No.193789

「あなたとわたしは彼女と僕の」第12章の2(最終回)

 悠木有紗にとって僕がどういう存在なのか、気にならないと言えば嘘になる。
 でも、僕が彼女にとって特別な存在だなんて妄想は、僕の頭の中にしまっておく。

 ただ一つ、ただ一つ言えることは、僕には彼女が必要だったって事だ。

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2011-01-03 20:32:56 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:356   閲覧ユーザー数:356

 

 深山が部屋の前まで来たのかと、緊張したが、その雰囲気はない。ただ廊下で何かしている音が聞こえくる。

 

 有紗はそっと扉を開けて廊下を覗き見た。

 廊下から聞こえていた音がはっきりと耳に飛び込んでくる。

 何やら鈍く湿った音。深山は廊下で立ち止まり足踏みを繰り返していた。

 

「ほ~ なかなか趣味のいい奴じゃねぇか」

 

 有紗と共に廊下に顔を出した郁斗が軽い口調で言う。しかし直ぐ側で握り潰される扉に気付き、口を塞いだ。

 自らが掴んだ扉が、メリメリと潰されていることなど有紗は気付いていないのだろう。自らが目にしたものの衝撃に、頭が真っ白になっている。言葉も出ない。

 深山は廊下に倒れたままになっていた大垣の遺体を踏みつぶしていた。

 何度も何度も全体重で踏み抜く。とっくに死んでいる大垣を均(なら)すように丁寧に確実に潰していく。

 廊下は飛沫した血が辺り一面に広がり、白かった廊下を鮮やかに染めていた。

 

 死者への敬意などない。

 人間の尊厳を無視すし、スプラッタを作るのが使命だったかのように深山は黙々と大垣の遺体を潰していた。

 

「嬢ちゃん。正気か?」

 

 怒りに打ち震えている有紗の肩が叩かれた。郁斗の言葉に、有紗は首を振り答えた。

 

「正気じゃないのか、おい? もっとクールに行こうぜ。

 とにかくオレの声は聞こえてるな。オレはとりあえず逃げさせてもらう」

 

 あの好戦的な郁斗が自ら退くと言う。それだけあの深山が質の悪いバケモノだということだ。

 

「あれがオレの手に負えないのぐらいわかる。あんなのと、まともにやり合う必要もないだろ?」

 

「駄目よ。このまま放っておけないわよ。病室で暴れられたら子供たちが危ないわ」

 

「はん。そんなこと関係ないね。

 オレは行かせてもらうぜ、アイツが死体遊びしてるんなら脇を抜けて逃げるぐらい出来るだろ」

 

 そう言うと郁斗は扉を完全に開け、本当に逃げようとする。本気で一人だけ逃げようというのだ。

 

 有紗は咄嗟にその腕を掴む。郁斗の腕に有紗の指が食い込んだ。

 

「痛てぇよ、おい」

 

「作弥! 出てきなさい!」

 

 有紗が怒気を帯びた声を出した。それを聞けば有紗が本気だということが誰にでもわかっただろう。

 もし作弥が出てこなければ、郁斗の、柚山潤の腕が握り潰されていたのかもしれない。

 

 郁斗の体が崩れるようによろけ、力をなくす。一拍の後に振り返る。

 その様子はまるで糸の切れた操り人形のようだった。しかし直ぐに藤堂作弥の軽薄な笑みに変わっていた。

 

「そんなコロコロと入れ替わることは出来ないんですよ。簡単に呼ばないでください。体への負担が大きすぎます」

 

「非常時よ。それくらい、いいじゃない」

 

 有紗の目つきは真剣そのものだった。それだけこけからやろうとしていることの危険度を認識していた。

 作弥は有紗の顔を見つめ、その考えを察した。

 

「私も郁斗に賛成ですよ。危険に自ら飛び込むのは賛同出来ません」

 

「アンタはとっとと逃げればいいわ。その前にアイツを止める方法を教えなさい」

 

「死にたいのですか?」

 

 深山はやっと大垣の死体に興味をなくしたのか、三人のいる病室の方へ歩きだしていた。

 その足音はぴちゃぴちゃと赤き液体を飛ばし、気味が悪い。

 後からその廊下を訪れたものは白いタイル張りの廊下に赤い足跡が続く様子に身震いしたことであろう。

 

「私は私の主義に反することをしたくないだけよ」

 

 有紗は宣言する。その言葉に嘘偽りはない。

 

「なるほど。それが君の存在意義ですか」

 

「お喋りしてる暇はないの! 早く」

 

「先程の麻酔銃は外れていません。

 その黒川の言う通り脳信号の異常連鎖で、麻酔が効かなかったのです。もう力ずくしかありません。

 方法は三つ。

 肉体を破壊する。

 脳への酸素供給を絶つ。

 エネルギーを使い切るまで暴れさす。

 ただし、」

 

 作弥が言い終わらないうちに、有紗は飛び出していた。

 ダン、という轟音が鳴る。風に乗るように有紗の体が加速していく。

 地下にある廊下に有紗という風が吹き荒れた。

 

 その有紗に気付いていないのか、深山は特に反応を示さず前進を続ける。

 その足は大垣の返り血でどこもかしこも真っ赤に染まっていた。

 

 やりきれない思いが有紗を駆けめぐる。彼は何を思って大垣を殺したのだろう。

 遺体を徹底的にいたぶらなければならない理由なんてあるのだろうか。

 

 そんなものはない。MBADの人体改造技術が深山を変えたのだ。

 それが深山が望んだことであれ、そうでないのであれ、原因は十年前この実験病棟で始まった過去。

 怨む相手はMBADという病。

 

「深山ぁぁ!」

 

 有紗は悲しかった。

 どうしてこうなったのだろう。誰が間違ったのだろう。

 自分たちが生き残らず死ねばよかったのだろうか。

 十年前に柚山潤が死に、正菱有紗も死ねば、黒川将人は天才への夢を見なかったのだろうか。

 人の脳を改造するような発想も生まれなかったのだろうか。

 

 どんなに過去を想おうとも、今は変えられない。

 今を変えるのは今を生きる人間だけだ。

 十年前に死ぬはずだった有紗は今を変えるチャンスをもらったのだ。

 

 深山を止める。もう誰も犠牲にしない。

 有紗はその為に命を投げ出すのをいとわない。

 

 向かってくる有紗を撃退する為に深山が腕を振る。絶妙のタイミング。

 確実に有紗の首を刈るために放たれた一撃だった。

 

 空気を切る音が後から聞こるが、既に有紗はそこにはいない。真上への跳躍。

 あまりにも急激な切り返しに視界が黒く落ちる。

 それに構わず勘だけを頼りに天井に足を着いた。それでも強烈な跳躍で体の上昇は止まらない。

 その慣性と足の屈伸を利用して有紗は天井に張り付いた。

 その体勢が保てるのは僅かコンマ何秒だっただろう。有紗の反射速度があればその瞬時で事足りた。

 

 全身をバネにして有紗が伸び下がる。

 重力を利用しての加速。深山の頭上に有紗が落ちる。

 

 人間には反応の難しい縦の動き。しかも腕を空振りさせた後だった。

 それなのに、有紗が深山の脳天に放った肘が受け止められた。

 有紗の全身の毛が逆立つ。そんな身体能力を作りだした人体改造技術の狂気を感じずにはいられない。

 

 深山は有紗の体ごと振り払う。有紗の体が浮き、無防備な体勢を深山の前に晒してしまう。

 深山が再び腕を振るおうとしているのが見えた。

 有紗は何も考えず壁に拳を振るう。壁を殴った反動で有紗が体を捻るのと、深山の突きが放たれるのは同時だった。

 

 台風の突風をイメージさせる突き。全てをなぎ払う力があった。

 直撃は免れたが、着ていたコートが巻き込まれた。有紗は異常な運動量を持った拳に絡め取られるように、壁に叩き付けられる。

 全身に激痛が走ったが、悪い予感がし、有紗は咄嗟に床に転がった。

 

 それはもう音というものではなかった。有紗が叩きつけられたそのコンクリートの壁に深山の腕が突き刺さる。

 その衝撃破が廊下全体に伝わっていく。

 まるで寺の大鐘をならしたときのような振動が、元安国病院全体に響いた。

 

 その突きの威力に恐怖するも、有紗はなんとか立ち上がって深山に相対す。

 肩でする息。早鐘を打つ心臓。

 有紗は身体能力の限りを使って深山に向かったが、それは死と隣り合わせの綱渡りでしかなかった。

 

 深山が壁に刺さった腕を引き抜く。その腕も自身の血で赤く染まっている。

 拳は砕け原型を止めていなかった。そこには白い骨が見え、肉も何もかもが破壊されていた。

 腕の筋肉も断裂を起こしているのだろう。破れた服から垣間見える腕は内出血を起こして変色が進んでいた。

 やはり深山の体も強度は人間のものなのだ。

 

「深山! やめなさい! そんなこと続けたら死ぬわよ」

 

 あの黒川は言った。深山自身も死ぬことが深山の望みなのだろうと。

 それは正しいのかもしれない。深山の肉体は確実に傷つき、確実に死へと向かっていた。

 

「アンタ何がしたいの! 黒川を殺したって何も変わらないわ!」

 

「ク、ロカワ……、あああああああぁぁ~」

 

 深山が唸りとも叫びともとれる声を上げる。

 やはり深山の思考はまともではない。説得が効く相手ではない。

 なんとか力ずくで深山を止めなければならない。彼自身も死んでしまう。

 

 しかし、有紗の体も限界に来ていた。疲労もダメージも蓄積している。

 こんな状況でなければ既に立っていないだろう。

 

 有紗の言葉が何か深山の琴線に触れたのだろう。深山は初めて積極的に有紗に向かってきた。

 深山の前蹴りが有紗を襲う。油断はしていなかったはずなのに、有紗の回避行動は遅れていた。

 

 有紗の細い体が宙に飛ぶ。

 バックステップでなんとか蹴りの直撃は避けられたが、加減する間がなく全力で後ろに跳んでしまった。空中でバランスが崩れてしまう。

 

 なんとか足を体に引きつけて着地する。

 腹筋を限界まで使い、肋骨が痛み有紗を苦しめる。

 

「有紗! 動きを止めて」

 

 潤の声。有紗はその言葉に何の疑問も抱かず、今度は深山に向かって飛び込んだ。

 

 深山が無造作に腕を薙ぐ。

 もう有紗にさえ反応できないスピード。

 しかし逆にタイミングが読みやすい。そんなスピードで動きを止めるなどエネルギー保存の法則が許さない。

 動き出した瞬間がインパクトの瞬間。後はまともに受けなければいい。

 

 有紗は真横に跳んでいた。

 急激な方向転換に足の靱帯が嫌な捻れを起こす。そこに深山の腕が追いついた。

 

 喰らうことを覚悟しれいれば!

 有紗は歯を食いしばって、深山の腕を押さえ込む。受け止めた有紗の腕が軋みを上げる。

 

 バチン、とゴムが切れたような音を有紗は聞いた。

 その音、知っている。有紗も幾度となく聞いている。筋肉が切れる音。

 

 自らの体に限界が来たのかと有紗は心配したが、有紗は深山の腕をしっかりと受け止めていた。

 深山の腕に力がない。引き千切れたのは深山の筋肉だった。

 

 これならなんとかなる。そう有紗は思ったが、深山の腕は力強さを失っても有紗をはね除けようと有紗を薙ぎ続けていた。

 

「くっ、まだこんな!」

 

 有紗は全力をもって押し返す。人間の筋力限界同士の力比べ。

 筋音が聞こえてきそうな脈動。両者の筋肉は痙攣を始める。それでも二人とも退こうはしなかった。

 

 幾度目となる力比べを有紗は覚悟した。

 しかし、不意に深山の力が抜けた。

 

「有紗、離れて」

 

 気が付けば、潤が深山の背後に取り付いて、首を絞めつけていた。

 

 脳への酸素供給を絶つ。先程作弥が言ったことだ。

 それを自身が実践しようとしている。しかし、潤の表情は作弥の不敵なものとは違い。

 無表情だった。深山に取り付いている潤が誰なのか、有紗にはわからず混乱した。

 

 深山は頭を左右に振りかぶり潤を剥がしにかかる。

 まるでロデオのように潤の体が跳ね上がるが、必死に首にしがみついて放さない。

 

 首を締め付けている腕を掴んで引き剥がせばいいものの、深山はまるで子供が駄々をこねるように体を振るだけ。はやり深山は冷静な判断が出来る状態ではないのだ。

 

 このまま首を締め付ければ、この手に負えない深山の意識を奪うことが出来る。

 そう有紗は思ったが、その考えは首を締め付けている潤自身の声で否定された。

 

「首が硬すぎて、効いてない!」

 

 その言葉を証明するように、深山は潤に肘鉄を食らわせる。

 深山は潤の締め付けも首の異常な筋力でガードしていたのだ。

 

 潤の顔が歪む。普通なら腰を回さない手打ちの肘など耐えることは簡単だが、筋力が異常な深山が打ち出す肘は、潤を悶えさせるには十分な威力があった。

 

「この!」

 

 潤をサポートするため有紗が深山の腕を掴みとる。それなのに深山の動きは止まらない。

 

「腕、痛くないの!」

 

 有紗の疑問はもっともだ。先程重度の筋断裂をおこしたはずの深山はその腕を振るい続ける。

 

 深山が一瞬、重心を落とした。

 

 まずい! 深山を抑える二人は心中叫んでいた。

 

 深山が跳ぶ。

 有紗ですら体験したことのないGが二人を襲う。

 もう慣性に耐えるというレベルではない。飛び上がった瞬間、潤を引き連れて深山の体が天井に叩き付けられた。

 

 あまりの衝撃に、潤は深山の首を解放してしまう。有紗も深山の跳躍に巻き込まれてしまい、宙に投げ出され、既に受け身をとる余裕はない。

 コンクリートの壁に叩き付けられ、その衝撃を一身に味わった。

 

 一瞬の後、深山と潤が着地する。

 深山はその四肢で降り立った。対する潤は気を失っている様子で、まともに床に墜落する。

 

「潤!」

 

 有紗が叫ぶが、倒れた潤に反応はない。

 外傷はないようだが、深山がいる側で気を失うなど、そんな危険なことはなかった。

 

 有紗が潤をかばう為に飛び込もうとした。有紗と深山の視線が交わり、時が止まる。

 すると、くるりと深山が方向転換した。そしてまたゆっくりと歩き始めた。

 

 一瞬、何が起こったのか理解出来なかったが、直ぐに深山が黒川の元に向かっているのだとわかった。

 

「どうして? どうして邪魔をしている私たちを無視して黒川に固執するの?」

 

 深山はもちろん答えない。そのまま歩みを続けるだけ。

 しかし、気が付けば深山の小声の呟きは無くなっていた。

 

 有紗は気付いてなかった。知っているはずなのに忘れていたのだ、あの黒川が黒川将人ではないことに。

 あの男が深山に狙われるには理由があったのだ。

 

 有紗は深山を追おうとした。しかし足に力が入らず尻餅をついてしまう。

 上がった息が静まらない。全身の痛みがここにきて一段と増していた。

 体力、気力とも限界だった。急激に異常な空腹感が有紗を襲う。

 また、エネルギー切れの症状だ。床に両手をつき、倒れるのだけは何とか避けた。

 

 目の前に気を失った潤がいた。

 胸部がゆっくりと上下に動き、生きていることを示していた。

 

「結局、私は無力なの……。昔も、今も……」

 

 力があるはずだった。MBAD治療の副作用。望んだわけではない筋力異常。

 どんな人間よりも速く力強よい体があっても、有紗は何も出来なかった。

 泣くことしか出来なかった実験病棟の日々と何が変わったというのだろう。

 十年の時を経て、有紗は再び自分の無力を嘆くしかなかった。

 

「深山……」

 

 見れば、黒川が深山の前に立ちはだかっていた。

 

「やめにしよう」

 

「ま……び、し」

 

 黒川の言葉に深山が反応した。彷徨っていた深山の視線が黒川だけを見据える。

 

「お前は十分やった。誰もお前の罪を責める者はいないさ。

 見ろ後ろの二人を。柚山潤と正菱有紗だ。彼はまだ生きているんだ」

 

 深山が言葉に従い振り向いた。その素直な動きに有紗は驚きを隠せない。

 

 虚ろな目に有紗と潤が写る。その瞳はとても寂しい色をたたえていた。

 無表情な深山の顔は、不思議と笑っているように見えた。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!」

 

 その咆哮は廃病院の廃墟、全てを揺るがすようだった。

 後頭部を揺るがす叫びに、耳を塞がずにはいられない。それでも全身が毛羽立つような振動を感じる。

 

 叫びを終えた深山は、早く浅い息を繰り返す。

 

「深山?」

 

 黒川が心配の声を上げた。その返事は腹に突き刺さる突きだった。

 

「あっ……」

 

 有紗は動けなかった。疲労から体が動かないこともある。

 それ以上に、あまりの事態に指一本動かす暇はなかった。

 

 ダンプカーにでも跳ねられたように、黒川の体は軽々と宙を行った。

 病室の扉を突き抜けて錐揉みしながら床を転げ行く。

 扉をぶち破ってもなお、十メートルはある部屋を一直線に縦断し、壁に当たってようやく黒川の体は停止した。

 誰が見ても大怪我は免れない。いや、そんな運動エネルギーを黒川の体に与えた突きだけで、十分致命傷だった。

 

 深山はそれに飽きたらず、黒川を追って病室へと歩いていく。

 

「クソぅ」

 

 有紗は気合いの言葉を吐く。

 病室の中で暴れたら、生きているか死んでいるかわからない黒川だけでなく、患者たちが巻き込まれる。

 有紗と同じMBAD患者が危険に晒される。それは絶対にさせられない。

 有紗の想いが、ボロボロの体を立ち上がらせる。

 

 もう体は中も外も傷だらけだった。それなのに、まだ立ち上がるなんてどうかしている。

 そう思っても、深山を止めたいんだから仕方がない。

 有紗はもう、深山にも黒川にも、誰も死んで欲しくないのだ。

 

 有紗の体は力無い駆け足で病室に向かう。もう無駄に使う体力はない。

 無理を出来るのはあと数回だけだと、有紗にも分かっていた。

 

「止まれぇ! 深山ぁ!」

 

 叫びながら有紗は跳んでいた。深山の頭上を通り越し、病室の奥に倒れたままの黒川の側に着地する。

 黒川に目をやれば、意識はあるものの既に虫の息だ。治療をしなければ確実に死んでしまうだろう。

 

「深山、アンタどうしてそんな体になったの? そこまでして研究を止めたかったの? アンタ何がしたいの!」

 

 有紗は心の限り、深山に問いかけた。

 あと数歩という所まで深山は迫っていた。

 広くはない病室。左右には子供たちが寝かされたベッドが並ぶ。

 

 有紗は覚悟を決めて深山に向き直った。

 すると、ゆっくりとだが確実に歩みを進めていた深山が立ち止まった。

 

「あ、あぁ」

 

 深山が声にならない音を口にする。

 何か伝えたいことがあるのだろうか。そう思ったとき、深山の両の瞳から涙が零れだしていた。

 

「どうして……泣くの?」

 

 有紗が聞いた。

 

「おま、ぇ……、は……ど、て……ぶ、じな……」

 

 深山の声を真剣に聞き取ろうとした。

 しかし、その意味は有紗には理解出来るものではなかった。

 

 深山が腕を振りかぶる。既に筋肉が切れたはずの手がゆっくりと持ち上がり、そして再び有紗に放たれた。

 見る影もなく遅いパンチに有紗は拍子抜けする。

 

 それを有紗は手のひらで受け止めた。

 

「えっ?」

 

 有紗の体が押し込まれる。遅く力無いはずの深山の拳が重い。異常に重い。

 有紗は力を入れ直してそれに耐えた。

 

「はぁぁぁぁぁ!」

 

 有紗は気合いの声を上げ、押し返す。

 

 深山が逆の手を伸ばしてくるが、有紗は素早くその手首をつかみ取り、力比べの体勢をわざと作り出した。

 その間も深山はずっと涙を流していた。

 

 一歩、有紗が押し込む。深山の足が滑り後退を始める。

 このまま病室の外に押し出す。有紗は力を振り絞って地面を蹴った。

 

 いくら疲労とダメージがあるとはいえ、有紗の馬鹿力は健在だ。

 それに押されたのなら、大型トラックだって動かざるを得ないだろう。

 それなのに、深山は僅か一歩下がっただけだった。

 

 リノチウム張りのタイルが高い音をたたてひび割れる。

 鉄筋コンクリートの地下室が軋みを上げているようだった。

 二人は一体どんな力で押し合っているのだろう。それは当人同士にしかわからないことだった。

 

「こなくそぉぉ」

 

 有紗が更に一歩、前に出る。

 それを切っ掛けに急に深山の力強さが増した。その目には有紗の後ろに横たわる黒川が写る。

 

 深山は今まで殺した人間たちと同じように、黒川も痛めつけ、無惨に殺そうというのだ。

 その心意に有紗は気付き、絶対に道を譲れないと心に決めた。

 

 有紗にこの深山を倒すことは出来ないだろう。

 はっきり言って、もう有紗の足は飛び跳ねることは出来ない。

 出来たとして、そのスピードは今までよりは一段も二段も劣るもの。首を絞めて落とすという方法も潤が試みて失敗している。恐らく有紗の力でも結果は同じだろう。

 もう有紗に出来ることは一つしかなかった。

 

「アンタ! 飯いつ喰ったぁぁ!」

 

 限界まで出す力に、腕も足も全身が痙攣(けいれん)しながら有紗は押し返す。

 有紗の最後の勝算だった。

 有紗たち筋力異常の体は、筋力が出る代わりにエネルギーを消費しやすい体だ。

 出す力が大きければ大きい程身体のエネルギーを消費する。

 これほど馬鹿力を出し続けている深山はとっくにガス欠のはずだ。

 

 こんな正気を失っている状態の深山が、まともに食事をとっているはずがない。

 そして、有紗は潤からもらったチョコレートを先程食べていた。

 

 たったそれだけの差。

 それが今の有紗にある全ての勝算だった。

 作弥も言っていたではないか、エネルギーを使い切るまで暴れさす、と。

 

 有紗はわざと深山と力比べをし、体力勝負に持ち込んだ。

 息をする暇もない。押し続けなければ押し負ける。

 押し負ければ、深山に攻撃する間を与えてしまう。

 もう鋭敏な動きの出来ない有紗はあと一撃食らえば耐える自信が全くない。

 

 これで深山が止まらなければ有紗も殺されるだろう。

 唯一の救いは廊下に潤を残してきたこと。今のうちに郁斗辺りが目を覚ましてくれれば無事逃げられるだろう。

 

「うぅぉおおぉぉ!」

 

 有紗の筋肉が切れ始める。ブチブチと嫌な音が体内から聞こえてくる。

 それは一生トラウマになりそうな最悪の感触。

 しかし筋肉が耐えきれずに切れ始めているのは深山も同じだった。

 

 それはいきなりだった。

 突然左側が真っ黒になった。電気が消えた? いや、右側は明るいままだった。

 

 間近で見た深山ならわかっただろう。有紗の左目の眼球が真っ赤に染まるのを。

 全身全霊で力を出し切る有紗の血流は限界に達し、弱い毛細血管まで切れ始めたのだ。

 そしてそれは眼球も例外ではなかった。

 

 しかし、有紗はそれで怯みはしなかった。それが失明する可能性のある危険な状態であるとわかっていても、有紗は一歩も退かず深山を押さえ込んでいた。

 

「な、ぜ……?」

 

 深山が問う声が聞こえてくる。

 その声が本当に深山の口から発せられたのか有紗にはわからない。

 深山の力は全く弱まっていなかった。

 

 なぜ? どうして?

 そんなこと有紗が聞きたいことだ。

 いくらでも問いたいことはある。

 十年前のこと、今のこと。

 何を思ったのか?

 どうしてこうなったのか?

 それでも有紗は今問いたいとは思わなかった。

 今したいことはたった一つだけ。

 なぜと問われれば答えは一つしかなかった。

 

「アンタもぉぉ! 助けたいからでしょぉぉお!」

 

 クラザ徴候が出ているという深山。黒川はこのままでは深山も死ぬと言った。

 逆に言えば、今すぐ安静にして治療すれば、深山だって助かる可能性がある。

 

 だから、有紗は深山も助けたい。

 深山に止まって欲しい。

 誰かが死ぬなんて見たくない。

 

 乾いた衝撃音が有紗に響いた。

 遂に脳の血管まで切れた、そう思った。

 しかし、その音が鳴って深山の体が不思議と軽くなった。

 続けてもう三発、音が鳴る。その音の正体に気付いて、有紗は声を上げた。

 

「黒川! アンタ!」

 

 振り向けば黒川が床に倒れたまま拳銃を握っていた。

 更にもう一発、黒川が発射するのが見えた。

 

 有紗に血の雨が降り注ぐ。銃弾は全て有紗の頭上にあった深山の顔に当たっていた。

 

 有紗には崩れる深山の体がスローモーションの様に見えた。

 あれだけ力強さを誇っていた深山が玩具のように崩れ去る。

 

 どんなに馬鹿力を誇っても体の強度は並の人間しかない。

 打撃に対して筋力を使って防御出来ても、銃を何発も顔に打たれて耐えれるはずがなかった。

 反応速度をもって避けることが出来なかった力比べという現状が、深山を撃つ隙となったのだ。

 

 放たれた銃弾は頭蓋骨を貫通していた。

 有紗が崩れゆく深山の体を支えたときには、彼はもう死んでいた。

 筋肉の痙攣だけが深山の体を動かしていた。

 

 余りにも簡単な死。

 助けたいと願ったのに、そんなことも叶わないなんて……。

 

「どうして殺した!」

 

 有紗は深山の体を床に寝かせると、黒川を問いつめに駆け寄った。

 

「答えなさい、黒川! どうして殺したの!

 私が! ……黒川? 嘘でしょ?」

 

 黒川の顔に生気はなかった。まだ銃を握っているがその手は力無く垂れていた。

 

「アンタまで死ぬの! ちょっと! MBADを根絶するんじゃないの! アンタ!」

 

 黒川は有紗の声に、口元を緩めて笑った。

 

「……い、きろ」

 

 それが黒川を継いだという、黒川ではない男の最期の言葉だった。

 

「何よそれ……。なんでアンタたち、みんなそんな……」

 

 有紗は泣いた。人目を憚(はばか)らず号泣した。

 実験病棟で涙は枯れたとか、そんなのは大嘘だった。

 人間は悲しければいつだって泣けるのだ。

 有紗はもう我慢しなかった。

 大粒の涙が彼らの手向(たむ)けになるのなら、有紗はいつまでだって泣いただろう。

 

「有紗君……」

 

 潤が有紗の肩に手をかけた。その人格は藤堂作弥だった。

 

「彼は深山を楽に死なせてやったんですよ。

 銃で頭を撃つのが深山にとって一番楽でしたでしょう」

 

 作弥の声は優しかった。今有紗の目の前で屍となった男を誉めてやったのだろう。

 

「クラザ徴候が出ては助かりませんから」

 

「……助からない?」

 

「私の知る限り、クラザ徴候から脱した症例はありません。徴候とは死への徴候です。

 彼は最後の力を振り絞って、自らを殺した相手を安楽死させてやったのです。

 クラザ徴候からの脳死はいつまで経っても死にきれない、つらくて酷い死に方ですからね……」

 

「そんなの、あんまりよ……」

 

 作弥は握ったままになっていた黒川の手から銃をはずし、胸の前に添えてやった。

 そして黒川と名乗った男にそっと語りかけた。

 

「君は私を天才と呼んだね。

 十年前、私は天才だからMBADの研究のアシストを出来たわけではありません。

 だってそうでしょう? 十年前私はまだ十に満たない子供だったんですよ。

 いくら記憶力がよく、頭の回転が速く、発想が斬新だからといって、私には全く知識も経験もありませんでした。

 私が有していた知識は黒川や深山、実験病棟の職員が口にしたものが全てだったのです。

 私はあの場にあった情報しかもってなかったのです。

 ですから、いつかは彼らが成果を上げていたのでしょう、私がいなくても……。

 私は自分が天才でなかったことを知っていた。

 私は単に背伸びした子供だったのです。

 私は君たちに天才と呼ばれる資格がありません。

 本当の天才は私に有益な情報を与えた黒川将人たちだったのです」

 

 有紗は名残惜しそうに言葉を紡ぐ作弥を、だたずっと見つめていた。

 

「作弥、この人のこと知っているの?」

 

「顔は覚えていません。ただ、該当する人物を一人知っているだけです」

 

「誰なの?」

 

「……不確定なことを言いたくありません」

 

「アンタ、嫌みな上にケチなのね。

 ……どうして深山はああなったのかしら?」

 

「恐らく、投与したんでしょうね」

 

「何を?」

 

「さぁ、少なくとも私は知らないモノですよ。私は本当にこの十年間ほとんど寝ていたのだから」

 

「たまには出てきてるんでしょ?」

 

「ええ、潤の調子のいいときはね」

 

「どういうこと?」

 

「私は脳の使い方が他とは少し違うので、疲れるんです。

 私は他の人格の記憶も共有しますので解離障壁が揺らいでしまうのです。

 それはとても脳に負担がかかる。

 というわけで後は頼みますよ、有紗君」

 

「頼むって何がよ?」

 

 そっと潤が有紗に寄りかかる。

 潤の頬が有紗の肩に当たり、そのまま体重を預けてきた。

 

「ちょっ、何、何よ! いきなりやめ……」

 

 慌てた有紗は右往左往するが、動かなくなった潤の寝息に気付いた。

 

「何それ……、疲れたから寝るって? 後よろしくって?

 まったく何考えのよ!」

 

 悪態を吐く有紗。文句は言っても言い切れない程あった。

 しかし、回りをみれば二人の遺体。それも他殺体が二つだ。

 それに廊下には大垣も死んでいる。

 そして、これだけの騒ぎがあったのに全く目覚めることのないMBAD患者たち。

 

 静かだ。相変わらず鳴り続ける人工呼吸器以外に誰も動くものがなかった。

 

「とりあえず、ここから離れた方がいいわね。後で警察、呼ばなくちゃ」

 

 気分が重い。体も重い。

 大変な事件に首を突っ込んでしまった反省の念が有紗を鬱な気分へと誘っていく。

 有紗は誰も救えなかった。しかし、潤が生き残った。それだけで嬉しかった。

 

 有紗は潤の体を背に乗せて立ち上がった。全身のダメージが有紗の足をふらつかせる。

 

「あ~も~。体中痛いわねぇ。どうして私がこんな目にあわないといけないのよ」

 

 有紗の弱音が廃病院に響いている。

 その声も足音も徐々に聞こえなくなり、血に塗られた廃病院に本当の静寂が戻ってくる。

 

 そこは十年前に放棄された廃墟。本来なら誰も立ち入ることのない、忘れ去られた研究者たちの夢の跡。

 有紗たちが去れば、幽玄の眠りを続けるMBAD患者しかいないはずだった。

 しかし、その地下施設に生気ある人間二人が、いつの間にか現れていた。

 

「まったく派手にやってくれたな」

 

 忌々しそうな声を上げるのは有紗の兄、正菱知也だった。

 まったく似合っていないサングラスがずれては直し、ずれては直し、一人で苛立ちを深めていた。

 

「遺体、並びに患者の搬送を手配します」

 

 知也に付き従っていたのはやはり惣我景子だった。

 彼女は携帯電話を取り出して指示を出していた。

 廃墟の地下なのに電波が届くのか心配する人間はここにはいない。

 

「ああ、急いでくれ。ここは完全撤収だ。警察に情報を与えてやる必要はない」

 

 病室の中央で脳髄を垂れ流して死んでいる深山を見つけると、知也は足先で揺り動かした。

 もちろん遺体となった深山がそれに反応するはずがない。その肉体は、まだ僅かに痙攣を残していた。

 

「深山に与えた薬品は?」

 

「Iライン系受容抑制のバージョン4Eです」

 

 景子はそう答えつつも、念のため手元の資料をめくり確認を取っていた。

 

「これで成功なのか? どうも使えるようには見えないが」

 

「仕様は満たしています」

 

「バカヤロウ。仕様は満たすものじゃない。超えるものだ。何度言ったらわかる」

 

「申し訳ありません、以後気をつけます」

 

「深山の死体、丁重に扱え。大事なサンプルだ」

 

「はい、開発部に回します」

 

 今の会話を有紗が聞けば、その場で怒りのあまり、知也に襲いかかっていただろう。

 それは知也たちも理解していた。だからこそ、有紗には必要以上の情報を与えていなかった。

 

 妹の気持ちを鑑みるなど知也の思考にはありはしない。

 金になるかならないか。ビジネスにならない矜持など正菱知也は持ち合わせていない。

 その足が今度は黒川と名乗った男に向いた。

 

「本当に犬死にだな」

 

 知也は黒川の前で膝を付き、その顔を正面に向けた。

 すでに心臓は動きを止めて、完全な死体となっていた。

 深山に殴られた腹は内臓が破裂して、腹内で大量の出血をしたのだろう、全く血の気がない死に顔だった。

 

「そんなに妾(めかけ)の娘が可愛いか?

 黒川が深山に殺されたときに諦めればよかったものを。

 黒川に成り代わり研究を続けようとしたのは、有紗の為だろう?

 アイツも今は安定してるが、いつ死んでもおかしくないMBAD末期だ。

 有紗の為にMBADの治療法が欲しかったのだろ? まったく馬鹿なオヤジだ……」

 

 知也は踵(きびす)を返し、それきり見向きもしなかった。

 景子と共に病室を出る知也は、思い出した様に呟いた。

 

「しかし、いいタイミングで死んでくれた。今回の件で正菱を完全に治めることが出来そうだ。

 礼を言うよ、私の可愛い妹」

 

 知也の口元は卑猥に笑っていた。

 

 

 

 

 

   *

 

 肌寒い冷気が街全体を満たしていた。

 

 天は黒い水を限りなく薄めるように徐々に白上がり、暁のグラデーションが東の空に輝き始めている。

 吹き荒れていた木枯らしは凪のように一時の静けさ見せていた。

 

 真冬の夜明け一歩前。

 気温が最も下がる優しくない時間帯に街を行くのは、たった一つの人影だった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 一定のリズムで有紗が白い息を吐く。

 宙に広がる息は、下っている坂道を遡るように流され、背負っている潤の顔を掠めて煙(けむ)になっていく。

 

「なんで女の私が、男の潤を背負って帰らないといけないのよ、もう。

 肩も痛いし、足も笑うし、肋骨も響くし。どうして私がこんな目にあわないといけないのよ」

 

「大丈夫?」

 

 頭の真後ろから声が聞こえた。

 

「…………。柚山潤」

 

「はい?」

 

「うが~」

 

 有紗は急に伸び上がっる。潤は有紗の背から滑り落ちて、背中から放り出された。

 見事にひっくり返った潤は、無様な声をあげて尻餅をつく。

 

「アンタねぇ。起きてるならいつまで負ぶさってるのよ!」

 

「気がついたら背負われたんだよ。……まぁ、楽だったし」

 

「女に背負われて楽ですって! そんなのダメ人間よ! アンタそれでも男なの?」

 

「男とか女とかどうでもいいだろ。

 よくわかんないけど、僕を背負うのが嫌なら放っておいたらいいじゃないか」

 

「誰が嫌って言ったの……」

 

「へ?」

 

「何でもないわよ。さぁ、帰るわよ」

 

 有紗はかがみ込んで潤に手を差し出した。

 有紗の左目が赤く濁っていた。よくみれば顔も手も、すり傷や打撲の後がそこかしこにある。

 

「目、どうしたんだよ。それ?」

 

「え? えぇ、ちょっとやっちゃった」

 

 明らかに有紗の左目は見えておらず、有紗は右目を正面にするように潤と顔を見合わせた。

 体中に傷があるのに潤が起きているとわかった途端に泣き言一つ言わない有紗が痛々しかった。

 

「またどうせ、無茶したんだろ? どうして僕にそんなに構うんだよ」

 

 潤にはその無茶が潤の為に行われたんだと、なんとなくわかっていた。

 

「どうしてって?」

 

 問われた有紗は手を差し出したまま、潤からそっと視線を外す。

 

「……約束したでしょ。一緒に帰るって」

 

 そっとかき上げた有紗の金髪が朝日を浴びてキラキラと輝いてみせる。

 

 いつ見ても有紗は綺麗だ。

 傷だらけになっても、目が血で濁っても、その美しさはかわらない。

 いつもは小憎たらしいのに、頬を赤らめている有紗は何だか愛おしく思えた。

 

 なんだ。有紗ってこんなにも可愛いかったんだ。

 柚山潤は、彼女にそっと微笑んで見せた。

 

 

      了

 


 
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