私の通っている高校でのこと。
昼休みも半ばを過ぎたころ、食堂で友人を待っていた私の耳に、こんな会話が届いた。
「僕はこれ、『できない奴は文句言うな』と言っているように思えるんだけどどうだろう麻生君」
「……どうだろうという質問がどのような回答を求めているのか分かりませんが、そういった解釈が可能か否かということならば、可能だと思います」
昼時の高校生の会話という雰囲気ではなく――それどころか高校生の会話という雰囲気ですらない。私は思わず聞こえてきた方を向こうとした。頭ごと向くのは何とか思いとどまり、目だけで声のした方を見る。
視線の先では男女の生徒が一組、向かい合って座っていた。昼ごはんを食べた後なのだろう、ふたりの間のテーブルにはBランチと蕎麦だったと思しき器が並んでいる。声の低さから判断して、麻生君と呼びかけたのは男子生徒のほう。ネクタイがエンジ色なので三年生らしい。麻生君と呼ばれた女子生徒は紺色なので二年生。つまり私にとってはどちらも先輩ということになるけれど、それはまあ、大したことではない。
麻生君と呼ばれた先輩は横顔が妙に蒼白かった。体調が悪いのだろうか。三年生の先輩のほうは彼女のその様子を気に留めていないみたいなので、ひょっとしたらあの顔色で普通なのかもしれない。それはそれで少し問題な気はする。
「いや、ごめん。今のは僕の言い方が悪かったね」三年生の先輩は言った。「そうじゃなくて、君ならどう解釈するかな、ってこと」
「最初からそう言ってください。私でしたら『自分にできないことを他人に言うべきではない』――でしょうか。部長と大差はありませんが……」
「大差はないけど、微妙に違うね」
腕を組み、うんうん、と一人頷く三年生の先輩。
一体なんの話なんだろう、て言うかなんでそんな大げさな物言いなんだろうと思いつつも、あまりじろじろ見続けるのが不自然な気がして、私は彼らから目を外した。遅い友人を探すような素振りをしてみる。いや、実際その通りなので、『ような』も何もないのだけど。
食堂は空席が目立ち始めていた。席についている生徒を見ても食事をしている姿はまばらで、どちらかと言うと食後の会話を楽しんでいる人のほうが多いようだ。
この食堂には全校生徒の四割を収容できる席が用意されている、らしい。ちなみにウチの高校の一学年の人数はおよそ四百人。よって全校生徒は約千二百人――その四割だから、だいたい五百席というところか。それだけの数がひとつの空間に収められているわけだから、つまりここはそれなりに広いということだ。
軽食を扱う購買だってあるし弁当持参組もいるだろうに(私だって普段は弁当組の一人だ)、五百席という数は妥当なのかどうか、正直ちょっと怪しい。実際この食堂の席が生徒でびっしり埋まった様子というのは、この春に入学して以来、ほとんど見たことがない。大きな窓やちょっとしたレストランのような内装なんかも高校にしては豪華過ぎる気もする。……まあ私立高校だし高いお金を払っているのだから施設くらいは充実してもらわないと割に合わない、と思っておくことにしているのだけれど、もっと他にお金をかけるべき方向があるんじゃないのかという気もしないでもない。
私の感想はさておき。
周りにいる生徒たちはそんなことを気にする風もなかった。辺りにはつかの間の休息を堪能しようという穏やかな賑わいに満ちている。
窓の向こうの秋晴れの空が、痛いくらいに高く涼やかだ。
と、
「とりあえず、この一文から革新的な姿勢を読み取ることは無理そうだよね」
先ほどの三年生の先輩の声が聞こえてきたので、私は耳をそばだてる。視線は窓の外に向けたまま。
「『批判はしたけれど自分にできるだろうか』――」三年生の先輩が棒読み口調で言う。なんだかどこかで聞いたフレーズだった。「言論の自由に対する挑戦って言うか、僕らみたいな連中を真っ向から否定するセリフだと思わないかい。できない奴には批判をする資格もないってことだろう、これ」
「……そうでしょうか。私はそうでもないと思いますが」あまり抑揚のない声。麻生先輩のものだ。
「と言うと?」
「革新的な姿勢なのではないか、と。この文は『批判の内容を実現する能力がありさえすれば、その批判は正当である』とも読めます。いえ、正当と言うよりは――有効……」
麻生先輩の言葉は、そこで止まった。
会話が途切れる。
「麻生君?」三年生の先輩の声には、様子をうかがうような色があった。
「あ……はい」どこか上の空のような返答。
喧噪が通奏低音のようにじわじわ響くのを改めて意識するくらいの間、沈黙は続いた。
ややあって、
「ええと、つまりここで語られているのは批判の有効性――説得力があるかどうかであって、批判そのものの是非ではないのでは?」麻生先輩は何事も無かったかのように話を再開する。
「批判すること自体は認めているじゃないか、って?」三年生の先輩もそれに合わせた。
「はい。ですから、革新的でない――つまり保守的な姿勢であるということと、批判の存在を肯定する、ということは両立しないような気がするのですが」
また少し間があった。
とん、とん、とゆっくりしたリズムで床を鳴らす靴音が聞こえる。
「そうでもないね」三年生の先輩が答えた。「確かに批判の存在は肯定してるんだけどね。その批判が単に『内輪のいじり合い』にとどまってるとしたら、それは革新的? 保守的?」
「それは……――」
「保守的だと思うんだよ」答えを待たず、三年生の先輩。「『できる』人たちのグループ――つまり、みんな似たようなことができて、それ故に互いの手の内を知ってる人同士のグループってことだけど、その中でする意見のやり取りって確かに確実なんだよね。どこが問題でどこが優れてるのか、お互いよく分かるから指摘もしやすい」
「おおむね共通した基準を持っているからですね。私達の場合で言えば、お話の書き方のノウハウであるとか」
「そうそう」三年生の先輩は肯定した。
お話の書き方?
視線をふたりの方に戻す。ちょうど麻生先輩が口を開くところだった。
「ですが、それなら批判の存在を認め、お互いの技術を向上させようとしているわけですから、やはり革新的な姿勢では?」
「似たような性質を持っているものって、似たような欠陥を抱えているもんだよ」三年生の先輩は顔色ひとつ変えなかった。「人の集団でもね。似たような性質の人たちは、似たような問題を抱えていることが多い。――似た人の集団の中にいるとき、その中の人たちは、自分たちが共通に抱えている問題にまず気付かない。なぜか?」
「ええと……その問題を抱えていることが当然で、問題と認識されていないから」
「じゃあ集団の中の人は、その当然のことを指摘する?」
「するかもしれませんが、その可能性は低いでしょう」
「そう」頷く。「『できる人』同士の指摘をしやすくしてる共通の基準それ自体が、同時に、ある程度以上の進歩を妨げる限界線にもなってるってわけ」
「限界線ですか」
「思考の枠組み、パラダイムってやつだね。で、そういう枠組みの中での意見のやり取り――『内輪のいじり合い』ってのは、いずれニッチもサッチもいかない状態に陥る可能性が高い」
にっちもさっちも。
いまどき聞かないフレーズだ。
「そういうとき、問題を解決するには枠組みそのものに目を向けなければいけないわけだけど、いま言ったとおり、内側の人にとってそれは簡単なことじゃない。そこで意味を持ってくるのが――」
「枠の外の人」麻生先輩がセリフを継いだ。「『できない』人たちの意見ですね」
「そういうこと。……要するにね、そういう新しい展開をもたらしてくれるかもしれない意見を『できないのなら言うべきではない』って封じてしまうのは保守的じゃないだろか、って僕は思うわけだ」
言うと、三年生の先輩は背もたれに体を預けて微笑んだ。
「実際、僕らみたいな連中にとってもそうだよね。同業者さんの意見も聞きたいけど、純粋な読み専門の人からの意見ってのも十分に価値があると思う――あ」体を起こして、「ほら、K高祭のときウチの作品に感想くれた……名前なんだったっけ、一年生のあの子」
「鎌田さんのことですか?」淀みなく答える麻生先輩。
「そうそう鎌田君。あの子がくれたみたいな、読者の立場からの意見ってのもこちらとしてはありがたい。そう思わない?」
「確かに」
一年生の鎌田……?
「そういうのを『書けもしない奴が偉そうに語るな』みたいな態度ではねつけてしまうのは、なんて言うか、貧しいと思うよ、僕は」
「そうですね。その点には同意します」
麻生先輩は頷きつつそう言うと、蒼白い顔のまま少し笑った。やっぱりどことなく病的な感じが漂う。
会話は途切れ、三年生の先輩が再びイスの背もたれに体重をかけた。
私もまた、窓の外に目を向ける。
鎌田という名字の一年生が私の友人以外にいたかどうか、同級生の顔ぶれを知っている限り思い浮かべた。思い当たる顔はいなかった。と言うか、他のクラスにはあまり知り合いがいない。名簿でもあれば一発なのだけど、あいにく最近は学校側の管理が厳しくて、その手の個人情報はなかなか生徒の手に渡ってこなくなっている。
……なに考えてるんだろう私。あれば調べる?
そこまですることでもないだろう。
「あの、部長。お茶汲んできましょうか」
「ん? ……いや、僕が行くよ」
イスの脚が床をこする鈍い音が響き、一人分の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
部長ということは、あの二人は同じ部活なんだろうか。改めて思い返してみて、さっきの話の内容もそれらしいものだったのに気付く。お話、批判、感想、読者……このあたりの単語から察するに、文芸部あたりか。
そこまで考えたところで、前に友人から文芸部の話を聞いたことがあるのを思い出した。実は私にその話をした友人こそ鎌田という名字の私の親友で、私がさっきからずっと待っている相手だったりする。彼女の顔を思い描いて、あの子なら文芸部につながりがあってもおかしくはないか、となんとなく納得した。
それにしても、と腕時計に目をやる。遅い。
昼休みは残り二十分を切っている。図書室で少し調べ物をしてから行くから先に行って席を取っておいて、と言ったのは彼女だったのだけれど、多分世間一般の感覚では四十分を少しとは言わないと思う。でも、割とその辺の感覚がズレているのも彼女だ。
胃の辺りが、きゅう、と小さく悲鳴をあげた。
……おなかすいた。
ぺちゃりとテーブルに突っ伏して、早く来てくれないかなそれとももう先に食べちゃおうかな――と、そんなことを考える。
て言うか。
私は突っ伏した格好のまま携帯を取り出し、アドレス帳から彼女の名前を選んでボタンを押した。もう二十分くらい前にこうすることを思いついてもよかったのに、なんで私けなげに彼女を待ち続けてたんだろう。
マヌケな自分への苛立ちは指先までにとどめておき、代わりに空腹と退屈とをぷちぷちとメールに書きつける。私のことを忘れ去って本にかじりついてるだろう友人へ送信。
送信完了のアニメーションを見届けてから、私は苛立ちを溜息にして吐き出した。
なんだか朝からずっと調子が悪い。今日に限って寝坊をしたり、そのせいで朝ごはんを食べ損ねたりお弁当を作り損ねたりで、授業の間もずっと夢うつつだった。まともな考えが浮かんでこないのもきっとそのせいだろう。
目を再び窓の外へと向ける。単色の淡色な空しかそこにはなかったけれど、それしかない分だけ、ぼんやりと眺めるのには都合がよかった。
「はいお茶。ところでさ、麻生君――」という声とイスを引く音。先ほどの部長氏が戻ってきたらしい。「人間に、できないことってあると思う?」
「挙げればキリが無いと思いますが」対する麻生先輩は冷淡だった。「人間にできないことなどないと考えるのは、傲慢でしょう」
「あ、倫理の話に持ち込まれると困る。単純に可能性はどうかってことなんだけど」
「身体的な限界は超えられないのでは? 部長は空を飛べますか?」
「飛べるよ」事も無げにそう答える部長氏。
「では、飛んで見せてください」
「今は無理。空港に行かないと」
「空港?」
「うん。飛行機に乗るから」
「スカイダイビングですか?」
その言葉に部長氏は笑ったようだった。
「あれは飛ぶって言わないよ。落ちてる」
「じゃあ、どう飛ぶんですか」麻生先輩の声にわずかな苛立ちが滲む。
「どうも何も、『飛行機に乗ること』が『飛ぶこと』だよ」
変な間が生まれた。
部長氏が言葉を続ける。
「飛行機って空を飛ぶものでしょ? それに乗っている僕は、空を飛んでないのかな?」
それは飛べるって言っていいのか、と私は思わず内心でツッコミを入れた。
「……なんだか目が怖いね」部長氏がつぶやく。
「身体的な限界って言ったのに飛行機なんて持ち出すからです」
「割と真面目に言ってるんだけどね」部長氏の語気は乱れていない。「人間はさ、道具を使えば、自分の身体だけではできないこともできるようになるよね」
かたん、と硬いもの同士が触れ合う音がした。部長氏がお茶を口にしたようだ。
「道具を作る想像力と創造力は、脳の機能でしょ。脳は身体の一部。だったら想像力と創造力も、身体能力のひとつって言っていいと思わない?」
「続きをどうぞ」麻生先輩の声は硬いままだった。
「そうして作られた道具は脳機能の産物なんだから、道具を使えばできることも人間の能力に含めていいんじゃないかな、って」
やけに重い溜息が聞こえた。
「言いたいことは大体分かりました」感情を感じさせない声音。「道具を使えば実現できることも含めれば、想像できることはすべて実現もできるのでは、ということですよね?」
「うん」
「その前提でも、できないことはあると思います。結局、身体的な限界は超えられないということでしょう――想像力の限界という意味で、ですが」
「うん、まあ、そうだね。けど――」
「しかし人間のすることについてだけ言うなら、原理的に、想像できないことは存在しない。なぜなら想像する側もまた同じ人間だから」
「うん」やや気圧されたように、部長氏。
「すべての人間は同じように想像でき、同じようにそれを実現できる――その意思がありさえすれば。だから批判をするとき『できるかできないか』ということを問題にするのは意味がない。……合っていますか?」
「大筋では」
はあぁ……とまた深い溜息が聞こえたのを最後に、話が途絶えた。
見ると、麻生先輩は俯いて、右手でこめかみを押さえている。蒼白い顔はいっそう蒼ざめ、少し震えてもいるようだった。対する部長氏のほうはと言うと、口元に手をやって何か思案をしている様子で、視線は食堂に備え付けの湯呑みに注がれている。中は空だ。
それまでの会話を聞いていなかったら修羅場だと思ったに違いない。
窓の外とは対照的な雰囲気だった。
見ているほうまで胃潰瘍になれそうな空気が漂う。
「部長、」と先に均衡を崩したのは麻生先輩だった。「それは建前です。実際には、想像できても実現できないことはあると思います」
「うん……そうだね。今、麻生君を見てちょっと思った」立ち上がり、麻生先輩の前に並ぶ食器と湯呑みをまとめて自分のトレーに載せると、「ここで待ってて。保健室まで送る」そう言って部長氏は下膳口のほうへとつま先を向けた。
そのまま取り残された格好の麻生先輩が、俯いたままでもう一度溜息をつく。やっぱり体調は悪かったらしい。と言うより気付かなかったあの部長氏のほうが鈍いのかも知れない。男の人は女よりも細かい変化を観察する能力で劣っているとテレビか何かで聞いた覚えがあるけれど、それにしても、見る限り、彼女は明らかに辛そうだ。本当に気付いていなかったんだろうか?
改めて思い返してみると、気付いていなかったとも言い切れないように思えた。いくつかの行動から、気付いていながらあえて話題にするのを避けていたような感じもする。
でも、仮にそうだとしたら、なぜそんなことをしたんだろう。
話題にしづらい理由でもあったんだろうか?
よく分からなかった。
「お待たせ。立てる?」
「あ、はい。今はそんなにひどくありませんから」
「そう」
食器を下げてきた部長氏が麻生先輩に声をかけていた。ちょうど彼の陰に隠れて見えなかったけれど、麻生先輩も席を立ったようだ。
「沈黙していたのは、語りえないことだと思われたからですか?」麻生先輩の声。
「……やっぱりそうなの?」
「ええ、まあ」麻生先輩は部長氏の横に並ぶと、「私も一応女ですので」
「一応とか言わないでね……どうしたらいいかよく分からないんだよ、正直言うと」
「できない人は文句を言えませんからね」
ふふふ、と小さく笑うのが聞こえた。
女だから、が不調の理由……?
……ああ、なるほど。それは確かに口にし辛い。
彼らから目を外し、食堂を見渡す。空席の数はだいぶ増えている。
「いっそ不可能の領域に足を踏み入れてみては?」
「……僕はこのままがいいなあ」
「それでは一生分からないままですよ」
「その代わり、麻生君には分からないことが僕には分かる」
そんな話し声が遠ざかっていくのを聞きながら。
私は携帯のサブディスプレイを改めた後、席を立って購買の方を向いた。
もういいや。
お昼、食べちゃおう。
( "Insuperable paradigm" is closed.)
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昼休みの学食で小耳に挟んだ高校生たちの会話。