梢はいつも俯いていた。視線の先には開かれたままの教科書。そこに、ありとあらゆる罵詈雑言が書き込まれ、ページが滅茶苦茶に破り捨てられていることを知っていてなお、僕は何も出来なかった。
彼女は僕の幼馴染だった。昔はとても明るい女の子で、引っ込み思案の僕の手を引いて、そこらじゅう引っ張り回された。まだ人間の闇なんて知らない無垢な時代の話だ。けれど彼女の無邪気な心は、人間の悪意によって陵辱されてしまった。
※※※
最初にその徴候が見られたのは中学に上がってすぐのことだった。その頃になると以前と比べて口数が少なくなっていた。けれど、彼女にも人間的な変化が訪れ始めたんだろうと勝手に解釈して僕は気にも留めていなかった。それどころか、互いに部活が忙しくて休日でもあまり顔を合わすことがなくなって、次第に話す機会も減っていた。
当時、ただ白球を追いかけるだった馬鹿にとって部活以外のことなど考えられなかったのだ。
それから、何事もなく(それはあくまで僕にとって)高校へ進学した僕は、入学式の朝、久しぶりに彼女と一緒に登校した。その頃の彼女は、僕がいままでみたどの彼女よりも一番綺麗で、儚げな空気を纏っていた。活発な印象はなくなっていたけれども、綺麗になった彼女にとって、寧ろそれはよく似合っていると僕は思った。
しかしそれが、暢気な考えだと気がついた頃にはもう手遅れだった。
最初に異変に気がついたのは、ゴールデンウィークが開けてすぐのことだった。いつものように朝練を終えて教室に入ると、僕は彼女の姿を探した。そうするのがいつもの日課だったからだ。彼女は窓際の自分の席に座って、ただぼんやりと外を見ていた。
僕は適当に声を掛けようと彼女の席に近寄ろうとして、何か違和感を覚えて立ち止まった。どうしてだろうと考えて、すぐにその正体に気がついた。彼女は上履きをはいていなかった。職員用の茶色いスリッパをぞんさいに爪先にひっかけてぶらぶらさせていた。
「どうしたの? それ」
僕が声を掛けると、彼女はゆっくりと振り向いた。それから小さな声で「別に」と答えてまた視線を窓の外に泳がせた。僕はそのことについて深く追求しようとしたけれど、始業を知らせるチャイムが鳴り結局うやむやになってしまった。
それから度々彼女が職員用スリッパをはいている姿を見ることが多くなった。その頃からだろうか、彼女がイジメにあっているという話が周辺で聞かれるようになったのは。しかし、実際にその現場を目撃することはなかった。あえて教室以外、あるいは学校以外の場所で陰湿に行われているのか、それとも彼女が周囲に露呈することを恐れて必死に隠匿しているのか。とにかく、みているだけでは確固たる証拠を掴むことは出来なかった。本人に直接問い質すことも出来たのだが、あまり面倒ごとに係わり合いになりたくない。そんな気持ちがどこかに芽生え、僕も次第に彼女を避けるようになっていた。
彼女が本格的に孤立し始めた初夏の頃。僕はひとりの女性に出会った。出会った、という言い回しはどこか不適切かもしれない。何故ならそのひととはずっと同じ教室で同じ空気を吸っていたし、それよりモット昔から知っていたからだ。彼女の名前は、井上遊里といった。小学校の頃まではよく梢と僕遊んでいることが多かった。けれど中学に上がったことをきっかけに、梢と遊里は別々の友達グループに別れてしまって、それいらいかなり疎遠になっていたらしい。斯くいう僕も部活に打ち込みすぎて彼女との距離は考えられないほど遠くなっていた。だから、じめじめとした梅雨の雨が降る帰り道、彼女に声を掛けられたとき誰だか判らなかった。昔は長かった髪はショートカットになっていて、顔つきも大人っぽくなっていて、僕の記憶のなかの幼すぎる遊里の姿とまったく一致しなかったからだ。
そのことをいうと遊里は、「ひどーい」と頬を膨らませた。何か不満があるとそうするのが僕が知る彼女の癖で、控えめに膨らんだ頬を見てようやく彼女が井上遊里なのだという実感がわいた。
こんなに陰鬱な天気だというのに、彼女は楽しげにいろんな話題を振っては、絶えず笑顔を見せていた。その姿もまた、幼い頃に見た姿そのままで、なんだか僕は安心した。それからふと、梢のことを思った。彼女が暗くなってしまったのは、もしかしたら僕たちと離れてしまったからだったのではないか。そんな想いがふと過ぎり、それから遊里に梢のことを相談してみることにした。
「イジメ? 梢が?」そういって遊里は小鳥のように小首を傾げた。「そんな話は聞いたことあるけど、でも実際に現場を見たことはないなぁ」
「そっか」
「でもどうしてそんなことを?」
「どうしてって、心配だろ? 幼馴染なんだしさ」
「幼馴染だから?」
そういって梢は猫のように笑った。僕は、その含みのある言い草に少しだけカチンときて、「当然」と少し強く答えた。
「もぉー、冗談だってば」
そういって梢はからからと笑う。僕はなんだか煮え切らない何かを胸に抱えながら、「あっそ」と適当に相槌を打った。
その日を境に遊里はよく話し掛けてくるようになった。そのお陰で同じ部活の友達におちょくられる羽目にはなったが、疎遠になっていた幼馴染と昔のように接することが出来るようになって、僕は少し浮かれていた。だから、梢のことも頭のどこかで気にしながら、やっぱりあまり重要には思ってはいなかった。
クラスでどんどん孤立して行っている梢に対する罪悪感はどこかにあった。けれど、それに向き合うことが怖くて、部活や遊里と接することにひたすら逃げていた。そうして目をそむけることで、限りなく傍観者になろうとしていたのだ。
そして気がつけば一学期が終わっていた。もう夏休みだ。そのことに僕は少し安堵していた。学校に来なければ、ある程度はイジメられる機会が減ると思ったからだ。端から見ているだけの癖に一丁前に僕は梢の心配ばかりしていた。
夏休みに入ったとはいえ、部活は当たり前のように朝から夕方まであって、毎日くたくたになって家に返るころにはすっかり梢のことについて考えることなど出来なくなっていた。
そんなある日、携帯に一通のメールが届いた。差出人の欄には梢の名前があった。
僕はゆっくりと本分に目を通した。
『頼みたいことが出来たの。
すぐにやらなきゃってことのほどでもないのだ
けれど。
で、出来れば早い方がいいから。暇があったら、
いつもでいい。
時間がある時でいいから。それに最近、
面と向かって、
話してないじゃない?
遊里ちゃんとは仲良しみたいだけど。
羨ましいな。ちょっとだけ。
理由なんてなんでもいいんだけど。』
そこでメールは一度途切れていた。要領を得なかったのでこちらから「頼みたいことって?」とメールを送ると、すぐに返信が帰ってきた。
『回りくどくってごめん。
ちょっと恥ずかしくて。
なんていうか、こんど一緒にどっかいかない?』
なんだそういうことか。僕は「いいよ」と返信して、それから細かい予定を二人で決めた。明日、午前九時に近くの公園で待ち合わせることになった。せっかくの貴重な休日だけれど、これまで自分が行ってきたことへの罪悪感のせいか、彼女の誘いを断るつもりにはなれなかった。
翌日、決めた時間にきっちり間に合うように僕は公園へと向かった。梢は、ブランコに腰掛けて退屈そうに空を眺めていた。近寄って声を掛けると、いつものようにゆっくりと振り向いた。
「おはよう」
「おはよう。早いんだね」
「暇だったから」
そういうと彼女は少し赤くなりながら微笑んだ。夏の日差しが長い黒髪を照らし、繊細な髪は艶やかに映える。とても可憐で、だから僕は彼女に「どうしたの?」と声をかけられるまでずっと見とれてしまっていた。ぎこちなく、なんでもないと僕は答えた。
二人で並んで歩く僕たちは、公園から少し離れたところにあるバス停へと向かった。この近くには、若者が休日に時間を潰せるような場所などなかった。かといって年寄りならば時間を有効に消費できるのかといえばそうではなく、要するに廃れているのだ。昔、人気が落ち目のプロ野球チームの試合を見に行ったことがある。三万人以上収容できるスタジアムの観客席にはまばらにしか人は入っていなくて。そこかしこでビールを飲みながら寝そべって試合を見ている姿がみられた。熱心な応援団の声と太鼓の音だけが観客席のすべてで、けれど広いスタジアムにとってそれはあまりにも矮小すぎた。少しだけ水深の浅い深海みたいだと僕は思った。それから、家に帰ってきてまったく同じ空気が漂っていることに気がついて、少しだけ愕然とした。
僕が物思いに耽っている間、彼女はぼんやりと空を見上げながらバスが来るのを待っていた。時刻表によればあと二分もすれば到着するらしい。近くの街路樹に群がるクマ蝉の声が夕立のように暑い休日の朝に降り注ぐ。時刻表より一分ほど早くバスは到着した。僕たちは暑さから逃れるようにバスへ乗り込んだ。少し奥の二人掛けの席に僕たちは並んで座った。彼女が窓際で、僕が通路側。相変わらず彼女は窓の外を見ていた。
バスに揺られている間、僕たちの殆ど会話はなかった。バスの中の冷房が利きすぎていることに対して話し合ったことくらいだ。
目的地に到着すると、僕たちは料金を払ってバスを降りた。外に出るとまたむっとする熱気が体中を包んだ。
「暑いね」彼女はいった。
「寒くてもこまるけどね」僕は笑いながらいった。
「冬みたいに寒い夏も体験してみたいけど」
「でもそれじゃあ夏じゃなくて冬だろ?」
「でも夏だったら?」
「何かの謎掛け?」
「別に? ただの意地悪」そういって梢は楽しそうに笑った。「ほら、推理小説とか好きでしょ? なにか勘繰って面白いこといってくれるかな、って思って」
「残念だけど」僕はいった。「ユーモアのセンスは前世に置き忘れてきたんだ」
「じゃあしょうがないか」
つまらなといえばつまらない、けれどなんだか少しだけ楽しい会話をしながら僕たちは近くの大型ショッピングセンタを目指した。この周囲で、時間を潰せる場所なんてそれくらいだ。それ以外にはなにもない。田んぼがあって、川があって、少しだけ遠くに山がある。そんな田舎だ。だから道路を通る車の数もまばらで、周りの建物もどこか色あせていた。
楽しそうにいろんなことを話してくる彼女に、相槌を打っているとショッピングセンタに到着した。田舎で唯一いろんな物を買える場所で、なんとなく時間を潰せるこの場所でさえ、休日だというのに駐車場に車はそれほどなく、寂しげだった。
店内に入ると、ここまで来る間にかいた汗が冷たい空気に冷やされて、少し寒気がした。店内では彼女が常に僕より前を歩いていた。洋服店を梯子させられたり、CDショップで洋楽コーナに連れて行かれたり、ゲームセンタでなんだかわからないうちに一緒にプリクラを取っていたり、僕はずっと彼女に振り回されていた。けれど彼女が楽しげにはしゃぐ様子が見れて僕は少し安心していた。
ショピングセンタ内のファストフード店で昼食を済ました僕たちは、彼女の申し出で近くの市立図書館へ向かった。なにか借りたい本があるらしい。
図書館で彼女は埴谷雄高の『死靈』を全巻借りた。僕は適当に太宰治全集を借りた。
それから特にすることもなく、僕たちは近くの川辺の、木下に設えられたベンチに座って借りてきた本を読んだ。涼やかな水音が、聞こえてきてのんびりとした午後を過すにはうってつけの場所だった。
そのまま僕たちは、蜩の声が聞こえるまでずっとそこにいた。途中で本を読むことにつかれて、気がつけばだらだらとどうでもいいことを話し込んだり、ぼんやりと目の前の風景を眺めたりしていた。
「そろそろ帰ろっか」そういって彼女は立ち上がった。夕日に照らされた彼女は、とても儚げで僕はなんだか判らないけれど心配になった。
帰りのバスは、相変わらずひとがいなかった。
「今日はありがとう」
バスから降りると、そういって彼女は寂しげに微笑んだ。
「特になにかした覚えはないけれど」僕は肩を竦めた。
「いいの。私は楽しかったから」
それから僕たちは公園に行き、そこで判れた。遠ざかる彼女の後姿に掛けるべき声があったのに、僕はなにもいえないまま立ち尽くしていた。あれほど大きな声で鳴いていたひぐらしの声も聞こえなくなり、柔らかな虫の声が辺りを包み込んでいた。僕は自分が情けなくて、追いかける勇気もないくせに、見えなくなった彼女の背中をいつまでも探していた。
それからしばらくして、今度は遊里から誘われた。夏休みも終盤にさしかかろうという時期で、僕は溜め込んだ宿題に追われててんやわんやしているところだった。
「一緒に勉強会しない?」
受話器の向こうの遊里はいつものように楽しげだった。ちょうど猫の手も借りたい状況だった僕にとって、それは願ってもない誘いだった。それに、遊里は結構頭がいい。僕は二つ返事で了承した。
「それじゃ、明日うちで」
そういうとこちらが反論する前に一方的に電話を切ってしまった。僕は掛けなおそうかと思ったけれど、面倒くさくなってベッドに横になった。そういえば、遊里の家に遊びに行くのなんて小学校のとき以来だ。そう思うと無性にわくわくしてきて、それも悪くないと思った。
翌日、勉強道具一式を携えて遊里の家を訊ねた。チャイムを押すと、すぐに遊里のおばさんが顔を出した。
「あら、もしかしてあっちゃん? 大きくなったわねぇ」
「いえ、その、お久しぶりです」
「まあ、礼儀正しく」ふふとおばさんは笑う。「遊里が待ってるから、さ、上がって」
おばさんに促されるまま家に上がった僕は、遊里の部屋に通された。
「お、来たね」
僕の顔を見るなり、彼女は嬉しそうにいって、僕の手を取り部屋のなかへと引っ張り込んだ。彼女は、Tシャツにたけの短いパンツというラフな格好をしていた。それが普段の格好なのかと感慨に耽っていると「どうしたの?」とこちらの顔を覗き込んできた。
「いや、なんでもない」
「そう? それじゃあ早速。始めましょうか」
部屋の真ん中には低い机が置いてあって、そこに広げっぱなしのノートと課題のプリントが放り出してあった。僕と彼女は向かい合って座った。
「いきなり?」
「面倒なことはさっさと終わらせておくべきだと思うのよ」
「8月29日なんだけどな」
「あんたがいうな」
「じゃあさっさと始めるか」
聞かなかったことにして、僕は自分の勉強道具を広げて宿題の消化に取り掛かった。彼女も溜息をついて、机の上を整理して宿題に取り掛かった。
互いに判らないところを教えあいながら、時々答えを見せ合いながら、必要以上に長い休憩の間に無駄話をして、いるうちに夕方になっていた。お昼はおばさん特性だというオムライスをご馳走になった。卵がちょうどいい半熟で、それが程よく味のついたケチャップライスと絡んで、絶品だった。宿題の方はというと、今日一日で全体の八割ほど消化してしまって、もう残りは一人でも出来るくらいになっていた。
「今日はかなり助かったよ。ありがとう」
僕がそういうと「こっちもね」と遊里は笑った。
ばいばい、と手を振って帰ろうとすると、何故か彼女がついてきた。
「送る役目、逆じゃない?」
「でもうちに来たのはそっちでしょ?」
やれやれと思いながら僕は溜息をついた。
「まあ、私もなんか体を動かしたかったからねぇ」
「じっとしているのは性に合わないもんなぁ」
「さすが運動部」
「おまえもだろ」
「まあね」
ひぐらしの声が遠くから聞こえる。空は真っ赤に色づいている。僕は、梢のことを彼女に話そうとした。
「そういえば」
けれど、僕が話しかける前に彼女が口を開いた。僕は反射的に「なに?」と応えていた。
「このまえ一緒だったのあれ、だれかな?」
にやにや笑いながら彼女は尋ねてきた。
「このまえ?」
「そう。二週間ほど前だったかな?」
「ああ、あの日ね」
「で、誰よ。彼女?」
「別にそんなんじゃないよ」
「へぇー」
信用していない目だ。僕は辟易しながらいった。
「梢と一緒に、ちょっと買い物とかにいっただけだよ」
「……梢?」
「どうかした?」
「ううん。なんでもない。そういえば、昔は三人でよくいたなぁ、って思って」
「そうだよなぁ。今日梢も誘えばよかったかも」
「でも、あの子頭いいし、もう全部終わらせてるんじゃないかな」
「誘ったら来そうだけど」
「いいのいいの。終わったことだし」
少し早口で話す彼女は、まるでこの話題を早く切り上げたいかのように少し焦っている様に、僕の目には映った。
「じゃあ、今度会うのは学校でかな?」
僕の家の前に着くとそういって彼女は少しだけ寂しげに微笑んだ。
「無事ならねー」僕は冗談めかしていった。
「縁起でもないことを」
「んじゃ」
「うん。ばいばい」
遊里と分かれて、一人部屋に戻った僕は、なんとも気色の悪い違和感に襲われていた。胸騒ぎに置き換えてみてもいいかもしれない。結局僕は最後までその正体に気がつくことはなかった。
二学期に入ると、梢へのイジメは少しだけ判りやすくなっていた。それは、同時に悪化したということでもある。僕が朝、何気なく声を掛けに行くと、彼女の机には油性マジックで書いたであろう、邪悪で赤い罵詈雑言が所狭しと書き込まれていた。それをみた瞬間、僕は声が掛け辛くて、引き換えしてしまった。
その朝をきっかけに、本格的に梢と口を利くことはなくなっていった。それとは対照的に、遊里は以前にまして話しかけて来るようになった。そのお陰で、すっかりクラスのなかでは付き合っている、みたいな扱いになっていた。
いつしか僕は、その扱いもまんざらではないと思い始めていた。多分、遊里のことが好きになりかけていたのだと思う。彼女は活発で、同じ運動部に所属しているということもあってか、どこかで共鳴しあうようなものがあったのかもしれない。
気がつけば、僕の日常のなかで梢はどんどん小さくなっていた。それに比例するかのように遊里はとても大きな存在感を放って、逃げ続ける僕の心を包み込もうとしていた。
そして十月も終わりにさしかかろうという晩秋の夕暮れの放課後。僕は遊里に、自転車置き場の裏に呼び出された。
指定された時間にその場所にいくと、まだ誰もいなかった。僕は近くにあった、何のために使うのかよく判らないコンクリートの塊に腰掛けて、彼女が来るのを待った。しばらくぼーっとしていると、自転車置き場の影からこっそり遊里が顔を出した。それから、緊張しているのか、足と同じほうの手を前に出しながら歩いてきた。僕はその歩き方がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「なんで笑うの」
顔を真っ赤にして彼女はいった。
「なんでだろうね」
まだ笑いが収まらなくて、にやにやしながら僕は応えた。
彼女は大きな溜息をついて、「こっちの方がらしいといえば、らしいのかな」と小さな声で呟いた。
「それで、話って?」判りきったことだけれど、あえて訊ねてみた。
「判っているくせに」
そういって彼女は大きな深呼吸をした。ゆっくりと息を吐き終わると、真っ直ぐ僕の目を見た。その真摯な眼差しはとても綺麗だった。それから大きく息を吸って、
「私と、付き合ってください!」
「うん」
「え?」
びっくりした顔で彼女は僕を見た。それから笑いながら涙を流した。僕はとりあえず彼女の方を抱いて、さっきのコンクリートに座った。
「なんで即答するのよぉ」
泣きながら彼女はそんなことをいった。
「迷ってもしょうがないかなぁって思って」
なんだか悪いことをしたような気持ちになって、僕はなんだかわからずに謝った。
「別に謝るようなことはしてないよ。でも、馬鹿」
「一言余計」
「そっちは配慮が足りない」
気がついたら泣きやんでいた彼女は、そういうと僕のおでこを人差し指でつっついた。
「人生初告白がこんなのって」
「じゃあもっかいやりなおす?」
「駄目。心臓がおかしくなる」
真剣な顔で彼女はいった。僕はまた謝った。
けれど話はそれ以上続かなかった。お互いになんだか気恥ずかしくてなにを話せば良いのか判らなかったのだ。
しばらく黙り込んでいると「そうだ」と彼女がいった。
「ちょっとやってみたいことがあるんだけど」
「やってみたいこと?」
「ちょっとあっち向いてて」
「なんでさ」
「いいから。別に何も企んでない」
口ではそういうけれど、目を見ればそれが嘘だと判った。けど、だからといって逆らうと空気を悪くしてしまいそうだし、だから僕は彼女のいう通りにした。
「いいっていうまで振り向かないでよ」
彼女はなにをしているのだろうか。なにかカバンのなかでも弄っているのか、がちゃがちゃと音がする。なんだか嫌な予感がしてきたころ、彼女は「いいよ」といった。
ようやくか。そう思って振り向いた瞬間、唇に何かが触れた。すぐ目の前に遊里の顔があった。なにか遠くで物音が聞こえたような気がしたけれど、いま起こった出来事でパニックになっていた僕にとって、それは瑣末な問題だった。遊里は、真っ赤になりながら、悪戯が成功した子供のようにはしゃいでいた。
「えっと……」
「あ、そうだ。用事あるんだった」
僕が何か言おうとする前に彼女は走り去ってしまった。さすが陸上部のスプリンタ。あっという間に見えなくなった。取り残された僕はどうしていいかわらかずぽかんと口を開いたままだった。ただ、嬉しかったことだけは確かだった。
その日を境に僕は世界の見え方が少し変わったように思えた。と、同時に見えていたものまで見えなくなっていた。
僕が浮かれている間にも、梢のイジメはエスカレートしていた。僕はそのことにまったく気がつかなかった。『死ね』『キモイ』『消えろ』などといったイジメの定型句を初めとした罵詈雑言は教科書にまで書き込まれ、ページは引き裂かれ。僕がそのことに気がついたのは彼女が大きな痣を顔に作って登校してきた朝だった。その頃の彼女は、すっかり疲弊しきっていて、あまり食事も採っていないのか、以前と比べてとても痩せ細っていた。けれど、僕はやっぱり彼女と向き合うのが怖くて、だからいつも遊里に逃げていた。いや、そうじゃない。同じ幼馴染なのに、見てみぬ振りをしている彼女を共犯者だと決め付けて安心しようとしていたのかもしれない。事実、彼女は一度も梢の話をしなかった。僕が話を振ってみてもはぐらかすだけで、それはもう触れたくない過去であると言外に語っていた。けれど、そこにやはりなにか違和感があった。でもそれに踏み込むことすら恐れた僕は、やっぱり見てみぬ振りをした。
そして僕は、梢を見捨てた。
※※※
梢が、急に席を立ったのは一限目の授業がもう少しで終わろうかというころだった。その手に持っているものを見た瞬間僕は凍りついた。長く刃の飛び出したカッターナイフ。あまりに堂々と、席を立ったものだから誰も彼女を止められなかった。
梢は、真っ直ぐに遊里の席まで行くと、彼女を後ろから羽交い絞めにした。カッターの刃は遊里の首筋にぴったりとくっつけられている。
そこでようやく教室がざわめきだした。
僕は、目の前で何が行われているのか理解できずに、ただ呆然と二人の姿を見ていた。
「ねえ、遊里ちゃん」梢はいった。その声は、まるで氷のように冷たく、尖っていた。「あなた私に死ねっていったわよね」
「な、なんのことよ?」
「惚けるの?」
「いや……助けて」
か細い声で助けを求める遊里の、伸ばした手の先には僕。その瞬間、後先など考えられなくなった僕は立ち上がり、遊里を助けようとした。しかし、突然響き渡った嘲笑が僕の足を竦ませた。
「そっか。そうよね。知らないんだもんね、あっちゃんは。あんたはずっと知られないように、懸命に隠していたもの。とっても、健気でみていて楽しかったよ。本当のことはなそうか?」
「や、駄目!」
遊里の目に、怯えの色が混じる。その様子に、僕はあの日抱いた違和感が氷解していくのが判った。
「まさか、お前」
「違う。違うの……」
「違わない! あなたは影で隠れてイジメをやっていた。ふふ、でも安心して? これからもう私を苛めなくて済むから」
「え?」
遊里の首筋から、カッターナイフが離れた。そして、梢は自分の手首に押し当て、強く引いた。そして手首を遊里の頭上に掲げた。
手首から、あふれ出した鮮血は遊里を頭のてっぺんから真っ赤に染めた。
あまりの出来事に混乱したのか、遊里は悲鳴を上げることも出来ず、ただ口を戦慄かせていた。
「どう? 血って暖かいでしょう? 死ぬとね、これは冷たくなるの。だからこれが全部冷たくなったら遊里ちゃんの望むとおりに私は死ぬの。ね? 嬉しいでしょ? 死んで欲しいっていう願いが叶うし、これ以上誰かを苛めたりすることなんてないから、もうばれないかびくびくすることもないんだよ?」
そういうと梢は、今度はカッターの刃を自分の首筋に当てた。僕は机にぶつかりながら、押しのけて、彼女を止めようとした。けれど、
「時間を掛けるのは良くないわよね。だって幼馴染のお願いなんだし」
そういって、彼女は自分の首を掻き切った。狂気的なまでの笑顔を貼り付けたまま。
勢いよく噴出した血液が、教室を赤く染める。首を掻き切ったまま、意識を失った梢は、遊里にしがみついたまま離れない。
遊里は、パニックになりながら梢を引き離そうとした。けれど、いくら暴れても離れない。がっちりと掴んだ手はその心に秘めた執念がごと、離れることはなかった。そうしているうちに救急隊員がやってきて、二人は同じ救急車に乗って運ばれた。
それからすぐに、梢が死んだことを知らされた。すぐに治療をしようとしたけれど、遊里の体から離れなくてどうしようもなかったのだという。
遊里は、このことが原因で心を病んでしまった。一週間もしないうちに、学校を止め、専門の設備がある遠くの病院に入院してしまった。
残された僕は、しばらく塞ぎこんで自分の部屋に引きこもってしまった。ただ後悔よりも罪悪感の方が大きかった。僕が、もう少しでも真面目に向き合っていればもっと違う未来があったのではないか。そうしなかった僕の責任だ。僕が梢を殺して、遊里を壊してしまったのだ。
そんな僕に止めを刺したのは、あの事件の前日、梢から届いていたメールだった。その日僕は、ずっと遊里とメールのやりとりをしていて、後から読もうとほったらかしにしたままだったのだ。その内容に僕は打ちひしがれた。そして、自分を呪った。
『ただひたすらに悔しいというのがいまの気持ちで
す。
けど、やっぱり現実は変えられないものだから。
でも、言わせてください。私も、あなたが好きだ
っだ。
でも、あなたが選んだのは、遊里ちゃんでした。
いつも、あなたに会えるから生きていけました。
つまり、あなたこそが、私の生きる理由でした。
だけど、私の太陽は、消えてしまったのです。あ
の女に奪われてしまいました。あなたは私の言葉
に気がつかなかった。それだけです。さよなら。』
梢の葬儀が執り行われた日。僕はただ、彼女の棺おけの前に跪き、声がかれるまで彼女に謝り続けた。
許しを乞うわけではない。
この罪は一生消えないのだから。
僕も遊里も死ぬまで背負い続けなければならない。
遊里はすぐに壊れてしまったけれど、僕もいつまで正気でいられるか判らない。だから、僕がまともである間に、謝り続けなければならないのだ。
――梢。ごめんなさい。
了
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てすと投稿も兼ねて昔書いた作品を上げてみました。ちなみに無駄な仕掛けを仕込んでます