#29
昨日のようにジト目で見てくる彼女に向かって、俺は問いかける。
「なぁ、どうすれば諦めてくれるんだ?」
「私は絶対に諦めないぞ!!」
「………いや、諦めろよ。馬たちだって嫌がってるだろう?」
「それは私の本当の姿を知らないからだ!黒兎たちも、私の武を目の当たりにすれば私に惚れてすぐにでも乗せたがるに違いない!」
「いや、でもそれを見せる機会すらないじゃないか」
「なにぃっ!?」
俺の言葉に、彼女はしばし黙り込み、そして―――。
「わかった!では、お前が私と勝負しろ!」
「え、なんで?」
「お前たちは旅をしているのだろう?多少の武がなければ、旅など命を捨てるようなものだ!それにその腰に帯びているものはただの飾りか?だから私と勝負しろ」
「いやだよ。めんどくさい」
「なんだと?この夏候元譲の勝負を受けられないと言うのかっ!?」
「………………………………え?」
彼女の口から出てきた名前に思わず問い返す。
「………む?どうした、そんな顔をして」
「えと、もう一度、名前をいいかな?」
「む?仕方がないなぁ。そんなに私の名乗り上げを聞きたいのか!しょうがないなぁ、お前は」
「いや、普通に言ってくれれば―――」
「よかろう、そこまで言うのであれば、私の名乗りを聞かせてやる。心して聞くがいい!私が名は夏候元譲、曹操が一の武とは私のことだぁっ!」
ことだぁっ…ことだぁ………だぁ………………。
夏候惇の声が、厩に虚しく木霊する。そうか、彼女が夏候惇か………。どれほどの武かはわからないが、試してみる価値はあるかもな。
俺はひとつ考えると、夏候惇に向かって問いかけた。
「………なぁ、夏候惇。その勝負を受けてやるよ」
「本当か!?では早速―――」
「ただし、条件がある」
「むぅ?条件などよいではないか」
「いや、夏候惇は勝てば馬が手に入るのに、俺たちは勝っても何もないのは不公平だろう?」
「………確かに。わかった。では、その条件を言ってみろ」
将軍がこんな簡単に受けていいのかね。いや、自分の武に絶対の自信があるからこその返答なのだろうが。
「あ、ちなみに条件は2つな」
「2つ?それはずるくないか?」
「ずるくなんかないよ。君は2頭欲しいんだろう?だったらこちらも2つ条件を出してこそ対等じゃないか」
「確かに………いや、しかし………………」
「なんだ。曹操の部下ってのは自分に有利な条件でしか戦えないのか?」
「なんだとぉ!?よぅし、そこまで言うなら条件の2つでも3つでも受けてやろうではないか」
「じゃぁ3つね」
「えっ?」
俺の言葉に目を丸くして驚く夏候惇に、俺は笑いながら言葉を続ける。
「冗談だよ。1つ目は1週間俺たちに昼飯を奢ること」
「そんなことでいいのか?」
「あぁ。2つ目は、俺の友達が軍師として曹操に仕官したがっているんだけど、曹操殿に直接会えるように場を設けること」
「………いいだろう。ただし、その軍師を希望している者が仕えられるかどうかは、こちらで判断させてもらうぞ?」
「それは勿論。夏候惇は場を設けるだけでいい。なに、彼女たちの実力は保証するよ」
「では、その条件でいこうではないか。では私は自分の武器をとってくるから、ここで待っていろ!」
夏候惇はそう告げると、昨日のように猛然と走り去った。
「………かずと、いいの?」
「ん?仕合うことか?」
「………ん」
彼女が消えると、恋が傍に寄ってきて問いかけてくる。
「あぁ。仕官するにしろしないにしろ、曹操の兵力の力を見ておきたかったからね」
「………夏候惇、強い」
「強いだろうね。………恋はどのくらいだと見る?」
「………………雪蓮と、同じくらい。華雄や霞よりは、ちょっと弱い」
「俺もそう見るよ。まぁ、状況次第では幾らでも強くなれるだろうから、あまり妄信してはいけないけどね。ただ、今回は彼女の我儘が発端だから、それほど問題はないだろう」
「………ん」
「それに、俺が勝てば、恋は1週間好きなだけご飯が食べられるんだぞ?」
「………………一刀、ぜったい勝つ(じゅるり)」
「あぁ、任せろ」
俺は、涎を垂らしそうになる恋の頭を撫でるのだった。
半刻後、夏候惇は武器と共に、一人の女性を連れて戻ってきた。夏候惇と同じデザインで色違いの、青いチャイナ服を着た女性だ。服装と夏候惇との距離感から察するに、彼女が夏侯淵だろう。俺は適当にあたりをつけると、二人に話しかける。
「おかえり。この人は?」
「うむ。私の妹だ。心配だからとついて来たがったので、連れてきた!ついでに仕合の立会いをしてもらうが、いいだろう?」
「夏侯淵だ。姉者がすまないな。一昨日も言ったのだが、どうしてもと聞かなくてな………」
どうやら姉とは違い、妹の性格はまともらしい。おそらく姉の心配というよりも、将軍である彼女が一般人と揉め事を起こすと聞いて、その事後処理の心配でついて来たのだろう。
「かまわないよ。それに、こちらも条件を出したしね」
「条件?姉者、聞いてないぞ?」
「条件なんてあったか?」
「あっそう。条件を反故にする気なら勝負はしないよ?さよなら」
「え、ちょ…待ってくれぇぇえええぇ」
俺が背を向けて立ち去ろうとすると、夏候惇は捨てられた子犬のような瞳で俺に縋り付いてくる。振り返ると、妹の方は俺の冗談だと理解しているのだろう。そんな姉の姿を見て「姉者ぁ、かわいいなぁ」と呟いていた。………………百合?
「しょうがないなぁ。まぁ、立会人もいることだし、もう一度言うよ。夏侯淵、しっかり覚えておいてくれな」
「はぁはぁ、姉者………ん?あ、あぁ。わかった」
「条件は2つ。俺が勝った場合だけど、1つは俺たちに1週間昼飯を奢ること」
「………そんなことでいいのか?」
「あぁ。これでも切実なんでね。で、2つ目は、俺の旅仲間が軍師として曹操殿のところで働きたがっているんだけど、直接曹操殿に謁見する場を設けることだ」
「………場を設けるだけか?」
「あぁ。文官の試験は3ヶ月先って聞いたし、さっさと試験を受けられるなら受けさせてあげたいんだ。それに、文官から始めるよりも無為な時間を短縮できるしね。
彼女たちの実力はそちらで判断してくれ。使えると思ったら受け入れて、使えないと思ったら拒否すればいいだけの話だ。あとは彼女たちがなんとかするさ」
「わかった。姉者だけでは心許ないだろうから、この夏侯淵がしかと承った」
「ありがとう」
夏侯淵はしっかりと聞き入れてはくれたが、彼女としては、あの夏候惇が負けるとは思っていないだろう。約束も、万が一に俺が勝ちでもしたら考えるか、くらいにしか思っていないのかもしれない。
だが、そんなことは関係ない。言質は取ったんだ。あとは俺が勝てばいいだけの話だしな。
「では、場所を移そうか。姉者とはいえ、流石に私闘に練兵場を使う訳にもいかないからな」
「ん、どこでもかまわないよ」
「礼を言う。ほら、姉者。難しい話は終わったぞ。勝負の場に向かうから、ついてきてくれ」
「ほぇ?」
夏候惇の方を見ると、恋と一緒にセキトと戯れる姿がそこにあった。こら、尻尾を引っ張ったら可哀相だろう。そして夏侯淵も恍惚としないでくれ。
そうして、夏侯淵の言葉もあり、俺たちは仕合をするために街の門へと向かうのであった。
一刀と夏候惇は街の門のすぐ外で対峙していた。夏候惇は右肩に黒い大剣を担ぎ、一刀は鞘に納まったままの野太刀の柄に手を添えていた。
その丁度真ん中あたりには彼女の妹である夏侯淵が立会人として立っている。ちなみに恋は、さらに夏侯淵の後ろにセキトを抱いて位置していた。
「それでは、これより仕合を始める。勝利した者の条件は承知の通りだ。各々、正々堂々と仕合うことを願う」
「当り前だ!」
「あぁ」
立会人の前口上にそれぞれの返事を聞き、夏侯淵は数歩下がり、恋の隣に並ぶ。
「なぁ、お前の連れは武に自信があるのか?姉者が負けるとは思えんが、無理やり誘われたとはいえ、条件を提示したりと、些かも慌てている様子はないが」
「………………ん。一刀は、強い」
「どのくらいだ?」
「………………こんなおっきい蛇を倒した」
恋はそう言って両手を広げる。かつての大魔王を表現しようとしているのだろうが、少しも足りていない。
「そ、そうか。それは凄いな………」
「………ん。一刀は、すごい」
隣に立つ女性の言葉に満足したのか、恋はかすかに胸を張る。おそらく、彼女と一刀がこれまで対峙した中では一番強い相手を出そうとしたのだろうが、それが通じるのは一刀と南蛮の人間だけだ。
対する夏侯淵は、恋の示す蛇の大きさはともかく、あれほどの馬を手に入れるだけの何かはあるのだろうと想像する。ただその何かが、短い間ではあるが彼を観察しても見受けられない。どうも、ぼかされている感じがするのである。実力を隠しているのか、はたまた唯の凡俗なのか………。
思考に没頭しそうになる夏侯淵の耳に、剣戟の金属音が届いた。
「はぁぁああぁあっ!」
「………ふっ」
夏候惇の初撃を刀で逸らして躱す。様々な角度から大剣が襲ってくる。彼女の太刀はどれも大振りなものであったが、一刀は彼女の太刀筋をひたすらに観察していた。
大きく剣を振るうということは、それだけ予備動作も必要となるということである。だがしかし、彼女にはそれを補ってさらに有り余る程の速度が備わっていた。ひと太刀でもまともに受ければ、一刀の野太刀は容易く折れてしまうだろう。
その攻める様は、初めて仕合をした相手を彷彿とさせる。ただし、たった一点のみ、彼女とは違うものが、そこにはあった。それは―――
「(タイプとしては華雄と同じだな。力技で押しまくる。だが………)」
―――それは、華雄がひたすらに武の理を追及しているのに対し、彼女はそれよりも本能を優先させている点であった。これが華雄であったならば、次の一手、さらに次の一手と、戦斧の流れを読み、取り得る選択肢の中で、最も理に適ったものを選び、斧を振るう。しかし夏候惇は―――彼女もまた天賦の才の持ち主の一人であることは確かだが―――その才を頼りにし過ぎているのだ。
剣を振るえばその瞬間に次の手を考える。もちろんそれも並大抵のことではない。幾度となく鍛錬をし、その反復のみによって身体に染みついた動きをするのだろうが、だからこそ悪手をも取り得るのである。
幾度剣戟を重ねただろうか。双方に疲れは見えないものの、それでも長時間の勝負は集中力が鍵となる。そこに生じた隙に、夏侯淵は、第三者として見ていたからこそ気がついた。
「(僅かに…ほんの僅かにだが、姉者の剣速が落ちている?)」
そう、姉の剣に、いつものキレがないことに、正確に言えば、仕合当初は存在したその速度が、ほんの僅かに遅くなっていることに気がついたのである。それは、生まれた頃から行動を共にし、共に鍛錬に励んでいた彼女だからこそ見抜けたことでもあった。
夏侯淵は、ふと、隣にいる少女にもそのことを尋ねる。
「なぁ…姉者の剣速が最初よりも落ちている気がするのだが、お前は気がついたか?」
「………ん。あれは、一刀がそうしてる」
「かず……彼がそうしているだと?」
紅毛の少女の呟く名前を反芻しそうになったが、相手の真名では拙いと、夏侯淵は言い直す。恋は、どうしたものかとしばし考え込んだが、一刀の意図を読み取り、この様子なら長くなるかもしれないと、説明を試みた。
「たぶん………一刀はいま、稽古をつけてる」
「稽古、だと?仕合の最中にか?」
「ん…。夏候惇より、一刀の方が、ずっと強い」
「なっ!姉者を侮辱するつもりか!?」
恋の、ただ事実を述べるかのような喋り方に、普段は冷静を努める彼女もこればかりは激高した。しかし、それを言った恋は気にする風もなく、ただ、事実だというように答える。
「…侮辱なんてしてない。でも、一刀の方が強い。………うまく説明できないけど、一刀は、勿体ないって思ってる。たぶん」
「………勿体ない?」
「………夏候惇は、弱い。強いけど、それを使えてないから、弱い。一刀は……それが勿体ないって思ってる」
「………………………………」
恋は、すべてを語り終えたとでも言うかのように、それきり黙り込み、再び仕合に集中した。しかし、隣の女性はその真意をはかりかねている。自分の姉は、これまで相対したどの相手よりも武に関しては負けたことがない。それは自分が一番知っている事実だ。それでも、この少女は彼女が弱いと言う。姉が毎日鍛錬を積んでいることも知っている。政務の合間に、その姉を見てよく和んでいるからだ。だが、彼女は、姉がそれを生かし切れていないと言っている。
言葉の意味は理解できる。だが、その意味と自慢、いや誇りとも言える姉がどうしても結び付かないのだ。
いや、しかし………。仕合を見つめながらもそんな風に自問を続ける夏侯淵の目に、衝撃的な光景が目に入った。
「くっ……うぅ………………」
「………………」
「………………姉者?」
あの夏候惇の目に、陽の光を反射して輝く粒が見える。弓の名手である夏侯淵には、その輝きの奥にある姉の目が、悲しみに彩られている様子が見て取れた。
しかし、それでも彼女は剣を振るう腕を止めることはしない。だがその剣速は、先ほどの「僅か」よりもあからさまに遅くなっており、その速度は、せいぜい部隊長程度である。いったい何が起きているのだ。夏侯淵は、普段の姉の姿からはまったく想像のできないその様子に、言葉を失った。
夏候惇はその目いっぱいに涙を溜めながら、相手を睨む。そこには殺気の欠片もなく、ただただ、疑問を呈していた。
「………なぜだ」
「………………………」
「何故なんだ」
「………………………何がだ?」
答える一刀は彼女の大剣に合わせながら、沈黙を止めて答える。二人のたった今の様子を俯瞰すれば、ただ軽く剣を合わせているようにしか見えない。
「何故……私はこんなにも、弱いんだ………………?」
「君は強いよ」
「ならば!…ならば何故こんなにも、私の剣は遅い………………」
「俺がそうしているからね。じゃぁ、君の本来の力を出させてあげようか」
「え?………くっ」
そう呟くと、今度は一刀から斬りかかった。
「あれ?」
数回斬り合えば、彼女の動きは試合開始時のものに戻っていた。そろそろいいか、と一刀はその手を止める。それに合わせて夏候惇も大剣を下し、一刀に尋ねた。
「何が起きたんだ?」
「そうだね。こればっかりじゃ可哀相だ。でもその前に―――」
一刀は仕合を見ていた夏侯淵に振り返って叫んだ。
「―――夏侯淵!この仕合はなかったことにしてくれないか?」
「………姉者のそんな姿を見せられては、な。だが、そちらはいいのか?」
「あぁ。流石に俺も、意地悪が過ぎたよ。………ごめんな、夏候惇」
「え、いや………あぁ」
「それじゃ、場所を移そうか。恋もお腹が空いた頃だし、君も説明して欲しいだろう。いいかな、夏侯淵?」
「あぁ、構わない………」
恋と共に二人の元に近づいた夏侯淵に、一刀は尋ね、4人はその場を後にした。
「それじゃ、説明する前に、質問をいいかな?………夏候惇、君は今まで負けたことがないだろう?」
「あぁ。十の時に母上に稽古で勝って以来、秋蘭以外に膝を着いたことはない」
街に戻った俺たちは、大通りにある食事処で飲茶をしていた。恋は点心を口に入れ、その姿に夏侯淵が和んでいるのを横目に、俺は夏候惇に尋ねた。すると、それまで恋を見つめていた妹が、補足をする。
「そうだな。ただ、勝ち星の数では姉者が上回っているがな。姉者は確かに負け知らずだが………それが何か関係あるのか?」
「まぁね。あと、夏侯淵以外には、賊の討伐くらいしかしていないんじゃないか?」
「………あぁ」
「………やはりね。夏候惇、君の欠点は、自分を鍛えてくれる師がいないことだ」
「………………………」
「心当たりがあるようだね。負けたことがない、それはとても凄いことだ。でもその所為で、自分の欠点や弱点、直すべき点を指摘してくれる師がいない。だから君は、自分で、あるいは妹と武を磨くしかなかったんだ。でも、それじゃぁその先には進めない」
「その、先?」
「あぁ。負けたことだない、ということは、挫折を知らない、ということだ。ここ数年のうちに君のお母さんに初めて勝利した、というなら話は別だが、十の頃だろう。まだ精神的に未熟な年頃であることも理由だが、それ故に慢心が生まれる」
「そんなこと!」
「ない、と言い切れるか?自分の存在を脅かすほどの強敵がいないからって、自分こそが最強だと思い込んではいないか?鍛錬は積んでも、どこかで、これくらいでいいだろう、という甘えがなかったと言い切れるか?」
「ぅ…」
口籠る彼女の姿に、言いすぎたなと一言謝り、俺はお茶で口を一旦湿らせる。
「だから俺は君に挫折を経験させた。何故なら、君のその才が勿体ない、って思ったからだ」
「………え?」
その言葉に、夏候惇は目を丸くする。横では、夏侯淵が何かを思い出したかのように呟いた。
「そう言えば、この娘が言っていたな。お前は姉者に稽古をつけているつもりだ、と………」
「あら、恋にはわかっちゃてたか」
「(モキュ………)ん…。だって一刀、途中から本気じゃなくなった」
「恋には隠し事はできないな。………まぁ、彼女の言う通りだよ。それが俺にはすごく勿体なかったんだ。だから、あぁした」
「とは言っても、仕合の最中に相手の剣速を落とすことなどできるのか?」
当然の疑問だな。夏候惇の問いかけに、俺は再びお茶を口に含んでから答えた。
「まぁ、あれは相手が誰でもできる、ってわけじゃないけどね。
君は自分の才能に頼り過ぎている。確かに力も速さも相当のものを持っているが、それが活かせていないんだ。君は持ち前の才能で、相手に隙を見つければすぐさまそこに斬りかかってくる。それもまた一つの戦法ではあるが、逆にそこにつけこまれる可能性も孕んでいる。………まぁ、それは置いておくとして、だ。
俺たちはずいぶん長い時間斬りあっていただろう?」
「そうか?私は夢中で気づかなかったが………」
「そうだぞ、姉者。一刻……とは言わないが、半刻は続けていたな」
「なっ、そんなにか!?」
「あぁ。だから、俺は、途中から少しずつ君の呼吸を俺に合わさせたんだ。君が息を吸う瞬間に俺も息を吸い、君が息を吐く瞬間に俺も息を吐く。君が手首を返す瞬間に俺も合わせて手首を返す。………そうして完全に動きを同化させたところで、今度は俺が動きを、ほんの僅かにズラす。君は俺の動きを視界に入れてはいても、それを意識できない。何しろ、本当に僅かなズレだからね」
俺は人差し指と親指で隙間を作って二人に示す。夏候姉妹は俺の言葉をただ無言で聞いていた。
「そうやって、今度は君が俺の動きに完全に同化したところで、俺は徐々に剣速を遅くしていったんだ。君は無意識のうちに俺の剣に合わせるように刷り込まれてしまったから、何故自分の剣が遅いのかわからない。仕合という意識があるから、自分は本気で振っている筈なのに、そう思っても、どうにもできない。少しずつ、本当に少しずつ遅くしていって、最後にはあんな感じになる」
「………………………………」
「………では、あの後すぐに動きが戻ったのは?」
「一度動きをズラして、同化が解かれたからね。まぁ、もう一回やれ、って言われても種明かしをしちゃったから今はもう無理だけど」
「そうか………最初は姉者を侮辱するつもりかと思ったが、そこまでの意図があったのなら、何も言うまい。礼を言う。姉者はこれからさらに強くなれるだろう」
「秋蘭………」
「あぁ、それは俺が保障するよ。夏候惇、挫折を知れば人は成長できる。今回は意地悪し過ぎちゃったけど、俺でよかったらまた相手になるよ。今度はちゃんと勝負してあげるから………馬は賭けないけどね」
「………………あぁ、ありがとう」
「そうそう、すごい今更だけど、俺の名前は北郷一刀だ。姓が北郷で、名が一刀。字と真名はない。好きに呼んでくれ」
「あぁ、一度、いや二度か。名前を伝えたが、再度伝える。私は夏候惇元譲。真名は春蘭だ。これからは北郷を師と仰ぎ、また挑ませてもらう」
「私は夏侯淵妙才だ。真名は秋蘭。私も預けさせてもらうよ。これから姉者が世話になるし、な」
そう言って片目を瞑る秋蘭に言外の何かを感じたが、今さら気にしても仕方がないと、俺はありがたく二人の真名を受け取った。
「恋。恋も自己紹介しな」
「(ハグハグ………)ん…。恋は、呂布奉先。真名は恋」
「あぁ、ありがたく受け取らせて貰う」
「………なぁ、北郷。恋はどのくらい強いんだ?」
「俺と同じくらい、かな?今の春蘭たちの実力なら、たぶん2人がかりでも勝てないよ」
「それほどなのか!?こんなに可愛らしく食べるこの娘がか?」
意外にも食いついてきたのは秋蘭だった。言葉と共に恋を見やる彼女は、食事を再開した恋の姿に、途端に顔を綻ばせる。
「まぁ、これからの2人の成長次第だけどね」
その言葉を最後に話はおしまいと、俺たちは3人で恋の食事風景に和むのであった。
その夜、城のとある部屋にて―――。
「へぇ、あの春蘭が負けた挙句に、その男を師と仰ぐとはね」
「はい。実際、あそこまで軽くあしらわれてしまっては、実力の差が嫌というほど理解できたのでしょう。初めは私も驚きましたが、新たな目標を掲げた為か、姉者の鍛錬への熱の入れようは、それは見たことがないものです」
「ふぅん?」
秋蘭の言葉を聞き、竹簡の上で動かしていた手を止める1人の少女。秋蘭の言葉づかいから言って、彼女がこの城の主、曹孟徳であろう。燭台の灯りに照らされてその金髪を輝かせながら、彼女は秋蘭に向かって言った。
「明日、その男に会いにいくわ。秋蘭、春蘭と共に案内しなさい」
「御意」
部下の短い返答を耳にした彼女は、再び筆を動かし始める。
一刀の思惑とは形が違うが、彼は、覇王の目に留まったのであった。
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