深い闇が全てを閉ざす。
木々の掠れる音。風。
窓辺に映るのはそんなものだ。
それで全てだ。
光すらない。月は姿を消し、全てを闇に委ねている。
濃密な黒を塗り込めた、絶対的で強迫的な無。
この屋敷にはただ闇があるだけだ。
祖父の代からずっと。
喧噪から離れ、全てと無関係に時を刻む場所。
市街から離れること10数キロ。小高い山の中腹にある、古びた洋風の屋敷。訪れるものもなく、公道からも離れている。鬱蒼と茂る森の中を入らなければこの屋敷は人の目にすら付かない。
そこが私の住む場所だ。
私は手元の書類に目を落とした。
机一杯に積み上げられた様々な紙。便箋、印刷された書類、コピー、FAXの紙。それらは全て私とは何の関わりもない事柄が並べられている。そして、日ごと積み上げられるそれは私に作業を強制するのだ。
この紙の山が消え去ることはないだろう。私が屋敷に火をつけたりしない限りは。
もちろんそんなことをする気はない。寿命か、事故か、あるいは誰かに殺されるまで私はこうして生きていくだろう。
再び紙の山に手を伸ばす。
アンティークランプを模したスタンドが鈍い輝きで部屋を照らし出している。全てがセピアに染まっていくようだ。時間の褪せる輝き。真新しい紙も羊皮紙のようなぼけた色合いに映り込む。この世とは何の関わりもない演出効果だが。
意志とは無関係に目は文字を追い、内容を脳に焼き付けていく。
その繰り返し。
もう何枚処理しただろうか。時間の感覚がない。ただ、夜だけが続いている。
必要ないと思えばシュレッダーに掛かってゴミと化し、必要と思われたものは無作為にファイルへ綴じられる。
紙をめくる音だけが全てだ。それ以外の音は聞こえてこない。そして無意味だ。私の息も、肌が紙と擦れ合う音も、椅子の軋みも意味がない。それらはただの事実で、私のやろうとしていることには何の波紋も投げかけてこない雑音だ。
ふと、背後の扉が鳴る。
意味在る音。
ノックの音。
「失礼します」
女の声。幾分低いが伸びのある声。
その一言から、僅かに沈黙がある。
私にはそれが誰か見当がついている。
「入れ」
私は扉を見ることなく言った。
ノブをひねる音。あくまでそれは静かで、不用意な雑音を挟まない。そういうルールがある。誰が定めたのでもない、暗黙のルール。
聞こえてくるのはドアを開ける音。ただそれだけだ。
足音。それすらも溶けて消えている。
「お茶をお持ちしました」
そういってから相手は動かない。
亜麻色の髪。流れるように美しく、なめらかな色。後ろで一つに縛られているため散らばることなく整っている。日本人にはあまり見られない髪の色だ。それ故に神秘的でさえある。そしてその色に呼応するかのような、大理石の如き柔和な肌はギリシャ彫刻のような色合いを薄暗い部屋の中で主張している。
美しい女だ。すらりとした鼻梁も、艶やかな口紅で彩られた唇も、計算された美を放っている。
しかし、前髪は長く伸ばされ、その表情の半分を覆い隠している。
私の屋敷の専属メイド、榊 明香。彼女自身はそう名乗っている。本名かどうかは知らない。彼女自身がそう名乗ったのだから、私はその名で彼女を呼んでいた。
もう2年も住み込みで働いている。
有能。そして忠実。だが何処か謎めいている。
正規の家政婦派遣所からの派遣員ではない。2年前の嵐の夜、唐突に彼女は私の元へ訊ねてきた。幾らかの期間を置いて査定した結果、これ以上の人材を望むのは、ほぼ無理だろうという結論に達した。そして私は彼女の能力を買った。私の目から見ても彼女は優秀だった。
以来2年間、私の屋敷の全てを取り仕切っている。
明香は口許を動かすことなく、微動だにしない。私の意見を求めているのだ。
「そこに置いてくれ」
私は机脇の、小さなテーブルを指した。
小さく頷くと手にしたティーセットを静かに置く。
「精が出ますね」
「これが仕事だからな」
手にした万年筆を置く。
タイミングはいい。必要なときに必要なものを用意する。この一見当たり前のような事柄に、一体どれだけの能力が必要か考える人間は少ないだろう。だが、必要なときに必要なものを相手に与えるのは偶然という力を借りてもそう成就しない。
明香はそれが出来る。何を欲しているか素早く判断し見抜く事が出来る。
それがこの謎めいた女を屋敷に留まらせておく理由の一つだ。
だが、彼女は何故私を選んだのだろうか。
「何故、お前は私に雇われている?お前ほどの人間なら何処でも雇う場所はあったはずだ。私に仕えてもなんのメリットなど無いと思うが」
「メリットならありますわ。あなたからは十分な報酬を得ていますもの。貴方ほど金払いがよく、好き勝手やらせてくれる雇い主は居ませんし、お屋敷も手入れのし甲斐がありますから」
「金など私よりも出すところはある」
「忠誠心の高い人間ほど、精神的な報酬を重視しますのよ。貴方から得られる精神的な報酬は、何処よりも高いと評価しています」
「精神的報酬か……与えているつもりはないのだがな」
そういう考え方は判らなくもない。
全てを得てさらに何かを求めるか、さもなくば芸術家のような創造に携わるものか。そういう人間は精神性を多分に求める。珍しいタイプではあるが、人に使われることで能力を発揮する人間も少なからず居る。
だが、明香は使われるタイプではない。
何を求めてここにいるのか。
謎めいた微笑からは何も読みとれない。
「私には十分すぎます。お金も・・・・信頼も」
明香が背中越しに腕をまわしてくる。
「でも………それだけではないのかもしれませんわ」
囁き。妙に熱い吐息。
身体にかかる重さが、女としての柔らかさを伴って増していく。
「貴方にとって、私は何なのでしょうね」
「メイドだ。それで十分ではないのか?」
私はぶっきらぼうに言った。
それは私の本心でもある。私は明香を女としては認識していない。私と同じ高さにいられる女などいない。
そういう意味で明香はメイドだった。それ以上でも、それ以下でもなく。
「もう半歩だけ歩み寄れば見えるものもありましょうに」
「やめろ。茶番はそこまでにしておけ」
私は明香の手をふりほどく。
「あら?乗ってくるかと思いましたが」
重さが消える。舞うような、軽やかさ。
髪がなびき、前髪で隠された瞳が一瞬だけ露わになる。
深い瞳。憂いと、純粋さ。両方をたたえた瞳。水晶の目。
美しい。
そう思わせる。芸術品のような、ある種完成された美しさ。
人に当てはめる概念ではない。だが、明香にはそういう表現が相応しい。
しかし。
「お前と関係を持つ気など無い」
「私はそれでも構いませんのに」
だが、そこから先へ行けば、引き返せないことは判っている。
本気ではない。
誘惑でもないだろう。
試している。
私を。
私を試して何の利益があるというのだろう。自分が仕えるものとしての、資質の判定か。自らが私によって試されたように。それとも、意図したことなのか。
判っていることは一つ。
金だけの繋がりから一歩踏み込めば、関係は壊れる。
停滞という環から。
だが、私は邪魔されたくない。自分以外に左右されるなど不快でしかない。
こんなものはただの遊びだ。だが、遊びにリスクが伴うのは、既に遊びではない。
往々にして女という生き物は危険だ。自分の使い方を心得ている女は特にだろう。
「命じれば手にはいる。私と貴方との関係はそういうものだと思いますが。たかが小娘一人、どうにも出来ないわけでもないでしょうに」
先ほどのような、情感は込められていない。言葉は挑発的だが、本心ではない。
「お前の戯れにつき合う気はない。そういったはずだ」
「戯れなんて人聞きの悪い。私の望みは貴方の望むようにすることですわ」
「望んでなどいない」
「でも、私は貴方の望みを叶えることが出来るかもしれませんよ?」
もう一度背中越しに腕が回され、私の身体を明香が抱きしめるような形になる。
甘い香り。シャンプーの香りか、香水の香りか。
まるで蜜で蜂を誘う花のようだ。
美術品のような高貴さから滲む、妖艶さ。
美という位置づけは同じでも、互いに相容れぬ二律背反をこの女は抱えている。微妙な均衡の上に成り立つ美しさだ。高貴さが上回れば、妖艶さは飾りか、色の強い化粧でしかない。強すぎればどんな高価な口紅でも安っぽく見える。
明香はむしろ、その安っぽさを見せることによって自分を引き立たせる技量の持ち主だろう。客商売かモデルでもやればそれなり以上に稼げる人材だ。
そんな女が私に抱きついている。
しかし。
「悪い気はせんが、気が乗らんのでな」
もう一度ふりほどく。
その手を明香が掴んだ。
冷たい手だ。細く、華奢で、本当に氷から削りだされたかと思うような細い指。
「とても寂しそうでしたので少し慰めて差し上げようと思ったのですが」
「寂しそう?私がか?」
「夜空の月のように、輝けど孤独な光。貴方の目は、そういう光を宿していますもの」
「予言者みたいな事を言うな」
「予言じゃありませんわ………女の勘」
「確かに。予言者ではないだろう」
予言者はえてして人の上に立ちたがるものだ。謙遜する予言者など信用されはしないだろう。
女の勘。的中率はさておき、中身を吟味するならば。
「さしずめ、魔女だな」
「あら。人聞きの悪い」
明香はティーポットに手を伸ばした。耐熱ガラスのティーポットには、既に湯も茶葉も注がれている。熱湯による対流で、茶葉が踊るように沸き返っていた。
先ほどの行為は、やはり戯れだったのだ。
トレイの端に置かれた砂時計は砂が落ちている。
つまり、時間が来たということだ。給仕をするために必要な、茶の抽出時間を稼ぐための演出。その5分間をうまく埋めることに、意味があったのだろう。
カップに紅茶を注ぐ。
甘い香りが部屋一杯に広がる。
私の部屋に充満する、紙の匂いを塗り込めるかのようだ。
明香は添えられた陶器の小瓶から何かをすくって紅茶に入れ、二度かき回した。
ガムシロップだろうか。
「どうぞ」
明香から手渡されたカップを受け皿と一緒受け取り、一口飲む。
甘い香りはいつも通りだが、それとは別種の芳醇な香りが鼻腔に広がる。
私の表情に何かを感じたのか。明香が説明した。
「ブランデーを二さじ、入れてみました。ここのところお疲れのようでしたので」
なるほど。
納得し、もう一口飲む。
先日半分ほど空にしたXOの瓶を思い返した。蒸留酒は、瓶を開けてから香りが飛ぶまでが速い。そういうことを吟味した上での選択だろう。
賢い方法だ。風味も鮮度も損なわぬうちに材料を使い切るのは浪費ではない。
私は個人的に紅茶を嗜むことはないが、こういう楽しみ方もあるのだな、と思う。
紅茶にブランデー、か。
安い贅沢だが、気分は悪くない。
「本当は、グランマニエが有ればよかったのですが」
明香が申し訳なさそうに言う。
グランマニエのようなオレンジリキュールは私のストックにない。甘すぎるからだ。あるのはウイスキーとバーボン、それにブランデーだけだ。
「買ってきておけ」
「よろしいのですか?」
それは、私がリキュールの類を飲まないと知っているからこその言葉だ。
たまに飲むだけの紅茶のために買ってきてよいのか、という問い。
「許可する………必要なものは何でも揃えろ」
「貴方のそういうところが、私はとても好きですよ」
「いい仕事をするために、いい材料を求めるのは当然だ。お前は、プロなのだろう?」
「はい」
満面の笑みでそう答えられると、不思議な気分になる。
私は・・・・・気恥ずかしいと思っているのか?
この女は苦手だ。
有能だが、何処か見透かしたような視点でものを見る。
世界は見通せても人の心は見通せない。
遙かな昔に聞いた、そんな言葉が甦ってくる。
それはある意味真理だろう。疑問を挟む余地はない。
「美味しいものは、体も心も温めてくれますもの・・・・もっとも、心だけは食べ物では温かくならないときもありますけれど」
「心の温かさなど誰にも判るものではない。優しさや同情が人を成長させるとは限らないのと一緒だ」
「それでも、人に必要なのは温もりと優しさだと思いますが」
「そんなものをほしがった憶えはない」
日々の糧と雨風をしのぐ場所。規模と質は違っても、結局のところ人に必要なのはそれだけだ。
「私には、そう見えます」
「憶測で判断するな。火傷をするぞ」
「火傷してみるからこそ、その熱さも判るというものと思いますけど」
不毛な議論だ。
私はため息をついてカップに口を付ける。
紅茶の銘柄は知らない。あまり区別が付かないからだ。
しかし、微妙な味の差異を考えると、明香は私に合わせて幾種類かの銘柄を使い分けているのだろう。アールグレイといった香りに明らかな差のあるフレーバーティーのようなものは私にも区別が付くが、微妙なものになるとさっぱりだ。私が美食家でないのは、こういうところから来ているのだろう。
カップを目線の高さまで持ち上げる。
薄いグリーンのティーカップは彼女が揃えたものだ。派手さはないが落ち着きのある柄。スミレのような小さな花をあしらった柄が描かれている。趣味はいい。
だいぶ前に説明を受けたような気はする。ウェッジウッドだったか。
どちらかといえば、私の好みだ。
明香の目は、私の趣味や味の好みに至るまで的確に見抜いている。塩加減、色使い、家具配置のセンス、どれもが一級だ。それが彼女の監視とも取れる執拗なまでの観察行為にあるのだとすれば、行きすぎの観はあっても納得は行く。
知られること自体に不快な感情はなかった。それが彼女の仕事であり、能力だ。
私が快適に過ごすために必要な労力だと思えば、彼女が密かに私に観察の目を向けていることに対して理解もすれば耐えられもする。
だが、本当にそれだけなのか?
私には判らないし、興味もない。
ティーカップを空にしたとき、私の身体は微妙な暖かさに包まれていた。
それが紅茶の温かさなのか、紅茶に含まれたアルコールなのか、それとも明香のいうところの愛情なのかは判らない。全部、あるいはそのどれか。
テーブルにカップを置くと、傍らのアンティーク時計が12時を打った。
「あら、もうこんな時間・・・・・シンデレラの魔法が解けてしまいますわね」
「シンデレラに魔法などかかっていない。魔法は彼女自身の魅力には何の荷担もしていない。馬車もガラスの靴も、唯の道具だ」
「斬新な解釈ですね」
「当たり前の事実だ。それに、魔法など非科学の産物だろう。今時お伽話にもならん」
「私が魔法の産物で、突然ぱっと消えたらどうしますか?」
「別に、どうにもならん。また独りで生きるだけだ」
当然の事実。
明香の居なかった過去が接続され、変わらぬ日々が紡がれる。
それだけのことだ。
「ずいぶんと寂しい返事ですこと。ちょっとは色のある答えを期待していたのですけど」
「無駄な期待だな」
「そうですね。無駄だったみたいです」
たぶん、皮肉なのだろう。
なかなか辛辣だ。
そういう強がり、シニカルさは嫌いではない。
変に気を回されるよりずっといい。
「さっさと片づけて、寝ろ。明日に響くぞ」
「それは、私を気遣ってらっしゃるのですか?」
「好きなように解釈しろ。だが、私の邪魔をするな」
「それでは失礼させていただきます」
私は椅子を回転させて机に向き直った。
ティーセットを片づける音が背後で響く。
落ち着かない気分で、私はそれを聞いた。
不安を感じているのだ。この私が。
音が止む。
僅かな空白。
「御主人様?」
違和感のある単語。
苛立ちを掻き立てる言葉。
「その呼び方は………」
やめろ、の言葉は出なかった。
明香の唇が私の口を塞いだからだ。
両手は私の肩を抱き、その圧力を確かなものにする。
甘い香りがする。花の香りだ。
その、甘さと拒絶感のある香りが記憶をかすめる。
ラベンダーの香り。
久しく感じることの無かった、他人の体温。重さ。
抗うこともせず、ただ時間が過ぎていく。
僅か数秒。
驚きを許容するには十分すぎる時間だ。
明香が離れる。
「お休みのキスにしては、ディープすぎましたか?」
「何のつもりだ」
親指で唇を拭う。
赤い色が指に伸びていく。まるで血のようだ。
命の赤。
だがこれは口紅だ。血ではない。
「サービスのつもりですが。お気に召しませんでした?」
口調に悪びれた様子はない。
「過剰サービスだな」
ハンカチで手を拭く。生地の白に口紅の軌跡が擦れて残る。
僅か数秒の、情事のあと。
嫌悪を感じる。
情事そのものではなく、受け入れた自分に。突き放すことも出来たのに、そうしなかった自分に。
だが、もう一方でそうではない感覚もある。
「請求額には含まれていませんからご安心を」悪戯っぽく微笑むと、一礼する。「では、お休みなさいませ」
そして部屋には誰もいなくなった。
椅子に深くよりかかる。
してやられた。
怒り。だが、何に対して怒るというのだろう。
ため息が漏れる。
利益のない駆け引き。
こういうのも、悪くない。
スタンドの明かりを消す。
舞い降りる、闇。
就寝前のキス。
シンデレラの魔法………か。
無下にすることもないだろう。
ドアを閉め、寝室へ向かう。
今夜はいい夢を見られそうだ。
そんなことを思う。
月が僅かに覗いている。
私はあくびをして、それから寝室のドアを開けた。
Tweet |
|
|
1
|
0
|
追加するフォルダを選択
連作「翡翠の箱庭」の一作目です。
郊外の屋敷で静かに暮らす主人とメイドの、静かな交流を描きます。
こちらも古い作品ですが、全編完結しておりますので機会を見て掲載していこうと思います。