――ほんの、出来心だった。
「お、バニー。どうした? 忘れもんか?」
トレーニングルームには、もう誰も残っていなかった。
鏑木・T・虎徹、ただ一人を除いて。
彼以外はみんな帰ったことを確認した上で、トレーニングルームに戻ってきたのだ。誰も僕の不審な行動を訝しがらなかった。
「あ、あぁ……はい」
僕はぎこちなく肯いて、鼻の上の眼鏡を直すふりをして顔を隠した。
よく言えばベテラン、中には「セット売りするしか生き残る道のない、元・人気ヒーロー」なんて言う人もいる。
しかし彼はこうして誰よりもトレーニングをして、人一倍努力をしている。
――僕は知っている。
彼は、僕が知っているということを知らなくても。
「そうだ。俺この後斉藤さんトコで酸素カプセル入ってくっけど、バニーちゃんも行くか?」
顎先から垂れる汗をタオルで拭いながら、彼はこちらを振り向かずに言った。
同じくらいの目線の高さ。
逞しい背中。
彼はNEXTである前に、ヒーローであろうとしている男だ。
「ん?」
急に彼が振り返った。
「あっ、……あぁ、いえ。僕は……」
驚いて姿勢を正した僕に対して、彼は首をひねりながら顎髭を指先で撫でた。
怪しまれたかもしれない。
僕は咳払いをひとつ零すと、平静を装って鼻を鳴らした。
「お、おじさんは、行けばいいんじゃないですか。僕は、結構です」
「ん? そーかぁ?」
どうやらバレずに済んだようだ。
彼はこちらを見るのを止めて、スポーツドリンクを飲んでいる。
僕はそっと胸を撫で下ろすと、ベンチに座って彼の後ろ姿を眺めた。
九歳の娘がいると言っていたけど、一緒に暮らしているのだろうか。父親がヒーローというのは一体どんな気分なのか。単なるNEXTではなくて、ヒーローだ。きっと、鼻が高いに違いない。
「で、バニーちゃん忘れ物ってのは?」
「!」
しまった、考えてなかった。
弾かれたようにベンチを立ち上がった僕を、彼がまた振り返った。
今度こそ、怪しまれている。
「あ、あの――ええと、」
目を眇めながら、彼が近付いてくる。
僕は胸の前で掌を掲げて、言い訳を必死で考えた。深い意味はない。ほんの出来心だったんだ――と。
「どうかしたのか?」
ハスキーな低音が聞こえたかと思うと、目の前まで来た彼の掌が、僕の額に触れた。
「っ、!」
ビクっとすくみ上がった拍子に、眼鏡の位置がずれた。慌てて直そうとした手が、震える。
「……熱はねぇみたいだな」
すぐ目の前で、彼が笑っている。
頬に上がった熱も、鼓動が早くなったせいで乱れた呼吸も、全部悟られてしまうんじゃないかと思うと、緊張して余計に息苦しくなる。
顔を背けてしまえばいいのに、そうできない。
全身が強張ってしまっているのもあるけど、それ以上に、今目の前で、彼の顔を見ていられる機会を逃したくなくて。
「そんな目で見るなよ」
「っ! す、……すいません!」
しかし苦笑した彼に言われて、あっけなく顔を伏せてしまった。
今、どんな表情をしていたのだろうか。
そんな目って、一体どんな――
「なぁ、何も顔を逸らすことないだろ」
首を竦めてうつむいていた僕の頬に、彼の掌が触れた。
「!!」
反射的に身を引いてしまって、ベンチの座面に足をしたたかぶつけた。自然と膝が折れて、ベンチに座り込む。
目の前にあった彼の顔が、また頭上まで遠ざかってしまった。
「目ェ見られんのが嫌なら、つむってろ」
そう言って、彼が身を屈める。僕の上に――
「……ッ!」
瞬間、
僕は擬態を解いた。
目から溢れてきた大粒の涙を拭うのに、眼鏡をかけていたら邪魔だと思ったから――なんていうのは言い訳で、罪悪感で心が引きちぎれそうだったからだ。
「ご、っ……ごめんなさい、ほんの、出来心で……あの……」
胸が苦しくて、押し潰されそうだ。
擬態がバレないように、嘘をついている緊張感よりずっと、胸が痛い。
彼は、相棒であるバーナビーさんにはあんな風に笑いかけて、あんなふうに心配をして、行動を一緒にして――それに、あんな風にキスだって。
あのまま擬態を解かないでいれば、彼は僕とキスしただろう。
僕を、バーナビーさんだと思ったままで。
彼はバーナビーさんにキスしたと思ったまま、僕は、彼を騙したまま。
ただ同じ目線で、彼の姿を見たいと思っただけなのに、まさか、こんな――
「折紙」
ぐしゃぐしゃと髪を撫でられても、とても顔を上げる気にはなれなかった。
代わりに彼が、よっこいしょという掛け声と共にしゃがみ込んで、下から顔を覗き込んでくる。
「お前の擬態能力は本当にすげぇなあ、よく出来てる」
褒められても、今は叱られてるのと同じだ。だって彼を騙していたんだから。
「――でもな、バニーの野郎はもうちょー……っと、嘘がうまいかな」
彼の口端が、悪戯っぽく笑っている。
目を瞬かせると、涙の粒が二、三粒たて続けに落ちて、彼の顔をクリアに見ることができた。
「あんなにしどろもどろになってちゃ、バニーじゃないってバレバレだ」
「え、……っじゃあ」
ずっとバレてたのか。
思わず身を引くと、タイガーさんは破顔した。
「バニーじゃないバニーがいるとなれば、答えはひとつだろ」
僕は急に気恥ずかしさが募って、更に身を縮こませた。
バレてるのに、必死で嘘をついていたなんて。恥ずかしすぎる。まさに、「穴があったら入りたい」心境だ。
タイガーさんは口篭って蹲った僕の髪をもう一度撫でると、腰を上げて、大きく伸びをした。
「さーて、どうすっかなぁ。折紙、メシでも食いに行くか」
「あ、でも酸素カプセルに……」
行くと言っていたのも、僕の反応を確かめるためだろうか?
一体いつから疑われていたんだろう。
「――――……、」
身を屈めて近付いてきた、彼の唇。
あれは、擬態だということを知っていて?
「ん? どーした。ほら、行くぞー」
タイガーさんは、肩越しに手をひらひらと振って僕を招いている。
いつもと同じ、ちょっと高い目線から。
Tweet |
|
|
3
|
0
|
追加するフォルダを選択
虎×? …というお話です。コテバニ、…ではありません。タグでバレバレですが(笑)◆前作のコテバニよりもおじさんが攻め攻めしく書けた気が…。