「せっかくの夏休みなんだしさ、なにか夏休みらしいことしたいよね」
向かいに座る千夏の声を受けて、真緒はノートに落としていた目線を上げた。
「今してるじゃない。夏休みの宿題を」
端正な面立ちを崩そうともせず、簡潔に言い放つ。
「いや、そういうんじゃなくてさ、もっとこうなんてーの? 夏休みにしかできないことをしたいわけですよ」
シャープペンシルを指揮棒かなにかのように揺らしながら、日焼けした肌の快活そうな少女は言う。
「夏休みの宿題は、夏休みにしかできないよ」
対する真緒はにべもない。
「だーからちがうんだって! 宿題だったら夏休みじゃなくてもあるわけじゃん? それこそ冬にだってさ」
千夏はテーブルの上にずいっと身を乗り出し。
「あたしが言いたいのは今日この日、今にしかできないなにかをしたいってことなのよ!」
日光を浴びてやや色の抜けた短髪を振り乱し、鼻息も荒くそう言いきった。
それを受けた真緒は、小さく首を傾げる。肩までの黒髪が揺れて、白磁の肌をわずかに隠す。
「たとえばなにを?」
「そりゃー海に行ったりとか、プールに行ったりとか」
「ほかには?」
「えーとえーと、あとは川遊びしたりとか」
「水のあるところばかりね」
「あたし泳ぐの好きだしさー。この街、冬も入れるプールがないから、泳ごうと思ったら夏にしかできないじゃん?」
「まあ、そうね」
「だから行こうよ、海とか川とかプールにさ!」
真緒は目を閉じ、小さく頷く。
その仕草に千夏が顔をほころばせたのも束の間のこと。
「宿題、終わったらね」
聖母もかくやという微笑みとともに真緒が言った。
「だあぁ宿題は今でなくてもできるじゃないかー!」
「そう言って毎年泣きを見ているのは誰?」
「大丈夫だって今年はっ!」
「そう言って毎年わたしを巻き添えにしているのは誰?」
「う、ぐっ……」
千夏は苦虫を噛みつぶしたような表情で黙り込むと、乗り出した上半身をのろのろと引っ込めた。
「宿題を終わらせて。さもないと遊ばせない。絶対に」
表情を消した真緒が、感情のこもらない声で言い放った。それはさながら囚人への死刑宣告のようでもあった。
「きびしい、きびしいよ……」
テーブルの上にへたり込みながら、絶望を交えた声音で千夏がつぶやく。
「おばさんからも頼まれてるしね」
ノートに戻した視線を動かさずに真緒が言う。
「お母さんの言うことなら聞くのかよぅ」
「お世話になってるから」
「あたしもお世話してるじゃないかー」
「わたしが、千夏をね。あなたの世話になった覚えなんか一度たりともないわ」
シャープペンシルを走らせながらの不遜なまでの物言いにも、千夏が反論することはない。それが事実であることをよく弁えているからである。
「ううっ、どうあっても逃げられないのか……」
そのつぶやきに対しても、真緒は小さく鼻をならすのみ。
「っところでさあ、夏にしかできないことってほかになにがあるかな」
がばっと起き上がった千夏が、口を開くなりそう言った。
さすがの真緒も顔を上げ、若干ながら眉を立てている。
「あいかわらず切り替えが早いわね」
「だってくよくよしてても仕方ないしさ」
「そう思うのなら手を動かしなさいよ。で、何だったっけ? 夏にしかできないこと、か」
真緒は視線を上にめぐらせ、シャーペンの頭を顎につける。考え込むときの彼女の癖である。
「キャンプに花火、お祭りに肝試し、といったところかしらね」
「ほかには?」
「ほかに? うーん、そうね」
真緒は目を閉じ、うんうんと頷く。
「恋とか」
「へっ? こ、こい?」
「うん」
思いもかけない答えに、千夏は戸惑いを隠せない。夏と恋との関連性がわからないためだ。
真緒はこほんと咳払いをすると。
「夏の恋は、夏にしかできないわ。夏というシチュエーション、だからこその出会いというものが、世には歴然と存在しているはずだから」
真緒の言葉を受けて、千夏は考え込むように腕を組む。
「なるほど、ね。同じ相手であっても、夏には出会えて冬には出会えない、なんてこともあり得るわけか」
「そういうこと」
「でもそれって、人間関係全部に言えることじゃない?」
「そうね。だから人との出会い、縁というのは概して得がたいものなのよ。大切にしなくちゃいけないってこと」
「あ、あれ? なんかうまくまとめられてしまったような……」
「さあ、理解したなら手を動かして」
既にノートへと目を戻した真緒が言う。
「ちぇっ、わかったよ」
それにいかにも不承不承といった様子で従う千夏であった。
沈黙の中、宿題に取り組むこと十数分。
視線をノートに落としたまま、「ねえ」と千夏が口を開く。
「真緒は好きな人とかいるの?」
「なによ、やぶから棒に」
同じく顔は上げないまま、真緒は答える。
「さっきそういう話をしてたら、気になってきちゃって」
真緒はシャーペンの頭を顎につけた。
「いるといえば、いるかな」
千夏の反応は劇的だった。
テーブルに手を突き身を大きく乗り出して、真緒に詰め寄る。
「うそっ、ほんとに!? 誰、ねえ誰なの、あたしの知ってる人?」
「なんでそんなに食いつきいいのよ……」
真緒がさすがにたじろいで身を引くのも意に介さず、千夏はさらに詰め寄った。
「だって気になるじゃん! そんなそぶり全然見せなかったのに」
「そうでもないよ」
身を引き、顔をそらせた真緒が静かに言った。
「えっ……どういうこと?」
「態度には、結構出してたつもりなんだけどな」
「そうなの? 全然わからなかったよ」
それを聞いた真緒は、笑みを浮かべた。喜びによってではない、おそらくは困惑からの苦笑を。
「それ、地味に傷付くなあ」
「えっ、どうしてよ。あたしがよく知ってる人なの?」
「知ってるというか、そのものというか」
「そのものって、……えっ?」
瞬間、時間が止まったかに思われた。
当然ながら、実際にはそのようなことは起こっておらず、単にふたりともが動かなくなったというだけだ。
目を見開いた千夏は、ロボットのようにぎこちなく真緒を指し示し、その後に自分を指差した。
真緒はその動作に、小さな頷きで答えた。
「てか、にぶいよ、千夏」
「ご、ごめっ、ていうかそんなこと言われても、思ってもみなかったし、全然、知らなかったし! でもその、あの、ごめん……」
最後はもはや、消え入りそうな声になってしまっていた。
顔も伏せてしまい、普段の元気な様子は見る影もない。
「謝らないで。千夏が悪いわけじゃないんだから」
悪いのは全部、わたし。その小さな小さなつぶやきを、しかし千夏は聞き逃さなかった。
「真緒が悪いことなんてないよ」
顔を上げ、真剣な面持ちでそう言う。
真緒はううん、と首を振り。
「気持ち悪いでしょう、わたし。女なのに、女の子が好きなんて、自分でも変だって思う。でも──」
「そんなことない」
「え?」
「女だからって、女を好きになっちゃいけないなんて決まりはないし。あたしは、いいと思う」
千夏は、真緒をまっすぐに見ていた。その視線の真摯さが、言葉の真剣さそのものであると主張するかのように。
真緒はそれを、黙って受けとめていた。
「変なんかじゃ、ないよ」
言葉を重ねる千夏。
真緒はくたりと顔を伏せ、かと思うと目尻のあたりを手の甲でぬぐい、含んだような笑声を上げた。
「ふふっ、千夏さ、その言葉が今この場でどういう意味になるのか、わかってて言ってるの?」
すると千夏は顔を赤らめ。
「いちおう、わかってて言ってるつもり、だけど」
そう言って、そっぽを向いた。
真緒が、信じられないものを見るかのような目で千夏を見る。
あまりにも凝視しているせいで、目を合わせてもいないのに、千夏が居心地悪そうにしている。
その様は、さしずめ真緒の視線によって千夏の体が貫かれているかのようだ。
「な、なんか言えよ。なんで黙って見てるんだよ」
真緒はテーブル越しに千夏の手をとり、引いた。
思わず振り向く千夏。正面からぶつかり合う視線。
「ねえ、千夏」
何事かを言わんとした千夏の口は、しかし開くことすら許されなかった。
顔と顔が離れ、行為とは乖離した慈母のように優しい微笑みをたたえた真緒が、真っ赤になって口元を手で隠す千夏に言う。
「夏らしいこと、夏にしかできないこと、しようか」
<了>
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去年の今頃にお題をもらって書いたものです。