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「あなたとわたしは彼女と僕の」第7章

 悠木有紗にとって僕がどういう存在なのか、気にならないと言えば嘘になる。
 でも、僕が彼女にとって特別な存在だなんて妄想は、僕の頭の中にしまっておく。

 ただ一つ、ただ一つ言えることは、僕には彼女が必要だったって事だ。

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2010-11-24 00:22:40 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:294   閲覧ユーザー数:288

  第六.五章「夢にまでみた約束」

 

 

 わたしは逃げていた。

 

 何から逃げていたのか、よく覚えていない。

 アイツらからか、自分の境遇か。

 とにかく、わたしは逃げたかった。

 

 わたしを追ってくる人たちは、本気でわたしを捕らえようとはしていなかった。

 またか。そんな諦めと、役目としてわたしを捕らえるという業務を行うだけ。

 

 どんなに逃げても、わたしは逃れられない。

 そんな事実を抱えながら、わたしは逃げていた。

 

 素足で走った足が痛い。

 無理に走った体が重い。

 それでも私は止まりたいなんて思わなかった。

 

「パパ、ママ、助けて……」

 

 思わず、わたしはそんな言葉を吐いていた。

 もう死んでしまったママが、こんな所に来てしまったわたしを助けられるはずがないし、パパはわたしをここにつれてきた張本人だった。

 

 結局どんなに逃げても、わたしはココから逃げられない。

 そうわかっているのに、じっと耐えるなんてできなかった。

 

 どれだけ走っただろう。わたしはある部屋に逃げ込んでいた。

 ほとんどの部屋に鍵がかかってあるのに、その部屋には鍵がかかっていなかった。

 それだけ人の出入りがあるのだろうから、この部屋にいてもそのうちに見つかってしまう。

 そうわかってはいても、わたしはどこかに逃げ込まずにはいられなかった。

 

 その部屋は暗くて静かで、不思議と落ち着いた。

 まるでプールの底に沈んだ時みたいに、静かで時が止まったような気分になれた。

 

 ゆっくりとしたリズムを保って、空気が流れる音が鳴るだけの静かな部屋。

 わたしはその部屋で泣いていた。ボサボサに乱れた黒髪の頭を抱え、うずくまって泣いていた。

 

 見つかるだろうなんて恐怖はなかった。

 どうせいつかは見つかってしまうんだ。見つかって連れ戻されて、またアノ部屋に閉じ込められる。

 それは当然のことだった。わたしにそれ以外の未来はどこにもなかった。

 

 泣き疲れて顔を上げたわたしの目に、暗闇に灯る光が映る。

 機器の放つ作り物の光。そんなの珍しくもない。ココにはそこかしこにある器具だった。

 わたしの目を引いたのは、その器具につながれた男の子だった。

 

 わたしと同じぐらいの男の子。

 口から鼻から、頭中から管やコードに繋がれて死んだ目をしている男の子がベッドに寝かされていた。

 

 死んだ目……。

 そう、死ぬんだ。この子、死ぬんだ。

 

 こうして死んでいった子をわたしは何人も見ていた。

 そしてわたしも、そう遠くない未来に……。

 

 わたしの瞳からまた涙が流れ出してきた。

 男の子が寝かされたベッドに顔を埋めて、必死に涙を堪えようとした。

 でもダメだった。

 

 嫌だ、死にたくない。

 死にたくないよ。

 帰りたいよ。家に帰りたいよ。

 誰でもいい、私を助けて!

 

「帰りたいよ……」

 

 わたしは泣きながらそう呟いていた。

 

「かえ、り……たい……の……」

 

 わたしはその声に顔を上げた。

 ベッドに横たわった男の子の口が、小刻みに震えながらゆっくりと動いていた。

 

「か……えりた、い……の?」

 

 男の子がもう一度、わたしに問いかける。

 かすれた声。相変わらず男の子の目に力はない。

 どこを見ているのかさえもわからない。たぶん目が見えていないと思う。

 この部屋が薄暗いことすら気付いてないのかもしれない。

 

「うん。君も帰りたいでしょ?」

 

 わたしもこの男の子も同じだ。

 ここに連れてこられて死ぬのを待っているだけ。

 家にはもう一生帰れない。

 わたし知ってる。ここがどんな場所なのか……。

 

「ぼく……ジュン」

 

「ジュン? 君の名前?」

 

 男の子はゆっくりと首を縦に振った。

 それに引っ張られて頭に繋がれたコードが仰々しい音を立てていた。

 

「き、みは……」

 

「わたし、まさびしありさ」

 

「……あ、り……さ」

 

「うん」

 

「……かえ、れ……る、よ」

 

「えっ?」

 

 この子は何を言ってるのだろう?

 どんなに逃げたってここからは出られない。わたしたちにそんな未来があるはずがない。

 

「や……く、そく」

 

「約束?」

 

「ここ、か……ら……だして、あ、げ……る」

 

 男の子の虚ろな目が宙を漂った。

 やっぱり、この子はもう駄目だ。ここがどんな場所なのか、自分がどんな状態なのかもわからなくなっている。

 

 死が直ぐそこまで迫っているわたしと同じ運命を持った男の子。

 そんな子が、泣きじゃくるわたしを励まそうとしているのだ。

 この子にわたしがしてあげられることは一つしかなかった。

 

「一緒に、一緒に出よ。君もここから出て帰ろ」

 

「いっ……し、ょ?」

 

「うん、わたしと一緒に」

 

 男の子のもう表情を作ることのできないはずの顔が笑った気がした。

 

「もう……すぐ、だ……から」

 

「何?」

 

「も……う、すぐ……カレ……が、……から……」

 

 そう弱々しく言うと、男の子は死んだように動かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

  第七章「悠木有紗の場合」

 

 

 白い息が風に流されていく。

 二月の冬空は深々と凍えた空気をたたえ、この空虚な街を包んでいる。

 

 小高い丘を中心に放射状に並木道が広がる静閑な街。

 特に産業が栄えるわけでもなく、商業地区も程遠い。

 住宅地か再開発の為に買収された空き地しかないこの街を見る度に、私は虫酸が走る思いだった。

 

 その感情はこの街自体に原因があるわけではない。

 それは私、悠木有紗の単なる逆恨みだった。

 

 この街は私から色んなものを奪い去った。

 昔を思い出すだけで自然と歯噛みが漏れる。

 それが私とこの街の関係を如実に物語っていた。

 

「何年ぶりかしら……。最後に来たのは日本に帰って来た直後だったわね」

 

 そう呟いた私はウェールズから日本に帰国して以来あった事を走馬燈のように思い出した。

 そんなセンチな自分に苦笑が漏れる。

 

 日本への帰国は私の人生の大きな転機。

 ここ数年の日本での生活は、幸福な人生なんて口が裂けても言えない私にささやかな幸福を与えてくれた。

 今、私がこの凄惨な記憶しかない街に来たのはその幸せを守る為である。

 

 裸の幹をさらけ出した並木道の坂を、私はゆっくりと上っていく。

 木枯らしの笛音が道行くエンジン音と奇妙なハーモニーを奏でていた。

 そういう哀愁ある雰囲気は嫌いではない。あの事件さえなかったのなら、住むのも悪くない。

 そんな気さえ起こさせる静かな街。

 そう、私を未だに苦しめるあの事件さえなければ……。

 

 いや、もうアレから一昔という時間が流れ、冷静に思い返してみればアレを事件と言い切るのは私の悪感情のもたらす偏見でしかないのかもしれない。

 

 アレは誰にも止められなかった。むしろアレは時代の必然だったのかもしれない。

 だからといって、私はアノ事件に関わった全ての人間を許す気は毛頭なかった。

 

 私としたことが、少し昔のことを考え過ぎた。

 もう過去のことなのに、ぐだぐだと囚われている自分自身に嫌気がさす。

 私は過去をすっきり忘れてお気楽に生きていくことは出来ない性格なんだろう。

 

 緩々と続いた坂道を上り切った所で私は一つのマンションに目をつけた。

 この周辺では頭一つ出た高さがある。建っている場所も悪くない。

 そして何より、エントランスにオートロックの類が設置されておらず、誰でも出入りが可能な古いタイプのマンションだった。

 辺りに誰もいないことを確認して私はマンション内に入り込んだ。

 

 予想以上に人気がないマンションだったのは好都合。

 住人とすれ違うこともなく私は階段を上がってく。

 

 屋上に出ると、冬の天高い空と地上より遙かに強い風が私を待ち受けていた。

 空は本当に近づいたような錯覚を起こさせる。

 マンションの屋上とはいえ、実際の高さは数十メートル、本当に空が近づいたと感じるのは自然に対する人間の奢りなんだと思う。

 

 私は垂直に落ちるコンクリートの断崖に沿って、この街の中心たる丘の頂上が見える位置に移動した。

 誰かいるだろうとは予想はしていたが、屋上の端に一人の先客がいた。

 

 屋上に陣取っていたのは一目でカメラマンとわかる男だった。

 フィルムが大量に入っていると思われるジャケットをまとい、器具が入っているだろうジュラルミンケースを側に置いている。非常に分かりやすい出で立ちであった。

 その男がレフカメラを構え、この屋上からじっと一点を見つめていた。

 

 私はわざと足音を鳴らしてその背後に近づいた。

 

「どこの新聞社?」

 

 私は簡潔に聞いた。返ってきたのは英単語の週刊誌らしい名前だった。

 そういう業界に詳しくない私にはその名前に心当たりはなかったが、それはどうでもいいことだった。

 

「あんたは?」

 

 逆に男が私に聞き返してきた。

 私が音を立てて近づいたからだろう、男は振り返ることもなくファインダーを覗き続けている。

 私が殺し屋だったらマンションから突き落とされるのに……。そんな考えが頭を過ぎる。

 私の発想もなかなか物騒だ。

 

「私はフリーよ」

 

 そんな私の嘘に男は何も言わなかった。

 この男にしてみても、私が何者であろうと関係ないのだろう。

 

「どう? 何か撮れそう?」

 

 私も彼がカメラを向けている方向に眼差しを向ける。

 ここからなら丘の頂上にある元安国病院の敷地がよく見渡せた。

 その薄汚れた建物を見るだけで私は苛立ちを覚える。

 いや、こう言った方がいいだろう『反吐が出る』。

 

「いいや、どうもガードが堅い。ここからでもブルーシートしか見えないね」

 

「ここからでも無理か……。

 何も撮れそうにないのに頑張るわね、アンタ」

 

「どうにも、ガードが堅過ぎるのがね……」

 

 男は言葉を濁したが、その言い口からこの事件は報道されている以上に裏があると察している様子が窺えた。

 

 私は男の嗅覚に素直に感心した。

 十年前の事件は情報操作され、マスコミ関係者でも知る人間はほとんどいないはずだった。

 恐らくこのカメラマンにしても、十年前の事件に関しては公式発表された情報しか持ち合わせていないだろう。

 そんな人物でも今回の殺人事件にただ事ではない焦臭さを感じている。

 まったく面倒な話であった。

 

 深山浩と思われる他殺体が発見されたのは数日前の事である。

 そのニュースを見た私は、いてもたってもおれず、近づくことすら嫌悪感に晒されるこの街に帰ってきた。

 

 街並みなんて覚えてもいない。そもそもこの街の中を歩いたのも事件後に数度だけ。

 私は今ここから見下ろしている安国病院の中にずっといたのだから……。

 

 五分ほど屋上から安国病院を眺めていた私は、踵(きびす)を返して屋上を去ることにした。

 

「もう行くのか?」

 

 相変わらずファインダーから目を離さないカメラマンが私の背中に問いかける。

 

「こういうのは早い者勝ちでしょ? あなたに譲るわ」

 

 私はそう言い残してさっさと地上に戻っていった。

 私は別にこの事件のスクープ写真が欲しいわけではない。第一カメラも持ってきていない。

 このマンションの屋上に行ったのは単なる様子見だった。

 

 現場は警察が立入禁止にしているだろうし、現場に行く前に周囲の様子を確かめておきたかった。

 高い場所からなら敷地内も見られるかと思ったが、そこに陣取っているカメラマンが見えないと言うのだ。

 素人の私にはどうしようもない。

 

 マンションを跡にすると、私は地上に戻り再び現場に向けて歩き出した。

 安国病院に近づくにつれ静閑な住宅街が一変し、祭りのような人集りを見せていた。

 報道関係者か野次馬か、それとも何か勘違いして花など供えに来た地域住民も混じっているのかもしれない。

 そのどの人物もこの安国病院に似合わないと私は知っている。

 

 十年前の生き残り。

 私があの事件の帰還者という事実は、名誉ある勲章ではなく凄惨な烙印だと思っている。

 

 イエローテープの張られた病院の古びた門が私を出迎えた。

 約十年間放置されたはずの建物なのに、奇妙な威圧感を感じるのは私だけだろうか?

 

 そんな疑問を感じながらも、私は報道陣から隠れるように野次馬の中に埋もれ身を潜めていた。

 自画自賛というわけでもないが、自分自身の容姿が目立つことは重々承知していた。

 染色ではない金髪と碧眼は嫌でも人の目を引いてしまう。

 ニットキャップを目深に被ってはいるが、見る人が見れば直ぐに私だとばれてしまう。

 

 私は自分の容姿が嫌いでならなかった。

 日本人の私には、自身の金髪碧眼は鏡を見る度にコンプレックスをくすぐられる。

 特に金髪は多くの人が羨ましがるが、そんなの無い物ねだりなだけ。

 私だって黒髪の方が羨ましい。

 

 野次馬の列の更に奥では報道陣が申し合わせたように横並びにカメラを構え、レポーター達が打ち合わせという名の談笑に花を咲かせていた。

 

 何も知らない人たち、ほんとお気楽なもんね。

 私はこうして病院を前にするだけで泣き叫んで逃げ出したくなるのに……。

 

 私は全ての感情を奥底に押し込めて現場周辺を睨み付ける。

 既に数日前の事件にも係わらず頻繁に警察の捜査員の出入りがあった。

 

 事件の裏をある程度知っている身だからこそ分かるのだろうが、確かに違和感がある。

 たかがと言っては不謹慎だが、殺人事件の捜査がそんなに悠長に行われるわけがない。

 捜査が困窮している? それとも何か特別な理由があるのだろうか?

 どんなに考えたところで、警察の内部事情を知らない私にはその回答は得られなかった。

 

 さて。現場に来たものの、これからどうしよう?

 今回の事件に黒川が関わっているのは間違いない。それは勘なんて曖昧なものじゃない。

 それはもはや確証だった。この場所で深山が死んだのなら、黒川将人が関わっているとしか考えられなかった。

 

 だったら私しかいない。私が十年前の借りを返す。

 そう思ったからこそ、深山浩の死体が発見されたというニュースを見てここに来たのだ。

 

 しかし、捜査活動にも諜報活動にも疎い私が出来ることは限られている。

 十年前の事件は既に証拠隠滅が行われて、私なんかにはどうやっても辿れないだろう。

 ならば、現在起こっている事件の捜査資料を手に入れるしかない。

 

 といっても、私に警察関係者のコネなんてない。

 捜査資料を手に入れるなら警察署に忍び込むぐらいしか私には思いつかなかった。

 

 いや、実はコネが全くないわけではない。

 しかし、私はそのコネを死んでも使いたくなかった。

 

「はぁ」

 

 私は落胆の溜息を吐く。

 勢い勇んで現場に来たのに、私に選べる選択肢はないに等しい。

 後は優先順位に従って行動するしかない。

 

 ゆっくりと気配を殺して慎重に私は行動を開始した。

 殺人事件の現場に来た不審者として捕まるわけにはいかない。

 誰にも気にされぬように自然と振る舞い、病院の敷地を取り囲む壁に沿って移動した。

 

 この病院を見たどれくらいの人が疑問に思っただろうか。

 どうして病院にこんなに高く有刺鉄線までついた屈強な壁が必要なのかと。

 

 私の記憶が確かなら、昔は有刺鉄線に電流まで流れていた。

 身をもって味わったのだから忘れるはずがない。

 この壁がどれだけ無情に硬く、非情に冷たいか……。それは私の肌がよく覚えていた。

 

 病院の裏側まで回ると、野次馬と報道関係者の喧噪は嘘のように消え去り、廃病院らしい沈黙の空気が流れていた。

 病院の敷地を囲み延々と続く壁が、静閑な住宅地からあの異界を切り取っていた。

 もう一度周囲を見回して、誰にも見られていないことを確かめる。

 

 よし、今なら大丈夫。

 3mはあるだろう廃病院の壁を見上げ、私は体を沈め足に力を貯めた。

 突如、けたたましい音が鳴り響く。

 

「ちょ、ちょっと」

 

 私は慌てて体勢を立て直し、ポケットに手を突っ込んだ。

 音源は私の携帯電話。今から行動を開始しようとしていたときに、自分の携帯が鳴るとは不意をつかれた。

 

 電話の着信音で誰かの注目を引いたかと思ったが、私の見える範囲に人は誰もいない。

 私はホッとして自分の携帯電話に目を落とした。

 

『柚山潤』

 

 未だにコールを続ける電話には相手の名前が表示されていた。

 その名を見るなり私は密かな動悸を覚える。

 

「もしもし」

 

『あ……』

 

 携帯電話からまぬけた声が聞こえる。

 

「『あ』、じゃないでしょ」

 

『いや……、なかなか出なかったから』

 

 どうにもはっきりしない物言い。確かに柚山潤の声だった。

 

「どうしたの? 潤から電話なんて珍しいわね?」

 

『……』

 

 潤はしばらく答えなかった。

 時期が時期だけに潤の身に何かあったのかと勘ぐったが、潤が言いたいことをなかなか言わないのは、いつものことだった。

 

『有紗、最近様子がおかしいから。何となく……』

 

「私が?」

 

 鈍感な潤にばれていた。ちょっとショック。

 

『今日も大学行ってないみたいだし』

 

「ちょっと待って。どうして潤がそんなこと知ってるのよ。アンタはあの大学辞めたのに」

 

『坂木さんに聞いたんだ。彼女も心配してた。ここ数日、大学で見かけないって』

 

 潤の答えに私は吹き出しそうになった。

 それこそどうして潤が坂木さんを知ってるのよ。

 古里君ならともかく潤が坂木さんと知り合いだなんて聞いてない。

 

 くそぉ。大学辞めたくせに、女の交友関係を残す甲斐性があるとは予想外ね。

 その甲斐性を私に向けてくれたっていいのに……。

 

「私にも用事があるの」

 

 私はわざと突き放すように言った。

 私の言葉に潤は少し考えた様子だったが、返ってきた答えは再び予想外のものだった。

 

『その割には今朝も普通にウチに来たし、隠れて何かしてるんじゃないか?』

 

 柚山潤のクセしてどうして今回だけそんなに勘がいいのよ。

 いつものように唐変木してればいいのに。

 

 はぁ、潤にばれているということは、柚山のおばさまはとっくに気づいているはず。

 そんなに私、態度に出ていたのかしら? 出来るだけ平然としていたつもりだったのだけど。

 

「潤には関係ない」

 

 そう。今回の件は、彼は無関係でなくてはいけない。

 その為に私はこうして動いているんだから。

 

『おかしい。有紗、絶対何か隠してる』

 

 今日の潤はどうにもしつこい。潤に入れ知恵する奴なんているはずがない。

 私の態度以外にも潤には潤で何か思うところがあったのだろう。

 

 私の知る限り、柚山潤は安国病院のことを覚えていないはずだ。

 それなのに今回だけこんなに勘が働くなんて、無意識に深山のニュースから何かを感じ取ったのかもしれない。

 彼もあの事件の生き残りなんだから。

 

「本当に何でもないから。

 潤が心配する必要はないの。今取り込み中だから切るわよ」

 

『おい、ちょっと待てよ』

 

「待たない」

 

『お前な!』

 

 潤が声を荒立てる。今電話で何を言われようと私の方針は変わらない。

 

「潤」

 

 私はちょっと優しげな声で呼ぶ。

 私がそういう声を出せば、潤があたふたするのは経験的に知っていた。

 

『な、なんだよ』

 

「心配してくれて、ありがと」

 

 そう言うなり私は電話を切った。

 私の言葉で潤がどんな反応をするのか、知ってしまうのはちょっと気恥ずかしかった。

 

 潤が私を心配してくれたのは正直に嬉しかった。

 でも今はそんなことに浸っているわけにはいかない。私は非日常の領分を侵そうとしているのだ。

 

 数度、深呼吸を繰り返し、私は気持ちを切り替えた。

 目測で壁と有刺鉄線の高さを計り直し、何も考えないように努めると再び身を沈める。

 そして一気に伸び上がる。

 

 急激なGが私を襲う。

 脳への血流が一瞬なくなるのを感じる。薄れる意識をなんとか留め、自分の状態を確認する。

 白みがかった視界に映るのは、下へと流れていく壁。

 そして目の前に有刺鉄線の螺旋の列が現れる。

 私は垂直ジャンプで3mは有るだろう壁と同じ高さまで飛び上がったのだ。

 

 ただ、その鉛直を逆行する勢いは、有刺鉄線を完全に飛び越える前に消えてしまう。

 

「足りない!」

 

 私は咄嗟にそんな言葉を口にして、無理矢理に足を壁と有刺鉄線の隙間に突っ込んだ。

 鉄線の軋む音が静かに響く。

 

「痛っ」

 

 私の足に有刺鉄線の棘が突き刺さる。

 ジーンズ越しに、その尖端は私の足に噛みついていた。

 その甲斐あってか、私は壁の上に立っている。

 

 私は両手を広げてバランスをとる。幅十センチに満たない壁の上は有刺鉄線に占領され私の居場所はない。

 それでも無理矢理に体勢を立て直して私は顔を上げた。

 

 地上で私の視界を遮っていた壁は、今は私の足の下だ。

 ひらけた空間に立ったことを、顔に当たる風が教えてくれた。

 

 目前に廃病院の敷地が広がる。その視界を満たすのは薄ベージュの病棟ビル。

 八階建てのその建物は放置された年月を感じさせず、威圧的な存在感を今でも放っている。

 しかし、そのコンクリートが立ちはだかる足下には空き地独特の下草が鬱蒼と茂り、ここが既に廃棄された元・安国病院であることを示していた。

 

 敷地内部にも人がいないのを確認して、私はゆっくり有刺鉄線を乗り越えて病院の敷地内に落下した。

 着地なんて空中の姿勢制御で何とかなる。

 考えるよりも感じたままに自由にする方が、私の体はよく動くはずなのだ。

 

 脳髄を揺さぶる衝撃。

 それに顔をしかめるものの、私は二本の足で着地していた。

 

 一つ深い息を吐いてから、私はジーンズの裾をまくり上げ、足の状態を確認した。

 有刺鉄線の刺さったはずの足だが、特に血が出ている様子もなく、かすり傷だった。

 これなら帰ってから消毒をすれば破傷風の心配もないだろう。

 ジーンズを履いて来て正解だった。これがスカートだったりしたら目も当てられない状況になっただろう。

 

「けど、失敗したなぁ」

 

 私は今飛び越えた壁を見上げながら、自分の失敗を反省する。

 これぐらいの高さなら飛び越えられると思っていたが、力加減を間違えたのだろうか。

 

 とにかく、この力は制御が難しい。

 力加減といってもONとOFFしかないのだ。それを加減するということはONの時間を0コンマで操ることを意味するのだ。

 十年ほど付き合っている我が身ながら、制御を失敗することもしばしばある。

 

 普段はこの力が出ないように努力するだけで精一杯の代物だった。

 今だって、いざ使うとなると緊張すらしていた。あまり頼るべき力ではない。

 私はそう再認識してから行動を再開した。

 

 テレビニュースでは、深山浩がこの廃病院の敷地で死んだとしか報道されていなかった。

 それは新聞も同じ。この広い敷地の一体どこで深山は死んだのだろう?

 私は事件現場を求め、元・安国病院の敷地を彷徨い始めた。

 

 ガラスが割れた窓を見つけ、病院内を覗き込んだ。

 澱んだ違和感が私の鼻につく。まるで絵の具で周囲をかき混ぜたかのように異質な空気が私を待ち構えていた。

 物言わぬコンクリートの屋内の雰囲気に、私は顔をしかめた。

 

 意外にも建物への侵入は簡単だった。廃病院と言えば聞こえはいいが、単なる廃墟となり果てている。

 昔はどこもかしこもセキュリティの行き届いていた安国病院も、放棄されて十年が経ち、その面影は見られなかった。

 

 私は、まず最初にアノ場所に向かうことにした。

 昔、私がいたアノ場所に……。

 

 怖かった。

 一人であの場所に向かうということが無性に怖かった。

 思考を妨げる息苦しさが背筋を強張らせ、私の歩み阻害する。

 

 私は事件以後に、あの場所を訪れたことがあった。でもそのときは同伴者が何人もいてくれた。

 私は彼らに縋り付くことで、なんとかあの場所へ行ったのだ。

 一人で行くなんて、深山の事件がなければ一生なかったかもしれない。

 そんな思いを抱きながらも私は『実験病棟』への道筋を迷うことなく突き進んだ。

 昔の記憶というのも結構確かなもんだ。

 

 地下への階段を静かに下りる。

 窓のない病院の最深部にそれはあった。

 

 暗い暗い無言の闇。十年前私が駆けめぐった暗闇の世界。

 懐かしいなんて感情はない。ただあるのは、本能による拒否感と「まだそんな物があるのか」そんな程度の冷めた感想だった。

 

 私は無意識に電灯の電源を探した。でも廃墟となったこの場所に電気が来ているはずがない。

 そう思い直したが、体は勝手にスイッチを入れていた。

 

 遅い瞬きを発し、黒ずんだ蛍光灯が点いてみせた。

 廃墟に灯る明かり。私にとっては意外であったが、警察が捜査の為に電気を通したのかもしれない。

 

「変わらないな……」

 

 十年の時を経て、その扉は私の前に立ちはだかった。

 黒く塗り込まれた重々しい扉。今はその外から、そしてあの時はこの内側から、私はこの扉を見つめるしか出来ないでいた。

 

 プロジェクトB管轄特殊医療研究室。

 その存在は公式資料からは抹消され、この壁の向こう側も全てが全て解体されて、この世からは消されてしまった。

 残ったのは廃墟に残るこの跡地と、私たちという存在だけ。

 

「さすがに警察もここは調べてないようね」

 

 警察が調べたとしても、十年前の証拠なんて出てこないことは私も承知していた。

 

 本来なら警察が十年前の全てを調べ上げて断罪してくれるのを私は望むべきなんだろう。

 でも、私の心情はこの私の特別な場所を他人が土足で踏みにじることを拒否していた。

 なにより、十年前のことが明るみに出れば、私の今の生活は全てぶち壊されてしまう。

 それは絶対に阻止しなくてはならない。

 

「あれ? 鍵が掛かってる?」

 

 てっきり開いているとばかり思っていた『実験病棟』への扉は全く動かなかった。

 金属製の重厚なシャッターのような扉。

 なぜここまで厳重な扉を設置しなくてはいけないのか、昔も疑問に思ったが、それほどまでにあの場所を隔離して置きたかったのだろう。

 

 私の馬鹿力でも扉は開かないのだ。

 扉が固いというわけではなく、なんらかの手段で開かないようになっているようだった。

 

「そりゃあ、証拠になりそうなものは処分したとしても、誰かに入られたら困るもんね」

 

 別に私は『実験病棟』を見に来たのではない。ここが平穏と保たれているなら、それでいい。

 

 私は病院の玄関周辺、警察が捜査しているだろう付近に戻ることにした。今日の目的は深山の事件なんだから。

 

 中館の病棟区画から東館の外来区画に移ると、直ぐに人の気配を感じる。

 待合室があった付近が妙に騒がしい。それと病院の中庭だった場所にも人がいるようだった。

 

 ゆっくりと慎重に中庭に近づくと、声も聞こえてくる。

 私は身を隠しながら聞き耳を立てるが、会話の内容までは聞き取れなかった。

 もっと近づきたいが、近すぎる人の気配に危険を感じずにはいられない。

 

 私は脳裏に病院の構造を巡らせ、中庭が見下ろせる部屋に向かった。

 昔、私がいたのは『実験病棟』で、普通の病棟として使われていたこの付近のことはよく知らなかったが大体の構造は把握している。

 

 西館の階段を上がり、フロアが変わることで私の緊張を少し解くことが出来た。

 素人の私に殺人事件現場への不法侵入は心労が大きかった。

 

 三階に着いた所で、中庭に面した一室に目をつけた。

 おそらく入院施設の個室部屋として使われていたのだろう。

 室内にはベッドが一つ残されていた。シーツも布団もない。

 放置されて十年という時間この病院に在り続けたベッドは、未だに何も言わずこの病院を見守っていた。

 

 よく見れば、均等に降り積もった埃(ほこり)が部屋一面に白い化粧を施していた。

 服に付いたら嫌だな、そんな至って普通の感想を抱きながら、私は身を低くしたまま手だけを伸ばし、慎重に窓を開けた。

 

「向こう、ゲソコン終わったか?」

 

 そんな声が聞こえてきた。

 男の声。おそらく警察の捜査員だろう。四方を病棟の壁で遮られた中庭の音は響き、鮮明に聞こえてきた。

 

「はい、終わりました。ありゃ最低でも三人分ありますね。向こうで争ってこっちに逃げて来たんでしょうね」

 

「たぶんな」

 

 三人? 事件当時、ここに三人の人間がいたのだろうか。

 一人は死んだ深山浩。もう一人は恐らく黒川将人。

 それじゃあ、もう一人は誰なんだろう?

 私には心当たりがなかった。黒川の仲間か手下だろうか?

 

「こっちはまだ時間が掛かりそうそうですね」

 

「こんだけ酷けりゃな。俺も長年鑑識やってるが、ここまでの現場は初めてだよ……」

 

 酷い? どういうことだろう?

 私には捜査官同士のやり取りがよくわからなかった。

 

 ゆっくりと私は顔を上げる。窓枠から徐々に視界が開け、中庭が私の眼前に広がっていた。

 

 いた。四人の警察官らしい人物が地面に向かって黙々と作業をしていた。

 私は彼らの手元に注目する。どうやら何かの痕跡を取って保存しているのだろうことは推察出来た。

 

 えっ? 嘘?

 私は驚きのあまり、実際に声に出してしまいそうだった。

 それが何なのか最初は解らなかった。だから作業をする警察官の方ばかりに目がいって、気付かなかった。

 

 警察官たちが地面を懸命に調べているその数メートル横の壁。

 そこ一面に黒ずんだ染みが見えた。何年も放置された古びた廃墟の壁だ。汚れや染みなんてさして珍しくもない。

 そう理性が囁いているのに、私の動物としての本能がその染みを血痕だと告げている。

 染みが何メートルにも渡って、大きく大きく広がっているのに……。

 

 一体どんなことをすれば、そんなに血が飛び散るのだろう。

 それ以前に人間が流せる血の量でそんな広大な染みが作れるのだろうか?

 

 いや、壁だけじゃない。赤レンガ敷きだったのでわからなかったが中庭の地面にもその染みが広がっていた。

 血痕のついた壁から警察官の足下。そして中庭への通用口まで、至る所に血の痕がある。

 一体、何人の人間を殺せばこんな血だまりが出来るのだろう。

 

 どうして? どうして? ここで深山浩が死んだんじゃないの?

 深山一人が死んだところで、こんなに血がまき散らされるわけがない!

 

 私の体に恐怖が巻き付いていた。『実験病棟』に対する恐怖とは完全に異質のもの。

 未知なるもの、理解できないものを前にしたときの恐れ。

 

 私は……、私は……ここに何をしに来たの?

 こんなものを見てしまって、私は何をしようというの?

 私はここに来てはいけなかったの?

 

 私の手元で奇妙な音がした。

 金属があげる摩擦音。軽い金属同士を無理矢理に押しつけたような音だった。

 

 見れば、私が手を添えていた窓枠が、私の手の中で歪み潰れさっていた。

 瞬間、中庭にいた捜査官全員が顔を上げた。

 

 まずい、見られた!

 

 私は咄嗟に飛び退いた。後先考えずに地面を蹴ったので、また力の加減が出来ていない。

 私の背がベッドに当たっても、私の体は止まらなかった。

 

 今度は錆びたベッドの足が金切り音を出す。

 さっきの窓枠の音なんか比べ物にならないぐらいに鳴り響く。

 

 なんでこんな失態ばかり! 私は心中吐き捨てた。

 

 私は急いで病室を出て廊下に逃げ出した。

 普段は誰もいるはずがない廃墟に足音が響き渡る。私の足音と、私を捜しに来ただろう捜査員たちの声。

 既に彼ら階段を駆け上がって来ている。

 

 追い駆けっこなんて願い下げ。

 私は敷地の裏手に向いた窓を見付けると、何の躊躇もなく身を放り出した。

 

 地球は無情に私の体を引き寄せる。

 三階程度なら!

 自由落下する私は、病院の外壁に手の平をあて指を握り締めた。

 

 私は下に引きずられながらも、壁という平面を掴み続ける。

 手の平は摩擦で燃えるように熱い。手自体がもぎ取れそうな痛みに耐え続ける。

 

 大きな音と共に、私は両足を揃えて着地した。

 私の計算通り、手の平が摩擦で痛いこと以外は無事だった。

 警察も三階から飛び降りたなんて直ぐには思い付かないだろう。

 今のうちにこの廃病院から離れないと。

 

 再び私の視界に敷地を囲う壁が写る。入ってきたときの反省がある。今度は!

 

 下草に足を取られながらも私は助走をつける。

 頑丈なコンクリートの地面を目指し歩幅を合わせると、私は踏み切った。

 

 私の体にまた強烈なGが掛かる。

 体は舞い上がり、壁はおろかその上部の有刺鉄線さえも完全に飛び越えていた。

 

 翼のない私が空をも支配する。そんな幻想を抱かされる跳躍だった。

 それはアスリートならずとも人間なら誰しも夢見る領域だろう。

 

 視界にはアスファルトの公道が見える。無事に飛び越えたはいいが、今度は勢いが付き過ぎている。

 壁を過ぎてしまったので空中で減速する手段もない。

 

 私は足だけの着地を諦めて素直に転がった。

 何度も何度もアスファルトに体を擦りつけ、道路標識の支柱にぶつかって何とか止まる。

 

「痛った~」

 

 特別体が丈夫なわけでもない私の全身は、すり傷の熱さと鈍痛を訴えている。

 しかし自分の失態が原因となると怒りのぶつけようがない。

 

 荒い息を整えながら私は四方に目を配る。

 誰かに見られた様子はない。私を探す警察官たちもまだ廃病院の中を探しているのだろう。

 私は急ぎ足でその場を離れた。

 

 一体何だったのだろう、あの事件現場の血痕は。

 一般に報道されている情報では深山浩の他殺と思われる死体が発見されたはずだった。

 他殺と思われる?

 そうだ、死因。死因が発表されていない。

 

 私は大きな勘違いをしていたのかもしれない。

 私はてっきり深山浩が口封じか仲間割れの為に、黒川将人に殺されたのだと思っていた。

 しかし何かが違う。何かが……。

 

 どこからともなく臭う雨の臭いが街全体を包んでいた。

 

「雪、降るのかな……」

 

 私は切れ目のない雲を見上げ、祈るように呟いていた。

 

 この事件は十年前とは別の何かが動き始めているのではないかという疑念が、私、悠木有紗の中に渦巻き始めていた。

 

 

 

 

(第8章につづく)

 


 
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