
うつむいたリュウは、手にした練習用の剣をすらりと抜いて横向きに掲げ、その冷たい刀身を額に当て、目を閉じた。
ヴ……ン……。
かすかに低い機械音が、もう何千回繰り返したかわからない模擬戦闘シミュレーションの始まりを告げた。
ホログラムで形作られた人物が、右後方から斬りかかってくるのを、ふりむきざまに、リュウは横なぎにした。
幻影の敵を斬るのは、風を切るように、重さがない。
人物の急所の位置に当て、動きをとめるか、致命傷を与えると、立体映像の敵は一瞬苦悶の表情に変わり、ぷつりと消える。
そうしてまた、別の場所に、新たな敵が現れるのだ。
廃墟にすむ幽霊。
リュウは、廃墟の間を縫って走り、無言で幽霊たちを斬った。
手ごたえのない体をつきぬけた切っ先が、建物の壁にぶつかって、がしんとコンクリートの角をえぐった。
代々のレンジャーが数え切れないくらい練習を繰り返したせいで、倒れゆくホログラムにはノイズが入り、顔色はどちらかといえば緑色に近くなってしまっている。
「…なんだよ、お前。敵が出てくる前に、反応してるぞ。」
はっとしてリュウが振り仰ぐと、練習場のコントロール・ルームの中で、腰の高さのコンソールに上半身を乗せ、あきれたように頬杖をついているボッシュが目に飛び込んできた。
呆然と見上げるリュウの胸を、ホログラムの剣が背後から刺し貫き、警笛のようなアラームとともにコントロール・ルームの壁の赤いライトが告げる。
――レンジャー死亡。
「…いくら練習したって、ホログラムの敵の動きを全部覚えてるんじゃ、実戦の役に立つのかよ?」
図星をさされて、リュウの背が、かっと熱くなる。
ボッシュが言ったとおり、レンジャー施設に設置された旧型の戦闘シミュレーションのパターンは限られていた。
そして、深夜の練習を繰り返したリュウは、模擬戦闘訓練で現れるホログラムの敵の位置と動きを、もう覚えてしまっているのだ。
「かもしれないけど…。」
「まぁ、待てよ。もっと面白くしてやるから。」
手元のコンソールから漏れる黄緑の光が、ボッシュの楽しそうな表情を下から浮かび上がらせる。
5分ほどのうちに、ボッシュが再び顔を上げて、廃墟の町に立つリュウを見下ろし、
「もう一度、最初からやれよ。今度の敵は、1人だ。」
とコントロール・ルームのガラス越しに声をかけた。
昆虫の低い羽音のような振動音とともに、再び戦闘シミュレーションが、始まった。
しかし、ボッシュが新たにプログラムしたそれは、既存のパターンを繰り返す訓練ではなかった。
ボッシュの手から新たに生まれた敵は、執拗にリュウを追い回し、待ち伏せし、リュウを欺いた。
攻撃の技能もスピードも、桁違いの敵に、リュウは翻弄された。
刺されても、斬られても、ゲームオーバーにはならず、敵の攻撃が続行されてゆく。
最初は気にしていた赤いランプも、途中から何度点灯したか、もうわからない。
そんなものを、確認している、余裕さえない。
訓練場の真ん中に位置する、一番高い建物の屋上で何回目かの止めを刺され、とうとうリュウは仰向けにぶっ倒れ、唐突に戦闘は終わった。
「はぁはぁ。」
自分の体よりもはみ出しているかのように心臓が高く打ち、こめかみを血が流れる音で、周囲の音さえ聞こえない。
肺がからっぽになるかと思うほど息を吐き出し、汗でかすむ目をようやく開くと、ほの赤い視界の中に、自分の傍らにそびえ立つブーツと、その上にいるボッシュが見えた。
ボッシュは、すらりとした右腕をまっすぐのばし、倒れたリュウの胸元に、レイピアの先をつきつけていた。
少しも揺れていないそのとがった切っ先を、荒い息を吐きながら、リュウは見つめた。
「どんな気分だ、リュウ。」
「…さぁね。」
「わかったよな、いまの自分の実力が。」
(己を知れ、リュウ。)、ゼノの言葉が脳裏をよぎる。
「…どうかな。」
リュウは、地面に投げていた右手で、すぐそばにあったボッシュのブーツをすばやく掴み、外される前に胸の前に抱え込んで強く引いた。
「!」
あわてたボッシュが、レイピアの先を地面に突き刺し、受身をとって倒れこんだところに、リュウが飛び掛り、その腹の上に乗って、ボッシュの体を押さえつけた。
リュウの動悸が、触れた部分から、うすいレザーのスーツを通して、ボッシュに伝わる。
鼓動が、交じり合った。
リュウは、息を呑んで、乱れた息を整えた。
互いの髪に触れながら、ひととき、影が重なる。
目を閉じても、リュウが巻き起こした土ぼこりの匂いが、する。
戦闘で高まったリュウの熱がボッシュへと伝わり、ボッシュからまたリュウへと、返された。
触れあった部分から、熱を共有したころ、リュウが、手をボッシュの顔の両脇の地面につけたまま、ボッシュに問う。
「どんな気持ちがした?」
「べつに。」
「…ひどいな、それ。」
リュウは、苦笑した。
ボッシュはリュウの体を押しのけると、ぱんぱんと塵を払い、そばにあった小さなブロックの上に腰掛けた。
そのまま、誰に言うともなくつぶやく。
「なぁ、いくら訓練したって、お前の能力じゃ、たかがしれてる…」
「相棒に「任務中信頼できない」って言われて、あきらめろって? 馬鹿言うな。」
ボッシュの横顔に、語気荒くリュウが言い返す。
リュウの中で、飲み下せないかたまりが、また熱くうずいた。
上半身を起こしたリュウは、ボッシュの隣の冷たいコンクリの壁に身を持たせかけた。
リュウの奥底に芽生えたものに、いまはまだ、リュウは気づいていない。
「そんなことじゃない、リュウ。俺が言っているのは、もっと先の話だ…。
目を見ればわかるさ。
お前は、もっと強くなりたい、
誰よりも強くなりたい、と思ってる、だろ?
だけど、お前と俺じゃ、はなからD値が違うんだ。」
「そんなこと、わかってるさ!」
けれど、顔をふり向けてみたボッシュの横顔が、いつもとは少し違って見えることに、ようやくリュウは気づいた。
ボッシュのまなざしは、リュウを捉えずに、とても遠くを見ていた。
ボッシュの耳に、青いピアスがきらり、と光る。
「―そりゃあ、ボッシュと才能が違うのは認めるよ。
…きっと、たどり着く場所だって違うだろう。
けど、いまはここでいっしょに働いてる。
相棒の足をひっぱりたくないって思って、何が悪い?」
「……。」
「いい加減、怒るぞ、ボッシュ!
無駄だと思うなら、
じゃあ、なぜお前、こんな夜中に、俺の訓練に付き合ってる?」
「敗者への同情、興味、哀れみ…。」
「好きに言ってろよ。」
「くだらない…。」
「え?」
「見てろ、全部…ぶっつぶしてやる…。」
リュウも、ボッシュの見ている、闇の先をすかして見た。
小さな街を模した、四角いコンクリートの塊が林立する隙間を、わずかに風が抜けてきて、頬にかかるボッシュの細い髪を揺らす。
ボッシュのピアスと同じ色をした、ほの青く光る燐虫が、その風にあおられて、いくつもいくつも昇っていき、見えない天井の闇へと吸い込まれていく。
訓練所の一番高いところに腰掛けて、2人は黙ったまま、壊れた玩具のような、廃墟を見つめた。
ボッシュが指摘した不足の意味が、リュウの中にももう落ちてきていた。
ボッシュが教えたかったこと、――自分に足りないのは、型にはまった訓練ではなく、予測できない実戦の経験だ――ということを、リュウは深くかみしめた。
翌朝、リュウとボッシュは、特別な会話を交わすこともなく、淡々と職務をこなした。
早番のパトロールを追え、2人が基地へ戻ってきたころには、階段前の壁の落書きもいつのまにか消されていて、こすられたような真新しい細かな傷だけが光っており、その前を通り過ぎるときにも、どちらも何も言わなかった。
ボッシュが先に、休憩室の中を通り過ぎ、つづいてリュウが入室するやいなや、待ち構えていたターニャやマックスたち同僚に腕を引かれ、壁際のスツールのところに連れて行かれた。
「な、何だよ、これ…?」
リュウは、そこに山と積み上げられた、食べ物や医薬品に目を留めた。中には、爆薬やおやつと思しきものや、形からどうみても毒キノコとしか思えない紙のつつみもある。
だが、スツールに座らされたリュウを取り囲む、同僚たちの表情は真剣だ。
「新入りの皆からの差し入れだよ。
ある物をかき集めたんだ。俺たち、気持ちだけでも応援したいんだよ。わかってよ…。」
ハントが、困ったような、でもどこか泣き出しそうにも見える笑顔を見せる。
「それから、これも。」
ターニャが、手書きのメモの束を差し出した。チケットサイズの紙切れに、走り書きのようにリュウの名前が書いてある。
全部で数十枚は、あるだろうか。
「なんだよこれは! お前ら、賭けは、もうしないって…!」
リュウが声を荒げて、マックスとハントの方を鋭くふり向いたので、2人は目をそらすこともできずにすくみあがった。
ターニャが顔を近づける。
「しーっ! 落ち着いてリュウ。
これは、新入り全員で、有り金をはたいて買ったのよ。全員、あんたに賭けた。」
「いい加減にしろ。なんでそんな馬鹿なこと!」
「いい? この賭けだって、あいつらがやってるの。
胴元は、あんたに目をつけたファースト、スポーテッドなんだよ。
新入りのほうに賭けるファーストやセカンドはいないから、普通ならこんな賭けは成立しない。
それで、サードの新入り皆んなに、あんたのチケットをふっかけたの。
この全額は、はなからスポーテッドの総取りってわけ。
こんなのは、ただの紙くずだけど、これであいつらが満足して、
あんたの危険が少しでも減るんなら、安いもんよ。」
チケットを握り締めるターニャの目が真剣なので、リュウはもう、何も言えなくなった。
正しいことではなかった。
だが、皆なんとしてでも、リュウにかかる負担を減らしたかったのだ。
「…ひどいレンジャー・チームだね。俺が勝ったら、どうする気なんだ。」
「そのときは、私たちの大勝ちよ、盛大にパーティしましょ!」
リュウは、ターニャがその名前をほのめかしたファーストのことを思い出した。
確か、あのとき、ボッシュと任務へ向かう前に、廊下でぶつかったファーストが、そんな名前ではなかっただろうか。
(8192…?)
IDの数字を口にしていたのを、リュウは、鮮明に思い出した。
こうして表向きは何事もなく、その日の任務が終わった。
明日は新入りに与えられた数少ない休日だから、普段なら、今夜は皆で遊びに行こうと盛り上がっているはずだった。
ひとりロッカールームへ向かったリュウは、自分専用のロッカーを開け、例の選別を投げ込もうとして、その中に丸めた紙きれがあるのに気がついた。
見覚えのある字で、スポーテッドと呼ばれたあのファーストの身体データと戦闘データが、書き連ねてある。
(…ほんとに、情報屋向きかもね…。)
リュウは、微笑んで、その紙切れを、後ろのポケットにつっこんだ。
そして、息を整え、ロッカーの奥にある、使い込んだ練習用の剣へと手を伸ばした。
(後編 へ続きます)
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ゲーム「BOF5 ドラゴンクォーター」二次創作小説です。レンジャー時代、パートナーになったばかりのリュウとボッシュが本気でやりあう話。前編です。
※女性向表現(リュボ)を含むので、苦手な方はご注意を。