探索の旅…………と大層な事を言ってはみたものの、実際、やはりそうでも無い。所詮は高校の敷地内。それほど広くも無いからだ。心当たりを歩き回っていれば、いずれは見つかるか、有力な手がかりでも見つかるだろう。
とはいえ、唯が学校へ来ているかどうかは、実はまだ確定していない。
学校へくる途中に何処かへ寄り道しているという事は、唯ならば十分考えられるし…………あまり考えたくは無いが、事故にあっている事も有り得る。まあ、その可能性を潰す為にも、早く学校で唯を見つけなくては。
と、いう事で、最も手近な手がかりとして有力な場所を訪れてみる事にした。
職員室である。
唯が朝から学校を徘徊しているとなれば、教師が一番の目撃者と成り得るだろう。休日だが、受験で忙しいこの時期、誰も居ないだろうという事は無いだろうし。
目当ての人物も、もしかしたら、律としては確率的には低いと思ってはいたが、居ることだろうし。
「失礼しまーす」
律が先陣を切って、澪、ムギが後に続いた。
職員室に入った瞬間、空気が少し暖かくなった。暖房を付けているのだろう。実をいうと、部室にもエアコンは有るので、暖房を付けて暖を取る事は出来るのだ。だが、唯がエアコンを苦手としており、付けると体調が悪くなるため、その電源が入れられる事は滅多に無い。昨年の夏に設置して貰った文明の利器も、今ではすっかりただの箱と化している。
扉を開けて、すぐ目の前には書類の置かれた棚があり、そこを抜けると、教師たちのデスクが整然と並べられている。
不安は有ったが、果たして、そこに目当ての人物は居た。というか、職員室にはその人物以外他に、誰も居なかった。
唯では無い。
「あら、あなた達、どうしたの? 今日は土曜日よ?」
若干の驚きをその表情に含ませて、目当ての人物、担任兼軽音部顧問である山中さわ子が言った。
生徒からの人気はとても高い。物腰の柔らかい美人教師として、だ。しかし、桜が丘女子高等学校軽音部のOGであり、その魂にはデスメタルが刻み付けられており、その恐怖の人格が時折顔を覗かせるのだった。彼女にギターを渡したり、彼女が眼鏡を外した際には注意が必要だった。
あと、コスプレ狂だ。
まあ、良い教師だと、律は思う。色々と引っ掻き回される事も多かったが、陰ながら支えてくれた部分は多かったのだろうから。
「おっはよー、さわちゃん」
「おはようございます、さわ子先生」
さわ子に対して向けた挨拶の、前者は律、後者は澪、ムギである。律は教師であるさわ子に対して、躊躇無く『ちゃん付け』を行う。さわ子も最早諦めているのか、特に注意する事は無い。慣れてしまったのだろう。なにせ、律達が1年の時からだ。
「それはお互い様じゃん。さわちゃん居るかな~って思ったけど、本当に居るとは思わなかったよ」
「あのね…………教師っていうのは、貴女達が考えてるよりもずっと忙しいのよ? この時期は色々と有るし、休日だからって休んでは居られないの」
言われて、しかし茶化すように、律は笑った。何時ものやりとりなので、特に問題は無いのだった。
「それで? 貴女達は何をしにきたの? 部室の片づけかしら?」
部室の片付け、と言われて、3人は言葉に詰まった。基本的に片付いている軽音部部室であるが、それとは別に、今はそういう事をしないといけない時期なのだった。
卒業だからだ。私物は当然、持ち帰らなければならない。3年生が始まってすぐ、溜まり過ぎた私物を各自持ち帰った経緯は有るのだが、それでもまだ他の部活に比べれば多い方だろう。感傷とか、そういう感情を抜きにして、その作業は単純に面倒臭かった。
律はさっさと本題に入ることにした。
「い、いや~、ここに来たのはそういう事じゃ無くて、唯を見かけなかったかな~と…………」
「唯ちゃん? そう言えば居ないわね」
別にこれまで気がついていなかったわけでは無いだろうが、改めて、意外そうに、さわ子は言った。
「実は、こんなメールが来たんです。でも、肝心の唯ちゃんが見当たらなくて…………」
3人はこれまでの経緯を説明した。まあ、説明するほど何かが有ったわけでは無いが。部室でやらかしてしまった恥ずかしいあれこれは、ムギの口から語られない限り、一生表に出る事は無いだろう。
ムギの携帯に表示されたメールを見て、さわ子は『唯ちゃんらしいわね』と笑って、
「残念だけど、見かけてないわね」
その言葉に、3人は肩を落とした。
「でも、部室の鍵は私が開けたわけじゃ無いから、来てる事は間違い無いんじゃないかしら? 事故にあってたとしても、ああいうのって、すぐに学校へ連絡が入るものなのよ」
「まあ、そうなんだけどなぁ。せめて、ギター背負ってたかどうかくらい、警備の人も覚えてないもんかね」
とは言ったものの、ギー太を背負った唯が鍵を取りに行ったとして、そこまでは覚えていないだろう。記憶はあやふやになりやすいものだし、仮に『ギターを背負っていましたか?』などと聞けば、実際は背負っていなくても、頭の中でギターを背負っている人物に補完されてしまいかねない。
「どうする、澪、ムギ。警備員室に行ってみるか?」
もう一度ちゃんと思い出してもらえれば、正確な情報を聞き出せるかもしれない。実を言うと、律とムギは鍵を持って行った人物について、あまり詳しく聞いていなかった。理由は簡単で、『部室に行けば分かるだろう』と考えていたからだ。
だから、改めて警備員に話を聞く事は、それなりに有効かもしれないのだった。
だが、
「いや、律。それよりも確実に分かる方法が有るだろ」
「え?」
淡々と、しかし故にその確実性が約束されているかのような物言いだった。そして、澪が『確実に分かる』と豪語する方法を聞いて、律は1も2も無く賛成せざるを得なかった。というよりも、どうして自分がそれを思いつかなかったのか、不思議なくらいだ。急ぎ、律達はその場所へ向かう事にした。
「時間が空いたら、私の方でも探しておくわ。もし唯ちゃんがここに来たら、部室に行く様に言っておくから」
さわ子の提案を有り難く受けて、3人は職員室を後にしたのだった。
澪の提案した場所に到着して(到着、などとは、やはり大げさだが)、律は改めて納得した。
「下駄箱か…………まあ確かに、来てれば普通は履き替えるよな。靴くらい」
いくら唯でもそれくらいはするだろう、という風なニュアンスになってしまったが、言葉以上の意味は無い。普通はそうする。誰だってそうする。日本人ならば当然の作法だからだ。唯だってもちろん例外では無い。むしろ、あの超が付くらいの天然娘は、純朴に過ぎる。故意に悪い事をしてしまう性格では無い。出来ないのだった。嘘を付けない人間というのは、ああいう奴の事を言うのだろうな、と律は思った。
「澪ちゃん、流石ね」
「そ、そうか…………?」
ムギの褒め言葉に、澪が若干照れているのを横目に、律は唯の下駄箱を開いた。同じクラスなのだ。探すまでも無く、場所は分かっている。
下駄箱を開いたその先には。
「…………有るな」
「唯の…………だよな?」
「間違い無いと思うわ」
そこに有る事が当然の様に、茶色のローファーが置かれていた。どんな可能性を考えようが、これが唯のもので無いという事など、絶無だろう。したがって、これが唯のもので有る事は疑いようが無い。
「やっぱり、学校には来てるのね」
律の肩に顎を乗せて、ムギが熱心に下駄箱の中を覗き込んでいた。校外で事故、という可能性が無くなっただけに、少しホッとしているのかもしれない。
「まあ、これで唯が学校に居るのは確定だな。安心して、他探すか」
言って、下駄箱を閉めようとした所で、律は気がついた。唯の下駄箱内の天井、そこに有る物の存在に。
「こ、これは…………!」
律は息を呑んだ。澪も、ムギも律と同様に、言葉に詰まった。
大量のシールだ。一面、埋め尽くされている、という程では無いが、結構な量だった。やや薄暗い下駄箱の中で、そのシールは殊更に異様を放っていた。本来有る筈のない無いものがそこに有るという違和感。その量が尋常では無いという異常。
ただのシールが、ただの下駄箱に、しかし大量に貼られているというだけで、これほどの違和感と恐怖感、あるいは狂気を連想させるものだったとは…………
「小学生か!」
思うはずも無く、律は思わず大声を出していた。
「このシール、唯が気に入ってたやつか…………」
澪の呆れた調子を含んだ言葉で、ツッコミに全霊を傾けていた律の思考に余裕が生まれ、過去の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
去年のマラソン大会終了後、そして桜高祭までの一時期、唯の中で(あくまで唯の中だけで)一大センセーションを巻き起こしていた、1つの物品があった。それが、ハートや猫、その他様々な形を模したシール…………つまり、唯の下駄箱に所狭しと貼られているそれだった。
「貼りまくって、それでそのまま忘れてるのか…………?」
苦笑しつつ、律はシールの1枚に手を伸ばし、剥がそうとする。しかし、剥がれない。剥がすための取っ掛かりがまるで見当たらない。むきになったわけでは無いが、次第に指に込められた力が強くなっていって、
「お、おい律。止めとけって」
澪に慌てて止められた。
かなり強力に接着している様で、無理に剥がそうとすれば散々な事になるだろう。
「唯、どうするんだろう。まさか、忘れたまま卒業なんてしないよな?」
「いや、大丈夫だろ」
澪の懸念を、しかし律はあっさり吹き飛ばした。
大丈夫だろう。この程度の問題。
律は、冗談抜きでそう思っていた。
律の表情に何を見たのか、澪もムギも、すぐに納得した。あるいは、律とは別の論理から同じ答えに辿り着いたのかもしれない。
曰く、
『憂ちゃんが何とかするんだろうなあ』
唯に関するあらゆる問題は、とりあえずこれで何とかなるのだった。
いっそ清々しい程の笑顔を浮かべて(苦笑交じり)、3人はそのまま校舎を出た。校内を探すという事なら、一応は校舎の周辺も見ておかなければ。
蒼空に輝く星1つ。
太陽は皮肉なまでに、精気に満ちていた。
「唯…………くそ! 唯は一体何処に居るというんだ!!」
苦悩を秘めた声で、律は魂の全てを搾り出すように呻いた。悲しみに溢れていて、哀しみに打ちひしがれていて、折れそうな程に弱々しく、その膝を地面に付いた。
空を覆うは虚ろの空気。終わりを実感させるに十分な、冷たい空気だった。
死んでしまいそうなほどに、尖った空気だった。
律は、何時も考えていた。この世の空気を冷たくしているのは、もしかして人の心そのものでは無いかと。人の悪意そのものでは無いかと。悪意は留まる所を知らず、誰にも気がつかれる事無く、それこそ、本人すら知らない間に、この世の全てに牙を向く。傷つけられた世界は、絶対零度の血で世界を覆い、世界は人の心を傷つける。
絶望に塗れて、今にも世界から落ちてしまいそうだった。世界から堕ちてしまいそうだった。今にも心が死んでしまいそうだった。
ああ、だが、どうして、どうしてだろうか。
「どうして世界は! こんなに美しいのだろうか!」
律は、いっそ芝居がかった身振りで(というか正にそのもので)両手を空に掲げて、神に祈る様な姿勢で世界を呪った。
「止めて律っちゃん! そんな事をしても、唯ちゃんは戻ってこないわー!」
「止めるなムギ。あの空を見てみろ」
「…………!」
息を呑んで空を見つめるムギに、律は更に続けた。
「あの空の向こうに、唯は飛んで行ったんだ。もう帰ってこない。皆そう言ってる」
律は視線を地面に落として、だが、その眼はむしろ爛と輝いていた。しかし、その輝きはこう語っていた。『もうそろそろ飽きてきた』と。
「だが、安心しろムギ」
「え? 何を安心しろというのー!?
清々しい程にわざとらしいムギの声に(これは本人の演技力に難が有るようだ)律はあるものを指して答えた。
「あの銅像に祈れば、唯は帰ってくる!」
「本当なの、律っちゃんー!」(棒)
桜高の象徴…………というわけでは無いが、存在するだけで妙な安定感を与えている、由来など誰が知っているのか分からない銅像の前に二人は膝を付いて、やはり祈るように両手を天にかざした。行き当たりばったりのグダグダ劇場。もうこのまま突き進むしか無い。
「おお、神よ。唯を無事に送り届けたまえー!」
「届けたまえー!」
そんな動作を1通り繰り返して、やがて疲れの見え始めた2人を、
「…………もうそろそろいいか?」
澪の醒めた声が促して、律とムギは小さく返事をしてトボトボと歩き出した。
だが、律は遊び足りていなかったようだ。
ハッ、と芝居かかった様子で校門前広場を振り向くと、
「おい、ムギ! もしかして唯はあの噴水の中に居…………」
「いい加減にしろ!」
ムギが乗ろうとした瞬間には、すでに澪の拳骨が律の頭頂部に達しており、律は膝を抱えてうずくまった。
あいたたた、と呻く律の襟首を掴むと、ずるずると引きずっていった
取り敢えず、校門の周辺には、唯は居なかったのだった。
「ここにも居ないか…………」
3年生のクラスが並ぶ廊下。そこを歩きながら、自分達の教室である1組を横目に、律は言った。腕を頭の後ろに組んで、ややだるそうに眼を細めている。
「まあ、教室に何の用があるんだって話だけどなぁ」
「忘れ物とかじゃないか?」
「いや、それは無いだろ。唯だぞ?」
「…………ああ、無いな」
律の否定に対し、澪はやや考えて、しかしあっさりと肯定した。
唯だから、唯に限って、忘れ物などしない…………という事では無い。唯なのだから忘れ物くらいして当然だろうが(何せ、修学旅行の前日、教室に弁当箱を置き忘れたくらいだ)、恐らく取りに来る事は無いだろう、という意味だ。ギー太を教室に忘れたのなら(まず有り得ないが)、台風の中でも取りに帰りかねないだろうが、それ以外ならば、例えば教室に宿題を忘れていても取りに帰らないだろう。ズボラなのでは無い。そもそも、忘れ物をした事自体を忘れているのだ。
「まあそもそも、この時期に忘れ物なんてありえねーし」
「そうね。配布物も宿題も、もう無いもの」
ムギは律の言葉にただ同意しただけで、特になんら他意は無かったのだろうが、それは卒業を実感させるには十分だった。
配布物も宿題も無い。学校に来る理由さえ、無いのだ。
しばらく無言で、3人は歩いた。平日ならば、誰かしら居て当然の廊下。そして並んだ教室。誰も居ないという雰囲気は、胸に妙な感覚を与えた。外から聞こえてくる運動部の声が、それを一層助長した。
違和感。まさにそれだ。朝、学校に来た時には、まだそれほど感じなかったのだが、ここに来て、今の時間帯になって、それはとても良く感じられた。
隔離された空間では無く、居なれた場所。そこに居るはずなのに、そこが自分の居場所では無い様な気がして、どうしようも無い違和感を覚えるのだ。いつも居なれた場所なのに、どうも蚊帳の外に居るような気がする。決定的な違和感はそこに有るのだと感じた。もし今、昔通っていた中学に行ったなら、同じ様な感覚を覚えるのだろうか? 過去においての自分の居場所が、それが過ぎ去った居場所なのだと、そういう事実を肌で感じることになるのだろうか。卒業とは、そういう事なのだろうか。
恐らく、そうなのだろう。
しかし、そういった事に対して、実感が湧かないというのも、また事実だった。先ほど、部室で不覚にも涙を流してしまったのも、『寂しい』という感情は確かにあった。だがそれも、卒業というイベント、それ自体に結びついているのだろうか。
今、この胸に有る感覚。
そして、卒業という事実。
この2つは、果たして自分の中で結びついているのだろうか。
律はそう感じていた。
卒業するという事実に対しての実感が、薄すぎる。
もしかしたらこのまま、その2つが結びつく事は無く卒業していくのかもしれない。そして、その後、何年か経って、ふと、気づくのかもしれない。
高校を卒業したという事実に。
その時は、どういう感覚に襲われるのだろうか。
『教師というものは、色々と忙しいのよ』
先ほど、職員室で教師山中さわ子が言っていた言葉を、律は思い出していた。数年前まで、桜高の生徒だったはずの彼女。彼女はどうだったのだろうか。卒業したのだという事実。当時とは違う立場としてこの学校へ戻って来た時に、どの様に実感したのだろうか。
先の読めない、行き当たりばったりの3文寸劇の様に、見通しの聞かないぎこちなさを感じた。
並んで歩く澪、そしてムギを横目で確認した。どうしてだろうか。そうしたくなった。
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唯探索の旅。
しかし、奴の姿は見つからないのだった。