「いやいや、勇者様にとんだご無礼を働いてしまったようで、本当に申し訳ございません。いや、なんと謝ったらいいものなのか……。部下達にはきつく言い聞かせておきます故、何かとご容赦を――」
豪奢な部屋。最奥には高級そうな暖炉が鎮座し、天井にはシャンデリアがぶら下がっている。拡散する光は目の前にある飴色の机によって反射され、どこを向いても眩しいくらいだ。
ソファも絨毯もムダに意匠が凝らされ、高級感を演出しすぎてうざったい。ソファは座り心地だけを言うのであれば、確かに快適ではあるのだが。
正面で話し続けている豚が、とにかく気に食わなかった。
隣のクロームを同じらしく、腕を組み仏頂面のまま、二足歩行する肥えた豚を睨んでいる。
ソファが二人がけのために急遽両脇に用意された一人がけの椅子に座ったセシウとプラナは退屈らしく、こっそり欠伸なんかもしている。
机を挟んだ向かい側に座っているのは、でっぷりとした初老の男。絢爛豪華な服を纏い、髭を蓄えており、脂ぎった肌は見ていてなんとも不快である。へこへこ頭を下げ、媚びるような笑顔を浮かべている点に関しても苛立ちを覚えた。
貴族は……苦手だ。
さて、そんな脳が足りてない貴族と、何故こうやって会談の場を設けることになったのか。
簡単な話、あの武装した男ども――どうもこの辺境伯の私兵らしい――にこの屋敷まで連行されたところで、隣に座る銀髪の無愛想な男が何者なのかを俺が伯爵に説明してしまったのが、一番の原因だと言えるだろう。クロームが勇者だと知るなり、伯爵はそれまでの嘲笑するような態度を翻し、俺達に平身低頭し始めたのである。
全くもって分かりやすい男だ。先程まではエントランスホールへ入れることさえ拒んでいたというのに。勇者と分かった途端、こんな豪華な応接間にまで導いてくれた。
「このような寂れた村に勇者様が訪れてくださるとは誠に喜ばしいことで御座います。この屋敷に訪れて下されれば、部屋を用意させていただいたものを……。あのようなボロ宿は勇者様にはさぞ不釣り合いでしょう。あんな古びて辛気くさい場所よりも、こちらの方が勇者様もくつろげるのではないでしょうか?」
……あー、ダメだ。こいつ。なんかすんげぇ苛々する。
さんざんよくしてくれている宿屋を貶され、セシウやプラナの目まで据わっている。あくまでクロームの仏頂面は崩されていないが、本心はおそらく俺達と同じなのだろう。
そういえば、なんでこの伯爵殿はこんなに肥えていらっしゃるのだろうか?
村人達はいつも快活で元気がよかった。でも頬が痩けている奴も多く見られた。森に棲み着いた魔物のせいで、人々の往来が少なくなっているという話を聞いて、食糧が枯渇しているという結論に落ち着いていたわけだが、考えてみるとこの村は自給自足が十分できているんだよな。
なのになんで村人には痩せこけている者が多く、伯爵はこんなにも腹が出ているのか……。
考えれば簡単に分かることだ。
良い暮らしをしてるな、本当に。
「私は静かで落ち着いたところが好きです。このような高級で気品溢れる場所こそ、私には不釣り合いだと感じます。あの宿が、私にはちょうどいい場所ですので、お気持ちだけ受け取っておきます」
伯爵の顔が一瞬曇る。好意が受け入れられなかったことで、プライドでも傷ついたんだろう。勇者に取り入るチャンスだもんな。
しかしすぐに表情を改め、媚びるような不細工な笑顔を顔面に広げる。
「ほ、ほう。質素倹約とはさすがは勇者様っ! いやはや、なんとよくできたお方だ。勇者様は噂を伝え聞いていた以上に素晴らしいお方ですね!」
うわ、うぜぇ……。
贅沢が美徳とでも言いたげな屋敷に住んでいながら、そういうことを言われると苛立つものがある。
その後も勇者と伯爵は言葉を交わし、勇者様が何か言うごとに伯爵はわざとらしい賞賛と賛美の言葉を投げてくる。こいつが今言った台詞だけで賛美歌を作ったら、そりゃもう唯一神アカシャ様も真っ青な褒め殺しの歌ができることだろう。欠点は全体的に薄っぺらいということくらいか。
俺はもう話を聞き流すのにも疲れて、ソファに凭れかかったまま、天井を見上げていた。
眩いシャンデリアの輝きの向こうに女神の絵画が見える。半球状の天井全面が絵になっているようだ。
いけ好かない笑みで俺達を見下ろしてきやがって。下界の出来事など所詮他人事、何食わない顔で竪琴など持ちおって。
天井に意識を集中して、なるべく伯爵の声が聞こえないようにする。長時間聞いてると人としてダメになりそうだ。
肥えた豚の口から出るモンはやはりどれも家畜臭い。
どうでもいいことをつらつら考えていると、くいくいと服の裾をさりげなく引っ張られる。引っ張られる方を向くと、そこには唇を引き結んで眉根を寄せ上げたセシウの顔があった。
「暇です」
「知らん」
潜めた声で切り捨てる。
「こういう場所苦手なんだよー。ねぇ、外に出て運動してきていい?」
「お前は子供か」
一瞬本当にこいつの精神年齢が心配になってしまった。いくらなんでも今のは子供っぽすぎんだろ。
もういい年だってのに、相変わらず本能に忠実である。
「もう少し待ってろ。多分終わる」
「もう少しってどんくらい? 何分?」
俺の素っ気ない態度が気に食わないのか、セシウはむすっと顔を顰めてぐいぐい裾を引っ張ってくる。
「……三十分?」
適当である。
「……三十分……生き残れる自信がない。せめてここで腕立て伏せしていいなら我慢する」
わけがわからない。
こいつはもしかしてあれか? 三十分間ずっと腕立て伏せしているつもりなのか?
頭おっかしいんじゃねぇの? これだからゴリムスなどと呼ばれるのである。呼んでいるのは俺だけど。
「いいから待ってろよ。紅茶でも飲んでよ」
テーブルに先程執事らしき気品ある老人が持ってきただろう。ちなみに俺達四人のうち誰一人として手を付けていない。
すでに目の前の貴族と親交を深めようとは、誰一人として思っていないのである。
クロームも下手にあしらうと厄介なので、とりあえずこの場だけでも友好的に終わらせようと思っているのであろう。
こういう時ばかりはしっかり社交性を発揮する辺り、クロームは有能だ。仲間内に関しては素で接しすぎているものの、こういう大事な場面ではしっかりと話すべきことを話せる。
安心して任せられるってぇのはいいな、ホント。
「ねぇ、ガンマ?」
今度はなんだよ。
うんざりしながらも俺はセシウに目を向ける。
「この紅茶味薄いよ?」
……お子様がァッ!
「それはお前の味覚がおかしいからだろ。結構いい葉っぱ使ってるはずだぞ?」
「G&Pですね」
俺の言葉にプラナが捕捉を加える。両手で包み込むようにしてティーカップをそっと持ち、立ち上る湯気の向こうで穏やかに笑っていた。
プラナは結構紅茶とか好きだからな。G&Pは結構有名かつ高級な銘柄だし、気に入っているのかもしれない。俺達はいつも旅の資金が逼迫していて、そういう高価なものとは縁がないからな。
「いい香りですね。主人の人間性はともかく、執事様の紅茶の淹れ方はなかなかのものかと」
ひっそりと辛辣な感想を述べるプラナ。案外プラナは毒舌なところがある。言葉数が少なく、謙虚な態度から忘れてしまいがちだが、歯に着せぬ物言いも多い。
そんな優しい表情かつ可愛らしい声音で酷評されたりすると、心へのダメージが尋常ではない。
「茶葉を少し分けてもらえるか、聞いてみてもいいぞ? 交渉なら得意だ」
尤も、あの豚の態度からすると、俺達が欲しいといえば大抵のものは糸目もつけずに与えてくれそうではある。むしろ気に入られる好機と見て、余計な気合いまで入れてくれそうである。
「いいえ、そこまでは結構ですよ。さすがにそれは品がありませんもの」
くすくすと笑って、プラナは口元に当てたティーカップを傾ける。全く、紅茶を飲む動作一つさえ上品だ。
一挙手一投足に気品を感じる。
プラナの礼儀作法っていうのは一体どこで身に付けたモンなんだろうな。結構いいとこで生まれ育ったように思えるんだけど、
俺達四人は、あんまりお互いの過去とか出自に触れないからなぁ。事実、俺も幼馴染みのセシウ以外の過去を知らない。
「ところでベラクレート卿。一つお尋ねしたいことがあるのですが?」
ふと、クロームの言葉が今までよりも引き締まったことに気付き、俺は聞き耳を立てる。
ベラクレート――そういえばこの辺境伯はそういう名前だったか。どうでもいいから忘れかけていた。
ベラクレート卿は相変わらずの気色悪い満面の笑みで組み合わせた手をもみもみと動かしている。
「はい。何なりと」
「先程、私どもが連行された理由にも繋がる話なのですが――」
ベラクレートの不器用な笑みで引き延ばされ、糸目のようになっていた目が僅かに開かれる。瞼の向こうに見えるのは小狡い策略を練る三流の策士特有の濁った目だった。
ろくなことを考えない奴の目だ。
こういう奴は大抵、自分の練った穴だらけの策を過信して溺れ死ぬものである。
「そのことに関しては、あの者達にもきつく言い聞かせておきます故……」
「それについては特に気にしておりません。我々が紛らわしい行動を取っていたことも原因の一端でありますから」
相手が誰であろうと、クロームの態度は謙虚である。勇者という地位を一切鼻にかけていない。
自分の愛剣を乱暴に扱われ、少しくらいは怒りを露わにするのでは、などと少しばかり期待したりもしたんだけどな。
「で、では、一体どのようなことで?」
「この村に十数個の危険な魔導陣が設置されていることはご存知でしょうか?」
いきなり切り込むな。
クロームも焦っているのだろう。時間の猶予が分からない以上、焦らない方が無理な話でもある。逆にここで巧く領主と協力態勢を作れれば、その後の行動が幾分か楽になる可能性もあるだろう。
さすがにこんな人々の財に奇声する領主でも、領地にそんなもんがあるとなったら協力してくれるはずだ。
なんなら領主様の言葉で村人を避難させてもらうのもいい。そしたら俺達はある程度の余裕をもって作業に臨むことができる。
しかし、俺達の予想から、貴族の対応はあまりにも遠離りすぎていた。
「あの魔導陣ですか? いやぁ、勇者様、何をご冗談を! あの魔導陣はそのような危険なものではありません。あれは有事の際に脅威から村人を守るものでしてね。私が魔術師様に頼み込んで、設置させたもらったものなのですよ」
……はぁ?
このおっさんは何言ってんだ?
あれを、設置したのが、こいつ?
魔界に直結させるような魔導陣が、村人を守るためのもの?
わけが分からねぇ。
俺はプラナに意見を乞おうとしたが、プラナもプラナで予想外の反応に口をぽっかりと開けていた。目深にフードを被っているため見えないが、きっと目を見開いていることだろう。
「失礼ですが、ベラクレート卿は魔導陣の譜面を読み取ることができるのでしょうか?」
「ははは、私奴(ワタクシメ)はお恥ずかしながら魔術の素養がこれっぽっちもありませんもので、素人からではさっぱりですな!」
なんとも思いっきりのいい答えだった。要は魔術師に丸投げというわけか。そんなら魔術師がどんなもんを仕掛けても気付くわけがないよな。
クロームは半ば呆れたようにため息を吐き出し、ベラクレート卿を真っ向から向かい合う。
「では、その魔術師様は今どちらに?」
「今もこの部屋にいらっしゃいますぞ。トリエラ様、姿を現しては頂けないでしょうか?」
とベラクレート卿が語りかけたのは、よりにもよって部屋の最奥の暖炉だった。このおっさんは頭まで脂肪で埋まり始めているのかもしれないな、とかついつい心配になってしまう。
俺達四人の視線も自然と暖炉に向く。
こんな春の中程では使用されることがまずない暖炉にはもちろん薪さえない。また立派な造りではあれ、隠れるようなスペースなんてあるわけもなく……と、思っていた矢先、暖炉の上部から一頭の蝶がひらひらと舞い降りてくる。
煙突を伝って来たのか?
「あらら、ベラクレート卿、私(ワタクシ)は今、お昼寝の最中だったというのに。不躾な紳士は好きませんことよ」
どこかから少女の透き通った声が聞こえてくる。どこか高飛車で大人ぶったような声音だ。鈴を転がすような愛らしい笑声が、部屋全体に反響する。
声の主はどこにいる?
その間にも、暖炉の向こうから無数の蝶が舞い降りてくる。
なんだこの数は?
十頭、二十頭、三十頭、そんなもんじゃない。百は優に超えている。
紛れ込んだきたものじゃない。なんらかの目的と方向性を以て、蝶はこの部屋へとやってきた。
紫色の翅を羽ばたかせ、雲霞の如く大挙した蝶どもは鱗粉を振り撒く。
「いやはや、申し訳ありません。ただいま勇者様御一行がいらっしゃっております故」
「勇者……そう、勇者。なるほど、そのような集団もおりましたわね。ウフフ、よくてよ、ベラクレート卿」
蝶達は暖炉の前に群がり、次第に人型を成していく。
……おいおい、まさか……。
「初めまして、クローム様。私はトリエラと申します。死がない魔術師ですわ」
くすくすと笑う声が聞こえたのは、蝶の群れの中。
完全に統率され、一点に纏まっていた蝶が次第に離れていく。離れた蝶は鱗粉を振りまくように淡い光を落とした。それは自身の身体の一部。蝶の身体はその末端から、身体を構成していた白い光を振り撒いている。
エーテル、なのか?
まるで風化していくように、砂のような光を撒き散らし、やがて消えていく蝶達。
その様はどこまでも儚く、また荘厳なものであった。
蝶の名残である光はきらきらと煌めき、群がる蝶の内側から細い足が見えた。黒いハイヒール、黒いドレスのスカート。ほっそりとした腕には肘まであるドレスグローブが嵌められている。細い指先には長い煙管が挟まれ、火皿からは煙が燻っていた。
朝焼けの空を思わせる紫苑の髪は長く、後ろ髪が右寄りの位置でシュシュによって纏められていた。
消えていく蝶の向こうから俺達を見つめる、濃緑の瞳はどこか冷たく鋭い。
肩紐によって吊された真っ黒なドレスは飾り家が一切なく、まるでワンピースのようでさえある。
蝶の向こうから突如として現れた端整な顔立ちの少女。背は小さく、顔もまだあどけないが、気品のある立ち姿、妖艶に笑む表情は少女ではなく女のそれだ。
少女は煙管の吸い口に唇を当て、紫煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そうして少女はくすりと笑う。
「今後ともよろしくお願いしますわ」
俺達四人は言葉を失っていた。これじゃまるでマジックである。いや、魔術じゃなくて。
確かに空間転移の魔術を使う奴も知っているが、あいつはほとんど人間を辞めてる奴である。それ以外の魔術師が扱えるようなものではない。
空間転移をやってのける魔術師ならば、確かにあれくらいの魔導陣も構築できるかもしれないな。
「こちらこそお初にお目にかかります。クロームと申します。こちらは、私の仲間であるプラナ、セシウ、ガンマです」
「あらあら、勇者様御一行が勢揃いというわけですわね。どうも、皆様初めまして」
スカートを摘み上げ、ぺこりと愛らしく頭を下げるトリエラと名乗る魔術師。どうにも大人っぽさと子供らしさが混在した言動だ。よく把握できない。
「それで私のような魔術師に、一体どのようなご用件で?」
トリエラが俺達四人の顔へ視線を巡らせながら、ベラクレート卿が先程まで座っていたソファにすとんと腰を下ろす。いつの間にかベラクレート卿は席をどけ、ソファの脇で手を組み合わせていた。主従関係が完全に逆転している。
「どうにも、彼らは、トリエラ様が施して下さった魔導陣が危険だと仰っておりまして……」
「危険? さて、どの魔導陣のことでしょうか」
ベラクレート卿に説明されてなお、トリエラは悠然と微笑み、紫煙を味わっている。
そんな二人の態度に、俺の隣に座るセシウのさらに向こう、プラナが椅子を蹴立てて立ち上がった。プラナには似合わない粗野な動作だ。
「貴女が村全体に施した魔導陣、その全てです」
言葉は丁寧であるが、その語調は責めるように強い。プラナもプラナで案外火が付くと止まらないタイプなのである。
クロームもいつもと違ったプラナの様子に、少しばかり目を瞠っていた。
「おやおや、あの魔導陣に何か問題でも? あれは私と致しても、かなりの自信作であり、不備などどこにも御座いませんことよ」
「何を言いますか! あの魔導陣が一度起動すれば、この村は完全に消え去りますよ……!」
「うふふ、村人にプレッシャーを与えないために隔離結界まで施したというのに、あの存在に気付いたことは褒めて差し上げましょう。ただ、勇者様の仲間である魔術師様には譜面への読解力と理解力が欠けているご様子ですわ。まあ、致し方ありません。あの魔導陣のプログラミングは私でさえ頭痛に悩まされる、何とも恋のように難解なもの。まだまだ、純潔を保っておいでのご様子の魔術師様には理解できないことでしょうね、うふふ。仕様がありませんことよ」
「な……!」
トリエラの言葉に、プラナは赤面して口ごもる。いや、お前が処女だっていうことは大分前から察しがついていたけどさ。
それだけで赤面してしまうプラナは本当に可愛らしいと思います。眼福眼福。
しかし、おかしな構図だな。この部屋の面子の中で一番外見年齢が若い二人が、おそらくこの中で一番頭がいいとは……。
魔術師にはアンチエイジングの秘術とかでもあるんだろうか?
「魔術師様、村人の身を案じて頂けるのは嬉しいのですが、あれは村人を守るために、私が試行錯誤を繰り返して組み上げた魔導陣。それを愚弄することは許しませんことよ」
トリエラは完全にプラナを見下していた。
プラナはヘカテー魔術学院を首席で卒業した天才魔術師だぞ? そいつが譜面を読み誤ることなんてあるのか?
真偽は俺には分からない。なんせ俺は魔導陣の譜面を読み取る技術なんてもんがこれっぽちもありゃしねぇ。
……プラナへの信頼だけで、間違っていないと結論をつけるのは危うい……。俺は中立的な立場で思考しなければならない。俺自身のプラナへの信頼、またプラナのプライドを勘定に入れるべきではない。
傷つけることを躊躇って見誤るわけにはいかないのだ。
まあ、今はまだ何とも言えないわけだが。私情で言うなら、このいけ好かない魔術師と貴族が正しいなんてことはないと思いたいね。ていうかうちのプラナを愚弄した時点で許さんよ。俺のオアシスにイチャモン付けるような奴は、もう全員敵だぜ。
ていうのが俺個人の本音である。
最終的には公平に考え、判断を下すとは言えど、心の奥ではプラナが正しいと俺は確信している。
「では、結界を破壊した後に出てきた神経毒の霧、そして召喚獣はなんと説明するのですか? 情報の開示を願いします」
辱められたプラナはなおさら語調が強いものとなる。それでも言葉遣いは丁寧だ。幾分か高圧的な気はしないでもないが。
対して、トリエラという魔術師は余裕の溢れた笑み。
「魔術師たるもの、分からないことは自分で探求すべきではなくて? 不明と未知はすべからく、その全てが魔術師にとって尊い財産であるべきなのですから」
「リンドネル・ペイラー。不明と未知の伝道者などという訳の解らない自称を掲げた末、結局は女性の衣服の下の不明と未知を探求して捕まった強姦魔の言葉を借りるのですか? トリエラ様はもしや欲求不満なのではないですか? 先程から話が少々下世話な方へと逸れておりますよ?」
「あーら、疑問ばかりを並べ立てるお方ですこと。学院にお戻りになられた方がよろしいのでは? 元気に手を挙げる生徒は先生からの覚えもよろしいものですわ。きっといい印象を持たれますわね。成績は別として。それと、その格言を仰った者の人柄で、格言に込められた思想を全て間違ったものと判断するのは、あまりにも俗な考え方ではないでしょうかねぇ?」
「そうは仰いますがね、取り柄なし様――」
「トリエラ、ですわ!」
ここに来てようやくトリエラの語気が荒くなる。よし、その冗句のセンスは別として、トリエラから冷静さを欠いたぞ。これで勝てる。
ていうかいつからこれは舌戦になった。
「ああ、これは失礼。取り柄なし様。ついつい、うっかり、間違えてしまいましたわぁ。何せそちらの方がお似合いなのですもの。それで、取り柄なし様――」
「トリエラ、よ!」
「ああ、そうでしたね。では、トリエラ様。人に説明をできない者は、どの分野においても程度が知れています。まあ、トリエラ様に? そんなことは? ないとは思うのですが? いえ、思いたいのですが? 私はうっかり、トリエラ様には人へ自分の魔術の概要を説明できないほどに語彙力が欠如しているのでは? などと思ってしまいそうなのです。どうか、この無知な魔術師めに、その素晴らしい魔導陣の機能というものを説明して頂けないものでしょうかねぇ? 取り柄なし様?」
……なんだこの慇懃無礼な皮肉と嫌味の投げ合いは……?
俺は今、この二人の腹黒さと性格の悪さとプライドの高さに恐怖さえ感じている。クロームさえ言葉を失い、呆然と口を開けていた。
「が、ガンマ……? プラナが……怖い、よ……?」
おろおろとした様子で、肩を竦めたセシウが救いを求めるように俺へと言葉をかけてくる。セシウが俺に救いを求めるだって? 悪い冗談だ。
しかもなんだ、その怯えきった弱々しい表情は。今にも泣き出しそうじゃないか。
この愛らしい顔をしているセシウなんてセシウじゃない。ゴリラに育てられた方のセシウを連れてこい。ハリー……ハリー! ハリー……!
「お、落ち着け、セシウ……きっとこれは幻覚だ……。きっと、あの紅茶に一服盛られたんだ……」
「そ、それこそ一大事だよ!」
俺達がそんなことを話している間にも、プラナとトリエラの舌戦は勢いを増していく。
「あぁら、本当に無知な魔術師ですことね。人の名前一つ覚えられないだなんて、可哀想な子ですわ」
「そーでしたかねぇ? 取り柄なしのトリエラ様を略してトリエラ様なのでしょう? 取り柄なし様でもなんら間違っておりませんが?」
「猿の一つ覚えのように飽きもせず同じことばかり。私哀れになって参りました。いいでしょう、説明してあげますことよ? 無知な魔術師様に」
「おやおや、説明ができるのですか? 無理はなさらなくてよろしいのですよ? 何もこんなに多くの人の前でわざわざ自ら恥をかきに来る必要なんて、ないのですもの」
くすくすとプラナが笑う。なんだその腹に一物抱えてそうな、黒い微笑は。小悪魔なんてもんじゃねぇぞ。大魔王だ。
「あの魔導陣には周囲の危機を察知した場合に、自動的に結界を破壊させるシステムが組み込まれているのですわ。悲鳴や騒音、熱や足音、様々な情報を元に村人の危機を察知することができますの。その際に周囲の人間を神経毒で無力化。後に私が手塩にかけて育てた、あなたよりもずっと賢い召喚獣が外敵を排除しますの」
「その召喚獣が村人を害す可能性は?」
「ありませんわ。まあ、勇者様御一行が、あまりにも蛮族のように荒々しく気品のない方法で結界を破壊した場合のことは保証できかねますがねぇ? まあ、匪賊のような振る舞いをしなければ? 問題も、ないのでは?」
俺達を窃盗団扱いかよ。
「ね、ねぇ、ガンマ?」
セシウが先程よりもさらに小さくなって、俺の名前を呼んでくる。その声は微かに震えている。
「あん?」
「手……握ってていい?」
……はぁ?
こ、こいつは何言ってんだ?
「……手首なら……」
「う……うん」
しおらしい顔で頷くと、セシウは迷いなく俺の手首を掴んでくる。その手までもが、震えている。
うん、怖いよな。うん。
俺はお前が一番怖い。
「ではあの魔導陣そのもの機能は?」
「あぁら、そこも自分で考えることができないのね。可哀想だわぁ。ヘカテー学院では何を教えているのかしら? 算数のお勉強でもしていたのですかねぇ。私も入学してみようかしら? きっと、首席で卒業できますわ。それこそお昼寝しながら卒業試験を受けても、ね」
「そうですわねぇ、まだまだ無名で、また社会で生きる上で必要不可欠な礼儀作法も知らない淑女見習いのトリエラ様にはちょうどよいのでは? きっと取り柄の一つや二つも身につくのではありませんかねぇ?」
「それはないと思いますわよ? なんせあなたの言動からは一切の知性も教養も感じられませんもの。その辺の村娘の方が、ずっとずっと上品に思えますわ」
お互いに微笑は絶やさない。たまに引き攣っているようにも見えるが、それでも微笑は崩れていない。
腕を組み、静かに睨み合う二人の幼い外見の魔術師。
なんだろう。水面下で敵意を向かい合わせてるはずなのに、すでに敵愾心が頭どころか腰まで出てきている。半身浴すらしてねぇ。
手首を握る手の震えは酷くなる一方だ。おい、俺の幼馴染みのセシウをすり替えたのはどこのどいつだ?
今、白状したらとりあえず弾一発ぶち込むだけで勘弁しておいてやる。
「下世話で欲求不満なトリエラ様には負けますわ。その辺の娼婦の方が、ずっとずっと節度を持っておりますわね」
「貴女の例えも下世話ではないですの。あらあら、本当に哀れですわぁ」
「無理して話題を逸らす必要はありませんのよ? 正直に仰ってくだされればいいのですよ? 私には、魔導陣の機能を説明する能力がなく、先程の説明も全て口からの出任せでした、と」
「あなただって、自ら調べられるだけの能力がないだけなのでしょう? 無理をしなくていいわ。心優しい私が、しっかりと説明してあげますもの。あの魔導陣は、私の手懐けた召喚獣の全てを一度に召喚するための扉を開くものなのですわ。扉が開かれれば最後、私の可愛い召喚獣の群れが襲撃者を全て排除致します」
「あぁら。召喚獣を全て呼び寄せるのに魔界と直結させる必要があるのですの? それはそれは、随分とたくさんのペットをお持ちですわね。是非とも秘訣を教えてほしいものですわ。召喚獣とまぐわいでも致すのですか?」
「あなたの欲望に満ち溢れた発想力にはほとほと頭が下がりますわね。単なる魔術師としての技術ですわ。まあ、人間性に事欠ける魔術師様からすれば、交渉事なんていうのは難しいのでしょうけどね」
「あらあら、貴女のようなお方と比べてしまえば、どんな重罪人も人間性では勝ち目がないのでは?」
「うふふ、結構な褒め言葉ですわ。有り難く頂戴しておきましょう。さ、もう知りたいことは知れたのでしょう? いい加減、自身の誤りを認め、お帰りになってはいかがでしょうか? それとも、お金のない魔術師様はここで夕飯を頂いていくおつもりですの? ぶぶづけ程度なら振る舞って差し上げてもよろしくてよ? まあ、魔術師様の舌には、合わないでしょうけれどね」
うふふとトリエラは勝ち誇ったように笑っている。その隣に立っているベラクレート卿もにんまりと笑っていた。
気色悪い笑みである。
プラナも暗い微笑を浮かべ、明らかに二人を見下していた。
「ガンマよ……」
セシウに手首を握られっぱなしの俺に、クロームが話しかけてくる。
「なんだよ?」
見てみると、クロームの顔からは完全に血の気が失せていた。心なしか窶れているようにも見える。
それでも最低限耽美なのがムカつくところなのだが、それでも椅子にぐったりと凭れかかっている姿を見るとそんな感情も失せてしまう。
クローム、お前もか。
「もうすぐで終わりそうか?」
弱々しい声でクロームが訊ねてくる。いつもは剣のように力強い声が、今では鉛筆の芯のように脆い。
「あ……ああ」
「俺は今、戦いが終わった瞬間以上に安堵している」
「……お、おう」
あまりの事態に頭が回らず、そんな飾り気のない返答しか俺にはできなかった。
俺だって状況がよく飲み込めていないので許してほしい。
切実に、帰りたいと願った。
看板娘の笑顔が見たかった……。
俺の日常カムバック。
その後、幾分かの言葉を交わし、屋敷を後にした俺達はその足で昼食を摂った酒場へと向かっていた。昼時宴会を開いていたおっさん達はすでに別の店へ移ったらしく、店内にはほとんど人がいなかった。ただ、店主のおっさんだけがカウンターで雑誌を読んでいた。
「お、勇者様じゃねぇか。今はもう酒場になってんだが――」
「ラムコーク」
「バーボン、ロックで」
「純米酒」
「焼酎、牛乳割りで」
おっさんが話している中、どかどかと乱暴にカウンター席へと腰を下ろした俺達は、次々に注文を入れていく。
ちなみに注文は俺、セシウ、クローム、プラナの順である。
俺達は四人とも顰めっ面で纏っている空気も平穏なものではなかった。店主は少し物怖じしながらも注文を受けて、動き始める。
……お察しの通り、かなり苛立ってた。
「あの女、絶対に許さない。絶対に。真相を暴いて、晒し首にしてやる……」
一番端に座ったプラナがぶつぶつと何か危ないことを呟いている。少しばかり被り方が浅くなったフードの向こうに見える赤い眼は据わっていて恐ろしい。
言っていることも当然恐ろしい。プラナにしては珍しい怒り方だ。
まあ、そもそもプラナは怒ることが少ないからな。その分、プラナは怒ると根に持つので恐ろしい。
「なんなんだよ、あいつら。マジムカつく! 超ムカつく! ありえない! ホンットッにありえない! マジ殴りたぁい!」
がんがんとカウンターに拳を叩きつけるセシウ。叩き割らないようにと力は加減しているが、それでも十分すぎるほど力強い。
そりゃもう、俺だってこいつらの苛立つ気持ちはよく分かっている。
一般市民に関して寛大なクロームだって、今回ばっかりは怒り心頭のご様子で、腕を組み背凭れにどっかりと背中を預けている。基本的に座っている時に背中がぴんとしていないクロームは感情が大きく動いていると思っていい。
「ま、まあ、二人とも落ち着けって……」
そんな二人に俺は頼りない笑顔を貼り付けながら、やんわり宥めようと試みてみる。が、言った瞬間、女性陣二名にきっと睨まれた。
「これが落ち着いていられるか!」
「これが落ち着いていられますか!」
二人揃って同時に怒鳴られる。まあ、心中はお察し致します。
「ガンマは何とも思わないの!? あいつら超ムカつくじゃん! マジありえない! もし許されるなら、二人揃って骨を二桁くらい複雑骨折させてやりたい!」
「二桁なのか」
「うん! 九十九箇所だけど!」
ならいっそのこと三桁にしてやれよ。
その微妙な優しさはもう優しさに入らねぇよ。
「聞いたぞ? おっさんの私兵に引っ張られたんだってな」
酒を持ってきたマスターが、俺達の前に酒を渡しながら言う。
「なんだ? 話が早いじゃねぇか」
カクテルグラスを受け取りながら、俺は苦笑する。小さい村だもんな、話も出回るか。
「珍しいこったからな。あの豚野郎の私兵なんざ、滅多に動きやしねぇし」
むすっとした顔でマスターはぶっきらぼうに言う。そういやこのおんちゃんは、俺達に対してもほとんどこんな態度だな。この村では珍しい普通に接してくれる人だ。
悪い気はしない。
「そうなのか?」
「んあ。俺達がどんなに困って助け呼んでも普段は知らん顔だ。災難だったな、勇者様達もよ」
「ホントだよ! 何なのあいつら!」
バーボンを一気に口に流し込んだセシウがドンとまたカウンターを叩いた。完全にヤケ酒である
「あいつら最初っから高圧的でさ! あたし達の話なんて聞きやしねぇ! ふざけんじゃねぇっつぅの! こっちは天下のセシウ様だぞ! あー! 思い出したら腹立ってきたぁ!」
うおーっと吠え、セシウはバーボンを飲み干す。
ゴリムス、ただの二口でグラスを空けるの巻。
こりゃ相当キてるな。
セシウの向こう側のクロームもいい飲みっぷりだ。その向こう側のプラナもちびちびと飲んではいるが、あいつにしては飲むペースが速い。
こりゃ明日は悲惨なことになりそうである。
「しっかし、あいつらが動くなんて、お前さん方、一体何やったんだ?」
「ちょっと野暮用でな」
正直に答えるわけにはいかず、俺は言葉を濁す。
「ふぅん、まあ、詳しくは聞かねぇけどよ」
さすがは酒場のマスター。濁された話題には深く入ってこねぇな。
都合がいい。
「あの豚野郎にも困ったもんだぜ。自分は何もしねぇで、ただ俺達から食糧ばっかり持っていきやがる。流通も途絶えてるっつぅのによ。お陰様で俺達の食う分はどんどん減っていきやがるぜ」
やっぱそういうことだったんだなぁ。どの場所にも腐った奴ってのはいるんんだな。
「じゃあ、森に棲み着いた魔物にもノータッチってわけか?」
「ああ、お前達の森なのだからお前達でなんとかしろだとよ」
「仮にも領主だろ?」
「仮だったらどんだけよかったことかね」
吐き捨てるようにぽつりと言いながら、マスターは俺の前に灰皿を出してくれる。
「ども。まあ、所詮は終末龍によって乱れた世界を統率するための区画整理として派遣されただけだからな、領主なんて。当時は生き残りも少なかったし」
煙草を胸ポケットから取り出し、慣れた動作で咥えてオイルライターで火を点ける。昨夜、オイルを入れ直したばかりなので、火の付きがよろしい。
手のスナップだけでライターの蓋を閉じ、煙草の箱と一緒に重ねてカウンターの上に置いておく。
「終末龍……プルトニウスとかって言ったか? あいつが現れるだけで、地形が変わるって話だかんな。そりゃホントなのかい?」
「ホントホント。俺も実際には見たことねぇが、ハーヴェスターシャが実際に何度も目の当たりにしてるから、話は聞いてるよ。なんでも地面が盛り上がって山になって、あいつの力で山は平地になって、あいつが歩むことで盆地が生まれ、また海は荒れ狂い大地を飲み込んでいくらしい。お陰で千年前とは海の位置が全然違うらしい。気候なんかも狂って、終末龍が現れるまでは四季があったはずの場所が、通った後には熱帯と化した、なんていう話も聞いたことがあるぜ」
ハーヴェスターシャ、所謂選定の聖女。クロームを勇者として選定した人物である。
アカシャの生み出した最初の人類とも呼ばれ、またアカシャとの間に多くの人類を生み出した全人類の母とも呼ばれる女性。
世界創造の時より今に至るまでを生きているとされる始まりの生命。
真偽は定かではないが、あいつの語る情報に間違いはないだろう。
「とんでもねぇ話だな。まあ、五百年前はここも雪国で、周囲を海に囲まれた大規模な都市だったらしいから、それも納得は行くか」
全然違うんだな、やっぱり。
紫煙を吐き出しながら、そんなことを思う。
プルトニウスが通るだけで地形も気候も人類の分布図も多きく変わる。
なんせ歩くだけで盆地を作るような奴だ。周囲の元素を狂わせ、気候を変えることまでできる。そいつがいるだけで、どれほどの人が死んでいくことか。
人々の生存数も分からず、地図も全く役に立たない状態、終末龍が去った後には、荒れ果てた大地で途方に暮れる人々の姿しかない。
家も、町もなくなり、一切の書物は消え失せ、気候も地形も変わり果てた場所から、五百年かけて人々はここまで復興した。
そんなことばかりを繰り返してきている。
結局、そういった混迷をいち早く統率するためには、生き残った王室の人間が貴族を各地に派遣するしかない。領主がいなければ、統率なんてことは無理なのだから。
生き残りを寄せ集めたあり合わせの貴族で何とかするわけだから、領主としての能力には若干の難もあるんだがな。
「まあ、この村も、先祖代々頑張ってここまで盛り返してきたんだ。今は多少の難もあんけども、できりゃこのままこの村が続いてほしいもんなんだがね。終末龍はあと何年で出るんだ?」
「んー、多少の誤差はあるけど、ハーヴェスターシャが言うには二年後だな」
およそ五百年周期で現れる終末龍。そいつが現れちまえば、今の生活も世界も一変することだろう。
それは何としても避けなければならない。
そのために――
「そのために俺達はいるんです」
俺の思っていた言葉を、クロームがぽつりと呟く。
純米酒を呷り、クロームは目を伏せる。グラス片手に考え込むような、悩ましい目元。その横顔だけで大抵の女はイチコロだろうな。
「終末龍の再来は俺達が防ぎます。今の生活は、必ず俺達が守ります」
静かながらも強い口調。そこにクロームの揺るがぬ決心を再確認する。
やっぱこいつは根っからの勇者なんだよな。
「私も、もちろんそのつもりだよ」
すでに四杯目のバーボンを呑んでいたセシウが笑み、グラスを掲げる。琥珀色の液体の中、氷が揺れて透き通った音を鳴らした。
「私も必ずや、終末龍の再来を防ぐことを誓います」
普段は一杯だけで終わらすプラナにしては珍しい二杯目のグラスを、セシウと同じようにクロームの前へと掲げてみせる。グラスの中には乳白色の液体。プラナの頬はすでに上気しており、ほんのりと白い頬が桃色になっていた。
三人の視線が俺に向く。煙草をのんびり呑んでいた俺は、煙草を灰皿に押しつけて火を揉み消し、グラスを手にとって立ち上がった。
ラムコークを一口飲み、その甘い味わいを堪能しながら、クロームの後ろ側からグラスを差し出す。
「俺も、ま、大して役に立ちやしねぇが、その気持ちだけはあるぜ」
自虐的なことを言いつつも、悪い気はしなかった。
世界のためにここまで揺るぎない決心ができる仲間がいるっていうのは存外幸せなものである。
思えてしまう。こいつらとなら、世界を救えるんじゃないかって。
俺の前に立つクロームも僅かに唇の端を吊り上げ微かに笑っていた。穏やかに、どこか呆れまじりに。
「揃いも揃って馬鹿ばかりだ。最後まで付き合ってもらうぞ」
誰も拒みなんてしなかった。俺も含めて、みんなが微笑みを湛えていた。
「では、勇者一行の大願成就を願って、かんぱーい!」
セシウの音頭に合わせて、俺達はグラス同士をぶつけ合わせる。
心地よい乾杯の音。耳に優しい透き通った音色。
波打ち、僅かに零れるお酒も今は大して気にならなかった。
「マスター。終末龍の再来を防ぎ、俺達はまたここに来ます。その時まで、できればこの酒場があることを」
グラスの中の純米酒を喉に流し込み、クロームは柔らかい微笑みを湛えて、マスターに語りかける。その願いにマスターはどこかシニカルに唇の片端だけを引き上げて笑った。
「あったりめぇよ。この村が俺達の故郷で墓だってんだ。例え何があろうと、俺はこの酒場にいるぜ。もし死んでも化けて出てやんよ」
殺しても死ななそうなおっさんのその台詞に、俺はなんだかほっとした気がした。
本当に、世界を救うことができたら、ここで村人全員と祝杯を挙げたいものだ……。
心の底から、そう思えた。
らしくない感情だな。
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