No.20721

闇の聖女 (第一部・第一章・7~8と挿入話1)

みいさん

人間に<魔物の森>と呼ばれる深い森に、ある日幼い少女が、実の母親によって再婚に邪魔だという理由で捨てられた。
少女の名はアシェン。まだ、たったの四歳だった。
その夜、この森の奥の館の主であるサークシーズとアシェンは出会った。
サークシーズは魔族の最高位<ティグニフィードラ>の一族――吸血妖魔だった。
しかし、アシェンの幼いながらの、まるで月の光のような美しさに惹かれ、サークシーズはアシェンを館に連れ帰り、養うことにしてしまった。

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2008-07-22 16:25:06 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:633   閲覧ユーザー数:603

挿入話1 夢の番人 (サークシーズの一人称)

 

 

おそらく、この頃から数年間が、いちばん幸せな時だった。

いずれは必ず直視せねばならない現実を……

魔族と人間という相容れぬ現実を

二人とも全く見ずにいられたのだから……

 

 

 

「サークシーズだ」

「サー……?」

「サークシーズ」

「サーキス……ズ?」

 アシェンを養うことに決めた夜、少女を館に連れて帰りながら、わたしは自分の名を教えた。しかし、まだ幼いアシェンにとって、わたしの名は長い上に発音しにくいらしい。どう頑張っても舌が回らぬようだった。それでも諦めず、アシェンはわたしの名を正確に言おうと四苦八苦していた。

「サークス……サーク……」

 わたしは苦笑して、首をかしげて顔をしかめるアシェンに言ってやった。

「それでよい。もう一度言ってみろ」

「……サーク……?」

 わたしは頷いて、アシェンの小さな頭を軽くポンポンと叩いた。サーク、などという愛称的な呼ばれ方をするのは生まれて初めてだったのだが、わたしは意外にもそれが気に入ってしまっていた。

 

 

 わたしが文字を教え始めてからアシェンがいちばん最初に書けるようになった単語は、口では正確に発音できなかったわたしの名だった。本当は、アシェン自身の名を最初に教えようとしたのだが……。

「サークのなまえがいい」

「わたしの名か……」

 わたしは苦笑した。

「少し難しいぞ。おまえには、まだ覚えられまい」

 しかし、アシェンは食い下がった。わたしの言うことには全て素直に従っていたアシェンが、である。

「アシェン、ちゃんとおぼえるもん。サークのなまえだから、ちゃんとおぼえるもん」

 サークのなまえだから……その言葉に負けてしまったのだとしたら、何とも情けない話なのだが。結局わたしは自分の名を書いてやった。

 驚くべきことに、アシェンはほんの二夜で、完璧にわたしの名を書けるようになった。拙い文字だったが、アシェンの小さな手で一生懸命に書かれたわたしの名……それはあまりに微笑ましくて、心に今までに感じたことのないような何か温かなものが広がっていくのを感じた。しかし、そんな自分に戸惑いを感じたのも確かだった。

 

 

 アシェンがわたしたちと同じ時間帯で生活するようになってから、数夜後のことだった。

 外ではもう、かなり陽が高くなっているだろう時間に、部屋の取っ手が回される音で、わたしは目を覚ました。上体を起こして天蓋寝台の垂れ幕を寄せてみると、キュステにもらった薄茶色のクマのヌイグルミを抱き締めたアシェンが戸口に立っていた。

 わたしは寝台から降り、アシェンに歩み寄って身を屈めた。

「どうした?」

 アシェンは顔を上げた。泣いていた。わたしは眉を顰め、もう一度訊いた。

「どうしたのだ?」

「ママ……アシェンのことだいきらいだって……いらないって……」

「……?」

 わたしは訳が分からず、戸惑った。しかし、アシェンは堰が切れたように話し出した。

「アシェン、ママすきだった。ママのパンもすきだった。アシェン、いいこにしてた。なのにママ、どーしてアシェンきらいなの?」

 アシェンは泣きながら、答えを求めるように、わたしの目をひたと見つめていた。しかし、わたしが何も言えずにいると、アシェンは俯いてしょんぼりと呟いた。

「アシェン、わるいこだったのかな……? だから、すてられたの……?」

 おそらく夢でも見たのだろう。母親に捨てられたという事実は、わたしが思っていたよりもずっと深くアシェンの心に傷を残しているらしかった。しかし、それまでは、そのような様子は全く見せなかったのに、何故今頃になって夢に見たりしたのか。

 いや、今頃だから、だったのだろう。

 アシェンがわたしのことをとても慕ってくれていることは、よく分かっていた。日を追うごとにそれが深まっていくことにも気付いていた。深まれば深まる程、アシェンは恐れていたのだ。好きだった母親に捨てられたように、いつかわたしにも嫌われて捨てられることを。

 わたしがアシェンを大切なものだと本当に意識したのは、このときだったのだと思う。それまでは、おそらくヴィストの言っていたように、ただ酔狂で拾った犬や猫の子が懐いてくるのを楽しんでいるようなものだったのかもしれなかった。

「アシェン、わるいこ……?」

 再び顔を上げて問うアシェンを抱き寄せ、わたしはきっぱりと答えてやった。

「いや。おまえはいい子だよ、アシェン。とても、とてもな」

「じゃあ、どーしてママ、アシェンきらいっていうの? いらないっていうの?」

「それはわたしには分からぬ。だがな、アシェン、わたしはおまえが好きだよ。それでよいではないか」

 それは随分な自惚れだったかもしれぬ。しかし、自分がそれ程の存在であろうとする気持は確かだった。

「おまえの母がおまえを愛さずとも、わたしが愛してやる。それでよいだろう? 何も恐れることはない」

 わたしの物言いは、幼いアシェンには理解しきれなかったかもしれぬ。つい、それに気をつけるのを忘れる。しかし、しゃくりあげていたアシェンが落ち着いてきたところを見ると、心は伝わっているようだった。

 

 

 その日はそのまま、わたしはアシェンを自分の寝台に伴った。そして、涙に濡れたクマのヌイグミを抱いてわたしの横に眠るアシェンを見つめていて、ふと気付いた。

 小さな体いっぱいの思慕を込めてサークと呼んでくれるアシェンの声を聞き、何度も何度も必死にわたしの名を綴ってくれるアシェンの姿を見て、それで心が満たされていたことに。

 わたしの傍にいることでアシェンが心を満たされていたと同時に、わたしも同じように満たされていたのだ。

 わたしとアシェンは闇と月……月を輝かせる闇と、闇を滅ぼすことなく光を与える月。

 わたしは最初、アシェンの淡い金の髪と銀と見紛う瞳を見て、少女のことを<月の娘>だと言った。しかし、それは少女の外見だけでなく本質をも表しているのだと、このときようやく気付いたのだった。

 

 その日から、わたしの寝台の枕は二つになった。

 アシェンが必要とする限り、わたしはこの子の夢の番人を務めてやるつもりだった。勿論、ヴィストはそれに猛反対したのだが。

 だが、彼にもいつか理解できる時が来よう。理屈では語れない、わたしにとっての……いや、この館の者たち全てにとっての、アシェンの存在の意味が。

7.小さな事件

 

 

 その夜は、サークシーズの、月に一度の<食事>の日だった。

「サーク、どこいくのー? アシェンもいくー」

 出かけようとするサークシーズの後を、アシェンがぱたぱたと追いかけてきた。サークシーズは振り向き、駆けて来る養い子を受け止める。

「走ると危ないぞ」

「どこいくの?」

 アシェンはもう一度尋ねた。

「<食事>をしに街へ行く。おまえはヴィストたちと待っていてくれ。また明日どこかへ連れて行ってやるから」

 今宵ばかりはアシェンを連れて行けない。いくら何でも、自分が人間の血を吸うところなどアシェンに見せるわけにはいかない。

「……はぁい……」

 少々不服そうではあったが、アシェンはこくりと頷いた。

 そのときふと思いついて、サークシーズは懐から何かを取り出した。街から戻ってから渡そうと思っていたが、別に今でも構わないだろう。

「アシェン、これをやろう」

 そう言って、サークシーズは取り出したものをアシエンの首に掛けた。それは、流れるような銀細工の中に月長石をはめ込んだ、小さなペンダントだった。石の仄かな輝きが、アシェンの淡い髪によく似合っている。アシェンはそれを小さな手に取り、目を輝かせた。

「きれい……!」

「それは、おまえの生命力を守るための護符だ。それを身に付けていれば、一人で部屋から出ても死霊たちに襲われることはない」

「サークといっしょじゃなくても、みんなのいるトコへいけるの?」

「ああ。だから、いい子で待っていなさい」

「はーい」

 アシェンは今度は元気に頷いた。

 仏頂面で話が終わるのを待っていたヴィストが、サークシーズが立ち上がるのを見て、玄関の両開きの大きな扉を開けた。

「では、行ってらっしゃいませ」

「うむ、この子を頼んだぞ」

 そう言って、サークシーズは出かけていった。ヴイストは畏まって頭を下げる。その隣でアシェンはヴィストの腰帯の端を握り、もう片手を精一杯大きく振ってサークシーズを見送った。

 

 

 見送りが済むと、ヴィストは自分の帯からアシェンの手をひったくった。そして、殆ど引き摺るようにしてアシェンを彼女の部屋に連れて行った。そこにはルルンが既に食事の用意を整えていて、机の上には湯気の立ったシチューと白身魚の焼き物、リンゴのパイ、ミルクが並んでいた。

「そら、さっさと食え」

 ヴィストはアシェンを机の前に押し遣り、自分は少し離れた位置に置いてあるソファにどさっと座って、足と腕を組んだ。そして、アシェンの食事の間じゅう、ずっと押し黙ったままそれを見ていた。

 ふと、自分の目がアシェンに釘付けになっていたことに気付いて、ヴィストは不機嫌になった。

(なんで、俺がじっとこいつの面倒をみてるんだよ。こんなの、キュステがやればいいんじゃないか。あいつなら、尻尾を振って大喜びでやるんだから。)

 そう思ったものの、結局ヴィストはアシェンが食事を終えるまで、そこにいた。サークシーズに頼まれたのだから、と自分に言い聞かせて。

「ごちそうさまでした」

 アシェンがナイフとフォークとスプーンをきちんと揃え、ナプキンで行儀良く口を拭った。

「やっと食ったか」

 ヴィストはソファから立ち上がってアシェンの前から食器の載った盆を取り上げ、さっさと部屋から出ていこうとした。

「ヴィストもどこかいくの?」

 アシェンに声をかけられ、ヴィストは足を止めて振り向いた。

「飯だよ、メ・シ! いいか、サークシーズ様はああおっしゃったが、俺が戻るまで絶対部屋から出るなよ!」

 バタン、と荒々しく扉が閉まり、アシェンは身を縮めた。そっと目を開けてみると、ヴィストはもういない。

「つまんない……」

 閉まった扉をしょんぼりと見つめ、アシェンは呟いた。

 

 

 ヴィストが早く帰ってくることを期待して、アシェンは寝台の上に置かているキュステにもらったクマのぬいぐるみを抱えて、ソファに座っていた。暫くはそのままじっとしていたが、皆と同じ時間で過ごすようになっていたアシェンは、以前より一人でいることに我慢できなくなっていた。 半刻ほどするとアシエンはぬいぐるみを元どおり寝台の上に置き、窓にいちばん近い鏡台の椅子を、窓の下まで引き摺った。そして、その上に立って外を眺めた。

「はやく、かえってこないかなー」

 外は真っ暗だ。しかし木々の葉の重なりを貫いて、ところどころに月光の箭が差し込んでいる。

「あれ?」

 淡い光の落ちたその場所に、何か丸くて白い物体がある。アシェンは窓を開けて身を乗り出した。その球体は月の光を浴びて、ちょうどさっきサークシーズにもらった護符の月長石のようにふわっと柔らかく光っている。

「きれい……」

 アシェンはその球体にひどく惹きつけられ、暫くそのままじっと見つめていた。見ていれば見ているほど、ますます傍へ行ってみたくなる。その好奇心を正しい判断力で抑えるには、アシェンはまだ幼すぎた。

 アシェンはとうとう椅子から降り、扉を開けて部屋から駆け出していった。ヴィストの言いつけは、すっかり忘れていた。

 アシェンは広い館の中をトコトコと駆け、玄関へと向かった。途中、廊下で一体の死霊に出くわしたが、アシェンの胸のペンダントが淡く輝き、アシェンは何事もなくその脇を通り抜けた。そして、折りよくウィフかダームが掃除中なのか、重い玄関の扉は開いたままだった。それをくぐり抜け、アシェンは初めて一人で館の外に出たのだった。

 

 

 自分の部屋から見えていたあの白くて丸い発光体は、すぐに見つかった。両手で抱えるほどの大きさがある。アシェンは喜んで駆け寄り、それを拾おうとした。すると。

 なんと、それは急に、ピョンピョンと跳ねて行ったのだ。

「あっ、まって!」

 アシェンは声をあげ、思わず不思議なその発光体を追いかけていってしまった。

 

 

 ヴィストはそれなりに気を遣って、早めに狩りから帰ってきた。館の前で見事な銀毛の狼の姿から人型に戻り、口元の血を左手の甲で拭う。そして、気が進まないながらも、アシェンの部屋へ向かった。

 扉が開けっ放しなのを見て、ヴィストは僅かに眉根を寄せた。そして、中を覗いてみて更に顔をしかめた。やはりアシェンがいない。

「おい、チビ!」

 辺りを見回して呼んでみる。が、勿論返事はない。ふと開いた窓の下の椅子に気付いて不安になりながら窓の外の下を覗いて見たが、落ちた形跡もない。

「あのバカチビ! 部屋から出るなと言っただろうが!」

 イライラと一つ舌打ちをして、ヴィストはキュステの部屋へ向かった。ここにいる可能性は高いだろう。

「おい、キュステ!」

 ドンドンと扉を叩くと、キュステが不機嫌に顔を出した。

「何よ、ヴィスト。うるさいわねー」

「チビが来てないか?」

「アシェン?」

 目を丸くするキュステ。

「来てないわよ。どうしたの? あんた、あの子のお守りしてたんじゃない」

「狩りに行ってたんだよ。なんで俺が、一晩じゅう人間の相手なんか」

「何言ってんの」

 キュステはツンとそう言って、腕を組んだ。

「サークシーズ様に頼まれたんでしょうが」

「だから探してんだよ!」

 ヴィストはイライラと言い返した。そんな彼を横目でちらっと見遣り、キュステは溜め息をついた。

(なんのかんの言っても、あの子のこと気にしてるワケね。)

 そう思ったが、キュステは間違ってもそんなことは口に出さない。一言でもそんなことを言おうものなら、ヴィストはかんかんに怒るだろうから。それを認めることは、彼の自尊心が許さないだろうから。

 代わりにキュステはこう言った。

「あんたがいっつも冷たいから、あんたを待ってるのイヤだったのよ、きっと」

「ふん!」

 ヴィストは鼻を鳴らして、踵を返した。その背に、キュステが言う。

「そのうち戻ってくるわよ。いくらなんでも、一人で館の外には出てないでしょうし」

「……ああ、そうかも知れない。邪魔したな、キュステ」

 ヴィストは不機嫌にそう言って、立ち去った。もう一度アシェンの部屋に戻ってみるつもりだった。しかし何歩か進んで、ヴィストはふっと足を止めた。

(まさか本当に館の外へ行ったんじゃ……。)

 背筋がすうっと寒くなる。

 もしそうなら、命の保証はない。サークシーズの作った護符は死霊たちから生命力を守るためのものだが、館の外では、危険なのは何も死霊だけではない。

 唇を噛む。

「探してみるか」

 ヴィストは方向転換をして館を出、狼としての嗅覚を頼りに森の中を歩きだした。

8.和解

 

 そのころアシェンは、地を跳ねていく白く丸い発光体を追いかけて、暗い森の中を走っていた。いつの間にか、道も逸れていた。

 アシェンは知らないことだったが、それは何の意思も持たない擬似生命体だった。だから別にアシェンから逃げているわけではなく、ただ勝手気侭に本能の赴くまま移動しているにすぎなかった。

 しかし、アシェンは夢中だった。どのくらい館から離れてしまったのか、気付いてもいない。通ってきた道も覚えていないだろう。それに、夜の森が人間にとってどれほど危険かということも、綺麗さっぱりと忘れ果てていた。アシェンはただ目の前を跳ねていく不思議で美しい発光体にのみ気を取られ、走り続けていた。

 発光体の跳ねていく速度は以外に速く、まだ幼いアシェンは全速力で走らなければ追いつけなかった。お陰で息は上がってきたし、足取りも危なっかしいものになってきた。足がもつれて転ぶのも時間の問題だった。

 と、張り出していた木の根につまづき、アシェンは見事に転んでしまった。

「いたぁ~」

 転んだままのうつ伏せの体勢で、アシェンは顔をしかめた。どうやら手のひらと膝を擦りむいているらしい。

 しかし、アシェンはすぐに痛み以外の感覚にも気が付いた。体の下で、何か柔らかいものがもぞもぞと動いている。

 はっとして、アシェンは跳ね起きた。すると思ったとおりそこにあの発光体があり、ほわーっと光っていた。それを見て一瞬呆けていたアシェンの顔に、笑みが広がる。アシェンは慌てて発光体を抱き締めた。

「つーかまーえたっ」

 怪我の痛みもなんのその、アシェンは嬉しそうに声をあげた。いったんアシェンの腕の中に収まった白い発光体は、今のところそれ以上動く様子を見せなかった。ふわふわと軽い発光体は、アシェンの腕の中でぼうっと、またきらきらと光り、少女の目を銀色に煌めかせていた。

 そのとき、不意にかすかな音がした。アシェンは顔を上げた。

「……?」

 目の前に、いや周りを囲むように、何か大きな獣たちがいる。

 狼だ。

 しかし、アシェンはきょとんと狼たちを見返すだけだった。ヴィストだって、変身したときはこんな姿だ。もっと立派で綺麗だけど……。

 そんなふうにしか感じないアシェンに向かって、狼たちが低く唸る。剥きだされた牙が、差し込む月光に光る。

 そのあからさまな害意を見て、やっとアシェンは恐怖に駆られた。身を縮めて、腕の中の発光体をぎゅっと抱き締める。

 それが幸いしていた。どうやら狼たちは、この不思議な光る球体を不審がっているらしい。そのせいでアシェンに近付くのをためらっているのだ。

 しかし、それで狼たちを永久に食い止めておけるとは思えなかった。それでもアシェンには、何もなす術がない。

 アシェンの真正面の狼が、右の前足を一歩踏み出す。

 そのとき。

「チビ!」

 アシェンはハッとして、声のした方に目を向けた。狼たちの環のすぐ外に、銀の髪の若者が立っていた。

「ヴィスト……!」

 アシェンはすがりつくように魔狼の若者を見つめた。狼たちも彼に目を向けていたが、その正体を知っているのだろう、彼に襲い掛かる様子は見せなかった。

 しかし、群れのリーダーらしい一際大きな狼が、ヴィストを見上げて唸った。

(ここは我々に与えられた縄張りでしょう? あなたがそうなさったはずです)

 ヴィストはその狼に目を遣った。

「分かっている」

 そう、ヴィストは魔狼、この狼たちに命令することができる。ヴィストならたった一言でアシェンを助けてやることができるのだ。ヴィストはそれを実行しようとした。

 しかし、口を開きかけた瞬間、迷いが生じた。

(もし、こいつをこのまま見殺しにしてしまえば……。)

 そうすれば、ヴィストは自分の手を汚さずに館の厄介者を始末することができる。狩りに行っている間にいなくなった、森じゅう探し回ったが見つけられなかった、そう言って。

 勿論、サークシーズにひどく叱責されるだろう。しかし、それも一時のことだ。時が経てば、どんなに今可愛がっていても、酔狂で拾った人間の子供のことなど忘れてしまうはず。そう、その方が結局は主人のためになるのだ。これで主人が他の魔族から軽蔑される心配もなくなるのだから。

 そんなヴィストの思考の中に、アシェンの声が響いた。

「ヴィスト……ヴィストぉ……」

 何という声で、何という表情で呼ぶのだろう。

 我知らず疼く胸に、ヴィストは戸惑った。

(なぜだ!? こんなヤツ、うっとおしいはずなのに……厄介者のはずなのに……!)

 目の前の泣き顔に、無垢な笑顔が重なる。

 初めて館に来た夜に預けられた少女の、自分の衣を握り締めた小さな手を思い出す。

「アシェン、ヴィストすきよ」、そう言った声を思い出す……。

 ヴィストは不意に気付いた。自分がアシェンに信頼されていることを。いや、本当はずっと知っていたのに、見ない振りをしていただけ。

 それを今、痛いほど感じる……。

「退け」

 ヴィストの言葉に、狼たちが不満げな声をあげた。しかし、ヴィストは首を横に振り、きっぱりと言った。

「我が命(めい)だ。疾く退け」

 最後の言葉とともに、ヴィストは右手を一旋させた。

(仕方がありませんね。あなたが、そう仰せなら)

 リーダーの狼はヴィストに向かって一声鳴き、名残惜しげにアシェンを見てから踵を返した。それに従って、他の狼たちも次々とその場から離れていった。

 後には、まだ光る球体を抱えたまま茫然と座り込んでいるアシェンと、複雑な表情をしたヴィストだけが残った。

「ヴィスト……!」

 アシェンはヴィストに駆け寄ろうとした。しかし、その前にヴィストが怒鳴った。

「このバカチビっ!!」

 その凄い剣幕に、アシェンはビクっと立ち止まった。ヴィストはお構いなしに続ける。

「部屋から出るなと言っただろっ! 俺の言うことは、そんなにきけないのかっ!? ええっ!?」

 本気で心配していた苛立ちと、一度は見殺しにしようとした後ろめたさとが相まって、ヴィストは怒鳴らずにはいられなかったのだ。

 怒鳴り声に身を竦めたアシェンが、本格的に泣き出した。涙を拭うために両手を上げて、発光体が地に転がった。

「ごめんなさい……ごめんなさい、ヴィスト……ごめんなさい……」

 泣きながら、アシェンは懸命に謝っていた。その姿を見て、ヴィストはぐっと言葉に詰まった。怒鳴ったりしてはいけなかった。非は自分の方にあったのに……。

 ヴィストは泣きじゃくる少女に歩み寄り、膝をついてその小さな体を抱き寄せた。それは、そうするのが生まれて初めてかのように、ひどくぎこちない動作だった。そして、言葉も同じようにぎこちなかった。

「もう……いい……帰ろう……」

 

 

「サーク、おかえりなさーい」

 何事もなかったかのように元気良く、アシェンはサークシーズを出迎えに玄関に駆けてきた。出かけたときと同じように、サークシーズはアシェンを受け止めてやった。

「ただいま、アシェン。いい子にしていたか? ヴィストに迷惑はかけなかったか?」

「んー……」

 アシェンはそろっと横目でヴィストを見上げた。ヴィストもちらっとアシェンを見下ろし、すぐにこう言った。

「いえ、サークシーズ様」

「そうか」

 サークシーズは頷いた。

「ありがとう、ヴィスト」

 じっとヴィストの目を見ながら微笑むと、サークシーズはアシェンの手を引いて自室へと階段を上っていった。

 きっと何もかも分かっていらっしゃるんだろうな……。

 主人とその養い子の後姿を見送りながら、心の中でそう呟くヴィストだった。

 

 

 やがて夜明け寸前の淡い光が、東の空を薄紅に染め上げた。魔族たちはそろそろ眠りに就く時間だ。

「サーク……」

 豪華な天蓋寝台の中、アシェンは頭を巡らせて、隣に身を横たえるサークシーズに声をかけた。サークシーズは片肘をつき、少し上体を起こす。

「どうした?」

「えっとね……あれ、ウソなの」

 サークシーズは微笑んだ。

「知っている」

「しってるの?」

「ああ。おまえたちの間に何かがあったことは分かったよ。だが、もうきちんと解決したのだろう? だから、わたしは何も言うつもりはない」

 アシェンはじっとサークシーズを見つめた。それから、俯いて呟いた。

「ヴィスト、アシェンのことすきかなぁ?」

「ああ、大丈夫だ」

 そう答えながら、サークシーズ自身も安堵していた。もう、ヴィストも分かっただろう。意地っ張りなところはあるから態度には表さないだろうが、それで充分だった。

「さあ、もう休め」

 サークシーズは養い子の淡い金の髪を撫で付けた。アシェンはほっとしたように微笑み、灰色の目を閉ざした。そして、すぐに安らかな寝息をたて始める。それを確認してから、サークシーズも再び身を横たえた。

 

 

そして、朝がやってきた。

 

 

 


 
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