世界の果て、断崖絶壁に聳え立つ塔の最上階に、この世の流れを記録する男がいる。
魔物の住処として太古より恐れられ、悠遠たる時間とは別の世界にあるかのような塔を、ヒトは『歴の塔』と呼んで近寄ろうともしなかった。
塔の扉は固く閉ざされ、決して中から開くことは無い。記録者は外に出る事を許されていないのだ。
彼はガランディウム神によって創られし時より、定めの無い時に至るまで歴史を綴る仕事に就いていた。
その使命が終わる時、それは世界が崩壊する時に他ならない。
書き綴る物語は人の数だけ存在するが、神が特に注目する人間の一生とその者が住む国の歴史である。
中心として記録する人間は、常に神に選ばれていた。
彼は眠る必要も無く、食事を摂る必要も無い。
椅子と机しか置いておらず、暖炉があるのに火も灯っていない殺風景な部屋だ。
壁一面本棚で覆われ、窓も無い。灯りは宙に漂う魔法の光に頼っていた。
しかしその灯よりも部屋の中を煌々と照らし出しているものがあった。
鏡である。彼が望めばどんな風景も映し出す、神より賜った魔法の道具だった。
彼はいつものように椅子に腰掛け、人の背丈ほどもある鏡を机越しに覗き込んでいた。
今、鏡に映っているのは黒髪の乙女だ。
彼を創ったガランディウム神と対極にある神、アヴァンクーザーに仕える神官であった。
月明かりに照らされる白いうなじ、煌く涙。
少女は一糸纏わぬ姿で寝台に横たわり、乱れた寝具から上半身を覗かせている。
そして夜具を胸元に引き寄せ小刻みに震えていた。
彼はため息と共にペンを置いた。一つの章が終わったのだ。
後は当事者から報告受けて記録に補足を行うだけであるが、彼が待つ必要無く塔の扉が開いた。
冷たい外気が一瞬だけ塔の中へ入り込んだ。
その空気に紛れて部屋に入ってきたのは、先程まで少女と共に鏡の中に映っていた黒装束の青年だった。
瞳孔が縦に割れた金の瞳に、彼が秘める圧倒的な魔力が現れているようであった。
「エリフェレト、見ていたのか」
刀身のような光沢を放つ漆黒の髪を掻き揚げながら、浅黒い肌をした男はそう言った。
「いえ、貴方に対してそんな無粋はいたしませんよ。今しがた鏡の投影を再開したところです」
顔を赤くして、エリフェレトは訪問者を見上げた。
彼はエリフェレトの唯一の友人であった。エリフェレトが無駄に口を利く機会は彼が訪れる時しかない。
塔の主は心を躍らせながら椅子に腰掛けるよう促したが、黒き者は押し黙ったまま立っていた。
「アントラージェ、どうしました? 何やら浮かぬ顔。『運命の書』の筋書き通りになったというのに、何か気になることでも?」
アントラージェ特有の余裕が見えないことに、エリフェレトは怪訝な顔をした。
しかしガランディウム神と直接交信することを許された、直属の配下である彼に失敗などありえない。
疑念はエリフェレトの脳裏をかすめて通り過ぎた。
「いや……何でもない、始めよう」
アントラージェは椅子に座ると、思い出すのが苦痛であるのかのように冴えない顔を歪ませた。
閉じていた本をエリフェレトが開くと、友人の報告は神から使命を賜る17年前より始まった。
『カストヴァール大陸監視者、アントラージェよ。お前の役目はアヴァンの聖女を汚す事により、人間を絶望へ導くことにある。更に、監視区域を壊滅させる種を植え付けよ』
久々に下ったガランディウム神の命令は、退屈しのぎには良い任務だった。
それまでの900年間、彼はずっとカストヴァール大陸を監視し続けていた。
それ以前はヒト自体が疎らに生きている世界であり、どんな任務だったか覚えてもいない。
だがヒトが定義付けている善悪の戦いはいつの時代にもあり、彼にとってはくだらない出来事だった。
神が定めた運命を執行する者にとって、それから外れようとする行為は無駄なあがきにしか見えなかったのだ。
アントラージェがかの地に降り立ったその夜、山奥の寂れた村で母親の命と引き換えに赤ん坊が生まれた。
それが、信託にあった『アヴァンの聖女』となる者であった。
当時は戦火によって貧困を極め、父親は名もつけないまま一歳年上の姉と共に赤子を神殿の前に置き去りにした。
父親は養えない子供を売る事も殺す事も出来ない、そんな素質を組んだ血筋であった。
そして戦は、赤子を神殿に捨てる事を見込んでアントラージェの仲間が操作した末の結果であった。
言うなれば戦は赤子を神殿へ導く為にあったようなものだ。
小雨が降る中を小声で謝りながら逃げるように立ち去る父の姿は滑稽だった。
順調すぎる運命の流れをせせら笑いながら、アントラージェは赤子が雨に濡れぬよう己の外套を被せた。
赤子は神殿の高司祭によってサーラと名づけられた。
小間使いとして神殿に身を置く間に、姉妹が神官を目指すようになったのはごく自然な流れであった。
親に捨てられた過去が姉妹の絆を深め、そんな二人を町の人間は可愛がった。
手を取り合って支え合い、不幸を呪わずに民の幸を祈り続けるその姿は誰の心も和ませる。
特に、細やかな気配りが利く上に可憐な容姿を持つ妹のサーラは人々の羨望の的であった。
姉妹が神官としての訓練を受ける間も、礼拝中も、森で花と戯れる時でさえいつもアントラージェは傍にいた。
高司祭の修行を受ける為に姉妹が本殿へ行った時、夜盗や陰謀の餌食となる所を彼が救った事もある。
姿を見られずに女一人守る事など、数万の魔族を束ねる彼にとっては容易であった。
そうして命の危険にさらされれば常に助け、神の筋書きを逸れないように細心の注意を払った。
彼の役目は彼女なくしては果たされないのだ。
己の半身のように敵であるサーラを守り続けなければならないという皮肉は、耐え難い屈辱でもあった。
少女は成長するにしたがって巫女としての能力を高め、『アヴァンの聖女』、『神の愛娘』と人々の信望を集めるようになった。
誰からも愛される純粋無垢さと慈愛に満ちた美しさに、誰もが胸に想い描く神を見ていたのである。
それ故、アントラージェは彼女を憎んだ。
人々に愛を与え、愛を享受する少女に憤りを覚えたのだ。
彼は決してヒトと同じようにサーラを見ることが出来ない。
この世を憂えて彼女に救いを求める事も愛する事も、彼には無縁なのだ。
念晴らしに、彼は何度も何度も想像した。
如何にして恐怖に落とし、幻滅させるか。衣を引きちぎり、殴り、どのようにいたぶろう。
あの澄んだ鳶色の瞳を曇らせる為にはどのようにすればいいのか、彼は考え続けた。
早くその日が来ないか彼女を見つめながら待ちわびる日々は、これまでの任務に無く過酷だった。
サーラがアントラージェの発する魔の気配に気付いたのは、女性としての肉体的機能が完成された年のことだった。
彼が油断したのではない。彼の姿を消す魔法を打ち破る程の力を、いつの間にかサーラは身につけていたのだ。
「小娘ごときに気配を察知されるとはな」
アントラージェは苦笑したが、エリフェレトは気に留めないで記録を確認する事に専念していた。
サーラが魔の影に怯える事は無かった。
少女は何も知らなかったのだ。
アントラージェが、悪しき神の筋書きである『運命の書』を正確に進行させる為の監視者である事を。
そして将来生むであろう魔の父親となる役割を持ち、やがてその息子がかの大陸を沈ませるという役割がある事も。
彼女は何も知らずに、影から見守るアントラージェに恋をしていた。
「貴方を恐れず誰にも、姉にも告げぬとは。さすが聖女と呼ばれるだけの気骨あるヒトですね」
エリフェレトは文章をいくつか付け足しながら笑った。
魔族を前にしてひるまぬ人間は少ない。サーラは彼の物語の中でそのうちの一人に数えられる事となった。
「恐れるどころか」
眉間に皺を寄せ、アントラージェは目を伏せた。
「彼女は自ら僧衣を脱ぎ捨てた」
エリフェレトが友人の言葉に隠された意味を探っている間、沈黙が訪れた。
執行の時刻はエリフェレトも知っていた。
神殿へ降りて自らを包む結界を解き、肉体を物質化するアントラージェを確認してから、エリフェレトは鏡の電源を落とした。
ここまできて軌道を逸れる事はありえないし、何よりもアントラージェが聖女を抱くところなど見たくはなかったのだ。
その後何があったのか、友を信頼し疑う事を知らぬエリフェレトには解らなかった。
アントラージェは何処にも向けられていない虚ろな目でエリフェレトの正面に座っている。
彼の心がかき乱されているのは目に見えて明らかだった。
寡黙で冷静な友人が、押し殺した感情を隠し切れず露わにしている。
エリフェレトは彼が塔へ入ってきた時に感じた不安を思い出した。杞憂ではなかったのだ。
妖魔四人衆の一人として北部の魔を統括している者を、ここまで動揺させる事態とは一体何か?
エリフェレトは言葉を選び、慎重に言った。
「一体何があったのです。まさか裸の女を目の前にして何もしなかったなんてことは」
張り詰めたアントラージェの顔が心なしか緩み、視線が鏡に注がれた。
そして、彼女の温もりが彼によみがえった。
魔力が最も満ちる満月を、使命達成の日として神は選んだ。
それは奇しくも17年前にサーラが生まれた日、運命が回り始めた日でもあった。
月明が白亜の神殿を湖に映り込ませ、水面が照り輝いている。
近くにいながら決して話しかけない男が今宵自分の元へ来る事を、サーラは心のどこかで解っていた。
神殿騎士の見回りが途切れた夜遅くに、彼女は自室のテラスに出た。
木々がざわめき、一陣の風が吹いた。
「俺の名はアントラージェ。ガランディウム神の僕、運命の実行者」
悪しき神の僕が禍々しい魔力を伴い、善き神の僕の前に現れた。
神が望む運命の具現化、それを実行しに来た者に少女は微笑みかけた。
「ずっと待っておりました、この時を」
その一言は彼の予想に無く、思考と動作を止めさせた。
「私は貴方が何度と無く私を助けてくださった事を存じております。その暖かな金の瞳で私をずっと見ていてくださった。私が貴方の姿を見られるようになった時、どれだけ嬉しかったことか」
頬を赤く染めて話す少女を突き放すかのように、アントラージェは声高に笑った。
「聖女とは名ばかりのものか。残念だったな、教えてやろう。俺は我が神の命に従っただけだ。このカストヴァールを破滅に導く魔人を、お前に授ける為に」
サーラがまだ乳飲み子であった頃から死神のように寄り添って監視していた者は、その力を誇示して己の背後に黒き渦を発生させた。
彼の髪と同じ色をした、何処までも一点の濁りの無い闇の門。
蠢く触手、腐敗した手、尖った爪。奇怪な姿をした彼の配下が主の匂いを嗅ぎ取って門から手を出す。
だが彼女は邪悪な者がこの場に一つも存在しないかのように、眉をひそめることもなく彼をじっと見つめていた。
「どうした、怖がらぬのか。お前の子は貴様の神が築いたものを一掃するのだ。その悪魔を、お前が生むのだぞ。そして人々はお前を悪魔と罵り、アヴァンクーザー神の名と共に呪うだろう」
些細な問題であるのかのように、少女は頬に笑窪を作って笑った。
「そう語られながらも、貴方は私に触れようとはしない。貴方はその力で今すぐにでも……私をどうにでも出来るのに」
彼女が発する光があるとすれば、彼の闇がその色に染まる危機感。
視線を浴びているだけで、彼の中の確固たる力が揺らぎ始めていた。
アントラージェは彼女が聖女と呼ばれる所以を体感していた。
しかし彼にとっては聖女では無く、魔女と言ってもいい。
彼女の持つ未知の力は彼を翻弄し、地獄の門は力を失って消えていった。
「怖がっておられるのは貴方の方ではありませんか、黒きお方」
返事の代わりに彼の周りにあった大気が一瞬にして氷結し、弾け飛んだ。
細かい氷が彼女の肌をかすめ、サーラは一声もらしてよろめいた。
切れた衣から素肌が覗き、血が滲む。
「魔の血を受け入れたお前はやがて魔となり、狂い死にする前に魔人を産み落とす宿命なのだ」
彼が純白の袖を鷲掴みにすると、彼女は僧衣の留め金を外した。
「これは私が望んだ事。宿命などではありません」
彼女は毅然と言い放った。
外套とヴェールがするりと床に落ち、続いて身に着けている最後の一枚も無くなった。
滑らかな白い肌が月光に浮かび上がった。
腕と太腿、胸元に彼がたった今付けた傷があった。彼女が彼の物であることの証、運命の刻印のようにも見えた。
「最後まで『運命の書』に逆らおうという度胸は褒めてやる。その強情さ、神官としてのただの意地か」
アントラージェは自分の声が上ずっていることに気付いていない。
人間の娘相手に感じた脅威は彼の誇りを傷つけていた。焦燥感に胸が焼け、動悸が激しい。
抑えようの無いその感情を、彼は何と呼ぶのか知らない。
「私が貴方に出来る事はこれしかないのです」
神以外に恐れる者はいない筈だった。
しかし彼は今、目の前の女に恐怖を感じていた。
サーラの白い腕が、アントラージェの前に差し出された。
「愛する人の為にする事を、誰が後悔いたしましょう」
目の前にいたのは運命の生贄でもなく、敵の神官でもない。ただ一人の女だった。
彼は彼女の腕を掴み、強引に引っ張って己の胸へ引き寄せる。
そして男は女を抱え上げると、神殿の中へ入って行った。
文面をなぞる指を止め、エリフェレトは顔を上げた。
「私の記録と相違ありません。『運命の書』は正確に実行されました」
「俺もそう思いたい」
曖昧なアントラージェの返事を受けて、温厚なエリフェレトの気もさすがに荒立ち始めた。
「アントラージェ、どうしたのです。サーラは預言通り貴方の子を宿したのではないのですか」
「ああ、来年の秋には生まれるだろう」
一呼吸置いて、エリフェレトが己に言い聞かせるように、確かめるように言った。
「ヒトの体に魔の血が入ればやがて発狂します。その際に生まれる子供の精神は育たず野獣のように命を貪る。この運命はもう誰にも止められない」
「異なる血の流れがサーラの中で戦うだろう。それは俺とて同じこと」
エリフェレトは息を呑んだ。
アントラージェの中で今起きている事がその一言で表面化した。
異族間結合の代償。異なる種族の結合によって起こる血の拒絶反応である。
エリフェレトは友を励まそうと立ち上がり、彼の手に己の手をそっと添えた。
「神は貴方の忠誠心を見込んでこの使命を下さった。心配はありません、貴方は貴方のままです」
アントラージェは自嘲めいた笑いを口元に浮かべた。
何もかも諦めたかのような、そんな寂しい面持ちだ。
「それこそが神の目的だったのだ」
エリフェレトは体を固くして友人を見つめた。吸いかけた息が、喉の奥で制止していた。
「俺ですら『運命の書』の中に記載されている予定の範囲内だったのかもしれぬ」
「まさか! そんな記述はありません」
哀願に似た叫びが塔内に反響する中で、アントラージェは椅子から立って鏡の傍へ寄った。
鏡は寝台の女を映し続けていた。
眠れないのだろう、神官の衣装に身を包んで外套の止め具を付け直しているところだ。
「サーラは言った。運命など無いと。悪しき神に定められし末路を辿ったとしても、これは自分で選んだ道だと言った」
「ヒトという生き物は神の傀儡である事を認めたくないものです」
エリフェレトは冷たく言い放つ。
友の変貌を感じつつも、エリフェレトは尚も否定していた。
「彼女がさしのべた腕を掴んだ時、俺には解ったのだ。神の求める結果はまだ決まっていないのだと」
彼はそっと鏡面に触れた。
聖女はヴェールで涙を拭い、月を眺めて立っていた。
友人の未練がましい態度を見たエリフェレトは、妬心に狂ったかのように強く鏡を叩いて映像を消した。
エリフェレトは鏡を魅入るアントラージェの視界を背中で遮り、間に割って入った。
「何も変わりません、アントラージェ。貴方は運命の実行者。神の命通りに運命を導き、破滅への布石を置いた。ヒトと交わっただけで貴方がいなくなるはずなんてない!」
「エリフェレト」
彼はエリフェレトの両肩を掴んだ。
エリフェレトの体が硬直したのは、初めて強い力で体に触られたからだけではなかった。
友人の気迫はただならぬものがあり、圧倒されたのだ。
「神の運命は人の強固な想いまで影響を及ぼす事が出来ない。それこそが結果を左右する鍵だ」
掴まれているのは肩だというのに、エリフェレトは胸に痛みを感じながらアントラージェを見上げた。
同胞であった友人がこれほどまでに遠く感じたことは無い。
彼は外の世界とエリフェレトを繋ぐただ一つの架け橋だった。
塔の中から出られなくても、アントラージェが来れば他に求めるものは無かった。
しかし彼と出会う前のように、冷たく暗い塔の中で再び孤独を感じなければならないのか?
アントラージェの手が放されるとエリフェレトは己の肩を手で覆い、彼が残した熱い体温を掌で感じた。
「だからこそ人には流れに逆らう事が可能なのだ」
「もうやめてください!」
エリフェレトは聞きたく無かった。
何人も運命から逃れられぬよう働き続けてきたアントラージェが紡ぐ言葉は神の定めを覆す、聞き慣れぬ言語のようだった。
耐え切れず、エリフェレトは拳で本を叩いた。
その衝撃で机の上に積まれていた数冊の本が崩れ落ちた。
「アントラージェ! 自ら環の中に飛び込むつもりですか、許されませんそんなこと」
首を振って涙ぐむエリフェレトを、友人は責めるように尚も続ける。
「俺は彼女が魔の血と戦って狂い死にする様と、我が子がカストヴァール大陸を壊滅させる様を見たい。もし本当にそうなるというのなら。だがもしそうならぬのなら、サーラは運命を打ち破ったということだ」
「人の世に生まれし魔人はその本能で世界を破滅に導くでしょう。あらかじめ決められている事です」
そう言って、エリフェレトは唇を噛んだ。
友人の足はゆっくりと扉の方へ進められていた。
エリフェレトはすがるように言い続けた。
「アヴァンクーザー神と共に我らが父の妨害をするというのですか。子が道を外れれば処分されます。貴方を失いたくない、アントラージェ」
エリフェレトの長い衣が足に引っかかり、椅子に蹴躓く。
椅子が大きな音を立てて倒れた後の静寂は言いようの無いほど重苦しかった。
「歴の塔から一歩も出られぬお前には解らぬのだろう」
憐れみを含んだ声は低く暖かく、エリフェレトの体に染みわたった。
「ええ、私は外に出たことがありません。ここが私の世界。鏡が私の窓なのです」
答えを得た者のように、アントラージェは確信に満ちた金の目で振り返った。
「ここを出てお前自身の目で世界を見るがいい。あがくヒトを。お前は知っている筈だ、今まで神の運命を越えたヒトを」
今まで誰も神の命令に逆らって外へ出よと言った事は無い。エリフェレトには甘美かつ恐ろしい誘惑だった。
搾り出すようにして彼は友人に言った。
「そんなもの見飽きた。期待しては絶望してきた! 私は幾千年とつまらぬ人間の世を見てきたのです」
エリフェレトは今まで書き上げた本の上で拳を握った。
もう何千年も昔に、鏡を通してでしか見ることの出来ない少女に叶わぬ想いを抱いたこともある。
エリフェレトにも運命があるとすれば、それは残酷なものだった。彼女の名が『運命の書』に記載されていたのだ。
彼女の運命が外れれば良いと思った。
だが彼女が殺されるところとその顛末を彼は書かねばならなかった。
誰も、エリフェレトでさえ神の設定した未来からは逃れられないことを示す決定的な出来事だった。
「逸れた軌道があったとしても、すぐに貴方や他の監視者によって修正されてきた」
富を得る事に必死で民を省みず、一国を滅ぼした王。魔と契約を交わし、裏切りで国を乗っ取った家族。
善を掲げておきながら殺戮で革命を起こす矛盾。
全てガランディウム神の思惑通りに進み、世界は確実に滅びようとしている。
目に見えて活躍しているのは魔族であり、自ら絶滅への道を整える人間であった。
聖なる神と崇められるアヴァンクーザーの光など、実際はどこにも見当たらないのだ。
不安を抱えて生きるよりは、何かにすがった方が未来への不安と死への恐怖が幾分和らぐ。
ただそれだけの為に人々はアヴァンクーザー神を信仰しているにすぎない。
今を生きる為だけの刹那的な信仰であった。
「ヒトの人生すら血脈に書き込まれた記憶によってほぼ決まっている。結果は変えられない」
「お前は気付いていないだけだ、以前の俺のように」
エリフェレトは顔面を片手で覆い、弱弱しい掠れた声でつぶやいた。
「アントラージェ、私は貴方が解らない。貴方はまるで……貴方が言う、あがくヒトそのもののように思えます」
「解らぬならば見ているがいい、神に仇成す人間を」
彼の決意は固かった。
これは報告ではなく、懺悔なのだとエリフェレトが悟るには遅すぎた。
悲鳴のようにきしみながら、扉が再び開かれた。
両開きの扉の間から吹雪いている外が見える。外界は極寒の吹雪だ。
彼の友人はその荒れた世界へ出ようとしていた。
「友よ、私は環の記録者。貴方が賭けている事を記録に残しましょう。それが捕らわれの私が貴方に出来る、全てです」
かすかにアントラージェの首が傾いた。
「貴方が聖女を信じたように私も貴方を信じています。私はここで貴方と世界の行く末を見ているでしょう。だから」
……必ず戻って来て欲しい。
エリフェレトの発した言葉は吹き荒ぶ風によってかき消された。
大粒の雪が部屋の中へ入り込んではすぐ消えていく。
強風によってアントラージェの黒髪が舞い上がり、床に落ちている本が勝手に開いた。
荒れ狂う吹雪が岩壁に当たって発する轟音は神の怒りのようだった。
「エリフェレト、運命の輪が途切れて形を失った時、またお前を外へ誘おう。サーラの手を取った俺の腕をお前に差し伸べよう」
彼はそう言い残して扉の向こうへ消え、塔の中はエリフェレトただ一人となった。
記録者は本棚からまだ何も書かれていない本を手に取った。
深く腰をかけ、姿勢を正す。彼がペンをとると、鏡に映像が映った。
山の際が白み始めていた。
荘厳な神殿の柱が朝焼けに染まりつつあり、月は薄っすらとして消えかけていた。
その薄紫色の空を見上げながら何を思うのか、聖女は腹部に両手を添えて柔らかな笑みを作っていた。
最初のページを開き、エリフェレトは新しい章に名前を付けた。
『さしのべられた腕』
塔の主は神の定めた運命に抗うヒトの世界を記録し続ける。
友が迎えに来る、その日まで。
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「さしのべられた腕」シリーズの親世代、完結済み。
目の前にいたのは運命の生贄でもなく、敵の神官でもない。ただ一人の女だった。 運命の書が書き換えられた瞬間の、甘くせつない短編。