黒い雲が流れる。半分の月が姿を現す。
月の光は、この廃洋館にも汚れたガラスを伝って流れてきた。
曇りがちのその光は、廊下の隅まで照らす。
あたりのヴァンテージ物の空気は、息をするだけで苦しい。一息を吐くごとに肺のなかに埃が溜まっていくようだ。
山川は今更ながら一人でここに来たことを後悔した。
山川は廃墟マニアだ。建物が朽ち果てて行く様を眺めるのが、生きがいだ。この趣味も大学時代から続けてもはや10年近く経っている。
その間には色々な事があった。幽霊マンションとして名高い逗子の海辺にある廃墟を訪れた時、暴走族の輩が建物を破壊しているのを見てしまい、囲まれたときもあった。
また住宅街にポツンと佇む元幼稚園に潜入したとき、そこをねぐらとするホームレスにばったり会い、かなり気まずい思いをしたこともある。
大学の廃墟探訪サークルで知り合って、いまだ同じ奇特な趣味を持つ仲間として付き合っている人の中には強盗に襲われたり建物の崩落で怪我をした人もいる。
実をいうと彼も二、三人のグループで5年前、奥多摩の廃家屋に行った時、遺体を発見したことがあった。
その時は、同行者の一人に冷静な廃墟慣れしたのがいて、警察にきちんと連絡し、事なきを得た。
警察の口から、一番心配していた「家宅侵入罪」の「か」の文字も飛びださず、捜索願いを出していた遺族の方からはお礼もされた。
こんな体験をしてまでも、探索を続けるのはどうしてか山川にははっきりとは言えなかった。もしかしたら怖いもの見たさとの面もあるかもしれない。
とにかく、彼は廃墟を楽しんでいることは事実だった。
今回山川は日曜を使って、筑波山にある廃洋館を探索しにきたのだが、そのの物件はなかなか見つからず、ようやく発見した時にはもう夜になってしまっていた。
中に入るべきかどうかかなり迷ったが、結局洋館が見せる瀟洒なフォルムに立ち向かえず入ってしまった。
どうやら、月がまた雲の影に隠れたようだ。
月の光の中で色あせていた、サーチライトの放つ光がまた爛々と輝きはじめた。
いったいこの洋館の構造はどうなっているのだろうか。 潜入する前、外からみたがんじではそう大きく見えなかったのに、廊下がいやに長い。奥に奥にと建物が延びている。
廊下には物がなにもなく、殺風景で埃が積もっているのみ。右手にガラス窓があり、左手に時折ドアがあるが、大部分鍵がしまっている。開かない。
それで山川はしかたなく更に屋敷の奥へと進んでいる。
こうも廊下が長く、ようやく左に見つけたドアもしまっている状況のなか、彼は焦りを感じ始めた。早くこの屋敷を立ち去りたいが、まだ部屋をみていないのでもう少し、あと
もうすこし、と考える狭間のなかで。ドアが閉まっていたらまた次のドア、それも閉まっていたらまた次……。
そうして彼はどんどん奥に誘導されていった。
幾つ目のドアだろうか。月光が差し込んでその真鍮の取っ手を照らしているドア、それに山川は手を掛けた。
ごとっとした重い感触。そして……開いた。ようやく一つ目の部屋が開いた。
ひと思いに開け、暗い洞窟のような闇の中に懐中電灯の光を投げ込んだ。少し奥に、天井にまで届くような背の高い棚がずらっとならんでるのが見えた。
山川は今日の探索はこの部屋だけにすると決め入った。ドアは開けっぱなしにしておいた。
いやに生活臭が漂う部屋だ。物は少ないのに今さっきまで人がいたような気配がする。
もしかすると、ホームレスのすみかになっているのかも知れない。注意しようと山川は考え、棚の方に光を当てた。
ぞっとする光景がいっきに目の前に開けた。棚の中にきれいにぎっしりと、ファービー人形が並んでいる。そうか、この部屋のいやな感じはこれだったのか。
山川はバクバク暴れる心臓を、必死に意識して鎮めようとした。しかし、いくたの虚ろな視線が彼に注がれなかなか動悸は治まらない。
人形棚から目を逸らし、とっととこの部屋をでようと電灯の光を下に落とすと……。
どこからか一人の人形が声にならないうめき声をあげた。
その音で山川はもう逃げもできず、その足は、杭を打たれたように動かなかった。
一斉にファービー人形が最初の声に呼応しはじめた。 阿鼻叫喚にも似た彼らの大合唱が。
山川は懐中電灯を持った手を死んだように伸ばし、目はもう落ちそうなほどだらんとする。
「がたん」
その音で、彼の首は抗うことができない大いなる力に、ドアを向くように引っ張られた。
「誰かがいる。いる。何かがいる。」山川は叫びたかった。でも声も出ない。
閉まったドアを塞ぐように、おかっぱ頭で着物をきた少女がいた。
もちろん、その少女は彼に向って歩いてくる。仄かに微笑しつつ、その目をいたずらっ子のようにして。
ようやく山川の声帯から音が出た。
「あ、お、お、お前誰だあ。」彼はそういうと過呼吸気味に、金魚が口をパクパクさせるようにしている。
「誰って、あなたが勝手に私の場所にはいってきたんじゃない。まあ、あなたが来ることは予言されていたけど。」
そう言い終わると、彼の体に少女はふっと近ずく。
「山川さん。ここに来たからには、私のお相手をしてもらいますよ。」
言うか言わないかの内に、山川のパクパクしている口びるに白く濡れた指をのばしきゅっと結んだ。
同時に山川は崩れた。木の床に体をエビのようにくねらせながら、びくびくとみっともなく痙攣し、蟹のそれよりも、もっと量の多い泡を口から吹いていた。
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