イギリスの児童文学は、日本と全く文化が異なるためか、面白い。
主人公の少年とその友人たちの魔法学校での生活を描き、同時に主人公の父母を殺した強大な闇の魔法使いとの戦いに巻き込まれていく展開に、中等部三年生の小島 聖愛(こじま せいあ)は引き込まれていた。
いつか自分自身で物語を書いたり、朗読をする夢もある。
もう一章、もう一章と読み進めていくうちに、高い天井に設けられた天窓から差す光もいつしか傾いている。
しおり代わりに使っている書店のレシートを上製本に挟み込み、閉じると、聖愛は学生カバンを提げ、折りたたみ椅子から立ち上がった。もう、下校時刻はとっくに過ぎていた。
このとき、不意に隣の折りたたみ椅子に人の気配がした。誰もいないはずの麗花(れいか)記念講堂であったから、聖愛は訝む思いで顔を向けると、見知らぬ女子生徒が座り、聖愛を見上げ、静かに微笑んでいる。
長い三つ編みが清楚であったが、この世の人ではないことは、全身がわずかに透けていることからすぐに解った。
……幽霊……
聖愛には、怖い、という感覚は起きなかった。むしろ、大切な何かを語りかけようとしている。その言葉を聞きたく、声をかけた。
「あ……あの、わたし、中等部三年生の小島聖愛です。高等部の方……ですよね?」
北品川の御殿山にある翔和(しょうわ)女子学院の制服は、白いブラウスに青いチェック柄のプリーツスカートで、冬期はベージュのブレザーを重ねる。
六月上旬でありながら、猛暑を予想させる夏日が続いていたが、学生にスーパークールビズなど許されず、中等部は白いブラウスに赤いスカーレットリボン、高等部はスカートと同じ青いチェック柄のネクタイを結んでいなければならない。半透明の女生徒は、青いネクタイをしめている。
「……あの……」
聖愛は幽霊になおも語りかけると、透けた生徒は長い三つ編みをふわりと揺らせ、すうっと消えていった。
女学生の幽霊が座っていた折りたたみ椅子は跳ね上げられ、一冊の古いノートが置かれている。いわゆる大学ノートと呼ばれているものであった。
『思いの織物』と細い字ながら、大きく記されたノートの表紙をめくると、延々と児童文学が綴られていた。
聖愛は大まかに字数を数えてみると、四百字詰原稿用紙に換算して十五枚から二十枚のほどの作品であり、目を走らせると、
「面白い、これ」
輝いた瞳を、思惑ありげにノートから上げ、明治後期の建築である小暗い麗花記念講堂を見渡した。
昼休みがまだ二十五分ほどあることを確かめると、聖愛は尻込みする鷲尾 衣音(わしお いお)の手を引き、校長室へ向かった。
リベラルな校風とは言え、衣音にとって校長室は緊張する。
昨年の秋にJICAと呼ばれる国際協力機構が、開発途上のタンザニアの子供達を日本に招き、自国の未来のイメージを先進国のあり方を体験させて、具体的なものとする計画の第六回目が行われた。
この際に、上野の奏楽堂を用い、都内の私立学校六校が、一校当たり十分から十五分の持ち時間で楽器演奏をするよう、東京私立中学高等学校協会をとおして文部科学省から伝達があり、翔和女子学院からはヴァイオリン演奏に優れた高等部三年生の二名を送り出す予定だったが、そのうち一名が二日前の体育の授業中、左手首を傷め、急遽、当時中等部二年生の衣音を代役に立てたのだった。
衣音は母親の裕実(ゆみ)の英才教育を受けており、期待以上の成果を収めている。こうした事情から衣音は生徒たちには一目置かれた存在だった。
また、都内の中高生たちの上野での国際協力が、全国紙である全日新聞の翌日付の朝刊の地域版に報じられ、衣音は当初、母には内緒で出場したい、という条件が水の泡になった、という微笑ましい後日談がある。
「だから、偶然だよ、そんなの」
衣音が言うと、クラスメートの聖愛は、
「偶然なんかじゃないよ。講堂を出ようとしたとき、わたし、暑いからウナギを食べたいな、って考えたの。そしたら、おとうさんからわたしの携帯電話に着信があって、銀座のウナギ料理の老舗の『清水亭』でウナ丼を食わせてやるから、新橋の機関車の前で待ち合わせをしよう、っていうことになったの。これはもう、幽霊の先輩が朗読会を開いてくれるのなら、食事をおごってくれる、って言っているのと同じだよ。一宿一飯の義理は果たさないと。後が怖いじゃない」
「その朗読会開催云々っていう発想が唐突なんだよ。ただ、読んでほしくてノートを渡してきただけじゃないのかな?」
衣音は、まるで昨晩の夢の話でもしているかのような聖愛と幽霊学生の出会いを根本的に否定すると、聖愛は、
「ノートは現実にあるんだよ。しかも、よく書けているし。おまけに四回に渡ってチェンバロの独奏が指定されているんだもん。講堂のステージ上手に古いチェンバロが置いてあるでしょ。っていうことは、七月八日から補強工事に入る前に、麗花記念講堂で朗読会を開催してほしい、っていうこと以外、考えられないじゃない」
女子生徒の魂が求めるものをまくし立てた。二人が校長室の重々しく分厚いドアの前に立つと、衣音は、
「ね……え。どうして、わたしがその朗読会に駆り出されるの? わたしはウナ丼、食べていないんだけど」
聖愛がそもそも衣音に七夕の放課後に計画している朗読会に協力を頼んだ、というよりも強制した理由を聞くと、聖愛は、
「だって、あんた、半年前にも上野で国際協力したじゃない。今度はOBやPTAを楽しませればいいんだよ。楽勝でしょう?」
奏楽堂での出来事を持ち出した。衣音は愕然として、
「あのときはヴァイオリンを弾いたの! しかも高校生と一緒に。今度はチェンバロでしょ? 知らないよ、弾けないよ、チェンバロなんて!」
叫ぶように言ったが、聖愛は聞く耳持たず、
「楽器だもん、似たようなもんじゃない」
けろりとして言い、校長室のドアをノックした。室内から校長の乾 美智子(いぬい みちこ)の声で「どうぞ」と応答があった。衣音はもはや後戻りは出来ず、両脚をがたがた震わせながら、校長室へ入る他なかった。
質素・倹約を第一義としている校長室には、執務机と回転椅子、応接セット、それにわずかなサイドボードに過去の生徒達の優秀な成績を賞するトロフィーや盾、賞状があるだけで、飾り立てるようなインテリアの類は一つとしてない。
応接セットの一人掛け用のソファには、美智子がゆったりと座り、聖愛が書いた拙い企画書と幽霊の女学生が書いた『思いの織物』の台本ノートのページを繰っていた。
対面した三人掛け用のソファには、聖愛と衣音が威儀を正して座り、校長の一挙一動を神経質に見つめている。
美智子は、昭和三十四年の生まれで、昭和天皇の治世、現在の天皇陛下が皇太子だったときに、現在の皇后陛下と結婚し、この年に生まれた女児の多くが、当時の皇太子妃にあやかった名をつけられた。
美智子は急逝した母を継ぎ、翔和女子学院の校長に就いて一年半が過ぎている。
母の時代、翔和は単なる御殿山の麓のお嬢様学校に過ぎず、廃校寸前の状態になっていた。
この危機を救ったのが当時、教頭だった美智子で、教育方針をがらりと方向転換し、大手企業とタイアップした新商品の企画・開発を学校の授業と将来の仕事に結びつけたカリキュラムを頻繁に組み、卒業後は即戦力となることを見据えている。
中等部の生徒といえど、企画を立案し、他者に伝えることの出来る企画書を書けなければならないし、社会に例えれば、管理職に相当する学年主任や中等部主任に自信をもって提出出来て当然であった。
日限が迫っているのなら、最高責任者である校長へ直に書類を持ち回りするぐらいの肝がすわっていなければ、教員達から注目されることは難しい。
翔和でたたき込まれるのは、こうした自立した女性としての心構えと同時に、押すところ押す、引くところは引く、という社会性で、勉強の出来不出来は二の次という校風がある。
美智子は応接テーブルの上に聖愛が書いた企画書を丁寧に置くと、
「小島さん、どうして、今、このイベントが必要なの?」
企画意図を尋ねた。聖愛は待ちかねたように、
「はい、三月十一日の東北東日本大震災では、東京も震度五強の強い揺れに見舞われました。この地震で明治三十九年に建築し、大正十二年の関東大震災で大改修された麗花記念講堂も基礎が大きく傷み、その耐震性をPTAから指摘を受けました。
これに対して学校側は補修工事のための費用は全く計上していなかったことから、卒業生や在校生の父兄に急遽、寄付を依頼し、幸い目標額まで募ることが出来た、と聞いています。
これで、はい、区指定の有形登録文化財を修理しました、また、貸し会議室同様に内外の皆さん、安心してお使い下さい、では、あまりにお役所仕事です。
そこで、生徒の有志が改修工事に入る前日の放課後、奇しくも七夕に朗読会を開催し、寄付金を寄せて下さった方々をご招待出来れば、金の無心にだけは熱心な私立校、というイメージから、社会での即戦力を目指す翔和のあり方が一層、強く印象づけられることでしょう」
一気に語ると、美智子は大きく頷いた。次に美智子は衣音を見ると、
「鷲尾さんは半年前、ヴァイオリン演奏で国際協力に貢献した実績がありましたね。今回はチェンバロ演奏ですが、大丈夫ですか?」
自信のほどを尋ねたが、チェンバロなど弾いたことはなく、これから一か月後の本番を目指してレッスンを始める、という心もとない現実を思わず口にしかけたが、巧みに衣音の情けない表情から本音を読み取り、美智子は、
「社会とは実績が一人歩きをしているところです。今回も期待していますよ、がんばって下さい」
衣音の出来ません、自信がありません、という否定的な返事を封じると、もはや聖愛と共に朗読会『思いの織物』を開催する以外、選択肢がないことを宣告した。
衣音は、上野の奏楽堂で開催されたミニコンサートの帰り道、思いもかけず人間の心が秘めた三つの特質を美智子から学んだことを思い出した。
一つ、いつでもどこでも自由に使うことが出来る。
二つ、無限大に使うことが出来る。
三つ、使えば使うほど、質が向上していく。
というものであったが、この知識を得た後、家庭では次女としての振る舞い、学校では中等部の最上級生という立場を客観的に見つめ、自分は半年前からどれくらい成長しているのか、自らに問うてみるよい機会ではないだろうか、と衣音は考えた。
衣音は自主性を引き出す美智子の指導に、身が引き締まる思いとなった。
美智子は稟議書の決済の際に用いる象牙の認め印に朱肉をたっぷりとつけ、聖愛の企画書の捺印欄に捺した。
聖愛はくっきりと朱色に捺された校長の認め印を見ると、にんまりと笑った。
自称・文芸部長の聖愛にとっては、地震で損傷した麗花記念講堂が補修され、元通り「部室」として使用出来れば、後はどうでもよく、朗読会の名を騙った寄付をしたOBやPTAへの中間報告など知ったことではなかった。
また、麗花記念講堂内で生徒主催の朗読会を成功させられれば、文芸部員を集め、正式に部活動として認可される日も遠くない。この計画の成功のためには、国際協力を果たした実績をもつ衣音の存在は強みであった。
美智子はふと、校長室内の書類が押し込まれたキャビネットの中から、昭和五十二年三月に卒業した生徒達のアルバムを取り出すと、衣音と聖愛にページを開いて見せた。
衣音と聖愛は一体、何が写っているのかと白黒のアルバムをのぞき込むと、既に昭和五十一年の秋の文化祭で、『思いの織物』が生徒によって上演されていたことを知った。
麗花記念講堂でチェンバロを弾いているのは聖愛に台本を託していった卒業生で、朗読を受け持ったのは美智子自身であった。衣音は思わず、
「校長先生。チェンバロを弾いているこの人は……」
尋ねると、美智子は、
「橋本 結子(はしもと ゆうこ)。高等部三年生のとき、わたしと同じクラスの子だったけれど、相当な変わり者だったわ」
美智子が厳しい校長の目からすうっと年代こそ違え、女同士の気さくな話をする穏やかな面差しになって言うと、聖愛が身を乗り出し、
「どんな風に変わっていたんですか?」
わくわくと顔を輝かせて聞いた。美智子は、
「結子はね、二言目にはクラスにスターは一人で十分だ、と言っては、誰よりも目立つことを喜んでいたわ。
体育の持久走の授業では、クラスメート達が疲れ切って座り込んでいるのに、一人で黙々と走り続けていたし、家庭科の調理実習の授業では、課題にもなっていない肉じゃがを大量に作り、クラスメートに振る舞っていたっけ。
聞くところ、結子は北品川の商店街でウナギ料理店を営む有力者の娘で、おにいさんが銀座と赤坂に出店したとか。結子本人は童話作家になるのが夢で、噂じゃ、そのテの専門学校を出て、当時、人気のあったイラストレーターに挿絵を描いてもらって、絵本を二、三冊、小さな出版社から出したそうよ」
結子の消息を語った。しかし、現在、幽霊となって校内に出没しているところを見ると、五十になるかならないかで早世した様子であった。
また、父と兄が営むウナギ料理店とは、『清水亭』のことで、店の売り上げのために聖愛と聖愛の父を呼んだのであろう。
更に言えば、『思いの織物』は結子の作品で、それを美智子に矢面に立たせるがごとく朗読させ、自分は一歩引いたところでチェンバロ演奏をしたのだった。美智子の言うとおり変わり者だった。美智子は、
「今度は平成の『思いの織物』になるのね」
結子が書いたシナリオに懐かしく目をとおした。美智子は昭和五十一年に自分と結子が上演した演し物を三十年以上もたった平成の時代に、自分の教え子によって再演されるとは思いもよらず、感慨深いものがあった。
しかし、本音を言えば、曾祖母が翔和女子学院の校長だった時代の校舎を、だましだまし費用ばかりをかけて使わなければならず、文化財保護法に則って区指定の文化財の保全・活用に努めています、という建前を演じ続けるよりは、東北東日本大震災で修理不可能なほど壊れてくれていた方が、平成の子供達には受けのいい、明るく開放的な高層建築に建て替えられるのだった。
大正十二年の関東大震災の復興期同様に直して使わなければならないなど、無駄金ばかりを食う、とんだお荷物をまだまだ背負い続けなければならない。学校法人の運営は頭の痛いことばかり……教育を学問の一分野と捉えた父と兄はそれなり賢明だった。
しかし、未来に夢をふくらませる聖愛と衣音に大人の本音は口に出せない。美智子は先ほどから聖愛と衣音の背後に立っている結子の霊に、朗読会へ向けて、力を貸してほしい、と心の中で語りかけた。
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皆さんお久しぶり、小市民の短編小説の新作をお届けします。今回は、昨年の秋にお読みいただいた「思いの織物」の続編ですが、正編を知らなくてもお楽しみいただけます。思いの織物って何? と思われた方に説明しますと、登場人物達のそれぞれの思惑と否応なく進む事態を華麗な織物に例えたタイトルです。
翔和女子学院中等部三年生の小島聖愛(せいあ)によって東北東日本大震災で被害を受けた明治後期の建築物で七夕に朗読会が開催されますが……
今回は暑い毎日が続くので幽霊をキーマンにする、というオカルト風味を添えました。後編ではいよいよ朗読会が開催されますが、発表は少しお時間を下さい。それでは始まり、始まり。