「なあ、裏の顔とか本性とかっていうだろ。あれって実際どんなものなのかな」
親友である彼はそういって俺に話しかける。放課後、特にやることもなく学校近くの喫茶店で時間潰しをしているこの時に溢れた、どうでもいい疑問だったのだろう。
「さあ、とりあえずお前には無縁のことなんじゃないか。誰でも態度変えないのは表と裏がない象徴じゃないか」
俺はそう言ったが、全くそうとは思っていない。つまるところ、会話をしているのが俺の中でいう表の面であって、こうやって嘘をついても何とも思わない真実の面が裏だ。ただ裏の顔といっても、それが公になることはまずない。それを仮面に例えるならば、仮面を取り外すなら裏の面を触らなければ取り外せないのは分かるだろう。つまり、裏を知らなければ掴むことはできないのだ。ただ普通は漏れることがないのが裏であるので、自分からそれを暴露する人間、窮地に追いやられ自らの仮面にヒビが入った人間ぐらいだろう。他者に仮面を剥がされるのは。
「俺は表と裏がないわけじゃないさ。というか、そんな人間が本当に存在するわけがないだろう」
「まあ、確かにそう思うが……お前は例外だと思うんだよな」
表の俺が何かを呟くが、無難な言葉を返すだけだ。裏では常に考えている。表と裏が混ざりあったら人間は壊れるのだろうとふと思った。表と裏がないというのは人間ではなく狂人と言えるのではないか。ああ、確かにそう思う。こうやって心で考えたこと全て口を通じて外に出すというのは狂気の沙汰であるとしか俺には思えない。そんなことを考えていると、彼が言葉を発した。
「俺は表と裏がないように演技しているみたいなもので、ちゃんと心の中に裏の面もあるのさ」
それは興味があるな。見てみたいものだ。普段の彼と裏の彼というのはどれほど差があるのだろう。俺ほどあるだろうか。この濁ったような仮面の裏。きっと全ての人間に仮面があるとして、俺の後ろには何も無い。仮面が人の顔のあるべきところに張り付いているだけである。剥がされればそのまま地面に落ちて砕け散る。そうして身体も砕けるか、爆発するか、そんなものだ。裏側はどす黒く、そして脆い。だから表の顔でコーティングしてやらなければすぐに壊れてしまう。ということは、人間が生きるためには表と裏を作る必要があるということになるな。彼の言っていることは概ね俺の見解と一致するが、それを知らないように表は振舞う。
「……つまり? お前は偽者とか、そんなノリ?」
そんな訳ないだろうと思いながらも自然とそう答えてしまう。
「そんな訳ないじゃないか。俺はちゃんといるけどさ、やっぱり裏ではまったく別なことを考えているってことだよ、今もさ」
結局、彼も普通の人間だったということか。それはがっかりである。失望というよりは、落胆。はあ、ショック。そんな程度だ。わざわざ表の顔と裏の顔があるように偽って生活している俺からすれば落胆するのも無理はないと思わせて欲しい。こうやって話していることさえ彼が完全に表だったら落胆などしないのだが、彼は俺を親友と認めて自分の裏の部分を主張しようとしている。そこなのだ。裏は裏に留めて置かなくては、剥ぎ取られてしまう。
「まあ、そんなものなんじゃないか誰だって。俺だってそりゃ別のことを考えたりするしさ」
再び無難なことを勝手に答えていく表。裏の俺はそれを分析して別意見の方が納得できるのか考える。頭の中で常に議論だ。一人で孤独に考え、納得のいくものが出来たらそれを持論とする。ただ、発表はしない。俺は裏が決して表に出てはいけないと考えている。彼の仮面を剥がすのは容易である。親友である俺に殺されかけでもすれば簡単に剥がれるだろう。ただそれを実行することは出来ない。くどくなるが、裏は裏に留めておくべきなのだ。裏を出すならば裏の裏だけにしておかなくてはならない。それは表であり、偽者の裏ということになるからだ。
「そうかもしれないけどさ……裏の顔が本性だとしたら表の俺はどうなるのかと思ってなあ」
裏が出てきたならば、表は少しずつ崩壊する。だから俺は一切裏を出さない。
「どうなるも何も、表も裏も一緒だろう。お前はお前だから誰かの評価が変わるわけでもないし、対応が変わるわけないっての」
考えていることとは正反対のことをさらりと言う。こんなことをやりだした当初は、嘘をついても相手に悟られないか不安で堪らなかったが、今となっては何も感じない。あの時の自分はまだ可愛らしかったなあと思う。
「……そうか、悪かったな。変な話して」
「全然いいって。なんか悩んでることがあるんなら相談しろよ? いつでものってやっからさ」
「ああ、その時が来たらちゃんとするよ」
「じゃ、店主の視線がそろそろ厳しくなりそうだから出ようぜ」
彼と俺は喫茶店から外に出る。駅に着くまで明日のことを話し合い、最後に一言二言だけ言葉を掛け合って別れ、お互いの帰路に着いた。駅のホームで電車が来るのを待つ中で彼のことを考えていた。彼は何がしたかったのだろう。自分は心では別なものを考えていることを言いたかったのは間違いないだろう。俺は彼のことを表と裏がない珍しい人間だと思い、友好的に接してきたはずだ。だが、それは違っていた。彼に友好的に接する必要はさほど無くなったと言える。だが、彼との仲は彼だけではなく俺の周りの人も知っていることだ。急に変化してしまったら、何があったのかと思われてしまう。裏の概念が出ないようにするためなら仕方あるまい、彼との仲を継続しよう。また明日学校でいつも通りに振る舞い、裏の俺がひそかにショックを受けていたことを隠し、表の俺は偽りを綴っていく。そんな日々が楽しいと思ったことは一度もないが、これ以上に望むものはないのだ。俺は家に帰るとすぐに風呂に入り、寝ることにした。
彼が俺に話しをしてきてから数日たった。
彼はその日の帰りに、殺されかけた。勿論俺は手を下してなどいない。表の世界とは関係ないところには踏み込まないのが俺のルールだ。彼が殺されかけたのは全くの偶然で、そういう運命だったのだろう。確立の上では何百万分の一の確立らしいが、そんな数値はあてにならないし、身近に起こっても特に驚かない。ただ、当の本人である彼にとってはあまりにも大きなことだったのだろう。彼は表の仮面が剥がれてしまったようだった。今日はそんな不幸な彼のもとにお見舞いに来ている所だ。彼の病室の前に立って、スライドドアを開ける。彼のベッドに向かって歩き出す。足音がカツッカツッと病室を満たす。
「誰だ」
彼は短くそう言い放った。俺は彼の目の前に立っている。だが彼は分からない。両目を覆うように包帯が巻かれているからだ。もっと詳しくいえば眼球がないためだ。体の節々は鋭利な刃物で切りつけられている。分かりやすく言えば、ミイラのように包帯でぐるぐる巻きだった。そんな彼を見て、俺は無言でいた。表の俺は絶句しているようだった。
「まさかお前が俺を殺そうとしたやつか!」
腹から砲弾のように声が飛んでくる。彼はそれが傷を痛めるのか、顔を歪めた。犯人は最悪の犯行をした。拉致をし、両目を初めに抉ったらしい。そこからは耳と喉は痛めつけずに体中を切り刻んだようだ。死なないように丁寧に。彼は横の机にあった花瓶を手にぶつけ、倒した。花が一本、水と一緒に机に広がった。黄色い明るい色だった。彼は花瓶を手に取ると俺に投げつけた。後ろで陶器の割れる音が響いた。彼は他に何かないかと必死に探す。だがそのようなものはもうない。彼は恨みの篭った言葉を俺に投げつけるだけだった。
目の前の彼はあの日の彼とは明らかに違う。全く違うというわけではない。彼はきっと表と裏が混ざり合ったのだろう。それがこの結果だ。俺なんかに心を許して裏を公開しようとするからこうなるのだ。その心の隙を突かれて、仮面もろとも目も剥がされたのだろう。俺は彼をそのままにして彼から遠ざかった。
表の顔は驚愕と後悔の感情を貼り付けて再現する。スライドドアを開けて、外に出る。彼の家族と顔が会う。そして言葉を表の俺が勝手に発する。相手も反応をし、悲しそうに答えてくれる。どうやら彼はこの病院から移動するらしい。どうしてこうなってしまったのだろう、と彼の父親は嘆いた。彼を襲ったのは単なる偶然でしかないが、いずれはこうなるはずだったのだ。それがあまりにも速かったため、受け入れられない。
人間にとって表の仮面にヒビが入るということはあってはならないのだ。表は常にコーティングされていて、艶を放ち清潔であらなければならない。裏はどす黒く醜悪に満ちていてもいいのである。表がしっかりと出来ているならば、人間として壊れることはないのだ。
彼の移動先は精神病院だ。俺は精神病院に行く予定はない。彼と出会うのはもう一度仮面が再構築されてからだろう。それまでは親友が不幸な事故で狂ってしまった人間を表の俺は演じ続けなくてはならない。表は演技のために変化するが、常に裏は一定で不動であるべきだ。彼は揺らいだからこうなってしまったのだ。
俺は彼のいる病室のほうを見る。そして壁を殴った。表の俺が勝手にしていることだった。表の俺は憤りを感じているような表情をしながら、仮面の裏側の俺は何も感じないまま病院を出て帰路についた。
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人の表面を仮面として考えてみよう。