二『medication』
「歌の練習をする約束をしてたのよ!」
三人が帰ってきて、ベルダンディの様子を知った妹のスクルドは発狂せんばかりだった。誰にいうでなく詰問の絶叫をする。
布団に横にさせられたベルダンディは、眠ったまま起きてきそうにはなかった。ただ、それが永遠に起きてこないのではないかという漠然とした懸念が三人を襲う。疲れての睡眠であると明かであれば心配はしない。明日の朝には目覚めてくれるだろうとも思える。が、月に幽閉されるほどの男に何かを仕掛けられたのではないかという疑念があれば、気が気ではない。
「あの男、何なんだ。ウルドとベルダンディの記憶に齟齬がある?」
ベルダンディの布団の脇に座っていた螢一が、桶に水を酌んできたウルドに改めて質問した。
「この娘の記憶は、上からの指示で私が消した。いい思い出しか残ってないよ」
「なんだ?」
「先刻も言ったけど、昔、セレスティンは大罪を犯した。ベルダンディは、はからずもそれに巻き込まれて精神崩壊をおこす手前までいったんだ。純粋すぎるからね」
「恩師を止めることができなかったって悔いるのはベルダンディらしいけど」
螢一は、嘆息した。
「そんなことはどうでもいいのよ。お姉さまはずっとこのままなの」
スクルドの産まれる以前のことであるから、彼女にも何がなんだか解らなかった。しかし、今はそんなことはどうだっていい。いや、犯罪者のことなど永遠にどうでもよかった。大好きな姉がこのまま目覚めないのであれば、そのことのほうがずっと重要な問題だ。
「そうね。やってみる。背中を上にして」
彼女たちを人間の医術で診察、ましてや治療などということはできない。神族には神族のやりようがあるのだ。ウルドは、その薬の調合にたけている面もある為に、どうにかできるかも知れないという思いもあった。
螢一が布団の上のベルダンディをうつぶせにすると、ウルドはその背中に掌をあてがった。
それから、ゆっくりと掌を持ち上げてゆくとそれに引き出されるように“ホーリーベル”が姿を現した。神族の体調を確認するのには、その天使を看るのが手っ取り早いのだ。
が、
「何よ……これ……」
スクルドは、もう悲鳴もあげられなかった。自分が失神してしまうのではないかと思うのをこらえるのに必死だった。
ホーリーベルは、いつもの姿ではなかった。
翼は四枚になり、火傷のように肌はただれ、表情は苦痛に歪んでいる。あの美しい歌を紡ぎ出す天使とはとても思えなかった。
ホーリーベルに触れようと、螢一は固唾をのみつつ手を伸ばした。
「バカ」
そうウルドが制するが、すでに遅い。螢一の指先がその頬に触れた瞬間、ホーリーベルは火花を飛び散らせ、磁石のように螢一を弾き飛ばした。障子を突き破って、庭に放り出されてしまう。ケガがなかったのが幸いである。
ホーリーベルは次の一瞬、はじかれるようにでベルダンディの中に篭った。
ウルドは、すでに手遅れだったことを知って愕然とした。こんな状態になってしまっては、天上界に帰ってでしか治しようはないということである。何よりも、どういう事になったのか把握ができていないことに隔靴掻痒の感を抱いた。
*
モルガンはまたイヤな夢を見た。
おぞましい過去のことである。
彼女には、深く愛した男性がいた。
寝ても覚めても彼のことしか考えられず、この心地よい苦痛に胸を焦がしていた。彼女が総ての行動に二の足を踏んだのは、彼が同じアヴァロン族でなかったことである。両親も反対していた。しかし、その激情をついには押さえられずに彼女は行動に移してしまう。
相手の気持ちを確かめることになんの障害もなかった。彼はモルガンの掌を優しく握りしめてくれた。
むしろ障害はお互いの両親であり、二人は駆け落ち同然で結ばれてしまう。
そこからは夢のような生活だった。
永遠の幸せを享受できていた。
そして、
“裁きの門”が二人の前に現れたのである。
その足下に立つと、上は雲の彼方にかすんでしまう、巨大で白い石の門。
異世界同士、異種族同士の存在が結ばれようとする時、それを審判する門。
互いに偽らざる気持ちで疑念を抱いていなければ、無事にくぐれ、それを片鱗でも抱いていれば二人を永遠に分かつ門。
彼は、二人でくぐることに躊躇はないと言ってくれた。
二人は手に手を取ってその門をくぐる。
くぐりきった時、彼女の横に彼はいなかった。
「イヤな夢だ」
悪夢に起こされ、モルガンは吐き捨てるような舌打ちをした。
“私も同じだ。モルガン”
「覗いていたの?」
セレスティンの思念派が届いて、モルガンは嫌悪した。夢を覗かれて気分がいいわけがない。とはいえ、今の状況からいけばそれも仕方ないと思った。悲願を達成するまでのわずかのあいだは我慢すべきだ。セレスティンにも悪気はあるまい。
“すまない。私も君と同じに……”
そして、セレスティンにも同じ過去があった。
セレスティンは、“裁きの門”というシステムに疑問を抱くようになり、そして弟子のベルダンディを巻き込んでその破壊に乗り出した。
破壊には成功するも、セレスティンは捕らえられ永久に月に幽閉されることになる。
共犯者ともなるベルダンディは、しかし、セレスティンを止めようとした証拠もあり、また、一級神の審査に通ったばかりという情状酌量もあって裁かれることはなかった。ただ、その記憶を封印することだけが条件となる。
ベルダンディは、
恩師を止められなかった罪に苦しみ、
その恩師を捕らえる為に動きだした警察組織を傷つけた罪に苦しみ、
未だに自分の中にくすぶるユグドラシルへの叛意に苦しんだ。
その為に半ば廃人のようになってしまった彼女には、記憶の封印というのはむしろ救いだっただろう。
ベルダンディの中で、恩師セレスティンは突然の旅に出たことになった。
“しかし、裁きの門は改変もなく甦った。私の主張など、神には歯牙にもかけるほどのものではなかったわけだ”
「あらゆる世界を管理するユグドラシルシステムそのものを根本から変革し、裁きの門を形骸化する」
セレスティンとモルガンの意見は総てにおいて一致していた。
そしてその作戦は、動き始めていた。
*
ウルドは、ベルダンディを天上界に戻して治療することを申請したが、それは受理されなかった。
ベルダンディには、ユグドラシルシステムを破壊するウィルスが植え付けられていた。彼女とユグドラシルは繋がっている。ベルダンディは、即座に切り離されたが、すでに遅く、管理当局がパニック状態になってしまっているというのである。
このうえ、感染者を、天上界にいれることなどできるはずがない。
ベルダンディ、ウルド、スクルドはいわばユグドラシルの端末である。ベルダンディがウィルスに感染し、それがクラウドサーバーとも言えるユグドラシルにまで及んだということは、ほおっておけばいずれ他の者にも悪影響を及ぼすことは間違いがない。また、近くにいたウルドとスクルドも感染の可能性があるとみなされ、二人も切り離されることとなる。無期限で天上界への帰還を禁止されることとなった。
「天上界の方はシステムアドミニストレータに任せるにしても、こちらはこちらでできることをやれればいいんだけど」
とは言っても何ができるというものでもないのだ。ウルドは地団駄を踏んだ。
その時、ベルダンディの身体が光った。
衣服がいちど原始レベルにまで分解され、見るみる空色のローブへと変わっていく。
そして、ゆっくりと起きあがると横になっていた布団の上に座り、ゆっくりと目を開けた。
「お姉さま、治ったの?」
「まさかね」
スクルドの歓喜の声に、ウルドはのんきだとばかりに冷めた返事をした。彼女たちにだって自己治癒力はあるが、セレスティンがそんなヤワなウィルスを注入するとは考えられなかった。
ベルダンディは、頭の中の霧をはらすようにいちど頭を降ると、正面の螢一を、そのスミレ色の瞳でじっと凝視した。
「私、お助け女神事務所のベルダンディともうします。あなたのようにお困りの方を救済するのがつとめです。どうぞ、ひとつだけですが願い事を叶えさせてください」
「?」
螢一は、以前おなじ台詞を彼女から聞かされている。そのシーンの全く焼き直しと言っていい状況に呆然とした。
「あの、森里さん。質問があるのですが、なぜここにウルドとスクルドがいるのですか」
ベルダンディは首を傾げ、螢一の顔を覗き込むようにした。
「ああ」
納得したように掌を打つウルドに、皆の視線が集まる。
螢一が最初に口を開いた。
「どういうんだ?」
「なによ」
「なんです?」
そして、立て続けにスクルドとベルダンディが語尾を上げた。
「記憶が、螢一のところにくる前に戻ってるわ」
螢一とスクルドは、驚嘆の叫び声をあげた。
*
翌日、
ベルダンディが記憶喪失になったことは猫実工大じゅうに瞬く間に広がった。男子学生のとうの昔に消えていたはずのつまらない野心を芽生えさせるには充分だったが、とはいえ、螢一や自動車部のガードは堅く、けっきょく近づくことすらもままならないということになった。
自動車部を困惑させたのは二週間先のレーシングニーラーの大会のことである。螢一のパッセンジャーは言うまでもなくベルダンディであり、このままの出場が可能なのかどうか危ぶまれたのだ。
体が覚えているというのはないだろうかという意見も聞かれ、いちどテスト走行するということになった。
しかし、そこでモルガン・ミスズ・豪和が掌を挙げた。
「私がやってみたいんですけど」
自動車部総勢の視線がモルガンに集中する。
「豪和さん、やったことあるんだ?」
「ないわ。でも、条件は一緒なんじゃないんです?」
モルガンは、顎でベルダンディをさした。
モルガンとベルダンディの体格はほぼ同じだ。マシンにかかる負荷はほぼ同じとみていいだろう。記憶を失ったベルダンディがどこまでやれるのか、未経験者のモルガンがどこまでやれるのかという意味では彼女の言うとおりだとも考えられた。
テストマシン込みで二台のマシンがあるから、レースをして確かめればいいということになった。
「で、なんで喚びだされるわけ? 私、部員じゃないんですけど」
「昨日、その部員でもないのにビール飲んでたじゃないか。つきあえよ。部でニーラーを使ったことあんの、俺しかいないんだからさ」
ニーラーのライダーとして急遽喚びだされた妹の恵は、後で何かをおごれと不満をならした。恵だってニーラーを使ったことはないわけだが、自動車部は部員の大半がメカニック志望者なのだからそんなものなのかも知れない。
自動車部の敷地ではないが、陸上部のグラウンドの一部を借りて、簡易的にコースが造られていた。
ツナギを着たベルダンディとモルガンが現れる。
「この二周の勝負で勝ったパッセンジャーが本番に参加っていうことでいいのね」
モルガンは挑発的だが、ベルダンディは萎縮しきっていた。
コンビは、恵とモルガン、螢一とベルダンディとなる。
レースは一進一退だった。
コンマ三秒の差で螢一とベルダンディのコンビが勝利した。
躬らの最速ラップとタイである。
とはいえ、恵とモルガンは健闘したのだ。
二人ともレーシングニーラーというマシンに触れるのは初めてなのだ。モルガンの方にいたっては、レースすらまともに観たことはないのだという。自動車部の新人勧誘イベントで、螢一とベルダンディが扱っているのを見たのがほとんど初めてだというのだ。
「でも勝負は勝負だからね。やっぱ、あの二人が組むとかなわないよ」
恵は、嘆息するというよりもむしろ感激していた。
愛の力なんていうのをドラマで目にするが、それをフィクションではなく目前に見ることができているのだ。感動しないはずがない。無論、誰が見ても解るというものではない。所詮コンマ三秒と言えば所詮コンマ三秒でしかない。しかし、以前から、こういったレース以外での兄とベルダンディを見ていればそれもわかるのである。以前、離れてしまったらどんな恋人だっておしまいだと兄に忠告したことがあるが、少なくともあの二人だけはそれに該当しないのだと思えた。
「記憶がなくなっているのよ。信じ合える力でマシンをうまく制御できるって、そんなことあり得ないわ」
モルガンは、手を取り合っている螢一とベルダンディを見ながら吐き捨てた。
「豪和さん、それは違うわ。愛し合っているから信じ合えるってことだし、愛って記憶だけのものじゃないってことでしょう」
恵は、モルガンからヘルメットを引き取りながらそう言った。そして、お互いにもそんな相手が早く見つかればいいねとも言った。
二人の絆が強いことは解っている。神の結界をも容易に無効化する自分の力を持ってしても二人を完全に分かつことができないのであれば、確かに二人にはそんな力があるのだろう。
「じゃあ、なんでそんなものがあるの!」
自分は、かつて裁きの門で恋人と引き裂かれた。神の作りだしたシステムの前に容易に屈服したのだ。
「あれ、豪和さん知らないんだ。自分や他人を好きになるから、愛があるんだよ」
「好きになる?」
恵の至極簡単な言葉に、モルガンは柳眉をひそめた。
「ね、ケイちゃん」
恵はそういって振り返り、螢一のところに向かって走った。
ゴールラインを超えた時、マシンから降りるさいに螢一が手を握りしめてくれた時、ベルダンディは脳裏に何かがきらめいてめまいがしそうだった。
記憶はない。
それでも、周りのみんなが言ってくれたように自分は確かにこのマシンを操ったことがあると漠然と解った。みんなが微笑みかけてくれて、励ましてくれて、そして森里さんがいてくれて。
「ベルダンディ?」
ヘルメットをはずした時、思考が交錯していて焦点の定まっていなかったベルダンディの肩に螢一が掌を置いた。
「ごめんなさい。私、何も思い出せないで」
ベルダンディは泣きたくなった。そして、こんな時でもこの人の胸で泣いていいのかどうかすら解らないのだ。何とも自分が情けなくなってしまった。
「忘れてしまったら、思い出せばいいんだよ。思い出せなかったら、新しく思い出を作っていけばいい。君がそれでいいのなら。それに、俺はずっと待ってるんだから」
「森里さん」
ベルダンディはついに声を上げて泣いてしまった。螢一の胸の中で泣きたいと思ったからそうしていた。
あたりから歓声が上がった。
*
午後の講義中、モルガンは螢一の机をバンと叩いた。
それから、抗議なんかよりももっと重要なことがあると言って、廊下に引き出していた。
はずせる抗議だということで、ベルダンディがいちど家に帰っているタイミングだった。
逆に螢一はこの抗議は落としたくないのだが、そんな言葉など聞いてくれてはいなかった。
螢一は、壁に押しつけられた。
「午前中よ。なんで、あなた達が勝てたの」
モルガンは感情的になって、あまりに抽象的に問いただしていた。
「状況ってものがあるよ。次にやったら、どうなるかなんて」
そんなに負けたことが悔しかったのかと思いながら、彼女のあまりもの迫力に螢一は半ば縮み上がっていた。
「とぼけないで。彼女の記憶がなくなって、もう以前のままじゃなくなっているのに、なんであんなことが言えるのかって訊いてるのよ」
「ベルダンディはベルダンディだよ。何も変わらない。積み上げてきたものは記憶じゃなくたって残るんだ。それじゃダメなのか」
螢一のものの言い様は、いちいちモルガンの神経を逆撫でた。自分の恋愛を否定されているようにしか受け取ることができなかった。
裁きの門と同じように。
「だったら、以前のようにベルダンディは貴方を信頼していて、私がこうしたら貴方の信頼が崩れるのかしら」
モルガンは、いきなり唇と螢一の唇に接吻をした。
「豪和さん!」
螢一は、モルガンを突き飛ばすように引き離した。彼女の矢庭の行動に、真意を測りかねて狼狽する。
「私は、誰も悲しまない世界を作りたいの。種族が違うっていうだけで、なんで引き裂かれなくちゃいけないの。そんな時に貴方達みたいなの見ちゃったら!」
モルガンの姿が光に包まれ徐々に変化しはじめていた。
背中から蝶のような羽が生え、人間の姿から妖精に変わってゆく。
その胸元には、白く輝くセレスティンの小石はなくなっていた。
「モルガン・ミスズ・豪和?」
呆然とする螢一。彼も生活環境のおかげで人間以外の種族は見慣れていたが、彼女のタイプは初めてだった。まして、人間の姿を借りている者など初めてだ。
「もうすぐ、新しい世界が訪れるわ。ベルダンディはその扉を開くカギになる。……もっとも、貴方達にはまるで関係のないことかも知れないけど」
モルガンは窓ガラスをすり抜けて天空に舞い上がっていった。
「ベルダンディ。カギがなんだって。教えてくれ!」
螢一は、言いしれぬ危機を感じ、窓ガラスを開けて叫んだ。モルガンを追いかけて詰問することができないことを呪う。
昨日のセレスティンという男といい、ベルダンディに執着するのであれば、二人にはどこかでつながりがあるのではないかという想像はついた。とはいえ、今の自分に何ができるというものでもない。
螢一は、奥歯をかみしめた。
その一部始終を廊下の角からベルダンディが見ていた。
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2000年に(もうそんなになるのか〜)劇場公開された劇場版『ああっ女神さまっ』を文章化したものです。
ムービングを文章化、文章の利点を生かして表現するとどうなるのか、という練習です。
ですから真新しいことはありません。
ただ、螢一はまだしもベルダンディにリアリティがないのでちょっと苦戦しました。
全三回の二回目です。