「イリルー、ちょっとお手洗いにいってくるからぁ」
そう言ってクリスナは席を立った。
昼食会が終わって少ししてから、護衛たちにも食事をする時間が与えられた。そうは言っても与えられた時間は自由時間込みで二十分弱。イリルは未だ食べ続けているが、昼食会が始まる前から腹の虫を抑えていたクリスナは驚異的な速さを見せ付け、ものの二分で食事を終わらせてしまった。
「分かった。まだまだ時間も余ってるし、少しくらいのんびり行っても間に合うと思うぞ」
「うん、なんてったってあと十五分残ってるもんねぇ。イリルはどうせやる事ないなら、ゆっくり食べてなよぉー」
にこにこと笑みを浮かべたまま、クリスナはゆったりとその場を離れた。こんな時間帯は何もすることがない為、滅多な事さえなければ貴族達は皆、各部屋でのんびりしている事だろう。もしくは戦乱の中、いかに自身の身を護りつつ、そして今までどおりの豪勢な暮らしが出来るかを検討しているか。
「……これだから、貴族連中は好かないんだ」
物陰まで来て、足をぴたりと止めた。物悲しそうに顔を伏せて、頭を抱えた。
「そのような事をこの様な場で言って、他の誰かに聞かれたらどうする気だい? エアリス」
唐突に声を掛けられて、クリスナは首筋から汗が噴き出たのを感じた。その声は大人が持つ独特な、何処か重みのある声で、イリルのものでも、ましてや王子達のものでもない。だが、彼はこの声を知っていた。
短く切りそろえられた金髪に、深淵の深緑の瞳。
「フォルトパーソン公爵……」
思わず、言葉に出た。ただ目の前の人物に驚いて、何故、とも呟いた。
「他人のような言い方をするな、エアリス。フィアリアが亡くなったからと言って、私は追い出したりなどしない。……君は、私の息子だ」
「貴方とは血の関係も無い、フィアリア様の妹の息子であっても? わたしの母は貴方の館に火を放ち、そして貴方にとってかけがえのなかった息子を――」
「それこそ関係ない。火を放ったのは、君ではないんだ」
フォルトパーソン公爵は小柄な彼の頭を優しく撫でる。とても大切なものを壊さないように、傷つけないように触れる。目から溢れそうになる何かを無理矢理抑えて、震える声を必死で普通の声音に押しもどした。
「僕はもう、エリアスじゃないんだ……!」
「――クリスナ、と名乗っているそうだな」
耳に届いた言葉に、彼は愕然とした。理由は分からなかった、もうばれてしまったのかという思いの所為だったのかも知れないし、違うのかもしれない。もしも誰かがこの気持ちを覗いたとしたら、滑稽だと言うのかもしれないと思った。
「何故だ、どうして名を隠す。そこまで家が嫌いだと言うのか」
彼は答えない。答えられない。擦れた声は言葉を紡ぐ事を拒否する。何を言いたいのか、何を否定したいのかすらも彼の中に答えは無かった。
「私は待っている、帰ってくるのを。もう何も失うものも無い身だが、だからこそ」
「止めろ! 僕はもう戻らない! 誰が何と言おうと、絶ッ対に戻らないっ!」
叫ぶつもりは無かったというのに、後悔した。酷く傷付けたと。
遠くでざわめきが聞こえた。きっとこの叫びの事だろうと思って肩を落とす。
だが確かに耳に届いた、間違えようのない声に気を取り戻す。そして目の前の人物を睨んだ。
「あっちへ行け。まだ見つかりたくない。まだ、ばれたくない」
フォルトパーソン公爵は何も言わず、黙ったまま背中をむけて歩き出した。
その背中も見る見るうちに小さくなり、もう米粒程度にしか見えないくらいになった時、彼は来た。
「クリスナ、あの叫び声はお前だろ。……どうした、何かあったか?」
イリルは前方に、もう姿もはっきり分からないが貴族の姿を見た。護衛一人も付けないで何うろうろしているのかと思ったが、口には出さなかった。
「ううん、何にもなかったけど。ちょっと日ごろのストレスはっさん」
えへへ、と照れ笑いを浮かべるクリスナを見て、イリルは困った顔をして腰に手をやる。だが彼の笑顔を見ていると何かを言う気にもなれなくて、黙って彼の腕を引いた。
いきなり腕を引かれて驚きを隠せないクリスナはそのまま引っ張られていく。
「い、イリルぅ! どこ行くのぉー」
「何処行く、じゃないだろ。もうすぐ時間だ、今から向かわないと間に合わないんだ。分かってるか?」
腕を引っ張っていく彼の広い背中を見ながら、クリスナは物思う。
――どうすれば、君のように優しくなれるの。
「遅いぞ、いつまで待たせる気だ。他の者は皆、帰路についていると言うのに」
待っていたのは馬車の窓から顔を見せたティスの文句で、イリルは嘆息した。そして遅れた原因であるクリスナを睨む。
睨まれたクリスナは大して悪びれた様子も無く、へらっとしていた。
「ごめんなさいー。ちょっと遠くの方行ってて、帰るのに時間が掛かったのぉ」
ティスに向かって言ってから、笑ってもう一度、ごめんねぇとクリスナはシェウリに向かって言った。自分にも謝られるとは思っていなかったシェウリは情けない声を出して、それから取り繕おうと口をもがもがしていた。
その様子が何処か可愛らしく見えて、イリルは笑みが零れるのを抑えてクリスナに早く馬車に乗るように言った。自身も馬に乗って直ぐに出られるように準備をする。
「すぐに発つ。飛ばせば夕方には着くはずだ」
来た時と同じように馬に命令をかける。今度はその命令に大人しく従ってくれた。
「疲れたぁ。イリルにずっと引張られてたのぉ。歩幅が違うからぼく、走るしかなかったんだよぉ。イリル、早足で行っちゃうからー」
「……そう。にしては、なんか楽しそうに、見え、るんだけど」
シェウリは眉を寄せながら言い返した。ティスは新たな本を読み始めていた。題名は『嘆息王子と落涙姫』だ。またもや微妙な題名の本だなぁと思いながら、本から目線を外した。
シェウリはやはり馬車の所為か、目蓋が落ちそうなのを必死で堪えているようだった。漏らしそうになった欠伸も抑えつける。だが抑えつけても目尻に涙が微かに浮かんでいた。指摘して恥じるのを見るのも面白いが、シェウリのプライドを守る為に黙っておこうと思い、口を噤む。
口を開こうとして噤んだ彼の様子を訝しんだシェウリは、むっと頬を膨らまして何だと言った。何でもないと答えても、何度も何度も聞く。
「煩いぞ。クリスナも面白がっていないで少しは口を慎め。そしてシェウリも眠いなら寝ていろ、背伸びをしても疲れるだけだ」
開いている本の上から顔を覗かせて、ティスは二人を軽く睨みつける。殿下の命令と言う事でクリスナは口を開かなくなったが、シェウリは目蓋を閉じて眠る事は無かった。
「シェウリ」
「背伸びなんかしてない。眠くなんか、ないもん」
幼児のように頑なに事実を認めないシェウリ。その態度を見たティスは仕方ないと言うように、何も言わなくなる。クリスナは伏せ目がちに様子を見て、残念そうな顔をした。
――どうしてそんなに嫌うのかな。
今度は彼が重い空気を背負いながら、馬車は走る。
馬車がつく夕方、少数人のメイド達が王子たちを手厚く迎えた。ティスは残りの仕事を片付ける為に仕事場に向かい、シェウリは東にある離宮の自室へ直行した。クリスナの言葉を信じるなら、すぐに寝所へ行くつもりなのだろう。
そんな彼も、部屋の攻略をすると言ってしばらく経った後、別れた。
「今日は疲れたし、俺も早いところ寝るか。もうすぐ戦争なんて実感、湧かないからなぁ……」
そう思った矢先だった。
「なら実感を湧かせる為にこれから作戦会議でもするぞ」
肩を力強く捉まれる。ゆっくり振り返ればそこには上司の姿。
「今週中に戦争だ。策士にはもう時間が無いんだぞ」
そう言われてイリルは渋々、寝るのを諦めてケシス参謀総長の後に着いて行った。今夜は徹夜かもしれないという恐怖に脅えながら。
一方、ティスは廊下で王佐に出くわした。
「……クライス、その腕で抱えているのは何だ」
「何と言われても、書類ですが。――ああ、安心してください。全部、処理済ですから」
彼は目を丸くした。自分が書類を処理していないというならば他に誰が処理したか、一人しかいない。いつも怠けていて、時には城下に下りるあの父親だ。
何時ものあれは演じているだけだと分かっていても、驚きは隠せなかった。
「おかげで殿下が何時も処理している書類も、片付きました。今回の分はかなり減っているはずですから、殿下なら余裕を持って出来るはずですよ」
嬉しそうに顔を綻ばせたクライスは、ティスに会釈してから抱えていた書類を運ぶ作業に戻った。手持ちの書類が減ったのは嬉しいが、夢では無いかと疑う手間が出来た。
現実に戻ったティスは父の部屋へと駆け出した。普段激しい運動をしていないため、短い距離でも息が荒い。
深呼吸を一回して、息を落ち着かせる。それから覚悟と共にノブを捻った。
「……そんなに俺が仕事をこなすのがおかしいか」
ぶすっとした声、同じく姿。その人物は腕を組んで椅子の背もたれにもたれ掛かっていた。
「おかしい、と言うよりも驚愕と思いますけど。普段、仕事を真面目にこなさないから驚かれるのですよ」
返答をしながら、ティスは小さな自分の鞄の中へ手を入れた。がさごそと中を漁り、目的の物を掴むと鞄の中から出す。
それは二冊の本だった。彼が馬車の中で読んでいた『嘆息王子――』の二冊の本。
「これ、読み終わったので返します。面白かったので、次の巻も借りていきますね」
ティスの妙な本の趣味の発祥は父親らしい。彼は持っている本を隣の棚に戻すと、代わりに二冊の本を取り出して鞄に詰める。部屋に来た理由は、書類云々の真実か否かを確かめるためではなく、ただ本を取替えに来ただけだったようだ。もしかすれば、確かめたいという思いも多少なりともあったかも知れない。
軽く会釈を済ませると、ティスはそのまま出て行く。少し、物寂しそうにグラドフィースは息子の出て行った扉を見つめ続けていた。だがそれも時間が経つと止め、すぐ後ろの窓を覘く。
「全部分かった上で、お前は何も話さないんだろうな」
夕焼けは既に常闇を湛えていて、綺麗な光景だと思った。城も次々に明かりが灯っていく。今外に出ると寒いだろうなあと、逃げ出す気満々だった王は逃げるのを止めた。
ただ少し顔を顰めて、それから机に向き直った。机には、一枚の紙以外の何も無かった。
「そっか、うん。そう……なんだ」
広大な庭の片隅で、通信機にばかり気を取られていたシェウリは、近くに人が寄って来ていたことに反応できなかった。
横から通信機を奪い取られて、手元を一瞬疑う。だが、奪い取った主は飄々とした声を掛けた。
「どうしてこんな所で、誰とお話してるのぉ? 危険だよ。おしろの中とは言え、夜なんだからぁ」
夜盗が忍び込んでいたらどうするの、と言葉を続けてから、栗色の彼は通信機の横のボタンをしばらく押す。短い機械音がして、電源ごと通信は切れた。
「……君こそどうしているの、クリスナ=グラフィ。君は夜勤じゃないでしょ。ただの、戦争の助っ人だから」
「君は、彼らを裏切るのつもりなんでしょー? だから、だよ」
彼は取り上げた通信機をその場に落とす。ごとり、と重い音がした。思わずシェウリは通信機に視線を落としたが、気がついて彼の方を向いた。
「――下手な正義感なんて、持っていたところでどうにもならないよ」
栗色の彼の姿はもう見当たらない。仕方なく、シェウリは落ちている通信機を拾いあげた。まだ開発されたばかりで、実用性には欠けている、大きく重い重い鉄の塊。
月のか細い光と城の明かりしかない夜空に一人居るのは何処か寂しいような気がして、第二王子は踵返す。
――そういえば、服の釦が一つ、外れて失くしてしまった。
離宮の若い召使いを口説く文句を考えながら、シェウリは暗く哂った。
夜は確かに更けていく。たとえ、徹夜に苦しむ人間が居ようとも。
「参謀、総長。そろそろ俺も、限界……だ。体力と、精神的に」
「お前も平和ボケしたか。前は無駄に体力が有り余っていて、逆に煩いくらいだったはずだが」
いつの事だよ、と反論する前に彼の意識は、ぷつんと途切れた。
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騎士と王子、城に勤める者たちが織り成す、願いと思惑の物語。第一章のⅡ-6です。