「あれっ?」
何の気なしに空を見上げた晴子が素っ頓狂な声を上げた。
「どうした?」
俺も晴子に倣って空を見上げる。雲一つない、五月の晴れ渡った青空だ。どこにも「あれっ?」な点は見当たらない。
晴子を見下ろすと、まだ空を見上げたままで細い眉をハの字にしている。ハの字にしているのは太陽が眩しいからか、それとも別の何かのせいなのか。
訳が分からない俺はもう一度尋ねることにした。
「どうした?」
「ん……あのね、空がヘンだなぁって思って」
また始まった。
俺は顔や態度に出さず、心の中でため息を吐いた。
昔から晴子はひょんなことで、物事を『ヘン』だと捉えてしまう癖があるのだ。
分かりやすい例を挙げるなら、中学の数学の授業のときルートを見た晴子が「なんでそんな形してるんですか?」と先生に尋ね、そこからの先生との応答で授業時間を三十分ほど浪費してしまったことが代表的なエピソードだろう。ついでに授業の後、「だってヘンでしょ?」と俺に同意も求めてきたのだった。本気でそれを聞くから、タチが悪いというか何というか。
しかも幼稚園から小学校から現在通っている高校までその癖は治っていない。当然、各々の学び舎では『カワッタひと』『オカシイひと』とその存在が知れ渡っている。まぁ、問題児のレッテルが貼られていないだけまだマシか。
当の本人は未だに、皆が抱いているそんなイメージに気づいていないようだが。周りからそう思われていると知ったら、晴子はやはり「ヘンなの」とでも漏らすのだろうか。
しかし、あの空の何が『ヘン』なのだろう。あそこには太陽が一つしかないというのに。
「何がヘンなんだ?」
「んー……色がね……」
「色?」
晴子は空を指さす。
「あんなに白かったっけ?青空のくせに、全然青くないじゃん」
晴子の言う通り青々とまではいかない色だが、いつもあんなもんだろう。今日みたいに良く晴れた日でも、あの空はいつもと同じ、薄く白い靄がかかったような色だった。
「わたしがこぉーんなちっちゃい頃は、もっと青かったのに」
そう言って晴子は足を曲げずに地面に片手を伸ばし、芝に届かないくらいの位置の空気を撫でる。
「今だって小さいよな」
「なんだとう!わたしのどこがエルフだって!?」
「言ってない言ってない」
「言った!絶対言った!心で言った!」
「言ってないって」
「ウソつくなぁっ!」
エルフのくだりからこっちを向いていた晴子が、シューズの先で俺の靴を蹴りつける。
「いてっ」
「祐司がデカすぎるんだろ!」
「あー、そうだなー」
190センチ近い身長の俺からすれば、150に届くか届かないくらいの晴子は小さすぎるのだが。それより、認めたんだから蹴るの止めろよ。
「――がおーっ!」
「うわぅっ!?」
両手を頭の高さまで上げて威嚇すると、晴子も反射的に同じようなポーズをとって驚いた。蹴りも止み、代わりに俺の体の奥から笑いが込み上げてくる。
「や、やめろよ!びっくりするだろ!」
「ははっ」
「笑うな!……もういいよっ」
晴子は唇を尖らせ、背中を向けた。ややあって、今度は空へと両手を伸ばす。
「んっ」
つま先立ちになって伸ばし続けていると、やがて諦めたように手を下ろした。
「ちっちゃい頃は、大人になれば届くと思ったんだけどな」
「まだ子どもだろ」
「絵の具溶かしたみたいでキレイだからね――」
俺の指摘なんか聞いちゃいない。
「あそこに浸したら、わたしの手のひらも真っ青になるかなって思ってた」
俺もまた空を見上げる。相変わらずヒコーキ雲さえ見当たらない。
「試してみたいか?」
「試してみたいね」
晴子の姿を眺める。小さい背中がいつも以上に小さく映った。
俺は深く息を吐き、それから吸い込んだ。五月の空気は緑の薫りを多めに運んでくれる。
「……足、広げてみろよ」
「なんで?」
「いいから」
良くわかっていないようだったが、晴子はとりあえず肩幅より少し大きく両足を広げた。
俺はしゃがみ、晴子の股の間から顔をにょきっと出した。
「おっ」
晴子の脛をしっかり掴んで、そこから立ち上がる。
「おぉっ」
晴子も落ちないように寝癖の多い俺の頭をしっかり押さえていた。体重が軽いから、思ったより楽に持ち上げることができた。
「高いなぁっ!」
肩車をされた晴子が大声を上げる。楽しいからか何なのか分からないが、あまり頭の上では暴れないで欲しい。
「祐司っていっつもこんなに高いの?」
「今日だけ高いわけないだろ。……まぁ、こんなことするのは今日だけだけどな」
日曜日の広い公園には疎らに人が点在している。ベンチに座っている若いカップル、犬と散歩している老人、ウォーキング中のおじさん。姿を視界に捉えることはしても、俺がその人たちの顔を見ることはなかった。自分からこんなことをしておいて何だが、この構図は割と恥ずかしい。晴子は今日もスカートではなく青いオーバーオールを着ているから、その辺りの懸念は必要無いが、この姿が恥ずかしいことに変わりはない。たぶん目立っているだろうし。
「ほら、手伸ばせよ」
「……あぁ、忘れてた。いけないいけない」
頭から右手の感触が無くなる。その代わりに左手で髪をぎゅっと掴まれているようだった。当たり前だが、痛い。
「んー」
痛いが、それも嫌な気分では無かった。
当然というべきか、俺も晴子の言う『ヘン』には毎回共感はできない。晴子の言葉を聞くまで、そういう疑問を抱くような、そんな考えがあるということさえ俺は知らなかったのだ。多分、俺と晴子の考え方は正反対なのだろう。
「んーっ」
だけどこうして晴子の考えに付き合うことはできる。その結果、疑問の解消や理解にまで至らないことは多い。こうした行動が結果を生まないことが。
「んんーっ」
それでも、たまには実を結ぶことだってある。そのときの晴子の喜びや嬉しさといった感情は、そのまま俺にまで伝わってくる。
飾り気のない純粋な感情。
だから俺は晴子と一緒に種を蒔く。蒔いた種に水をやる。それが例え少ない数だとしても、いくつかの実をつけることを知っているから。
「……だめだぁ」
髪を掴む力が緩み、頭の右側に晴子の手の感触が戻る。
「駄目か?」
「うん。全然届かない」
「そうか」
空を見上げる。頭はほぼ固定されているから、視線だけで。
晴子もまだあの空を眺めているのだろうか。
「でも、さっきより近くなったよ」
目をつぶって、深く呼吸をする。
良い天気の続く、緑の薫りの強いこの季節だ。俺と晴子が蒔いた種もすくすくと育つことだろう。
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実体験が元になっています。しかし、私の場合は晴子のようなセリフを言ったら友だちに生温かい目で見られました。無念。