阿鼻叫喚は我に捧げられた讃美歌。
「ククク……アハハ!」
群れ転がる屍は我に捧げられた供物。
「アハハハハ!ハハハハハハ!!」
血を美酒とし、鮮やかに彩る色として。
「フフフ……フハハハハ!!」
狂気の王として。
比類なき『悪』として。
「―――天に二日なし」
私は今、此処に君臨する。
「古き日を崇め奉る輩――― 一人残らず、殺せ」
鍾繇は目の前の惨状が何事なのか、理解が及ばなかった。
突如として現れた司馬懿。
その司馬懿によって殺された帝。
彼の言葉を合図に殺戮を始めた『晋』の旗を掲げる兵。
彼らに歯向かおうとする者。
命を乞うて、或いは逃げようとする者。
全てがただの肉塊へと変じ、銅雀台の階段を血色に染め上げていく。
「なっ……!?」
分からない。
何が起きているのか。何をしているのか。
だが、彼女の『生き物』としての本能が告げていた。
――――――此処に居れば、やがて殺される。
「―――母様」
カツン、と後ろで足音がした。
死を運ぶその音は、その声音の主は。
彼女にとっては酷く聞き慣れた声で、
「―――紅爛」
彼女にとっては酷く見慣れた姿をしていた。
『紅爛』
この地に至る前、仲達様にお声を掛けられた。
たったそれだけで、私の鼓動は早鐘の如く鳴り響く。
『はっ、はいっ……』
『今回、もし貴様の母が歯向かう様なら……』
そこで一度言葉を区切られて、
『―――せめて貴様の手で終わらせろ』
母の命と、あの方の言葉。
いずれも、私にとっては大切なモノ。
どちらかを選べ、と言われても選べるはずもない。
だが、それでも選ぶ事を迫られるというのなら――――――
「―――母様、私達に降って下さい」
例えこれが傲慢なのだとしても。
私個人の我儘なのだとしても。
私は、その両方を守りたい。
『―――紅爛』
『はい』
『貴様の『願い』は何だ?』
これは、私の『願い』
あの方の問いに対する、私なりの『答え』
「…………紅爛、大きくなりましたね」
鍾繇は、久方ぶりに浮かべた『母』としての笑みと、一人の『臣』としての決意が入り混じった声音でそう呟いた。
「最期にちゃんと貴女を見たのは、曹操殿の元に出仕する前……でしたか?」
「……母様もお変わりなく、息災の御様子で何よりです」
それに対し、紅爛はあえて『子』として返した。
「紅爛」
「はい」
「私は、鍾元常は、漢王朝の一文官として、此処に参りました」
「はい……」
「そして同時に……聊かではありましたが、貴女の『母』としても、貴女と会えるのを心待ちにしていた事も事実です」
周囲の喧騒は、二人の鼓膜には遠い。
俄かに曇り始めた空さえも、天より二人に降り注ぐ光を遮る事は叶わない。
やがて静かに、鍾繇は剣を抜いた。
「―――そこを退きなさい。『鍾会』」
その瞳に映るのは、愛娘ではなく一人の『敵』
漢王朝に仇名す、許されざる『敵』
「私は、漢王朝の臣として司馬懿を―――『漢』に背く逆臣を討ち果たします」
「母様……!」
「退きなさい『鍾会』!!手向かう者は誰一人とて容赦致しません!!」
「母様!!」
目尻に涙を浮かべながら、紅爛は叫んだ。
愛しき母の名を。
守りたい命の名を。
「お願いです!!歯向かわなければ―――手向かわなければ、命の保証はなさるとあの方は仰いました!!」
「ならば何故、帝はその命を無抵抗なままに奪われたのです!?主君を殺されておきながら、仇を討たずに生き永らえよとでも申すのですか!?」
「帝は―――漢王朝は、此処で終わらせなければならなかったのです!!」
鍾繇の往こうとする道を両手を開いて遮り、紅爛は続けた。
「そうしなければ……そうしなければ何一つ、先へは進まないから!だから!!」
「だから殺したと!?それが許されるとでも思っているのですか!?」
剣の切っ先を『鍾会』に向けて、鍾繇は怒りの混じった声音を張り上げた。
「皇帝に弓曳くだけでも重罪だというのに、ましてやその御命を奪う事は!死を以て贖ってしても許されざる業罪!!せめてこの手で、彼の命を地獄に送らねば!!」
「もう滅ぶ以外に道のない漢室に、何故そこまで報いようとなさるのですか!?」
「それが『臣下』としての務めだからに決まっておろう!!!」
鍾繇の怒声に、僅か、紅爛がたじろいだ。
「主に報い、国に報いるが臣下としての務め!!それを成そうとして何が悪い!?」
「むざむざ死に赴く事に、どうして意味を付け加えようとなさるのですか!?どうして……どうしてそこまで!!」
両の手を広げ泣き叫ぶ紅爛は、
「――――――貴女を、愛しているから」
身を覆う様に包まれた温もりに、目を見開いた。
「母、様……!?」
「…………幼い頃から、貴女には寂しい思いをさせてばかりでしたね」
その頭を撫でて、鍾繇は静かに微笑んだ。
「『母親』として貴女にしてあげられた事は……もしかしたら、何一つなかったかもしれない」
慈愛に満ちた声音で、鍾繇は呟く。
「……けど」
紅爛の頭の後ろをグッと抱き寄せて、鍾繇は囁いた。
「―――だからこそせめて、貴女が胸を張れるような『母親』でありたい。貴女が胸を張って『私の母は漢王朝の臣、鍾元常である』と云える様な、そんな『臣』でありたいの」
「はは、うぇ……!」
「……紅爛、本当に大きくなった」
一言一言を噛み締める様にして、鍾繇は静かに云った。
泣き腫らした紅爛の顔を抱き寄せ、その頬を擦り合わせる様にして鍾繇は笑んだ。
「―――貴女は、私の自慢の娘よ。誰が何と言おうと、貴女は貴女の望んだ道を、信じた道を進みなさい」
その言葉に、一縷の悲しみさえも感じさせず、
「――――――さようなら」
鍾繇は、その階段を駆け上がった。
「―――逆賊司馬懿!!覚悟ォ!!!」
つくづく、見誤っていた様だ。
鍾繇という人と、その成りを。
胸中でそんな事を浮かべながら、しかし司馬懿は憶面にもそんな様子を感じさせず、ただ不敵な笑みを浮かべた。
「天命は既に我が身に在り。鍾元常、未だ天意に背くつもりか?」
「黙れ!!貴様のその行いの何処に天命がある!?」
刃を突き立てる事は叶わないかもしれない。
もしかしたら、瞬く間に殺されるかもしれない。
己が武に通じていない事など、彼女自身が誰よりも知っているだろう。
だが、それでも鍾繇は剣を取った。
「―――フッ」
面白い、と司馬懿は笑んだ。
ならば精々『悪』らしく、『逆臣』らしく振る舞ってやろうか。
それが死に往く『勇者』への、せめてもの手向けなら。
―――つくづく、酔狂なモノだ。
「フフフ……クッ、アハハハハハ!!!」
「司馬懿ィッ!!!」
彼の主を葬った刃と。
彼の主に捧げる刃が。
雷鳴轟く暗雲の下に、交わった。
「ッ、ア、ァ……アァ……ッ!」
天上より降り注ぐ雷雨が、銅雀台を血水で染め上げる。
鮮やか白と、金色で彩られたその世界に落ちる朱は、その全てが汚らわしき異物だと思っていて、疑う事はなかった。
「……鍾繇、元常」
だが、この女だけは違った。
この女の血は、他の俗物とはかけ離れた、紅。
雨に流されても、他の血と入り混じっても、尚その彩りを失わない、鮮やかな色。
彼女よりも位を極めた文官より。
彼女が主と謳った劉協より。
その血は、何者よりも高潔で、純粋で。
「……歯向かう者、抗う者は皆殺せ」
そこには、一匙程の躊躇いもなかった。
なかった、筈だった。
「――――――何故、歯向かった?」
理解出来ない。
分からない。
どうして『娘』よりも『帝』を取ったのか。
家族など、血の繋がりなど下らない。
だがそれ以上に、帝などという偶像は余計に下らない。
たった一人残して。
己が死ねば悲しむ者が居ると知っていて、尚。
「何故、死を選んだ……どうして、どうして!?」
腹立たしい。
この女の満ち足りた顔が。
『死』という選択に、まるで後悔を感じていないかの様な、その笑んだ最期の面が――――――!!
「―――仲達様」
聞き慣れた紅爛の声が、私を呼んだ。
その頬を、涙の筋と血の痕で僅かに汚して。しかしそこに『汚らわしい』という感情はまるで浮かばない姿で。
「……こ、う……爛」
「仲達様…………」
何かを躊躇う様にして、しかし次の瞬間には紅爛は頭を垂れ、
「…………帝位への即位、祝着至極に存じます」
継いだ言の葉は『怨み』でも『怒り』でもない。
あるのは、ただ『祝福』
「……紅爛」
声を掛けようとして、しかし何と言うのだと自問した。
彼女の母を殺したのは紛れもなくこの『私』で。
紅爛にしてみれば、私はただの『仇』でしかない。
だというのに、何故――――――
「何故……そんな顔が出来る?」
何故眼前の紅爛は、静かにただ笑んでいる?
「私は……貴様の母を殺した。ただ一人の『繋がり』を壊したのだぞ?なのに…………」
分からない。
分からない。
目の前に在るこの少女が、まるで見た事もない様な人物に見える。
私一人が異なる大地に弾き飛ばされ、見知らぬ国に一人迷い込んだ様な錯覚を覚えた。
「何故……そんな面が出来る?」
雨粒が髪から滴る。
衣服を濡らし、肌に纏わりつく。
遥か遠くに鳴り響く雷鳴は酷く遠く、目の前でただ静かに『笑む』少女が酷く異に見えてならない。
「答えろ」
吐いたその言葉に、しかし少女はただ静かに頭を垂れるのみ。
「答えろ」
もう一度吐く。
だがやはり、少女は顔を見せようとはしない。
その行為が――――――酷く腹立たしい。
「―――答えろ!!」
意識せず、声を荒げた。
「怨んでいるのだろう!?憎んでいるのだろう!?貴様の性情くらい十二分に熟知している!!母親を愛していた事も、慕っていた事も!!」
怒りに塗れた自分は、酷く浅はかで、愚かで。
「いっそ怨んでいると言え!!私を殺したい程に憎んでいると!!そう叫べばいいだろう!?」
それを知りながら、しかしこの口は止まる事無く叫び続けた。
「何故笑っていられる!?母親を―――繋がりを絶たれて、尚!!」
いっそそう言ってくれれば、どれ程楽か。
怒りと憎しみで呪い殺そうとしてくれれば、どれ程分かり易いか。
「同情しているとでもぬかすつもりか!?ならばそんな思考は切り捨てろ!!目障りだ!!!」
言い続ければ続ける程、自分が馬鹿で、愚かにしか思えなくなっていく。
まるで駄々を捏ねた餓鬼が八つ当たりをしている様な、その程度のものでしかないと自認しながら、それでも。
「―――紅爛!!!」
それでも、この感情の矛は何処にも収まらない。
血を吸って、怒りを浴びて、憎しみを受けて、尚収まる事はない。
「どうして……どうしてっ!?」
力なく、膝が地についた。
血水の池に落ちた腕から、雨によるとは思えない程の冷たさが私の感覚を刺激する。
そこに映る私の姿は、酷く無力で、情けなくて。
―――嘗て、私自身が嫌った『私』が其処に居た。
雨が地を打つ音が響く。
天雷は遥か遠く、暗雲の中に光り、消える。
大地を覆うのは、雨と血水。
頬を伝うこれは、ただ雨が滴っているだけなのだと結論付けた。
そう、雨が滴っているだけ――――――
「…………ぜ」
だというのに、何故。
「……何故、なんだ?」
視界が霞む。
表情が歪む。
あり得ないと断じていたそれが、今はただ当たり前の様に私の奥底から込み上がってくる。
感じる事など、あってはならない。
そんな事を想う資格は、私にはないのだから。
「――――――ッ、ウッ……!!」
だというのに、止まる事はない。
止まる事無く、奥底に眠っていたそれが再び顔を覗かせる。
「……アッ、ァ……クッ……ゥ……!」
止めろ。
出るな。
私に――――――『悲しみ』を覚える資格など、ある筈がない。
あっては、ならないんだ。
「―――泣いて下さい」
何かが、私の頭部に降り注いでいた雨を遮った。
しかしそれは完全ではなく、僅かではあるが後頭部に滴る雨を感じられる。
視界に映ったのは、酷い面を浮かべる私。
そして衣服を血水に濡らした―――紅爛だった。
「な、ぜ……!?」
「怨んでいないといえば嘘になります。憎んでいないといえば嘘になります」
「なら……!!」
「―――でも」
冷たく、凍てついた世界の中でその声は酷く優しく、温かで、
「でも、それが貴方の選んだ道だというのなら、私はその選択に従います」
「な、にを……ッ!?」
「―――いつか、貴方は私に問うて下さりました。『私の願いは何だ?』と」
まるで全てを包み込むかの様に、穏やかな音を奏でた。
「私の願いは『曇りなき蒼天』。貴方様が描かれる、新たなる『次代』をこの眼で見る事」
「………………」
「天秤は、常に一方に傾きます。それを切り捨てる事がどれ程重いのか、私はまだ分かっていないのかもしれません」
「でも」と、紅爛は酷く慈愛に満ちた声音で言の葉を紡いだ。
「その重さは、私達も共に背負います。共に背負って、苦しんで、分かち合って……私は、私達は、そういう風になれる事を望んでいます」
「だから」と紅爛は私の頭を撫でた。
まるで母が子をあやす様な、優しい手で、声音で。
「私の代わりに泣いて下さい。
私の代わりに苦しんで下さい。
私の代わりに悼んで下さい。
私が流せなくなってしまった涙を代わりに流して、私が継げなくなった言葉を代わりに継ぐんで、私が感じられなくなった悲しみを抱いて下さい。
私は貴方に全てを捧げます。
だから貴方は、私の代わりに私の全てを背負って、感じて下さい」
酷く温かなそれは、頭部に感じた雨ではない何かと共に私に届く。
そこに縋る事を許す様に。
そこに逃げる事を認める様に。
「私の怨みも、憎しみも、怒りも、全て貴方様のモノ。だから……」
心のままに泣いて下さい。
そう告げた紅爛が、脳裏の奥底に葬った筈の父母を、師を、友を、そして朱里を。
嘗て抱いた繋がりを思い起こさせた。
「…………ッ、ァ……!」
崩落するそれを止める術などなく。
ただ崩れ落ちるままにそれを受け入れるより他になく。
だが、それを忌避しようとは考えもせず。
「―――うあああああああぁぁぁ!!!」
零れ出た感情の全てを吐き出す様に。
この一度で全てを終わらせる様に。
二度と泣かぬ事を誓い。
二度と甘えぬ事を誓い。
天雷鳴り響く空の下、私は生涯最後の嘆きを轟かせた。
「――――――全軍に告げる」
空を覆う暗雲が去り、雨の雫が日の光を浴びて輝き始めた頃。
遥か最上段に立つ司馬懿の姿に、整然と整列していた兵達は静かにどよめいた。
「これより我らは修羅の道を進む。その道に転がる同朋の屍は、決して少なくはすまないだろう。或いは、今この地に立つ者全てが死する事もありえない話ではない。
―――だが、それでも尚我らは歩み続けなければならない。
屍の道を、骸の藪を、髑髏の林を抜け。
私は新たなる次代を創生する。
神ならざる身にて。
覇者ならざる器にて。
私はただ『私』として諸君らの上に立ち、その命を預からねばならない。
故に全将兵に告げる!!
我にその命を捧げよ!
我にその存在を貢げ!
我が命に生き、我が命に死ね!!
この身と命、そして力と僅かな才が及ぶ限り、私はその全てを諸君らの為に捧げる事を誓おう!!
戦なき天下!争いなき次代の為に!!
今を生きる命を守り、未来に在る命を健やかなるモノにする為に!!
我が授かるは天命に非ず。
我が賜るは玉座に非ず。
私は諸君と同じ地に立ち、同じ目線で見る。
思いは違えど、願いは異なろうと、志す先は同じである事を祈る。
無意味なる争いで傷つく者が無き世。
生まれや思想による諍いが無き世。
それを導くモノとして――――――」
この日、天下に激震が走る事となる。
漢王朝の滅亡による、新たなる時代の到来。
そして後の世に語られる事となる闘いの幕開け。
その時代の名。
そして王家の名は―――
「『我ら』は此処に『晋』の建国を宣言する!!!」
後記
とりあえず、第三部の中盤はこれで終わりです。
また少々間が空きますが…………ところで間が空くって言葉は、やっぱり週一ペースを守れないと使う言葉なんでしょうか?それとも月間レベルで更新が滞る事を云うんでしょうか?
まぁ瑣末な疑問ですが。
そしてそろそろこのお話も佳境に入る訳ですが、どうも年内の終了は難しい様子……
下手したら年度末になっても終わらないかも、等と相当なグダグダ感ですが。
とりあえず最後まで書きぬくつもりですので。
それでは、また。
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