こつんと、足元で角砂糖が鳴いた。
拾おうと手を伸ばすと、触れた瞬間にかさりと崩れた。
「なに、これ」
それは、空から降ってきた。空から、角砂糖が降ってきた。雨にはいつも悩まされているし、冬には雪を見て胸の中を真っ白にする。たまには雹がふることもあるかもしれない。けれど、角砂糖が降ってくるなんて、聞いたことがなかった。
誰かが窓から落としたのかもしれないと見上げてみたけれど、辺りには高い建物などはなく、閑静な住宅街が広がるばかりだった。
崩れた角砂糖は、風に吹かれて薄れてしまった。すぐ側に公園があり、少し歩けば川に出る。風とともに散っていった砂糖は、きっとアリの餌になるのだろう。
真っ昼間に起こった不思議な出来事に、優子が抱いたのは鬱屈とした思いだった。アリですら餌にありつけているというのに、自分はアルバイトの一つも満足にみつけることができない。……否、アルバイトを見つけるのは簡単だ、ただ、そのアルバイト先の店長がなかなか優子を雇ってくれないのだ。
しかも、その「ごめんなさい、今回の話はなかったことに」という棒読みの電話の原因が自分にあることを薄々分かっているから、尚の事苛立ちは募る。
だとしても、簡単で、場所を選べばいつでも人手を募集しているとネットにも書いてあったコンビニの面接に落ちたときは、流石にショックを隠せなかった。笑顔を必死に繕って電話を切った。たまたま飲んでいた喫茶店のコーヒーが一気に色褪せた気がした。まだ半分以上残っていたのに、香りだって本当はまだ楽しめたはずなのに、いたたまれなくなってぐいっと一呑みして店を出てきた。
そうして色んな意味でブラックな気分に浸っていた自分に対する神様の当てつけだろうか。
角砂糖でも舐めて落ち着けとでも言いたかったのだろうか。
……喫茶店を出てきたのは、ついさっきだった。
つまり、六つ目の面接に落ちたのがついさっき。
これが本番の就職じゃないという事実を好意的に見るべきか、否か。
「つーか、地面に落ちたら舐められねえだろー……」
手の平に落ちてきたからといって舐めないけれど。空から落ちてきた得体のしれない砂糖なんて。
やっぱり神様にバカにされているのだろうか。
そんなことを思いながら思考をぐるぐると回転させていたら、再びこつんと音がした。
見れば、目の前にまた角砂糖が落ちていた。今度は、粉々に砕けてアスファルトに飛び散っていた。
「なんなのよ……」
つくづく、東京は変な街だと思った。
地元では、「東京」という文字に独特の、念を抱いている人間が数多くいる。優子もその一人だった。四歳からピアノを習っていた優子は、中学校を卒業してすぐに東京に出た。地元では高校を卒業して一念発起して東京の大学を目指すものが多いが、それでは遅いと優子は思った。
だから、一足早く、高校生のうちに東京を知ろうと思った。
幸い、昔から仲の良い親戚の家の近くにアパートを借りることができたため、両親も快く送り出してくれた。初めての東京、高校生活、一人暮らしに、ショックを受けることも多かったけれど、元々自分の家は恵まれていたのだろうと思う部分も多く、目立った事件もなく、三年間を過ごした。
受験を除けば。
第一希望の音大に、入ることは叶わなかった。
滑り止めに私立の大学を受験してはいたが、そこも、落ちた。
めでたく、世間知らずの浪人生が一人、誕生した。
そして、今に至る。なぜアルバイトを探していたのかといえば、……はっきりと本音を明かせば、ヤケクソだった。自暴自棄とも言う。
そんな状態を隠せるほど大人ではないらしく、優子は見事に六連敗した。いくらコンビニの店長といえどもヤケクソ丸出しな浪人生を雇う気はないらしい。
……よほど、優子の態度が酷かったとも言えるのかもしれない。
「ちっくしょー」
また、アルバイト探しに思い至ったのにもワケがあった。
最近、気のせいでなく財布が軽くなってきた。、預金残高も切り崩す方向性を帯びてきた。親からの仕送りが、途絶えたわけでもない。出費が増えたわけでも、ないと、思ってはいる。
「どーしろって言うのよ……」
ポケットの中で、携帯が鳴った。
着信だった。
「はい、もしもし」
「あ、やっぱり優子か」
「え?」
画面も見ずに電話に出たが、声を聞いてもぴんとこなかった。しかも、電話の向こうの人間の言い回しはややおかしい。
「あの、どういう……」
「おーい」
声は、後ろから聞こえた。振り返ると、見知ったような顔の男が近づいてくる。どこかで見たことがあるような、そんな面影がある顔だった。
「えっと……」
「優子かなーって思って電話したんだ。やっぱり」
「えっと…………、隆?」
「そうそう、覚えててくれたか」
「なんであんたこんなところにいるのよ!」
隆――地元の中学校で同級生だった男子生徒だ。
「東京の大学にさ、受かったんだ」
「へ、へー」
「優子こそ、こんな時間にこんなところでどうしたんだよ。東京行ってからも結構頻繁に連絡くれてたのに、ここんとこ全然音沙汰なしって皆心配してたぜ」
できるわけがない。勢いこんで上京して、大学受験に失敗しましたなんて話せるわけがなかった。当然、言葉に詰まる。
「色々、あって……」
「ふーん、……なあ、せっかくだからさ、どっか喫茶店でもはいらねえ? お昼食べた?」
昼はまだだった。喫茶店は行ったばかりだったし、気分的にも立場的にもあまり隆と話したいとは思えなかったけれど、地元の人間の近況を聞き出しておくのも悪くない気がした。
「いいよ」
喫茶店に入り、適当に飲み物と食べ物を注文した。
パスタの味は悪くなく、隆の話もそれなりに面白かった。なによりも、隆の声はどことなく地元の香りがしなかった。地元の人間であるはずなのに、随分長い間、二人揃って東京で過ごしていたような気分を感じさせた。
「ところでさ」
隆が、話題を変えた。「うん」優子は対して何も考えずに、グラスをつつきながら相槌を打った。
「衛星賭博って、知ってるか」
「う、…………うん? ……なんて?」
いつの間にか気のない返事を繰り返していたせいで、ろくに聞きもせずに相槌を打ちそうになった。
「衛星賭博。……サテライトギャンブル、SGって呼ぶ奴もいるな」
聞いたこともなかった。少なくとも東京にいて耳にしたことはない。地元の方で流行っているゲームか何かだろうか。
「ゲームかなにかかと思っただろ、ちげえんだよ」
隆は鼻を膨らませながら続けた。
「衛星は分かるだろ? 地球上の基地局と電波を交換して、地球上の別の離れた地点から情報を受け取ったりする。GPSとか色々発達してるから、今でも重要な技術力として世界中で」
「あー、ちょっと待って」
衛星が何なのかは一般レベルでは知っているし、専門レベルの話をされてもついてはいけない。衛星の説明をされても時間の無駄だ。
「衛星は知ってる。で、……その、なに、衛星賭博? って言った? なにそれ」
「まず前提としてさ、宇宙はさ、有限なんだよ」
隆の声は、鼻にかかっていた。ああ、今こいつ、自分で自分のことかっこいいと思ってるよ。優子が面白くなさそうな顔をしたのを、隆は機敏に拾い上げた。
「ああ、悪かった悪かった。ちょっと言ってみたかっただけなんだよ。でも、これが前提として結構重要でさ。つまり、衛星が地球上と交信するもので、宙に浮かんでいるものである以上、飛ばせる衛星には限りがあるってわけ。で、先進国同士がどこにどんな衛星を飛ばすかで宇宙空間を得る権利を争って日々技術やら権力やらを研鑽してるわけなんだけど、そこに目をつけた奴らがいたんだよ」
「……うん」
どうしていきなりそんな話が始まったのか分からないまま、惰性で隆の話に耳を傾ける。
「中には過激な国もあってさ、邪魔な衛星をミサイル使ってたたき落としたりしちまう国だってあったりして、もちろん表のニュースには上らないけどな」
「え、うそ」
「嘘じゃねえよ、あ、あんまりでかい声出すなよ」
お前の声がでかいわ、と言いたくなったが我慢した。なんだか嘘のような話を真面目な顔で話す隆が滑稽で面白かった。
「で、衛星賭博の話に戻るぜ。その衛星に目をつけた奴らがいてさ、……本当はもっと複雑なんだけど、簡単に話せば、どの衛星が残るか、どの衛星が撃ち落されるかを賭ける遊びが流行ってるんだよ」
「…………それ、面白いの?」
隆は頷いた。もしも隆がカツラをつけていたら、きっとずり落ちていた。そのくらい、激しく顎を引いた。髪は慣性を受けてぱさりと跳ねた。
「でさ、こっからが本番。…………一口乗らねえ?」
…………出た。
優子は、嫌な顔を出さないように努めきれなかった。
「……私、帰るわ」
バッグを持って立ち上がろうとしたところで、隆がにやりと笑った。
「ちょっと待てよ」
「私、なんにも聞いてなかったから」
「いやいや、そこじゃなくてさ、……親に、話してないんだろ」
どくんと、胸を内側から殴られた気分だった。
「大学、落ちたんだよな」
「な」
「今浪人生なこと、親には話してないんだろ」
「なん、」
「仕送りは学費分とか受験料分だけ。まあそれでも結構な額だけど、来年受験することを考えたら学費には手をつけたくない。だからバイトを探してた。しかし、いまいち気が乗らない。勉強もしなくちゃならない。そして、六連敗だ」
「なんで知ってんのよ…………!」
最初の電話は、フェイクだった。
「俺さ、実は、ずっとお前の衛星やってたんだ」
衛星<ストーカー>、最低な比喩をしてきた。今日一番嫌な顔を隆へ向けるが、隆の笑みは崩れない。むしろ、その下品さを増した。
「悪い話じゃないと思うぜ。ただ脅してるわけじゃない。俺と協力しないかって言ってるだけだ。むしろ、俺と出会えてラッキーなくらいだ」
「……ふっざけんな」
その、衛星賭博がどんなものかは分からないが、良い方向へ転がってゆく話ではないことは間違いなかった。根拠もないが、断言できた。
「なあ」
隆が立ち上がり、腕を掴んできた。
「離して」
「おい、そんなこというなよ」
「大声出すわよ」
「分かった離す」
あっさりと手を離した。それは、完全に主導権を握られている証だ。
「じゃあ、俺も話していいか」
何をとは、言わなくても、伝わった。
優子は黙って、首を、横に振った。
「じゃあ、交渉成立だな」
「……嫌」
「いやってなんだよ。子供じゃあるまいし」
分かっていた。
全ては、こういう自分の甘さが、全ての結果を招いていることを、分かっていた。
新宿で、キーボードを叩きながら歌ってみたこともある。
デモテープをレコード会社に送ってみたこともある。
そして、受験も失敗した。
自分に原因があることは、最初から分かっていたはずだった。けれど、分かっているからこそどんどん深みへとはまっていった。どんどん臆病になっていく自分がいた。
いつからか、どうにもできなくなっていた。
流れに身を任せるしかなくなっている自分がいた。
「いい加減子供じゃねえんだからさ、自分のケツは自分で拭こうぜ」
「…………」
押し黙るしかなかった。どちらにも、首を振れなかった。
「ほら、当たれば大儲けなんだよ。それにさ、俺、この業界じゃちょっとした顔もってんだよね」
思えば、隆は昔からこういう奴だったかもしれない。どうして忘れていたのだろう。どうして無防備に付いて行ってしまったのだろう。
……全て、ヤケになっていたからだろうか。
お願い、呟きたかった。
もう一度だけでいい。もう一度だけ、チャンスが欲しい。やり直すチャンスが、欲しい。
隆に腕を掴まれて、強引に店から連れ出される。決して、周りからは強引には見えない歩き方だった。なんとも巧妙だった。思えば最初の話口からして、隆らしくなく巧みだった。つけていたというのも本当だろう。いつからかは分からないが、隆は随分前から東京に来ていて、引っ掛けるチャンスを狙っていたのだ。
全て、後の祭りだ。
もう一度だけでいい。
優子は、やり直したいと願った。
「よし、今日からコンビ結成だな」
隆の目は、声は、どうしようもなく下卑たもので。
優子は、絶望とともに空を仰いだ。
「……え?」
こつんと、角砂糖が足元に落ちた。
バイブレーションが聞こえた。優子の携帯じゃない。
隆が携帯を取り出して、通話ボタンを押した。
「はい、もしもし、……え、衛星? シュガー? 上? ……え?」
大きな砂糖の塊が、落ちてきた。
咄嗟に、優子は飛び退いた。アスファルトに体ごと突っ込んで、転がった。
目の前で、ごずんという鈍い音がした。アスファルトが砕けて、真っ白い塊が飛び散って、微かに、びしゃりという音が破壊音の裏側をすり抜けていった。
白い粉が舞い、転がった優子の足元に赤い絵の具が撒かれていた。隆の携帯が、からからと転がり、ビルの壁にぶつかって止まった。
しんと、一瞬だけ静まり返った。
悲鳴が起こり、ドともレとも分からない、数えきれない音が混じり合って混ざりきった、混乱のるつぼが巻き起こる。喧騒を濃縮したそれは、優子の耳に潮騒のようにざわざわと反響した。
遠くからふぁんふぁんというサイレンが聞こえた。
ごずんという音が、脳の奥をいつまでも揺らしていた。
ざわざわと、耳鳴りが止まない。
ふぁんふぁんと、まるでそれはギターのアルペジオのように耳に残る。
ごずん、ざわざわ、ふぁんふぁん。
ごずん、ざわざわ、ふぁんふぁん。
いつまでも、いつまでも、いつまでも。
怪我は擦り傷だけだったけれど、念のためと言われ優子は救急車に乗った。
救急車の扉が閉まった瞬間、優子はふっと思いついた。
「ああ、そうだ」
救急隊員の怪訝な顔が近くにあったが、そんなものは見えなかった。
「ピアノ、辞めよう」
救急車が、走りだす。
「大学も、アルバイトも、いいや」
救急隊員が「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」と聞いたが、そんな言葉は聞こえなかった。
「私、バンドやります」
にこやかに、告げた。
その手に、角砂糖を握って。
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三題[砂糖、衛星、ピアノ]で書きました。