頬を空気が裂いていく。
自由になる為に下した結論なのだから、私には後悔なんかない。多分、こういう行為をした私を周囲はみんなで「馬鹿だ」と嘲笑うに違いない。でもそれでも、私にはそれしか解決の糸口が見つからなかった。
それだけなんだけど、私もこの行為を納得しているのかといえばそうでもない。どうして私が、人生の幕を自ら引かなくてはならないのか、未だに分からない。
ただ私は、それを周囲だけの所為にはしたくなかった。勿論、私をここまで追い詰めておいてにへらにへらと笑っているに違いないのだから、連中は万死に値すると思う。でも、それって私には何の咎もないってことにはならないと思う。
私は人付き合いが苦手で、どうしても目を見て話せなかったし、どちらかと言えばクラスメイトと話すよりも本を読んでいる方が好きだった。高校に入ってからは特にそれが顕著になったから、彼らと会話どころか挨拶すらしなかった。
それは周囲から私を浮き上がらせ、そして結果あの虐めを呼び込んだ。
最初軽いものだったそれは、時を経て耐えられる限界を超えるものになった。そして結果、私はビルの屋上から飛び降りるという結末を選んだ。
未練がないと言えば嘘吐きになるけれど、どこかで終わらせることに対する安堵があった。目の前にアスファルトが迫ってくる。私はゆっくりと目を閉じて、全てからの解放を受け入れた。
小さな何かが頬をくすぐる感覚に意識が揺り動かされる。その心地よさはどこか懐かしくもあった。
穏やかで仄かに暖かい風が私を包んでくれる。優しい香りが鼻腔をくすぐった。
意識が呆然としている。私、何をしていたんだっけ。ええと、いつものように学校から帰って、ええと……あっ、そうか、私はビルの屋上から……。
ゆっくりと目を開ける。眩い日差しに目を細め周囲に視線を向けた。
「起きたかにゃ」
唐突に耳元に届いたその声は甲高く細い。そして何とも表現し難いけれど、強いて言えば言葉が硬かった。
視線を言葉の主に向けて、私は自分の目を疑った。白いTシャツを着てジーンズを穿いた三毛猫が、私の耳元で胡坐を掻いていたのだ。
「ねこまたっ」
猫はにこやかに笑いながらそう言い、右前足をびっと上げた。というか「ねこまた」とはなんだろう。
猫は私をじっと見詰めている。
「なんだか君は根暗な女の子なんだにゃ」
そして唐突に、耳に痛い言葉を私に突き刺した。思わず言い返しそうになったが、考えてみるとその通りなので返す言葉もない。
「それに何だか凄く悲しんでるにゃ」
相変わらず甲高く細い声で、しかもとても明るく楽しげな声なのに、どこか優しかった。そしてあたたかかった。
「よく分からにゃいけれど、別に悲しむことはないにゃ。悲しくなったら猫じゃらしと、かの文豪猫丘ブル大先生も言ってたにゃ」
まずその猫丘ブルという不可解な名前の文豪のことを詳しく訊きたいものだ。猫なのにブルってなんなんだそれ。というか、「悲しくなったら猫じゃらし」ってどう考えても猫専用ではないだろうか。
思わずくすりと笑ったしまった私を見て、三毛猫は「やっと笑ったにゃ」とはにかんだ。基本的に悪意はないみたいなんだけど、結局この三毛猫は何なんだろう。
私は身体を起こして、周囲に目を向けた。そして息を飲んだ。私の周りには一面、菜の花が咲いていた。この香りが私の鼻腔をくすぐっていたんだと気付く。
「春先には猫じゃらしがなくて残念なのにゃ。猫じゃらしがあれば、もう少し君を笑わせることができるのにゃ」
三毛猫はさも残念そうに口を尖らせている。地平線の果てまで黄色の絨毯が続いている。空を見上げるとなぜか太陽が三つあった。流れる雲の形は全てが不思議と魚の形をしていて、私の視線に気付いた三毛猫が「秋刀魚雲は美味しいにゃ」と意味不明なことを言った。
というか私には猫じゃらしよりも菜の花の方が嬉しいし、春先なのに秋刀魚雲ってそれも何だか変ではないかと思った。
でもこの妙な世界ならばそれも許されるような気がした。
「君は何を悲しんでいたにゃ。もしかして誰かにツナ缶を奪われたのにゃ」
どうしてツナ缶なのかは分からないけれど、三毛猫は少なくとも真剣だった。きっと三毛猫にとってツナ缶を奪われることはとても辛いことなのだろう。
私は別に何かを奪われた訳ではない。ただ逃げただけだ。逃げただけなのだけれど、「どうして」と考えると言葉を失ってしまう。
でも、逃げることになった原因は虐めだった。あっ、そうか、私はあいつらに「生きていく場所」を奪われたんだ。
不意に湧き上がる強い怒りと悲しみに、瞳に涙が浮かぶのが分かった。私にとっての大切なツナ缶、生きていく場所、確かに私は奪われていた。
俯いて嗚咽を噛み殺す私を見て、三毛猫は「うにゃっ、もしかしてお腹が減ってたかにゃっ」と慌てて、ジーンズのポケットからツナ缶とフォークを取り出すと、「ノンオイルだから年頃のレディにも安心にゃ」と余計なことを言って私に差し出した。
やっぱりこの三毛猫って変だ。また思わず笑ってしまう。その少しずれた接し方は私を笑顔にしてくれる。
「女の子はふくよかなくらいが可愛いにゃ。ただ僕はスレンダーな女の子が好きだけどにゃ」
やっぱりこいつ一言多い。
手渡されたツナ缶を開けて、フォークで口に運ぶ。それは味わったことのあるいつものツナ缶だった。なのに、それはとても美味しい。
考えてみたら私は、虐められるようになってから色々な感情を失っていたような気がする。例えば、こんな風に食べ物を美味しいと思うような、そんな当たり前の感覚とか。
それを一口ずつ口に運びながら、私はぽろぽろと頬を伝う涙を止めることができなかった。でもそれはとてもあたたかくて優しくて、まるで今までの苦しみや悲しみを溶かしてくれるような、そんな感覚だった。
「う、うにゃっ、僕秘蔵のノンオイルツナ缶でも足りないかなにゃ。し、仕方ないにゃ」
三毛猫はまたジーンズのポケットに手を突っ込んでもぞもぞと漁ると、今度はオレンジ色の缶ジュースを取り出し、さも名残惜しそうにこう言った。
「今日の晩酌用に買っておいたマタタビマティーニだにゃ。未成年は法律違反にゃけど人間は適用外にゃから気にするにゃ」
というかマタタビというネーミングでもう猫にしか効果がないように思えるんだけど、どんな味なのかなんとなく興味もある。
受け取ったマタタビマティーニのタブを開けて、口に含んでみた。なんとも表現し難い不思議な味がした。甘いような辛いような、濃いような薄いような、花の香りのようで魚のように生臭い、なんだか複雑すぎてよく分からない味。
私が眉を寄せて首を傾げると、それを見た三毛猫はけらけらと笑った。そしてマタタビマティーニの缶を私から取り上げると、それをさも美味しそうに飲み干した。
「やっぱり子供にはまだ早いにゃ。というかこの味を理解するにはまだまだ人生経験が足りないにゃ」
もっと頑張って生きれば、この複雑怪奇で表現し難い味が美味しいと思えるのだろうか。それはそれでなんだか複雑な心境だ。こんなの美味しいなんて思えなくてもいい。
「いっぱい色々なことを頑張ったり楽しんだりすれば、その内に美味しいと思えるようになるにゃ。人生はマタタビのように甘く正露丸のように苦いと、かの文豪猫丘ブル大先生も言ってるにゃ」
だからその猫丘ブルという文豪のことを詳しく教えてくれないだろうか。名前や言葉から考えると猫らしい作家なのは間違いなさそうだが、大先生の作品は色々な意味で面白そうだ。というかこの世界に正露丸があることの方が驚きだ。
私はとてももったいないことをしたのかもしれない。三毛猫や大先生が言っているように、あのマタタビマティーニが美味しいと思えるほどに生きることができたのならば、もしかしたら私は少なくとも満足して人生を終われたのかもしれない。
いや、そんなこと、本当はその時になってみないと分からないはずだ。そのくらいは未熟な私にも理解できる。
でも苦しくても悲しくても必死に生きていけば、少なくとも後悔はしないのではないだろうか。それってやっぱり、逃げることとは正反対なのだろうか。だとしたら、やっぱり私には無理そうだ。
「猫丘ブル大先生は名作を書き続けたけど、いつも深い苦悩の中にいたにゃ。旨いのは秋刀魚か鯖か、マタタビは北海道産か佐賀産か、肉球はタマコかマリアか。苦悩の果てに最期はフランソワーズに看取られて逝ったにゃ」
苦悩というかそれは、確実に個人的な趣味趣向の問題に過ぎないのではないだろうか。特に肉球の苦悩は二股に違いない。それなのに看取ったのが別の女という点なんかを考えると、男としては最低としか思えない。
でもなんとなく、ほんの少しだけ大先生の苦悩も分かるような気がした。結局、私が苦しんできた虐めのことも、その程度の問題に過ぎないのだということ。
タマコとマリアに迷いながら、フランソワーズに逃げた大先生。別に逃げてもいいんだ。ただ、私は逃げる方向を間違ってしまったんだ。飛び降りる前にもっと逃げる場所があったはずなのに。
あいつらに「やめて」って言えばよかったじゃない。先生や両親に相談すればよかったじゃない。それでも駄目だったら、高校なんか転校すればよかったじゃない。最悪退学したってなにが悪いだろうか。本当はビルから飛び降りるよりも何倍も楽なのに。
「でも猫丘ブル大先生の作品はいつも真っ直ぐだにゃ。苦悩していようとも書き続けたその作品には、間違いなどないにゃ」
そっか、そうなんだ、生きていくってことは、その途中にどんな苦悩や悲しみ、例え罪があろうとも、間違いなんかないんだ。でも途中で投げ出しちゃったら、それが途切れてしまう。
そっか、そうなんだ、大先生みたいないい加減で適当な悩みを抱えながらでもいいから、ただ生きればよかったんだ。
人生まで真面目ぶって、私、馬鹿だ。
また頬を涙が伝う。今更後悔しても遅いけれど、今更気付いたってどうしようもないけれど、私はもう一度生きたいと思った。
こんな馬鹿みたいな我侭なんか叶わないと分かっている。でも、このまま死んでしまいたくない。もっともっと生きたい。生きてマタタビマティーニが美味しいって思ってみたい。馬鹿だ、私めちゃくちゃ馬鹿だ。
「でも、かの文豪猫丘ブル大先生は、コンティニューのできないゲームは駄作だとも言ってるにゃ」
それは間違いなく大先生がゲームを下手だっただけだ、絶対にそうだ、そうに違いない。
「だからやり直したいのにゃら、君もコンティニューすればいいにゃ」
不意に強い眠気に襲われた。それはあまりにも強烈で抗いようもない睡魔だった。にこにこと笑っている三毛猫の顔をじっと見詰める。彼はまたポケットをまさぐると猫じゃらしを取り出して、「去年の秋から大切にしてた物だにゃ」と私のてのひらにそれを置いた。
「ねこまたっ」
そして出会った時と同じように、にこやかに右前足を上げた。きっとそれは色々な意味のある挨拶なのだろうと思った。
鼻腔を菜の花の香りがくすぐる。
「ねこ、また」
心地よいまどろみに包まれながら、私も小さく言葉を返した。
目が覚めると、夕闇の中で私はダンボールの山に埋まっていた。見上げると私が飛び降りたビルが聳えている。飛び降りたもののダンボールの山のお陰で奇跡的に無事だったらしい。
それにしても変な夢を見たものだと思った。あんな自分に都合のいい夢を見るなんて、それはそれで自分がとても惨めだった。
溜息を吐き、小さく俯く。
その時、自分が何かを握り締めていることに気付いた。それは柔らかくてほわほわしていて、少しだけちくちくしている。
胸が高鳴っている。震える握りこぶしをゆっくりと開くと、そこには猫じゃらしがあった。
あれは、あの三毛猫とあの一面の菜の花と、文豪猫丘ブル大先生は実際にいたんだ。私は彼らの世界に、少しの間だけだけど、確かにいたんだ。
私はその大切な猫じゃらしをスカートのポケットにしまうと、ゆっくりと立ち上がる。ここからまた私は歩き出そう。難しいことはもうどうでもいいし考えたくもないし、真面目子ちゃんぶるのもやめよう。
私を虐めていたあいつらに「やめて」と言おう。それでも駄目なら親と先生に相談して、それでもどうにもならなかったら転校でも退学でもしちゃおう。
生きていくことには、大層な理由なんかいらないと知ったから。
ゆっくりと空を見上げる。
茜色の空に秋刀魚雲が流れていた。
きっと美味しいに違いない、私はそう思った。
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ビルから身を投げた少女が見た世界。原稿用紙十五枚、ファンタジー。